真白の雲と君との奇跡3

「ただいま戻りました! 義勇、上がってくれ!」
 杏寿郎が玄関の引き戸をガラリと開けて言うと、キョロキョロと興味深げに周囲を見回していた義勇は、ピクンと肩を揺らせた。
 先ほどまでは表情は乏しくともやわらかい雰囲気だったのに、門をくぐった辺りからどこか緊張しているように見える。杏寿郎は思わず苦笑した。
 杏寿郎の家は昔ながらの古い日本家屋だ。相続のたびに少しずつ敷地は狭くなっていったと聞いているが、まだまだ十分すぎるほどに庭も広い。門からつづく飛び石や、石燈籠のある池。庭木も多く、旅館かと思ったなどと言われるぐらいには大きな屋敷である。裏門の近くには剣道場があるし、父が経営する整体院の建物――プレハブに毛が生えた程度とはいえ――もある。
 生まれ育った杏寿郎にしてみれば、広いだけで普通の家々となんら変わらないと思っているが、遊びに来た友人はみな一様に驚くから、義勇の反応はわからないでもない。
「……映画のセットみたいだ」
「時代劇のだろう? よく言われる! 旅館と間違われることも多いな!」
 ポツンと呟いた言葉は無意識だったのだろう。快活に笑いながら答えた杏寿郎に、義勇は少しばかりバツの悪そうな顔をした。
「古いと露骨に言う者も結構いるぞ。みな感想は一緒だ。気にするな!」
「……かっこいいって、言うつもりだった」
「本当か!? 義勇に褒められるとは、実にうれしい!」
 義勇が格好いいと言ったのはあくまでも家であって、杏寿郎のことではないが、それでも褒められれば素直にうれしい。繋いだままの手をブンブンと振って喜色を露わにした杏寿郎に、義勇は目をぱちくりとさせていた。

「玄関先でなにを騒いでいるのです。お友達が困っていますよ。杏寿郎、早くおあがりなさい」
「兄上、おかえりなさい! あ、あの、いらっしゃいませ」
 あきれをにじませた母の声に、千寿郎の声が重なって聞こえた。少し恥らい気味の一言は、義勇に向けてのものだろう。視線をやれば、千寿郎は上がり框に立つ母の足に隠れて、ちょこんと顔だけ出してふたりを見ていた。
「すみません! 義勇、母と弟の千寿郎だ! ふたりとも義勇がくるのを楽しみにしていたのだ!」
 杏寿郎が言ったとたんに、繋いでいた義勇の手がパッと離された。寂しいと杏寿郎が思う間もなく、義勇は居住まいを正しぺこりとお辞儀する。
「冨岡義勇です。お邪魔します」
「よくいらっしゃいました。さぁ、どうぞ。おあがりくださいな」
 母の声はいつもと変わらず落ち着いているが、なんとはなし弾んでいるようにも聞こえる。
 失礼しますと足を進めた義勇は正面を向いたまま靴を脱ぎ、上がりこんだ先で斜めに膝をついて靴をそろえた。杏寿郎が父や母――特に母に幼少のころから躾けられた作法だ。我が家ではそうするなど義勇に言ったことはない。義勇は元々こういった作法が身についているということだろう。
 所作はよどみなく仕草の一つひとつが美しい。感心する杏寿郎と同様、義勇の所作に母も微笑んでいた。
「礼儀作法がしっかりしていること。ご両親はきちんとされた方たちなのですね」
 母や父には義勇の境遇を話してある。義勇の両親がすでに他界していることを知っている母は、故意に過去形で話すことを避けたように見受けられた。
 パチリとひとつまばたいた義勇が、ふわりとはにかむように微笑んだ。けれども少しだけ、痛みをこらえているようにも見える。
「……ありがとうございます」
 愛らしくもどこかはかなげな笑みに、杏寿郎は、キュッと唇を噛んだ。
 思考の片隅になにかが引っかかったような気がするが、言語化しようとしてももやがかかったように不明瞭で、うまく言葉にできない。けれども、今の義勇の笑みの意味は、自分にとっても大事なことのような気がしてしかたがなかった。
「杏寿郎、いつまでそこにいるつもりですか。義勇くんを居間にお連れして差しあげなさい」
 母に声をかけられなければ、玄関先に突っ立ったまま、杏寿郎はしばらく考え込んでいたかもしれない。
 あわてて靴を脱ぎ捨てれば、静かな声で母の叱責が飛んでくる。しまった。せわしなく脱ぎ捨てたせいでひっくり返ってしまっている靴にあわてて、杏寿郎も義勇同様に膝をつき靴に手を伸ばした。
「すみません、母上!」
 義勇や千寿郎の前でだらしのないところを見せてしまった。内心焦りつつも脱いだ靴をそろえた杏寿郎は、ちらりと義勇の様子をうかがった。
 もう先ほどの笑みは消えていて、常の感情のとぼしい無表情な顔が杏寿郎に向けられていた。
 
