一瞬の、脳髄が焼きつくされるような衝撃。それが冷めやらぬうちに、体は動く。
立ちあがったのは同時だった。
砂に足を取られ、つんのめるように走る。なぜこんなにもこの足は遅いのだろう。意識に追いつかない自身の体に憎悪すら浮かぶ。
千寿郎、千寿郎、千寿郎――ッ!!
なぜ、だとか。どうして、なんて。そんな言葉は、浮かぶ余地すらない。杏寿郎の頭のなかはただひたすらに、千寿郎の名ばかりが繰り返されていた。それでも無意識のうちに杏寿郎の視線は周囲を確認している。騒ぐ釣り人のなかから、救難所のあるビーチの方向へと駆けていく人影があった。救助を呼びに行ったのだろう。
波打ち際にたどり着くまで一分とかかってはいないはずだ。だというのに、千寿郎の小さな体はずいぶんと遠くまで運ばれている。風が強く波が高くなってきているとはいえ、そのスピードはとんでもなく早い。打ち寄せるはずの波に揺れるのではなく、ただまっすぐ沖へ沖へと流されていく。
盛大な水しぶきをあげて、杏寿郎と義勇は海へと走り込んだ。
浅瀬のうちは走れた足も、水面が腰のあたりまで来ると、思うように進まなくなった。水を含んだズボンが重く纏わりついて、行く手を阻む。焦りがマグマのように体の中でうねり、杏寿郎の身を焼く。がむしゃらに進もうとするのだが、流される千寿郎の速さには到底追いつけそうにない。
と、変化は唐突だった。引きずり込まれるように体が沖に向かって吸い寄せられる。とっさに足を踏ん張り体勢を整えた杏寿郎の耳に、語りかけとも独白ともつかぬ言葉が届く。
「離岸流だ」
緊迫した声は傍らから聞こえた。義勇だ。険しい瞳で見据える先に、水面に揺れる金の髪がある。千寿郎は水面にぷかりと浮かんで見えた。沈んでいない。けれどもホッとする間などなかった。
「千寿郎! そのまま浮いて待ってろ!」
「義勇!?」
とっさに杏寿郎は、視線だけで義勇を見た。義勇の視線はまっすぐ前を見据えたままだ。正しくは、波間に浮かぶ千寿郎を。それに気づいた瞬間、杏寿郎も即座に視線を千寿郎に戻す。
千寿郎の体は、グングンと流されてはいるが、沈むことなく浮かんでいる。パニックになってもがけばたちまち溺れ、沈んでいくはずだ。
周章する杏寿郎の脳裏の片隅で、カチンとスイッチが入ったようにひらめいた記憶があった。錆兎と初めて話した日の夕食のことだ。
ともに溺れるという錆兎の言葉は比喩だと理解していたが、なんとはなし気になって、杏寿郎は父に聞いてみた。もし溺れた人を見つけたらどうすればよいのでしょうかと。
一緒に聞いていた千寿郎は、父の言葉を覚えていたのだろう。溺れたときは仰向けになって浮けという教えを、必死に守っているように見える。幼いなりに自分が今できることを、千寿郎は忠実に守っていた。
もしも。その言葉の先を思い浮かべることすら怖くて、怖くて、生まれて初めて杏寿郎は、心の底から恐怖していた。不安と周章は消えない。けれど同時に、胸のどこかで誇らしさも覚えた。
千寿郎は為すべきことをしている。では救助する自分がすべきことは。
救援を求めるのは、すでにセーバーを呼びに行った人がいる。だがセーバーの到着まで、千寿郎が無事でいられるか、楽観することはできなかった。今は落ち着いて父の教えを守っているが、敏い千寿郎もまだ幼児だ。いつまで恐怖に打ち勝ち、パニックに陥らずにいられるだろう。一刻も猶予はない。
浮力になるものやロープなどにつかまらせるのがセオリーだと、父からは教えられた。しかし浮き輪はもちろん、役立ちそうなものはない。そもそも、そんなものがあったとしても、流れが速すぎて、到底この状況下では千寿郎に渡すことなど不可能だ。
泳いで救助に向かうのは、最も危険だと、父は言った。けれど。
グンッと、体が沖に向かって引っ張られる。流れは想像以上に強く早い。抗うことは困難だ。まるで亡者によって海底へと沈められる怪談のように、無数の手が体をつかみ、力まかせに引っ張っているようにも感じられる。
離岸流と義勇は言ったか。父が水難事故の原因としてあげていたのを覚えている。救助者が泳いで助けに向かった結果、二次被害となることが多いとの言葉も。
それでも、迷いはなかった。
ザブリと杏寿郎は水中へと身を躍らせた。
泳ぎだしてすぐに、杏寿郎の横を義勇が抜き去って行った。水泳部のダブルエース候補。錆兎は義勇のことをそう言っていた。
泳ぐ義勇は、まさしく水を得た魚のように見えた。
沖へ沖へと引いていく潮の流れのなかを、義勇は突き進む。気がつけば杏寿郎との差はみるみるうちに開いて、義勇はひとり千寿郎に近づいていく。杏寿郎も懸命に泳いでいるが、義勇の速さは尋常ではない。グングンと進む義勇のクロールは力強く、やはり迷いなど感じられなかった。こんな事態でなければ、きっと杏寿郎は呆けたように目を奪われていただろう。だが今は、お手本のようなその泳ぎに感嘆するよりも、懇願が頭を占めた。
頼む、義勇っ! 千寿郎!
