「さて、これから部活に出なきゃいけないんで、あまり時間がない。手短に済まそうか」
しとしとと降る雨のなか、錆兎は笑ってそう言った。
委員会が終わったと同時に錆兎にうながされ、連れだってやってきたのは、校舎の裏手にある大きな桜の木の下だ。放課後になってからすでにかなり時間が経っている。雨のせいもあってか、ほかの生徒の姿は周囲にはなかった。
時間がないと言うわりには、わざわざこんな場所まで出向くなんて、よほど人に聞かれたくない話なのだろうか。
もしも牽制のつもりなら、ここまでお膳立てする必要はないはずだ。よもや暴力に訴えるということはあるまいが、いずれにせよ、錆兎が味方となるかどうかの正念場であるのは間違いない。対応次第では、錆兎はおそらく、杏寿郎が義勇と関わるのを阻むだろう。杏寿郎の緊張感はいやおうなしに高まった。傘の柄を握る手にもわれ知らず力がこもる。
錆兎のことを、杏寿郎はよく知らない。学年も違えば部活も違うのだ。接点はほぼない。しいて言うなら同じ体育委員であるぐらいだ。
とはいえ、クラス代表の委員長でもなければ、顔をあわせる機会は皆無である。実際、学校を欠席した委員長の代理として錆兎が委員会に参加しなければ、杏寿郎が錆兎と会話することなどなかったはずだ。少なくとも、義勇を介さずに錆兎と顔を合わせる事態など、杏寿郎は想定していなかった。
それでも、ほかの先輩にくらべたら、錆兎について杏寿郎が知る情報は、段違いに多い。
どうしたって気になる存在なのは確かだが、杏寿郎が望んで調べたわけではない。勝手に耳に入ってくるのだ。
錆兎はこの学校では有名人だ。たぶん、中等部の生徒ならほぼ全員が、鱗滝錆兎という名を聞いたことがあるだろう。噂話にうとい杏寿郎でさえ、錆兎の名は、教室でも部活でも何度も耳にしていた。
二年生にしてすでに水泳部のエース。将来的には国際強化選手にえらばれるだろうと目されているほどの実力者。性格は男らしく正義感にあふれ、気さくで頼りがいがある。先輩風を吹かせるようなこともなく、驕り高ぶった態度も一切取らない。礼儀正しく教師の覚えもめでたい模範生だ。
だからといって堅苦しいわけでもなく、それなりにノリもいいというのだから、ケチのつけようがない。杏寿郎が耳にした錆兎の話は、全面的に好意的だ。押しも押されもせぬ人気者とは、鱗滝先輩のことだと、クラスメイトの水泳部員は我がことのように誇らしげだった。
女子の人気はとくに高いらしく、初等部から高等部まで広くファンがいる。去年までは、当時三年生だった体操部の先輩とともに中等部での人気を二分していたそうだが、先輩が高等部にあがった今は、女子人気はほぼ独占状態だと聞いたことがある。
人気のほどを裏づける光景も、入学した当初にはときどき見かけた。
初等部から持ち上がりの生徒には遠巻きにされていたが、それでも、義勇に話しかけてくる生徒がいなかったわけではない。声をかけてきたのは主に編入組の女生徒で、義勇に近寄るなり開口一番告げるのはいつでも「冨岡くんって鱗滝先輩の従兄なんでしょ?」だった。
錆兎の噂は学外にも響いているのだろう。従兄である義勇から錆兎の情報を聞きだそうとする女子は、少なくはなかった。
あまりにも義勇の対応がそっけないものだから、今ではもう、めったに見られない光景ではある。
そんな女子のうちの何人かは、義勇と会話するきっかけがほしくて錆兎の名を出しただけだったと、杏寿郎が気づいたのはつい最近だ。恋愛ごとにうとい杏寿郎が、自身で思い至ったわけではない。義勇に話しかけてきた隣のクラスの女子が、廊下で友人たちとコソコソと話しているのを偶然小耳にはさまなければ、今も気づけずにいただろう。