 幻滅されてしまっただろうか。義勇はあきれていないだろうか。

 ちょっとの不安と気恥ずかしさを誤魔化すように、居間に行こうと口早に言い義勇の手を取ると、義勇はどこか慌てた様子で咎める視線を送ってくる。
「義勇?」
「兄上と義勇さんは仲良しなのですね。千も幼稚園でいつもお友達と手を繋いでます」
 千寿郎の楽しげな言葉に、義勇の目元がうっすらと赤く染まった。

 あぁ、そうか。恥ずかしいのか。

 通りすがりの他人の目は気にせずとも、杏寿郎の家族相手だと、子どものように繋いだ手を恥らう。なんだかちぐはぐな義勇の感性に、杏寿郎は少し驚き、小さな喜びに胸がソワソワとくすぐられた。
 義勇の困惑と羞恥が伝染したのか、千寿郎や母の視線に杏寿郎もなぜだか照れてしまう。家の中で手を繋ぐというのも、よく考えればおかしな話だ。残念だがしかたないかと、繋いだ自分と義勇の手に視線をやった杏寿郎は、わずかな逡巡とともに手を離そうとした。だが、手を離す前に聞こえた小さな声に、意識とは裏腹に杏寿郎の手には力がこもった。
「……うん」
 ほんの小さな声で言ってかすかにうなずいた義勇の目尻は、先よりも赤味を増している。耳も淡く色づいている。義勇も手を離す気配はなく、おずおずと杏寿郎の手を握り返してくる。
「……うむ! 俺と義勇は仲良しなのだ!」
 ふくれ上がった歓喜に満面の笑みで言えば、千寿郎はニコニコと笑い、「お茶をお持ちしましょう」と微笑み言って台所に向かった母も、ずいぶんと楽しそうに見えた。
 義勇は、まだ手を離そうとしてこない。上目遣いにちょっぴり杏寿郎を睨みつけても、だ。
「あの、千とも仲良くしてくださいますか?」
 おずおずとした千寿郎の言葉に、義勇がそっと反対の手で千寿郎の手を取るのを、杏寿郎は、言葉にならないほどの感動に包まれながら見ていた。
 なんだかもう胸が詰まって、苦しいぐらいだ。大好きな義勇とかわいい千寿郎が仲良くしている。ただそれだけのことがこんなにもうれしい。
 義勇と初めて逢ったときには、千寿郎はまだ母のお腹のなかだった。その千寿郎が、自分の足で立ち、こうして義勇と手を繋ぎ笑っている。それだけの月日のあいだ逢えなかった義勇と、杏寿郎もまた手を繋いでいる。
「兄上?」
 黙り込んでしまった杏寿郎を訝しんだか、千寿郎がキョトンと見上げてくるのに、杏寿郎はあわてて笑みを返した。笑っていないとなんだか泣いてしまいそうだ。
「千寿郎、義勇と仲良くしてもらえてよかったな!」
「はい! あの、義勇さん。義勇さんが兄上に貸してくれたご本、千も兄上に読んでもらいました」
 うれしそうに義勇に話しかける千寿郎には屈託がない。ちらりと杏寿郎に向けられた義勇の視線に、一瞬ドキリとしたが、青い瞳に咎める色は見られなかった。
「……面白かったか?」
「はい! でも最後は悲しくて泣いてしまいました」
「すまん、義勇。借りた本なのに勝手に読み聞かせてしまって」
「かまわない」
 義勇の声は聞きようによってはそっけない。つないだままの手は汗ばんで、熱いぐらいだ。
 本当に杏寿郎が謝りたかった理由を、義勇はきっと悟っているだろう。それでも義勇の手は、今は冷たく凍りついてはいない。
 古い古いその文庫本を読もうとすると、手が震えて、凍りついて、動けなくなる。義勇はそう言った。いつかは返せる日が来るといいと思っているが、今はまだ、本の話をするのも本当は辛いだろう。だが義勇は、千寿郎の素直な言葉を厭うそぶりを見せずにいてくれている。
 義勇のそんなやさしさに対するうれしさや、辛さを癒せぬ自分の不甲斐なさ、正負入り混じった感情は杏寿郎の胸で渦巻いて、乱高下を繰り返す。こんなにも心を乱されるのは、いつだって義勇のことばかりだ。

