真白の雲と君との奇跡4

 義勇がやって来た翌日、杏寿郎は初めて義勇に電話した。
 とはいえ、中学生にはまだ早いとの煉獄家の教育方針で、杏寿郎はスマホを持っていない。義勇がスマホを持っているのかも知らなかった。保護者に渡された連絡網に書かれた義勇の連絡先は、鱗滝家のものだ。
 友達に電話するぐらい、杏寿郎だって何度もしている。緊張したことなんて一度もない。けれども初めて義勇と電話で話すのだと思うと、なぜだか妙に緊張して、十分ほども廊下に立ちつくし電話を睨みつけてしまった。
 だが、迷ってばかりもいられない。電話は絶対にしなければならないのだ。石を拾いに行くのに千寿郎も連れて行っていいか、確認は必要なのだから。
 なにしろ目的地までは一時間半ほどもかかる。幼児を連れての遠出では、義勇だって心構えがいるだろう。もしかしたら断られる可能性だってあるのだ。約束は土曜。今日は木曜日だ。前日にいきなりというのは義勇も困るかもしれない。是が非でも今日中に義勇に確認しなければ。
 意を決して電話したものの、呼び出し音が鳴っているあいだ中、杏寿郎の胸は早鐘のように騒がしかった。はい、と声が聞こえた瞬間に、もしもしと急いて言った声は上ずっていたかもしれない。
 電話に出たのは錆兎の母であるようだった。いや、姉か妹だろうか。声の印象は明るく若々しい。姉妹がいるという話は聞いたことがないが、そういう人がいてもおかしくはない。
 義勇くんはいらっしゃいますかとたずねた杏寿郎に、受話器の向こうの女性の声が、ぐんと明るさを増した。
『もしかして煉獄くん? 煉獄杏寿郎くんでしょ!』
「はい。名乗るのが遅れ、申し訳ありません。義勇くんのクラスメイトの煉獄杏寿郎と申します。お忙しいところすみませんが、あの、義勇くんはいらっしゃいますでしょうか」
 母から電話の応対についても常日頃ちゃんと教わっていたのに、緊張と焦りでつい不調法な真似をしてしまった。内心ほぞを噛んだ杏寿郎だったが、電話口の女性はアハハと明るく笑う。
『錆兎や義勇から聞いてる通りだねぇ。ちょっと待ってね。義勇ー、電話だよぉ! 大好きな杏寿郎くんからぁー!』
 聞こえてきた声に、ドキンと心臓が跳ねた。