偶然……と言い切るには、少々いたたまれなくもないが。盗み聞きのような真似をしてしまって、あの女子には申しわけないかぎりだ。
杏寿郎がその少女を意識に止めたのは、義勇に話しかけてきた子だったからにほかならない。だからこそ、廊下で話しているのがその子であるのにも気づいたし、聞こえてきた声につい耳をそばだてもした。
不躾な真似をしてしまったと反省すべきだろうが、あのときはそれどころじゃなかった。
『冨岡くんってイケメンなのに、本当にもったいないよね。ノリが悪いし、話しててもつまんない。人に無関心っていうか……なんか冷たすぎて、ガッカリしちゃった』
聞こえたその言葉に杏寿郎が感じたのは、なんとも複雑な衝撃だった。
勝手なことを言う女子への憤りは当然あった。けれども湧き上がった感情は、怒りだけではなかったように思う。不思議な焦燥にうろたえもしたし、なぜだか悲しいと思いもした。
この子は義勇を好いていたのか。思った瞬間に、なぜあんなにもショックを受けたのか。自身のことだというのに、いまだに杏寿郎にはよくわからない。
義勇がみんなと交流を深めることを邪魔するつもりなど、毛頭ない。義勇が好かれるのは喜ばしいことのはずだ。ショックを受ける謂れなどない。むしろ、積極的に、義勇が交流の輪を広げる手助けをすべきだろう。
けれど、それは誤解だ、義勇はとてもやさしい人なのだと、その子に言うことはできなかった。幻滅されるいわれはないぞと、怒ることも。
義勇のやさしさを、外見にしか興味なさげなあの子には教えたくない、なんて。なんでそんなことを思ってしまったのか。いまだに理由はわからないままだ。
表面上は排他的な態度を崩さずとも、義勇は、本当は人が好きなはずだ。杏寿郎はそれを疑っていない。
クラスメイトには意外に思われるかもしれないが、義勇は人に関心がないどころか、周りのことをよく見ている。事実、具合を悪くしている者がいると、チラチラと気遣わしげに視線を向けていることはままあった。誰も気づいていないときでも、義勇は気づく。そして無表情ながらも心配げな視線を向けるのだ。
いつも義勇を意識している杏寿郎が、それに気づいたのは当然のことだった。
義勇の視線の意味に気がつくたび、席を立ち大丈夫かと不調の者に声をかけにいくのは、自分の役目だと杏寿郎は思っている。義勇が声をかけられないのなら、自分が補ってやればいい。
しかしながら、クラスメイトはみな、杏寿郎が気づいてくれたのだと思うらしく、感謝されるのはいつでも杏寿郎だけだ。
すぐに否定し、気づいたのは自分ではなく義勇だと告げるのだが、必ず疑わしげにされるし、義勇自身も咎めるような眼差しを向けてくるのが、杏寿郎にとっては少々不満だ。やっぱり君はやさしいなと笑いかける杏寿郎に、義勇からなんの反応も返らないことも、なんだか悔しい心地がした。
まるで義勇は、自分の価値を自ら放り捨てているみたいだ。
少し悔しくて、悲しくて、歯噛みしたくなる。それでも、義勇のやさしさに気づく者も、少しずつ増えていくはずだ。廊下にいたあの子は義勇の顔立ちにしか興味がなかったのだろうが、もしかしたら義勇に話しかけてきた女子のなかには、義勇の心根にこそ惹かれた者もいたかもしれない。
派手さはないが、義勇はとてもきれいな顔をしている。憧れる生徒がいるのも、考えてみれば当然だ。無愛想な態度や感情の読めない表情に隠された義勇のやさしさに気がつけば、ほのかな恋心を抱く子が現れたって、ちっともおかしくはないのだ。