 もっと大人になりたい。義勇を悲しませるものすべてから、義勇を守れるぐらい、頼りになる大人に。思ってもまだ、自分は全然不甲斐なくて、未熟で、悔しくなるけれど。

 屈託なく笑って話しかける千寿郎に、小さくうなずき返しながら少しだけ口元に微笑みを浮かべている義勇を見つめ、杏寿郎は、胸に強く誓う。
 いつかはきっと、と。必ず、義勇がいつでも花のように笑っていられるように、強い男になってみせるのだと。

 居間の座敷で卓を挟んで向かい合って座り、さて、研究テーマはどうしようかと、杏寿郎と義勇は頭を悩ませていた。
「レポートだけというのはやはり地味だな。なにか標本みたいなものがあったほうがいいだろうか」
「昆虫採集……?」
 提案というには、義勇の声は浮かないひびきをしている。よく見なければわからないほどではあるけれど、眉根もかすかに寄せられていた。
「義勇は虫が苦手なのか?」
 聞けばふるりと首を振る。
「あぁ、虫を殺すのが嫌なのか」
 なるほど、と、杏寿郎はうなずいた。
「じゃあ、それは却下だな。ふむ、いざ考えると難しいものだな。折角義勇と共同研究するのだから、図書館で調べて終わりというのも味気ないし、かといってあまり金を使うようなこともできんしなぁ」
 勉学のためとはいえ殺生は杏寿郎も好かない。昆虫の標本があれば見栄えはそれなりに良いだろうけれども、そのために義勇が悲しむのなら、昆虫採集というわけにはいかないだろう。けれども、ならなにをしようかと考えてみても、なかなかいい案は浮かんでこなかった。
 エアコンをつけていない座敷は、窓も障子も開け放たれて、扇風機の送る風がふたりの頬をなぶる。下げられたすだれで幾分暑さはやわらいでいるが、それでもふたりの額には汗が光っていた。
 風鈴の音と蝉の泣き声がひびくなか、話しあいだしてから三十分ほどになるが、一向にテーマは決まらない。麦茶の氷もすっかり溶けている。
 義勇と逢える機会が増えるのならば、今日決まらなくてもいいかと少しぐらいは思わないでもないが、やっぱり二人でやるのはやめようなんて言い出されるのは困る。
 本当は、レポートだけでもかまわないのだ。図書館でふたりで調べものをしてまとめるだけでも、十分自由研究としては体裁は整う。だがそれでは、義勇と逢える日が減ってしまうではないか。
 できることなら、ふたりでいろんなところに出向かなければならないテーマがいい。ふたりだけでのお出かけだ。考えただけでワクワクする。いや、目的はあくまでも自由研究だけれども。勉強のためだけれども、だ。