祈りながら杏寿郎も必死に水を掻く。そして。とうとう義勇の手が千寿郎の体をとらえたのが見えた。
だが。
安堵も歓喜も一瞬だ。懸命にこらえていた恐怖が、義勇の姿を見た刹那に噴き出したのだろう。千寿郎がとうとう叫ぶように泣き声をあげた。
遭難者が救助者にしがみつけば共倒れになる。父からそう言い聞かされたのは千寿郎も同様だが、今は思い出す余裕などないだろう。千寿郎に抱きつかれ、義勇が必死に沈むまいとこらえているのが見える。
もうずいぶんと沖に流されている。どうあがこうと足はつかない。しがみつかれた義勇は、それでも懸命に千寿郎に言い聞かせているようだ。千寿郎の泣き声が止んだ。声をあげればそれだけ水を飲む可能性がある。そうなれば恐慌状態は深まり、溺れるだけだ。
早く。一刻も早く。急く心のままに水を掻き分け、杏寿郎は泳ぎ続けた。義勇が千寿郎を安心させてくれているうちに、助けなければ。千寿郎を。義勇を。
もう少し。思った刹那、義勇と目があった。流れる視線。それだけで義勇の言わんとすることが伝わる。杏寿郎は進路をわずかにそらせた。義勇も少しずつ横へ、横へと進んでいる。千寿郎を抱えながらでは、先ほどまでのような速さは望めない。だがそのおかげで杏寿郎は義勇に追いつくことができた。
「千寿郎!」
「兄上!」
義勇にしがみついたまま、びしょ濡れの顔で叫んだ千寿郎に、泣きたくなった。だが、そんな暇はどこにもない。
「落ち着いて、さっきまでのように仰向けに浮け! 大丈夫だ! 絶対に離さないから!」
海流に流されまいと必死に泳ぎ続けながら、杏寿郎は義勇の背に回り込み、千寿郎に必死に笑いかけた。グッと唇を噛み、こくりとうなずいた千寿郎が、義勇の腕のなかで力を抜いたのがわかった。
「いい子だな、千寿郎。さぁ、戻ろう」
しっかりと千寿郎を抱いたまま、義勇が言う。声は決意に満ちていた。千寿郎を不安がらせないようにだろう。義勇も微笑みを浮かべていた。
義勇のシャツの背中を掴みしめると、義勇が杏寿郎と目を合わせうなずいた。
気を抜くと海流に流される。これ以上沖に向かわぬよう、沿岸と平行に杏寿郎と義勇は泳ぎだした。とはいえ義勇は千寿郎を抱いている。推進力は脚力だけだ。千寿郎の顔が水に浸からぬよう自身の胸に乗せ、背泳ぎの状態で泳ぐ義勇を、引くのは杏寿郎だ。
離岸流の幅はさほど広くはない。流れから抜け出られれば、あとは沿岸を目指すだけだ。
しゃにむに流れに逆らい泳ぐうち、ふと、体が引っ張られるような強い力が消えた。岸に寄せる波が、杏寿郎たちの体を沿岸へと向かわせる。
けれど油断はまだできない。水流から抜け出せば、今度は波に飲まれる可能性が高まるのだ。
岸は、まだか。苛立ちに似た焦燥に、杏寿郎が目をすがめたそのとき。唸るエンジン音が近づいてきた。
ライフセーバーの水上バイクだ。
助かった――!
