真白の雲と君との奇跡1

 梅雨が明け、七月も半ば近くともなると、照りつける陽射しが暑さを増す。煉獄家ではあまりエアコンを使用しないので、全教室にエアコン完備の学校のほうが、よっぽど過ごしやすい。
 とはいえ、一歩外に出てしまえば暑いことに変わりはなく、昼休みに校庭ではしゃぐ生徒はめっきり減った。 小学校までは休み時間ともなればグラウンドを駆けまわっていた杏寿郎だが、中学に上がって以降は、休み時間に教室を出ることは稀だった。過去形だ。先月まではともかく、今では昼休みの杏寿郎の過ごし方は、以前とは少し変わった。

「義勇、今日も非常口か?」

 弁当を手に声をかければ、隣の席で同じく弁当を取り出した義勇が、こくりとうなずいた。毎日のことながら、杏寿郎はやっぱりうれしくなってしまう。
「じゃあ、急ごう!」
 またこくりとうなずいて立ち上がった義勇と一緒に、教室を出る。エアコンの利いた教室よりも、廊下は少し暑い。だが廊下や階段はまだマシだ。下駄箱までくると気温がグッと上がる。
 靴を履き替えながら、よく晴れた表に一歩踏み出すと、ジリリと陽射しが身を焼いた。蝉の声も一段と大きくひびく。
「今日は学習相談だな! うちは母上がくる。義勇と逢えたらご挨拶したいと言っているのだが、義勇の都合はどうだろうか」
 二学期制であるこの学校では、通知表は夏休み明けになる。そのため、夏休みに入る前に三者面談による学習相談の日が設けられていた。面談がある週は、部活も休みだ。中学一年の杏寿郎にとっては、初めての三者面談である。母や父に恥をかかせるような振舞いをした覚えはないが、少しばかりソワソワとしなくもない。
「うちは、おばさんが来てくれる。……俺と逢っても、杏寿郎のお母さんは別に楽しくないだろう?」
「なんでだ? そんなことはないぞ! 母はいつも義勇の話をすると楽しそうに聞いてくれている! 是非逢ってみたいと言ってくれていた!」
 思わずブンと振った手を、義勇の視線が追う。正しくは、杏寿郎が持っている弁当箱を。
「おっと、しまった。あまり振りまわすものではないな」
 せっかく母が作ってくれたのに、ぐちゃぐちゃにしてしまっては申しわけがない。ちょっぴり慌てもしたが、それでも杏寿郎の顔は笑み崩れてしまう。
 杏寿郎が申しわけないと母に対して思うように、義勇も、杏寿郎の弁当が崩れるのを心配してくれたのだ。生真面目でやさしい義勇らしいと、杏寿郎の機嫌もすこぶるよくなるというものだ。
「まぁ、義勇のほうが順番が早いから、俺が終わるまで待たせてしまうことになるからな。無理には言わん。だが、母も義勇と逢いたがっていることは覚えておいてくれ。それと、父と千寿郎もだ!」
「……なんで?」
 呆気にとられた様子でポカンと口を開く義勇に、杏寿郎はますます笑みを明るくする。
 義勇は、前よりも少しだけ表情が豊かになった。少なくとも、杏寿郎に対してはこんなふうに、感情がうかがえる顔をしてくれる。
 会話もちょっと増えた。今もそれほど口数は多くないし、基本的には無表情ではあるのだけれど、杏寿郎が一緒に昼ご飯を食べようと誘っても、以前のようににべもなく断ったりしない。
 今日だって、もはやそれが当たり前のように一緒に連れだって教室を出て、外で一緒に食べる。
 ふたりきりでないのは、ほんのちょっぴり残念な気がしないでもないけれども。

「遅いぞ、義勇、杏寿郎」
「ごめん」
「すまない、錆兎。数学の先生のお話が長引いたのだ!」
 校舎の裏手にある非常口で手を振る宍色の髪の男子生徒に、義勇と杏寿郎はそろって足を速めた。
「しかし、暑くなったなぁ。二年の教室で食えばいいのに。それか、俺がおまえらの教室で食ってもいいぞ?」
 確かに、非常口に庇はあるがこの時間はまったく日陰になっちゃいないし、狭い三和土に三人で座るのは窮屈だ。ぴったりくっついていないと座れないから、互いの体温も相まって実に暑い。
 フルフルと首を振る義勇に、錆兎が肩をすくめて苦笑する。義勇を挟んで三人で食事するのも、もう何度目だろう。錆兎のこの台詞も、今日が初めてではない。
 今まで義勇は、二年の錆兎の教室で昼を食べていた。昼休みになるたび教室を出ていく義勇に、俺も一緒にいいだろうかと、何度も杏寿郎は聞いたけれど、義勇がうなずいてくれたことはなかった。
 四月からずっと、杏寿郎が一緒にと誘うたび、毎回義勇は首を振って、ひとりで錆兎のところに行ってしまう。それが当たり前の光景だったのだ。
 義勇がためらいながらうなずいてくれたのは、六月末の定期テストが終わってからだ。ただし、明日でよかったらとの条件付きで。
 もちろん、杏寿郎に否やなどあるわけもない。勢い込んで楽しみにしていると笑った杏寿郎に、義勇は、ちょっぴり引いたようにも見えたけれど、ちゃんと約束を守ってくれた。