 大好きな杏寿郎くん。義勇はいつも家でそんなふうに俺のことを話してくれているのだろうか。

 カァッと顔に熱が集まって、杏寿郎は、意味もなくソワソワと視線をさまよわせた。鼓動が暴れ回って、ヒヤリと涼しい廊下にいるというのに、体の熱はどんどん上がっていく。
『真菰っ、なんでおまえが電話に出てるんだ』
『おばさんが手が離せないから出てって言ったんだもーん。ホラ、杏寿郎くん待ってるよ』
 受話器から聞こえてきた義勇の声に、また鼓動が跳ねる。けれどゆだりそうだった頭はスッと冷えた。
『もしもし、杏寿郎?』
 少し焦ったような声。義勇がこんなふうに慌てるのなんて、学校では見たことがない。電話なのがちょっぴり残念にも思うけれども、それよりも、ザワザワモヤモヤと心が落ち着かなくて、杏寿郎の声はいつもより少し低くなった。
「うん。その、いきなり電話してすまない」
『かまわない。なにか用か? 週末のこと?』
「あ、あぁ。千寿郎がな、一緒に行きたいと言ってるんだが……大丈夫だろうか」
 そう、電話の目的はこれだ。けれども、今本当に聞きたいことは別にある。
『遠いんだろう? 千寿郎くんがつらくないようなら俺はかまわないが……あの、あんまりおしゃべりとかしてやれる自信がない。俺と一緒じゃ千寿郎くんが退屈しないか?』
 常よりも義勇の口数が多い。電話だからだろうか。一方通行で話しかけるばかりのいつもの会話と違って、義勇がたくさんしゃべってくれるのがうれしい。けれど、さっき聞こえた会話が気になって、杏寿郎は知らず受話器を握る手に力を込めた。
「それは大丈夫だ。千寿郎も君のことをとても気に入っている。昨日だって、君のことばかり話していた」
『そうか。それならいい』
 ホッとした気配が受話器から伝わる。もっと義勇の声が聞きたいのに、次の言葉が出てこない。
 気になるのなら聞いてみればいいのだ。さっきの人は誰なんだ、と。別に聞いたところで問題はないはずだ。他愛ない世間話と変わらない。なのになぜだか聞くのが怖かった。
『……杏寿郎?』
 黙り込んでしまった杏寿郎に、義勇の声は怪訝そうだ。少し心配そうにも聞こえる。不安がらせたくなどないのに、やけに喉が渇いて声が出なかった。
『真菰がなにか失礼なことを言ったか……? その、なにを言われたのかわからないが、気にしないでくれ。大好き……とか、迷惑だっただろう? 勝手に真菰が言ってるだけだから』
「違うのかっ!? 義勇は俺のことを大好きだと思ってはくれないのか!?」
『え……? あの』
 思いがけぬ義勇の言葉がショックで、思わず叫ぶように言ってしまった杏寿郎は、あわてて電話に向かって勢いよく頭を下げた。
「いきなり大声を出してしまってすまない!」
 杏寿郎は、自分は大概のことには動じない質だと思っている。友人の評価も同様だ。杏寿郎が不安がったり怯えたりするところなんて見たことがないと、あきれや感心を露わに言う者は多かった。
 なのに、義勇のことになるといつもこんなふうに心が揺さぶられて、平静ではいられなくなる。こんなザマでは、義勇にとって頼りがいのある男になるなんて、いったいつになるのだろう。
 落ち込む杏寿郎の耳に、小さく押し殺した笑い声が聞こえてきた。
『今の声のほうが大きい。でも、いつもの杏寿郎らしい。なんかホッとした』
 クスクスと忍び笑う義勇の声は、いつもよりも近くに聞こえる。耳元でささやかれているようで、杏寿郎の胸が甘くうずいた。電話で話すことなんて珍しくもないのに、義勇とだと、なんだかすごいことをしているような気がしてくる。
「いつもと、違ってたか?」
『少しだけ。杏寿郎は電話だと静かにしゃべるんだな。いつもは杏寿郎がいっぱいしゃべってくれるのに、今日は俺のほうがしゃべってるから変な感じだ。いつもとは逆だな』
 確かに、静かにしゃべるのも、話しかけられるまでしゃべらないのも、いつもだったら義勇のほうだ。穏やかで少し固い声で淡々と話す義勇との会話は、杏寿郎が五話しかけて一返ってくれば万歳三唱ものである。
 なるほど、言われてみればこんなのは初めてだ。義勇を心配させてしまうほど、落ち込んだ態度をとってしまったのかと思うと、悔しいやら情けないやらでますます杏寿郎は肩を落とした。
「……すまない、どうしても気になってしまって、不快な思いをさせた」
『なんで? 不快なんて思うわけない。でも、気になることって……やっぱり真菰がなにか言ったんだろう? 真菰が不躾な真似をして悪かった。あとで叱っておくから』
 真菰。そう呼ぶ声は親しげだ。錆兎のほかには親しくする人など誰もおらず、誰に対しても感情的になることがなかった義勇が、叱っておくだなんて。それぐらい、義勇と真菰という女の子の距離は近いのだ。
 それでももしも、錆兎の姉か妹だったのなら、こんなふうに気になることもなかったかもしれない。だが、受話器から聞こえたふたりの会話は、真菰という子が錆兎の家族ではないことを示していた。
 なんでこんなにショックを受けているんだろう。自分のことなのにまったく理解の範疇外だ。
 杏寿郎だって小学校のときに仲のいい女の子はいた。一緒に遊んだりもしたし、電話だってしたことがある。家に遊びに来たことだってあるのだ。いずれも低学年のころの話だけれど。
「ずいぶん、仲がいいんだな」
 呟くように言った声は、なんだかちょっと責めるひびきになった気がして、杏寿郎はまた感じる不甲斐なさに唇を噛んだ。
 義勇のことになると、自分の感情だというのに制御ができなくなる。どうしてこうもままならないんだろう。
 忸怩たる思いはするが、胸の奥底でフツフツと煮立つような苛立ちは、いかんともしがたい。
 昨日の自分と義勇のように、義勇が女の子とふたりきり向かいあって語りあう。そんな姿が脳裏に浮かぶと、胸が苦しくてしかたがなかった。冷静にならなければと思うのに、焦燥や苛立ち、悲しさなどが入り混じって、胸が引き絞られるように痛くてたまらない。
『真菰か? まぁ……小さいころから三人で遊んでるし、仲はいいと思う』
「三人? あ、錆兎か」
 思わずパッと顔をあげた杏寿郎に、なおも義勇の声はこともなげにつづけられた。
『従妹なんだ。俺と錆兎と同い年で、小さいころからよくお互いの家を行き来してた。真菰は……姉さんに、よく、懐いてて……』
「義勇っ!?」
 せわしなくなった息づかいが聞こえる。苦しげな声だ。きっと今、受話器を握る義勇の手は、冷たく凍りついている。
「もういい、わかった! 話さなくていい!」
『…………ごめん』
 長い沈黙のあと、義勇はポツリと謝罪を口にした。謝る必要なんてどこにもないのに。その声は今にも泣きだしそうで、けれどもどこか口惜しさを感じているようでもある。
 また杏寿郎の胸が締めつけられる。だがそれは、さっきのモヤモヤとした正体の知れない痛みではない。