たとえ噂や無愛想さで敬遠されがちだとしても、義勇に惹かれるのは、なにも自分ばかりではない。
当の義勇は、周りの者たちが自分に向ける関心になど、ちっとも気づいてはいないようだけれども。
ともあれ、そんな義勇が明らかに心を開いている相手――それが錆兎だ。
その錆兎とこんなふうにふたりきりで相まみえている現状は、予想もしなかったことだけに、どうしたって身構えてしまう。
いったい錆兎はなにを言い出すつもりなのだろう。緊張を抑えこみ、じっと見すえる杏寿郎に、錆兎は明るい笑みを崩さず言った。
「まずは、義勇と親しくしてくれて感謝する。いつも教室で話しかけてくれてるんだってな。ありがとう」
「礼は無用! 義勇に話しかけるのは、俺が楽しいからだ。俺が話をしたくてしているのだから、礼を言われる必要はないな!」
闊達な声で杏寿郎が即答すると、錆兎は驚いたように目を見開き、ついで、思わずといったふうに吹き出した。体を折り曲げてククッと笑いを噛み殺している様は、いかにも愉快そうだ。
そんなおかしなことを言っただろうか。杏寿郎はキョトンとしてしまったが、不思議と腹は立たない。
誘い出された意図はまだ読めないが、錆兎の言動からは、杏寿郎に対する害意や反感は見つけだせずにいる。杏寿郎の返答を小馬鹿にした様子もなければ、クラスメイトが以前言ってきたような、お節介な忠告をする気配もなかった。義勇に関わるなと牽制されるのだろうかとの危惧は、杞憂に過ぎなかったようだ。
「なるほど。義勇の話どおりだ。いいやつだな、杏寿郎。気に入った」
「それは、義勇が俺のことをいいやつだと言っていたということか? それはうれしい!」
たいそう口が重い義勇が、自分のことを褒めてくれている。じかに言ってもらえないのは少しばかり残念だが、義勇に好感を持たれているというのは、先々に希望が持てるというものだ。思わず杏寿郎は破顔した。
けれども、うれしさのなかにはやっぱり、ほんのちょっとの割り切れなさがある気がする。
苛立ちのようでもあり、焦りのようでもあるモヤモヤとした不可解な心持ちは、言語化されるには至らず、杏寿郎の胸のうちで小さくくすぶっていた。
杏寿郎の返答のなにがツボに入ったのか、錆兎はなおも楽しげに笑っている。屈託のない笑みは、けれどやがて苦笑めいて、端正な顔にわずかばかりの陰りが落ちた。
「義勇が誰かのことを話すのは、杏寿郎が初めてだったんだ。――あの事故以来」
ドクン、と、杏寿郎の胸がひときわ大きく鼓動を打った。知らずゴクリと喉を鳴らす。ごまかしようのない緊迫感から勝手に体は固くこわばり、杏寿郎は笑みを消すと、グッと唇を引き結んだ。
錆兎が、杏寿郎とふたりで話がしたいと言い出した本来の目的は、これなのだろう。
義勇の身になにが起こったのか。どうして義勇は花のような笑みを失っているのか。自分を価値のない者としているような態度の理由も、きっと錆兎は、すべて知っている。杏寿郎の知らないなにもかもを。
牽制ではないと思ったのは、早計だったか。否。杏寿郎は疑いを即座に打ち消した。
笑みを消した錆兎の真摯な瞳には、お節介なクラスメイトたちの目にあったような、若干の疎ましさは微塵も見つけ出せない。
錆兎はきっと、義勇に話しかける杏寿郎をいらざる存在だなどとは考えていないだろう。なぜだか不思議とそう信じられる気がした。
錆兎のことだって、杏寿郎はまだよく知らない。為人はすべて伝聞だ。錆兎のことで杏寿郎が実感を伴い知っているのは、義勇が心を開いている、その一点のみである。