とっさに振り返り見れば、義勇の顔も安堵からか泣きだしように歪んでいた。
必死の救出劇などまるで知らぬげに、オーアオ、アーオアオと、アオバトの鳴き声が海辺にはひびいていた。
意識もあり特に怪我は見られないとはいえ、千寿郎が溺れかけたのは確かだ。念のために救難所で手当てを受け、これなら大丈夫と救護班に太鼓判を押してもらうまで、杏寿郎は生きた心地がしなかった。そのころには、セーバーの出動に騒然としていたビーチも、落ち着きを取り戻したようだ。
大事がなくて良かったと笑う釣り人たちに礼を言って回った杏寿郎も、セーバーから遭難時の対応を褒められた千寿郎が、ちょっぴりいたたまれないような誇らしいような、少し複雑な笑みを見せるのに、ようやく頬を緩ませた。
杏寿郎と義勇は、無茶をするなと少しばかりお叱りを受けたけれども。
だが、笑みを浮かべたのは杏寿郎と千寿郎だけだ。千寿郎の無事が確認されたときばかりは、安堵を露わにしたものの、義勇の顔はそれからずっと暗く沈んでいる。
「ごめんなさい、兄上……麦わら帽子、なくしちゃいました」
しょんぼりと肩を落とす千寿郎のびしょ濡れの頭をタオルで拭ってやりながら、杏寿郎はちょっと泣きそうになった。
サイズが小さくなってしまった麦わら帽子は、杏寿郎からの去年の誕生日プレゼントだ。風に飛ばされ海に落ちても、千寿郎にとってはなくしたくないものだったのだろう。言いつけに、少しだけと逆らって、海に入ってしまうぐらいには、大事にしてくれていた。
「気にすることはない。帽子よりも千寿郎のほうが大事に決まっているだろう? 千寿郎が無事でよかった!」
風が強いのだから、こういう事態は十分想定できたはずだ。注意を怠り千寿郎から目を離しもした。ちゃんとサイズのあった帽子にしておけと、出がけに注意だってできたはずである。悪いのは自分だと、千寿郎に言い聞かせる杏寿郎を、義勇は黙って見ていた。
ようやく安堵に笑ってくれた千寿郎にホッとして、杏寿郎が義勇に視線を映せば、義勇はいつの間にか少し離れた場所に佇んでいた。
「こんなことになってしまってすまない、義勇。君のおかげで助かった! ありがとう!」
笑いかけても、義勇は動かない。訝しく小首をかしげた杏寿郎にうなずくでもなく、うつむいたまま視線すら合わせてはくれなかった。
「父上が迎えにきてくれることになってよかったな。この天気ならじきに服も乾くだろうが、さすがに電車に乗るのは迷惑になってしまう! 義勇、それまで一休みしようか!」
杏寿郎はしいて明るく笑ってみせた。だが、義勇の顔は暗く沈みこんだままだ。黙り込んだまま、先ほどから相槌さえ打ってくれない。
そんな義勇に千寿郎もどんどんと不安になってきたのか、何度も物言いたげに義勇を仰ぎ見てはうつむくのを繰り返している。
せっかくのお出かけがこんなありさまになって、後悔しているんだろうか。夏休み中とはいえ制服をこんなびしょ濡れにしてしまって、錆兎の家の人たちに申しわけないと思っているのかもしれない。
このまま送り返すのは杏寿郎だって責任を感じる。我が家で風呂に入ってから帰ってもらうべきだろう。できれば夕飯も食べていってくれるといいが。
切り出そうとした杏寿郎の声は、義勇がこぼした一言で、喉の奥にとどまった。
「……ごめん」
うつむきいかにも苦しげに、義勇はそう言った。
「なぜ義勇が謝るんだ? 君はなにひとつ悪いことなどしていないだろう」
謝罪の理由がわからない。義勇は千寿郎を助けてくれた。杏寿郎こそが礼を述べ、迷惑をかけたことを詫びるべきだろう。なのに義勇は、まるで世の中の罪をすべて背負ったかの如く、暗く悲しげな顔で首を振った。
