「義勇、眠いのか?」
不意にかけられた声はちょっぴり心配そうだ。義勇は重くてたまらないまぶたをどうにか押し上げた。卓袱台の向かい側で見つめてくる杏寿郎は、思ったとおりちょっと心配顔だ。
杏寿郎の部屋にエアコンはなくて、少し古びた扇風機がブーンブーンと音を立てて首を振っている。義勇の手元にある標本箱は、補強の途中で止まっていた。最初は杏寿郎と変わらぬスピードで仕上げていたはずなのに、出来上がった数に差がつきだしている。
ん、と返事ともつかない声を出し、義勇はパチパチとまばたきして眠気を追いやろうとした。けれど、あまり効果はない。
「眠ってもいいぞ。続きは俺がやっておこう」
義勇が眠そうにしているからか、杏寿郎の声はいつもよりも小さい。あきれられてもしかたのないところだけれど、杏寿郎の顔はどこまでも心配げだ。申し訳なさと情けなさに、どうにか首を振ったけれど、正直眠い。
「だが、もうまぶたがくっつきかけてるぞ? ひと眠りしたほうが効率もいいだろう」
「……杏寿郎だけに作らせるの、駄目だ」
言いながらも、くぁっと小さくあくびしてしまう。苦笑する気配がして、杏寿郎が立ちあがった。
「なら、一緒に少し昼寝しよう。一緒ならいいだろう?」
ほらほらと腕を引かれてしまえば、断るのはむずかしかった。だって、眠い。
旅館みたいに大きな日本家屋にふさわしく、杏寿郎の部屋も畳敷きの和室だ。学習机だって椅子とセットのよく見るものではなく、時代劇に出てきそうな文机である。当然、ベッドなんてない。
外から見たら緊張してしまうぐらい大きな家だけれど、畳の部屋はなんだか大好きなお爺ちゃんの家みたいで落ち着く。ビックリするぐらいいっぱい用意されていた昼ご飯はおいしくて、よく食べる杏寿郎につられて、いつもより食べ過ぎた自覚もあった。けれども、こんなにも眠くなるなんて予想外だ。
朝からちょっとばかり心配はしていたのは事実だけれど、多少の眠気ぐらい我慢できると思っていたのに。
標本箱を作っていた卓袱台を隅にどけ、押入れから布団を出す杏寿郎をぼんやり見つめながら、義勇は睡魔に途切れがちな思考の片隅で、ちょっぴり真菰に文句なんて言ってみる。
杏寿郎の家で自由研究をするから夜更かしできないって、ちゃんと言ったのに。一人で観るの嫌なんだもんと強引につきあわされたDVD鑑賞のせいで、すっかり寝不足だ。
錆兎もつきあわされたのは同様だけれど、つい見入ってしまった義勇と違って、ちゃっかり居眠りしていたらしい。あろうことか、言い出しっぺの真菰まで、だ。おかげで義勇ひとりが寝不足である。
DVD自体を観終えたのは深夜というほどの時間でもなかったけれど、内容が悪かった。
なんであんな怖い映画観ながら、錆兎も真菰も居眠りできるんだろう。というか、真菰が観たがったくせに、一番早くに寝てたし。
むぅっと無意識に唇を尖らせたら、ポンポンとなだめるように頭をなでられた。
「ホラ、義勇。ちょっと眠ろう」
笑う杏寿郎をぼぅっとした目で見上げる。キラキラとした光が目の前で弾けて、義勇は眩しさにキュッと目をつぶった。
「限界みたいだな」
クスクスと笑う声は、いつもの快活で大きな笑い声とは違って、あやすようにやさしく聞こえた。眠くて眠くてたまらないのに、なんだか胸がドキドキする。
けれどそれも束の間だ。すぐに、杏寿郎といるのにこんなだらしないところを見せてしまうだなんてと、ふてくされたいような恥ずかしいような気持ちになって、義勇はちょっぴり顔をしかめた。