 義勇を不安がらせた上に、つらい思いまでさせてしまうとは……なんて未熟っ! 恥を知れ、杏寿郎!

 胸中で自分を叱り飛ばし、杏寿郎は、ひとつ大きく息を吸い込むと笑ってみせた。電話では笑ったところで義勇に見えるはずもない。けれどもきっと伝わってくれると信じて、杏寿郎は明るく笑う。
「謝るのは俺のほうだ、義勇。手を握ってやれないときに思い出させた俺が悪い! つらいのなら話さなくていいんだ、気にすることはない!」
 返って来たのはまたしても沈黙だ。今度の沈黙は、さっきよりも長かった。
『うん……』
 ようやく聞こえた声は悄然として、やっぱり不思議と悔しそうに聞こえる。落胆しているようにも感じられるのは気のせいだろうか。
 どうしたと問おうとした杏寿郎の口は、聞こえてきた小さな声に閉じられた。
『義勇、もう出るぞ』
 離れた場所から声をかけたのだろう。錆兎の声は少し不明瞭だ。受話器をふさいだものか、わかったと答えた義勇の声も、はっきりとは聞こえない。
『ごめん、部活行くから』
「……わかった。長話してすまなかった! また、土曜日にな!」
『うん。千寿郎くんに一緒に行くの楽しみにしていると伝えてくれ』
「了解だ! 楽しい一日にしような!」
 ほのかな笑みの気配を残して、電話が切れる。ツーツーという電子音をぼんやりと聞きながら、受話器をおろせぬまま杏寿郎は小さくため息をついた。
 今日も義勇は錆兎と一緒だ。わかっていることなのに、チクリと胸が痛い。
「杏寿郎」
「は、母上!?」
 呼びかけにあわてて振り返れば、母が台所のガラス戸から顔を出していた。まったく気がつかなかったが、いったいいつからいたのだろう。
「狭量な嫉妬は男を下げますよ。義勇さんを信じて泰然自若としてなさい」
「は? え? 嫉妬?」
 クスリと笑った母は、すぐに台所に引っ込んでしまった。
 わずかに聞こえてきた
「父上ではありませんが、お赤飯を炊く日も近いかもしれませんね」
 との声は、どういう意味だろう。独り言なのか、はたまた杏寿郎に向けられたものなのか。それすらわからないが、更に意味がわからないのはその言葉の内容だ。
 だが今は、もっと気にかかる一言がある。

「嫉妬……?」

 受話器を置いて、少し呆然としつつ杏寿郎はつぶやいた。
 嫉妬とはなんのことだろう。もちろん意味は知っている。ヤキモチだ。杏寿郎の嫉妬心を母はいさめてくれたのだろうが、杏寿郎にそんな自覚はない。

 だってそんなの理由がないではないか。嫉妬など、誰に? なんで?