だが、杏寿郎にはそれが一番重要で、それだけで十分だった。
幼いころに見た光景が胸によみがえる。迷子になって心細げにしていた義勇が、ひときわ明るい笑みを浮かべたのは、錆兎の姿を見つけたときだった。錆兎が迎えにきてくれたと杏寿郎に告げた声は、もうなんの心配もいらないと言わんばかりで、あの一瞬だけでふたりの仲の良さは痛いほど知れたものだ。
義勇が信頼している人。それだけで、杏寿郎にとっても錆兎は信頼たり得る。胸が締めつけられるような、不思議な痛みはともかくとして。
「事故のこと、どこまで知ってる?」
「なにも。義勇が語らない以上、詮索するつもりはないからな」
心なし観察者のように感じる眼差しをして聞いてきた錆兎に、間髪入れずに答えれば、また錆兎の顔に苦笑が浮かんだ。だがそれも、小さなため息とともに消える。
「一応、耳に入れておくべきかと思ったんだが……どうするかなぁ」
錆兎の呟きは、杏寿郎に向けてというよりは、自問自答の独白めいていた。
「義勇の許可はとっているのか? 錆兎が必要だと判断したのだとしても、義勇のことならば、義勇自身が俺に聞かせるべきか否かを決めるのが筋ではないだろうか」
知られたくないと義勇が思っているのなら、たずねる気など杏寿郎には毛頭ない。
気にならないと言えば、嘘になる。義勇のことならば、なんだって知りたいのは確かだ。けれどそれは、義勇自身の意思が介在しないところで、他者から打ち明けられるべきものではないとも思う。
「……なるほど。たしかにそれが筋だな。うん。聞いてもらっとくか」
「よもや!?」
憂いが晴れた顔でうなずく錆兎に、杏寿郎は思わず目を見開いた。
「なんでそうなるんだ! 錆兎、俺の話を聞いていたか!?」
「もちろん。だからこそ、話そうとしてる。確実に信用できると判断できたからな」
「今のは俺を試したのか?」
口をついた言葉の意味は、不満ではなく、確認だ。
錆兎の立場であれば、杏寿郎の為人を見定める必要ありと判断するのはうなずける。義勇の身を案じるならば、杏寿郎だってそうするに決まっていた。
不用意に義勇を傷つける者が近づかぬよう、確信が持てるまで警戒するのは当然のことだ。杏寿郎だってきっと、幾重にも神経を張り巡らせ、相手の真意を図ろうとするに違いない。
義勇を、髪の毛一筋ほども傷つけまいとするのなら。義勇のことが大事だからこそ、俺だってそうする。
不快感よりも先に立つのは、今度こそ合格かという期待と奮起だ。気概も露わな杏寿郎に、錆兎はといえば、軽く片眉を上げ肩をすくめている。どこか洒脱なその仕草には、気負いも後ろめたさもまるでない。どことなし面白がっているような節さえ見受けられた。
「いいや。そういうわけじゃない。……いや、ちょっとはそういう気持ちもあったかな。だがまぁ、本音を言えばおまえのことは最初から信用してる。なんせ、昔っからよく聞いてたからな。ずっと前からの知り合いみたいで、ほぼ初対面だなんて思えないぐらいだ」
「昔から?」
思わず杏寿郎がオウム返しに問うと、錆兎はまた軽く肩をすくめて忍び笑った。
「義勇はなにかっていうと『杏寿郎は年下なのにすごく頼りがいがあって格好良かった』だの『杏寿郎はお日さまみたいに笑うんだ』だの、耳にタコができるぐらいに言ってたからなぁ。たった一回きり、それもほんの十数分話しただけなのに、ずいぶん気に入られてたぞ、杏寿郎?」
からかうような錆兎の笑みに、杏寿郎の顔がカッと熱くなる。きっと頬も耳も真っ赤に染まっていることだろう。錆兎はますます愉快げに目を細めて、歓喜と羞恥にうろたえる杏寿郎を眺めていた。