「俺が……俺と一緒だから、千寿郎をあんな目に遭わせた」
俺が、疫病神だから。
絞り出すように義勇が口にした苦しげな一言に、杏寿郎は愕然と目を見開いた。
「なにを言ってるんだ! そんなことあるわけないだろう!」
「あるんだ! だって、父さんたちも俺のせいで死んだんだ! 俺が絶対に応援に来てなんて言わなかったら、父さんも、母さんも、姉さんだって死ななかった! 俺が……俺が疫病神だからだ。俺が殺したんだ……っ」
くしゃりと顔をゆがめて叫んだ義勇の目に、涙が光っている。叫び声は、聞いている杏寿郎の心をも切り裂きそうに痛々しかった。
「俺は、やっぱり杏寿郎と友達になんてなったらいけなかったんだ。卑怯な裏切り者のゲレーブだ。疫病神なのに、頭がおかしいのに、杏寿郎が仲良くしてくれるのがうれしくて、友達面してそばにいようとしたから……だから、千寿郎まで死にそうな目に」
「義勇っ!」
ガシリと義勇の腕をつかみつめ寄った杏寿郎に、義勇がビクリと身をすくめる。カタカタと小さく震える様は怯え切って見えた。ほかの誰でもない、杏寿郎に、義勇は今怯えている。
胸が痛い。義勇を怯えさせたくなんてない。けれどそれでも、激昂は止められそうになかった。
腹が立っていた。無性に悲しかった。たとえ義勇自身からだろうと、大好きな義勇を悪く言われるのは、我慢ならなくて。
ギリッと噛みしめた奥歯から、血の味がした。
「裏切り者のゲレーブ? 疫病神? 違うだろう? 君は勇敢に千寿郎を救ってくれた。事故だって誰が悪いわけでもないものだったと聞いている。頭がおかしい? 悲しみと絶望に必死に抗っていただけじゃないか! 苦しさのなかでも錆兎たちを気遣ってきた君が、そんなものであるわけがない。二度とそんなことを言わないでくれ。二度と聞きたくない!」
まっすぐに強く見据える杏寿郎の眼差しに、義勇はそれでも首を振る。信望あるリーダーへの嫉妬から仲間を裏切り、ネメチェックを窮地に陥らせた卑怯者と同じだと自分をなじり、すべて自分のせいだと己を責める。
かたくなな義勇に、杏寿郎の苛立ちと嘆きもいや増して、どう伝えればわかってくれるのかと焦りも生まれた。このままではきっと、義勇は杏寿郎を遠ざけようとするだろう。二度と心を開いてくれない気がした。
「……義勇さんは、ネメチェックみたいでした」
不意に聞こえた千寿郎の声に、杏寿郎の体からわずかばかり力が抜ける。義勇の濡れたズボンをキュッとつかんで、千寿郎が見上げていた。
「戻ろうって言った義勇さんは、赤シャツ団たちに水につけられて責められても負けないで、堂々としてたネメチェックみたいでした。兄上と同じで、すごく格好よかったです。助けてくれてありがとうございました」
不安げな色はあるけれども、千寿郎は義勇を眩しそうに見上げ、はにかむように笑っていた。
あぁ、そうだ。杏寿郎は深く息を吐きだした。
今口にすべきは義勇を追いつめる言葉じゃない。今、言わなければならないのは。
「義勇……千寿郎を助けてくれてありがとう。君がいたから危険な目にあったんじゃない。君がいたから千寿郎は生きているんだ。君のお陰だ。君は、誰よりもやさしく、誰よりも勇敢だと俺は知っている。頼む、俺と千寿郎を信じてくれ。君は、疫病神なんかじゃない。少なくとも、俺たちにとっては絶対に違う」
静かに義勇の目から流れた涙は、義勇の白い頬を伝って千寿郎のまろい頬に落ちた。またくしゃりと顔をゆがめて、義勇はしゃがみ込み千寿郎をギュッと抱き締める。
ありがとう。
波音に紛れた小さな声は、確かにそう言っていた。