 家に帰って真っ先に台所に駆け込んで、義勇と初めて一緒に食べられるからいつもよりちょっと豪華版にしてはもらえないだろうかと母に必死に頼み込み、久しぶりに正座させられて説教を受けたのも、もはやいい思い出である。

「杏寿郎の唐揚げ、うまそうだな」
「うむ! 母の料理はなんでもうまいが、特に唐揚げは絶品なのだ! 一番うまいのはサツマイモのみそ汁だがな!」
 両側で会話する杏寿郎と錆兎に挟まれて、義勇はただ黙々と弁当を食べている。食事中に義勇が話すことは皆無だ。もともと無口なのに輪をかけて、まったくしゃべろうとしてくれない。
 最初は、やっぱり錆兎とふたりのほうがよかったのだろうかと、ちょっと落ち込みかけた杏寿郎だったが、あにはからんや。苦笑した錆兎が言うことには、義勇は食べながら話すことができないらしい。
「またご飯粒ついてるぞ、義勇」
 モグモグと食べ続ける義勇の頬についた飯粒を、ヒョイとつまんで食べた錆兎に、杏寿郎はピシリと固まった。だが、義勇はまったく動じた様子がない。
「いつまで経っても食べるの下手だよなぁ、義勇は」
「……ほかの人に見られるわけじゃないから、別にいい」
 こんなとき、なんとはなし杏寿郎は少しだけいたたまれないような、苛立つような、不思議な胸の痛みを感じる。こういうことはたびたびあって、そのたび杏寿郎は義勇と錆兎の親密さに、羨ましさを覚えた。
 ふたりが仲良しなことぐらい、十分知っているのにもかかわらず、なんでいつもチクリと胸が痛むのか。杏寿郎にはよくわからない。
「杏寿郎ならいいんだ?」
 どこかからかうように錆兎が言うのに、杏寿郎はまた硬直する。義勇にも聞こえてしまわないだろうかと不安になるほど、ドクドクと鼓動がうるさい。
 こくりと小さくうなずいた義勇に、杏寿郎はやさしいから怒らないなんて言われてしまえば、ますます杏寿郎の心臓は早鐘のように高鳴る。うれしさが体中を駆け巡って、じっとしていられない高揚感に、杏寿郎は強くうなずき返した。
「もちろん、怒ったりしないとも! だが、不思議だな。義勇は箸づかいもきれいだと思うのだが、なんでいつもご飯粒がついてしまうのだろう?」
「それ、俺も不思議。義勇のほっぺって、ご飯粒だのパンくずだのを引き寄せる磁力でもあるんじゃないかってぐらいだもんな」
「……そんなものあるわけない」
 少しばかり機嫌を損ねたか、ちょっぴり唇を尖らせてむくれる義勇なんて、入学した当初には見られるとは思わなかった。錆兎と一緒だと義勇も表情豊かになるのだなと思えば、やっぱり少し切ないような悔しいような気もするが、それでも幸せなことに違いはない。
「はいはい、ふてくされてんなよ。ほら、急いで食わないと休み時間終わるぞ」
 楽しげに笑う錆兎は、すでに食べ終えている。杏寿郎も残るのは唐揚げがひとつきりだ。義勇は杏寿郎たちよりも食べるのがちょっと遅いので、いつもふたりで義勇が食べ終わるのを待つのが当たり前の光景になっている。
「義勇、交換しよう」
 残った唐揚げをつまんだ箸を義勇に差し向ければ、キョトンとまばたきしつつも、義勇は素直に口を開けてくれるから。先ほどまでの胸の痛みもたちまち薄れて、今度は甘い疼きを伴って鼓動が高まる。モグモグと無言で唐揚げを噛みしめながら、同じように玉子焼きをつまんだ箸を杏寿郎に向ける義勇に、杏寿郎もアーンと大きく口を開けた。
 錆兎の母が作る玉子焼きは、煉獄家とは違って甘い。しょっぱい玉子焼きが当たり前だと杏寿郎は思っていたけれど、甘い玉子焼きも義勇から食べさせてもらえば至極うまいと思う。
「うまい! 錆兎の母上も料理上手だな!」
「……唐揚げ、うまかった」
「仲良しだな」
 蝉の大合唱のなか、クスクスと笑う錆兎の声は、杏寿郎の耳を心地好くくすぐった。
 義勇と錆兎の仲の良さは疑う余地もないが、錆兎から見ても自分と義勇は仲良しに見えるのだ。それがうれしい。こくんとうなずく義勇もまた、そう思ってくれていることが、ただうれしかった。
 エアコンの利いた教室では、こんなふうに肩を触れあわせて座っていることもできない。狭いコンクリートの三和土に三人で座って、義勇と肩や膝をくっつけていられるこんな時間が過ごせるなら、教室よりもずっとここで食べられたらいいなと杏寿郎は思う。