「喜んでるところ水を差すようだが、最初のうちだけだぞ? 四月になるころには、おまえの名前を口にすることはほとんどなかったからな。……ま、バレンタインのたびに、杏寿郎は元気かなぁなんて言ってたから、忘れたことはなかったんだろうけど」
笑い混じりの錆兎の言葉に、杏寿郎の肩から力が抜けた。知らず眉だって下がる。持ち上げられたかと思えば落とされて、感情の振り幅についていけない。
「ずいぶんと上げて下げてが激しいな。俺をからかっているのか?」
「ジェットコースター気分で楽しいだろ? 百面相してたぞ」
いくぶん情けない心持ちで訴えても、錆兎は飄々としたものだ。快活な物言いや屈託のない笑みとは裏腹に、なんだかやけに人が悪い。錆兎の口から語られる義勇の言葉ひとつで感情が乱高下する杏寿郎の様子を、錆兎はあからさまに楽しんでいる。
「笑いごとではないのだが」
「そりゃ悪かった。話に聞くだけだった相手にようやく逢えたもんでな。ちょっと浮かれすぎた。おっと、無駄口叩いてるうちにずいぶん時間を食ったな。本題に入るか」
思わず眉を寄せた杏寿郎に苦笑すると、錆兎は表情を改め、じっと杏寿郎を見つめてきた。
「事故について、義勇が自分から話すことは絶対にない。というかな、話せないんだ。義勇は、他人と関わるのを怖がってる。自分のことを疫病神だと思い込んでるんだ。杏寿郎を気に入っているからこそ、義勇は、杏寿郎には踏み込ませようとしないだろうな」
「疫病神……? なぜ! 義勇がそんなものであるはずがないだろう!」
先ほどの羞恥とは異なる熱がカッと身を焼いて、杏寿郎は思わず激昂した。苛立ちが抑えられない。たとえ義勇本人からだろうと、そんな言葉で義勇を貶められるのはごめんだ。
怒りを隠さない杏寿郎に、錆兎は静かに微笑みうなずいた。
「うん。俺も、うちの家族も――事故のことを知ってるやつはみんな、そんなこと絶対に思ってない。だけど、義勇には、届かなかった……どんなに言い聞かせても駄目だったんだ。義勇は、事故は自分のせいだと思ってるから」
ザッと音を立てて風が吹いた。横殴りの風が杏寿郎の頬に雨を打ちつけてくる。だが杏寿郎の怒りが冷めたのは、冷たい雨粒などではなく、錆兎の言葉でだ。
「――なぜ、義勇のせいだと?」
問う声は、無意識のうちに静かなささやきのようになった。大きな声でそれを問えば、ここにはいない義勇の耳に届いてしまう。そんな気がして。
義勇自身が伝えまいとしていたことを、こんなふうに知ってしまうのには、ためらいがある。詮索するつもりなどないと言った己の口で、重ねて問う義勇の罪過――杏寿郎や錆兎が認めずとも、義勇はそう思っているはずだ――には、罪悪感を覚えもする。
だが、聞かなければ後悔する。そんな気がするのだ。
パタパタと、枝からしたたり落ちる水滴が傘を打つ音がひびく。杏寿郎の小さな声は、それでも雨音にかき消されることなく錆兎の耳に届いたのだろう。口を開いた錆兎が発した声も、どこかひそやかだった。
「……義勇も、水泳部だったんだ。小三のときからスイミングスクールに通いだしてさ、俺も同じところに入った。最初は遊び気分だったけど、小六になるころには、大会じゃいつも俺らふたりで優勝争いしてた。義勇は順位とかあんまり気にしたことないみたいだったけどな。俺と競うのは楽しいって言ってくれてたけど。義勇の泳ぎってきれいなんだよ。俺よりも義勇のほうがよっぽど水に愛されてるみたいだった」
遠くを見るような錆兎の、灰色がかった藤色の瞳には、ほのかに恍惚とした気配があった。