出がけに「大好きな杏寿郎くんと仲良くねぇ~」なんてからかうみたいに笑って手を振っていた真菰に、頭のなかだけであっかんべーなんかしてみる。眠気のせいかどうにも思考が幼くなっているようだ。
初めて逢ったときにも、迷子になっていた義勇は杏寿郎に手を引いてもらって歩いたし、中学で再会したあとだって、何度も泣いたところを見られている。みっともないもないなんて今さら過ぎる話だ。
けれど、同じクラスとはいえ義勇は杏寿郎より一つ年上だ。義勇は早生まれなので、たぶん生まれ年は同じだろうけれども、本来の学年でいえば先輩である。なのに、こんなふうに子どものように世話を焼かれるのは、やっぱり恥ずかしい。
それこそ子供みたいにふてくされたくなるけれど、やさしく腕を引かれてぽすんと布団に二人で倒れ込めば、意地を張るのも馬鹿馬鹿しい気がしてくる。
「義勇が寝不足とは珍しいな」
ミーンミーン、ジーワジーワと、蝉の声がする。合間を縫うようにひびく風鈴の涼しげな音と、扇風機が回る音。すぐ近くで聞こえる杏寿郎の声はやさしくて、義勇は眠くてたまらないと訴えるまぶたをどうにか押し上げる。ぼんやりとした視界に映る顔もやさしく笑っていた。
「真菰が……悪い」
ポンポンとまた頭をなでられた。
お日様の匂いがするやわらかな布団。少し汗の匂いもする。扇風機は回っているけれど、それでもやっぱり暑いから、きっと杏寿郎の汗の匂いだ。
俺も汗の匂いしちゃうかな。ふと思ったら、ちょっとだけ杏寿郎から離れたくなった。なんとなく。でも、杏寿郎は暑いのに離れる様子もなく、やさしく頭をなでてくる。たぶん千寿郎に添い寝するときにも同じようにしてるんだろう。癖になっているのかもしれない。
子供扱い、やだな。俺のほうが年上なのに。千寿郎と同じは、ちょっと、やだ。
思うそばから、でも気持ちいい、もっとなでてくれないかなと、思う自分もいる。
杏寿郎といるといつもこんな感じだ。小さい子供みたいに甘えてしまいたくなる。
なんでだろう。なんで杏寿郎にだけは、甘えちゃうのかな。
杏寿郎はお兄ちゃんだからだろうか。杏寿郎より年上だけれども、義勇は末っ子だ。甘やかされるのに慣れている。同い年の錆兎と真菰だって、義勇のことを末っ子扱いする。数ヵ月早く生まれた真菰はともかく、錆兎なんて義勇よりもひと月誕生日は遅いのに、だ。
それでも、従姉弟である二人に対しては男の意地みたいなものがあって、引け目も、あって。今ではもう、そんなに素直には甘えられない。
杏寿郎にだって甘えてみせたことなんてないつもりだけれど、甘やかされてるなと感じることは多々ある。それが心地いいなんて、口に出しては言えないし、ありがとうと礼を言うのもなんだか変な感じだ。
杏寿郎は千寿郎のお兄ちゃんだから、甘やかしたり世話を焼くのに慣れているんだろう。だから弟な自分も、つい甘やかされてしまうのかもしれない。あれ? 杏寿郎の誕生日っていつだろう。知らない。今度聞いてみなくちゃ。初めて逢ったとき、杏寿郎は誕生日プレゼントに大好きのチョコをくれたから。今度は自分もプレゼントを贈りたい。杏寿郎が幸せそうに笑ってくれるようなのを。杏寿郎はなにが好きかな。どうしたら喜んでくれるだろう。いつも笑ってくれるから、杏寿郎がいちばん好きなものがわからない。それはちょっと寂しい。いちばん好きなのは義勇。電車のなかではそう言ってくれたけど、本当かな。だったらうれしい。でも千寿郎やおばさんたちもいちばんだって言ってた。……なんでだろう、やっぱりちょっと、寂しい。