 中学に入って初めての夏は、ちょっとの胸の痛みとはしゃぎまわりたくなるよな幸せとともに、始まったばかりだ。

 さて、そんな幸せな毎日も、夏休みに入れば一時中断だ。教室は夏休みの話題で持ちきりで、クラスメイトたちはいかにも楽しげだけれども、杏寿郎だけはちょっぴり憂鬱である。
 だって、夏休みの間は義勇に逢えない。遊びに行こうと誘えば、今の義勇ならばきっとうなずいてくれるだろうし、まったく逢えないわけではないだろう。だけれども、なにをしたら義勇が楽しんでくれるのかがわからない。
 土日や祝日以外は毎日逢えていた今までと違って、夏休みは長い。その間、何日義勇が逢ってくれるかわからないけれども、できれば毎回笑ってほしいのだ。杏寿郎と一緒で楽しいと言ってくれたら、どんなに幸せだろう。
 小学校のころなら、友達と遊ぶと言えば大概は、公園ではしゃぎまわるのが常だった。だが杏寿郎ももう中学生だ。義勇も公園で走り回るタイプではないと思う。遊ぼうと誘ったはいいものの、なにをしたらいいかわからないというのでは、なんとなく不甲斐ないような気がする。
 たぶん、父がこんな悩みを聞いたのなら、デートか! とうとう杏寿郎もデートに悩む年になったのか! と興奮して、母に赤飯を炊けと言い出すのかもしれない。だが、今のところは杏寿郎の胸のうちだけでの話なので、父が正座させられて母に説教される日は来そうにない。
 当然のことながら、デートなんていう言葉も、杏寿郎の頭のなかにはない。義勇は誰よりも一等大好きな友達だ。たぶん。それ以外ないはずだけれどもしっくりとこないのは、なぜだろう。それでも友達という言葉以外に、義勇と自分を言い表す言葉は、現状、杏寿郎には思い浮かばなかった。
 友達だけでは足りないと、焦燥に駆られることはたびたびある。けれど、その理由はまるでわからない。
 わからないことばかりが積もって、なんだか胸の奥がザワザワとする。義勇のことでなければこんなふうに悩むこともないし、はっきりしないままなんて性に合わなくて、面と向かって当の相手に聞いてしまっていただろう。義勇にだから、聞きたいけれどもなんだか聞けない。自分のことなのに、杏寿郎には、自分の気持ちがよくわからなかった。
 大好きな気持ちはなにひとつ変わらないのに、ちょっとずつ変わっていく日々は、今のところは良い方向に向かっているように思う。それがぐるりと真逆に進んでしまうかもしれないと思うと、不安が胸いっぱいに広がって、ガラにもなくため息をついてしまいそうになる。

 夏休みでも、義勇は錆兎とずっと一緒なんだろうか。一緒に住んでいるのだから当然だろうけど。

 義勇との距離は、杏寿郎だって近くなっている。それでも、錆兎には敵わない。そんな気がする。
 しかたのないことではあるが、義勇が一番苦しくつらいときに一緒にいてやれたのは、杏寿郎ではなく錆兎だ。杏寿郎はまだ、義勇がなにをしたら喜ぶのか、どんな遊びが好きなのかさえ、知らない。錆兎なら、こんなことで悩んだりしないんだろうなと思うと、また胸の奥がチクリと痛んで、ジリッと焦げつくような心持がした。
 それでも鬱々としてばかりもいられない。悩みあぐねているのも、どうにも性分に合わなくて落ち着かない。
 とにかく、夏休みだって義勇に逢いたいことだけでも、伝えておかなければ。グズグズとしていたら夏休みに入ってしまう。
 そんなに熱心な活動はしていないといっても、剣道部だって夏休み中の部活はあるし、合宿だって行うのだ。夏休み恒例の家族旅行だって行くし、中学に上がって構ってやれる時間が減ってしまった分、千寿郎とだって遊んでやりたい。杏寿郎の予定だけでなく、義勇の都合だってある。義勇は部活に入っていないけれども、夏休みも水泳部の錆兎と一緒に行動するのなら、もしかしたら毎日錆兎と登校するかもしれないのだ。
 出遅れた感はあるけれども、ともかく義勇の予定を聞いておかなければと、焦る杏寿郎に天啓をもたらしたのは、ふと聞えてきたクラスメイトの一言だった。

「なぁ、自由研究どうする? グループ発表でもいいって先生言ってたし、一緒にやんない?」
「それだっ!」

 突然大きな声で叫んで立ちあがった杏寿郎に、クラス中がビクンと肩を跳ねさせたが知ったこっちゃない。隣の席の義勇が一番驚いているようではあったけれども、そんなことにすら杏寿郎は気づかなかった。とにかくもう、興奮しきっていたので。
「義勇っ、夏休みの課題の自由研究、一緒にやろう!」
 ガシリと手を取り満面の笑みで言った杏寿郎に、こくんとうなずいた義勇は、もしかしたら勢いに押されてなにも考えてはいなかっただけかもしれない。
 パチパチとせわしなくまばたく目はまん丸で、きれいな青いっぱいに杏寿郎の顔が映っていた。