「兄上、義勇さん、千もおやつを一緒に食べてもいいですか?」
 うーんと唸っていると、座敷の襖が開いて、そっと千寿郎が顔を出した。
 ふたりは勉強するのだからと母に言われ、素直に自分の部屋に戻っていたのに珍しいこともあるものだ。聞きわけの良い千寿郎が、こんなおねだりをするのは初めてかもしれない。ずいぶんと義勇のことが気に入ったものとみえる。
「すまない、義勇、いいだろうか」
 こくりとうなずいてくれた義勇に、千寿郎の顔がパッと笑んだ。
  いそいそと座敷に入って来た千寿郎が杏寿郎の隣に座ると、再び襖が開き、母が顔を出した。杏寿郎が買いそろえておいた茶菓やジュースを乗せた盆を置くと、母は静かに義勇に会釈し、千寿郎に苦笑を向けた。
「ありがとうございます、義勇さん。千寿郎、あまり長くお邪魔してはいけませんよ?」
「はい! 一緒におやつを食べたら部屋に戻ります。あ、あの、それと、義勇さんにも千の宝物見てもらってもいいですか?」
「宝物?」
 小首をかしげる義勇に、杏寿郎は、アレかと笑った。
「千寿郎が集めている石だ。義勇は集めたことがないか? 石もよく見るといろんな色や形があって、なかなか面白い! 俺も小さいころには集めたことがある」
 言って、杏寿郎はハタと目を見開いた。見れば義勇も同じようになにか思いついたようだった。
「義勇っ、自由研究のテーマは石ではどうだろう!」
「うん。川の上流と河口で違いを調べるとか、面白いかもしれない」
「標本にするなら、いっぱい集めないといけないな! 石の種類も図書館で調べてみよう!」
 興奮して顔を近づけあうふたりに、千寿郎はキョトンと首をかしげ、母は楽しそうに微笑んでいた。

 夕飯を一緒にとの母の誘いには、早めに帰ると告げてきているからと断って、義勇は夕方には帰ってしまった。母も、もちろん千寿郎も残念がったし、杏寿郎だって至極残念だったけれども、一番ガッカリした顔をしたのは父だった。
「俺だけ噂の義勇くんに逢えなかったか」
「義勇さんはとってもおきれいな人でしたよ、父上。それにとってもやさしかったです」
「躾の行き届いた礼儀正しい良い子でした。よいご家族のもとで育ったのがよくわかります」
 千寿郎と母が楽しげに言えば言うほど、父の眉は下がっていく。ひとりだけ義勇に逢えなかったのが心底無念であるようだ。
「父上、義勇はまた来てくれるそうです! それと、今週末なんですが研究のために少し遠出をしてもいいでしょうか。義勇と海に行くのです。稽古を休むことになってしまうんですが、いいですか?」
「それはかまわんが、遠出をするなら車を出すか? 週末なら整体院も休みだから、送ってやってもいいぞ」
「あなた、週末には庭の手入れをして下さるお約束ですよ。義勇くんに早く逢ってみたいのはわかりますが、杏寿郎の邪魔をなさるのはおやめなさいな。嫌われますよ?」
 うちは男の子ばかりでよかったこと。娘だったら気の利かない父で邪険にされること請け合いですと、すました顔で言う母に、父が盛大にうろたえる。
 確かに義勇とふたりだけで出掛けられるのに、父がついてくるのはちょっぴり邪魔……もとい、義勇が気兼ねしてしまうかもしれない。
「父上、申しわけないが義勇とふたりで電車で行きます!」
「……杏寿郎、申しわけないと思うなら、申しわけなさそうな顔で言いなさい」
 恨めしげに言う父には悪いが諦めてくれてよかったと、内心で胸を撫でおろしかけたとき。

「兄上、千も一緒に行ったら駄目ですか……? 一緒に石拾いしたいです」
「……千寿郎の頼みでは、断れんな」
「俺のときと態度が違い過ぎないか? 杏寿郎?」

 ふたりきりのお出かけは、もう少し先になりそうだ。