 落ち着け、と、自分に言い聞かせる。冷静に、よく考えてみなければ。
 義勇と錆兎の仲の良さが窺い知れる光景を目にするたび、胸の奥がモヤモヤとして、歯がゆさを感じた。悔しいし、悲しい思いはごまかしようがない。自分を偽ったところでしょうがないのだ。そこまでは認めよう。
 言われてみれば、それは確かに嫉妬としか言えないものであったかもしれない。大好きな友達に、自分よりも仲のいい友達がいる。それが悲しくて、悔しくて、気を引きたいと駄々をこねたり怒ったりする。幼さの証明のような微笑ましいヤキモチだ。
 もう中学生になったというのに、確かにそれでは大人げないし、狭量が過ぎる。母もあきれたことだろう。

 だが――。

 それだけだろうか。知らず腕組みし、廊下に立ちつくしたまま杏寿郎は考える。薄暗い廊下は陽射しが差さない分涼しく、外の熱気は伝わってこないが、頭のなかは焦げつきそうだ。
 錆兎に嫉妬しているのは認めよう。子どものようだと気恥ずかしくはあるけれど、そこまでは杏寿郎にも理解できるし、チリチリとした胸の痛みに納得もいった。
 けれど真菰は? 考えると、切なさと苛立ちに吐き気までしてくる。
 錆兎と真菰の違いなんて明白だ。性別の差が、きっとこの不可解な痛みの理由だろう。同じ嫉妬だとしても、義勇が真菰と口にするたびに、苛々と腹が立って苦しいぐらいに胸が痛かったのは……。

 あぁ、そうか。

 不意に思いついたその答えに、杏寿郎の肩がストンと落ちた。
 真菰は女の子だ。義勇と恋に落ちる可能性がある、同い年で仲良しの、女の子。錆兎とも……自分とも、違う。一生義勇の隣で笑いあって、手を繋ぎあっても、誰も咎めない。女の子であるだけで、まだ見ぬ義勇の従妹は、義勇の恋人になれる可能性があるのだ。いや、もしかしたら、もうすでに……。
 胸が痛くて、苦しくて、目の奥が熱くなってくる。泣きだしそうだなんて、一体自分はどうしたというのだろう。
 義勇に恋人ができる。なにもおかしいことなんてない。あの子じゃなくとも、いつかは義勇にも、もしかしたら杏寿郎自身にも、恋する人が現れるのは当然のことだろう。なのに、なぜだろう。どうしてこんなにも胸が痛い?
 杏寿郎は、ギュッと胸元を握りしめた。知らず寄せられた眉根は、深い皺を刻んでいる。
「なんでだ……?」
 思わずこぼれた呟きは、誰に聞かれるともなく外でひびく蝉の合唱にかき消えた。胸が痛い。さっきまでとは比べものにならないほどに。
 友達に恋人ができるのは、喜ばしいことだろう。杏寿郎自身はまだ恋など早いと思っているが、彼氏ができたとはしゃぐ声を教室でもたまに聞く。義勇に話しかけてきていた女生徒たちも、錆兎や義勇に淡い憧れや恋心を抱えていたのに違いない。
 異性を気にし始めるのはきっと当たり前のことで、いずれは自分にも気になる女の子が現れ、恋に落ちるのだろう。そうしていつかはその子と結ばれて、父と母のように仲睦まじい家庭を築く。
 それは予定調和の未来のはずなのに、なにひとつ現実味がなかった。
 いつでも、いつまでも、そばで笑いあっていたい人。それは杏寿郎にとっては今のところ義勇ただひとりだ。
 義勇にとって自分がそんな存在になれるのは、まだまだ先のことかもしれないが、諦める気なんて毛頭ない。でも、その日の先には、お互い恋人の手を取りあう未来が待っている。義勇の冷たく凍りついた手を温めてやるのは、やさしくかわいらしい女の子になるかもしれないのだ。
 一生つきあっていける友人になれても、大人になればお互い最優先するのはいつか出逢う恋人になり、いつか築くだろう互いの家族になる。ときどき逢って、笑いあって、互いに愛する家族のもとへ帰っていく。それだけの関係に、義勇とはなるのだ。

 なんで、それがこんなに悲しいんだ……? どうして、こんなにも嫌だと叫びたくなるんだ?

 昼食の支度ができたと再び母が台所から顔を出すまで、杏寿郎は、その場に根をおろしたように動けなかった。
 命を繋ぐために番を求める蝉の合唱が、やけに遠く聞こえていた。