うつらうつらとしながら、義勇はとりとめもなく考える。ひどく眠いのに、なんだかこのまま眠りに落ちてしまうのは妙に惜しくて、むずがるように杏寿郎にすり寄った。
汗の匂いが強くなった。杏寿郎の匂いだ。お日様の匂いと、汗の匂い。
杏寿郎の匂いは不思議だ。ひどく安心するのに、ドキドキもする。そんなのは杏寿郎だけで、義勇は不思議でしかたがない。
安心する匂いなら、ほかにもいっぱいある。プールの塩素の匂いがかすかに混じる錆兎の匂い。真菰から香る花みたいないい匂いは、姉さんの匂いにちょっと似てる。お爺ちゃんの家の、緑の青臭さにちょっとだけお線香の匂いが混ざってるようなのも、みんな安心するのだ。でも、どれも胸がドキドキすることなんてない。
なのに杏寿郎の匂いは、安心するのはほかと同じでも、胸が高鳴る。落ち着くのに、落ち着いていられない、不思議な匂い。
なんでかな、変なの。
「ぎ、義勇?」
どこか焦ったような声に、ん? と眠い目で杏寿郎を見やれば、杏寿郎の顔が赤い。
やっぱり暑いのかな。
残念だと思う自分を不思議に思いつつ、眠さで重くなっていく体をどうにかずらそうとしたら、そっと杏寿郎の腕が背に回された。
「その、このまま寝てもいいだろうか……?」
ねだるような甘え声に聞こえたのは気のせいだろうか。甘えてくれているのだったら、うれしいのだけど。なぜだかそんなことを思いつつ、義勇はこくんとうなずいた。
「君の髪は……真っ黒だな。やわらかい」
「きょうじゅろは……キラキラ」
髪を梳かれると、ますます眠気が増してくる。どうにか出した言葉は、やけに舌っ足らずに聞こえた。
重い腕をゆるゆる持ち上げて、義勇も杏寿郎の髪をなでてみた。
杏寿郎の髪は、自分の髪よりちょっと固い気がする。キラキラ、キラキラ、お日様みたいに光って、眩しくて。
赤い頬と、ちょっと震えている唇と、じっと見つめてくる強い瞳。汗の匂いも、熱い体温も。いつもの大きな笑い声も、ささやくようなやさしい声も。全部、なにもかも、杏寿郎だとキラキラと光ってるように感じる。
思い出すのは、小さいころの杏寿郎の笑顔と、チョコの味。貰ったチョコは、それまで食べたどんなチョコレートよりも甘い気がしたっけ。杏寿郎を思い出すたび、あのときの小さなチョコの味と匂いがいつだってよみがえった。だからだろうか。杏寿郎はチョコレートみたいな匂いがするんだと、義勇はずっと思っていた。
実際に再会してみれば、そんなことは全然なくて、いつだってお日様の匂いがしているのだけれど。
体育のあとや今みたいに、汗の匂いがするのも、嫌じゃない。いや、むしろ。
あぁ、好きだなぁ。全部、全部、杏寿郎だから、好きだなぁ。
頭がフワフワとする。このまま昼寝しても、怖い映画を思い出しても、今夜はちゃんと眠れる気がした。杏寿郎の匂いや体温、髪の手触りを思い出せばいい。だってこんなに安心する。眠くなる。
いざなわれるままに眠りに落ちていく義勇の耳が、小さなおやすみという声を拾った。
蝉の声と風鈴の音、どこか遠くで聞こえる子どもの笑い声。扇風機の回る音と、ときどき頬をなぶる風。身を包むのは熱いのに安心する温もりと、お日様と汗の匂い。ほんの少し感じたチョコレートの香りは、思い出のなかのものだろうか。ひどく甘い。
髪を梳くやさしい手に、義勇の頭の片隅にまた好きという言葉がちらりと浮かんで、透きとおった眠りのなかに消えていった。