杏寿郎の脳裏に、青い海が広がる。義勇の瞳の色をした輝く海の波間で、花のように笑う義勇の姿が見えた気がした。
もちろん、杏寿郎はそんな光景を見たことなど一度もない。けれどもそれは、いや、それこそが、義勇のあるべき場所であり光景なのだと思った。
水のなかにいる義勇は、きっとたとえようもないほどにきれいだ。泳ぐ義勇を見たことがなくとも、わかる。絶対に誰よりもきれいだ。間違いなく言い切れる。
「スカウトもされたし、俺がもともとこの学校だったのもあって、中等部から義勇もここの寮に入ったんだ。すごい有望株が入ってきたって、コーチたちも浮かれてたなぁ。俺と義勇で、将来はダブルエースとか言われてたんだぞ? 期待と同時に、やっかまれたりねたまれたりすることも多かったけどな。だからこそ、初めての大会で絶対に好成績を残して、うっとうしい外野の減らず口をふさぐつもりだったんだ」
錆兎の声はあくまでも静かだ。言葉は軽口めいているが、声は淡々として抑揚がない。
もしかしたら錆兎も、感情を抑えなければ語ることができないのかもしれない。そんな気がする。
杏寿郎の見解を裏づけるように、不意に錆兎の声がかすれて揺らいだ。
「けど……その日だ。義勇の両親と姉さんが、事故に遭って亡くなったのは」
語られたのは、まだ十三になったばかりの杏寿郎にとっては重すぎる事実だ。たったひとつ違うだけの錆兎にとっても、いや、当事者のひとりだったぶん、錆兎の抱えた苦しさや悲しみはいっそう深いのだろう。冷静に語ることなどできないほどに。
錆兎でさえそうなのだ。では、義勇が抱えたものは――?
われ知らず息を詰め、杏寿郎は喉の奥からせり上がる不快な塊を、無理にも飲みくだした。
眩い波間で笑う幼い義勇の顔が、杏寿郎の脳裏から消えていく。代わりに浮かび上がったのは、深海のように暗い瞳をした、感情表現に乏しい今の義勇の白い顔だ。理由を知った今、美しく整ったその顔は、どうしようもなく悲しい。締めつけられるような胸の痛みに、杏寿郎の眉間には深いしわが刻まれた。
「仲がいい家族だったんだ。義勇は姉ちゃんっ子で、蔦子姉ちゃんも義勇をすごくかわいがってた。寮に入ってからはなかなか逢えなかったから、義勇は初めての大会に張り切ってたよ。小さいころから聞きわけがよくて、わがままなんて言わないやつだったけど、今度の大会は絶対にみんなで応援に来てっておねだりしちゃったって、笑ってたな。……あの日も、雨だった」
泣きたい。ふと杏寿郎は思った。けれど泣いてはいけないとも、思った。少なくとも、今はまだ。
しとしとと、雨は降る。流すまいとこらえる杏寿郎の涙の代わりであるかのように、天から零れくる雨が、頭上に広がる桜の枝葉を伝って落ちては、パタリパタリと音立てて傘を打つ。
錆兎もふくれ上がった感情を必死に抑えているのだろう。そっと目を閉じ黙り込んでいる。閉ざされた唇がかすかに震えていた。沈黙のなか、雨音だけが、やけにひびいて聞こえた。
世界から切り取られたかのように静かな校舎裏で、ふたたびそっと吐き出された錆兎の声は、苦しげにかすれて杏寿郎の耳に届いた。
「誰が悪いってわけでもなかったんだって聞いた。しいて言うなら、コンビニ袋をポイ捨てしたやつが悪い。そんな事故だったんだよ。雨だったのもよくなかった。落ちてたコンビニ袋でスリップした自転車が車道に倒れ込んだのを、迫ってたトラックの運転手は必死に避けた。その先に、蔦子姉ちゃんたちが乗った車があった。完全な巻き込み事故だ。自転車に乗ってた人も、トラックの運転手も、もちろん、車を運転してた義勇の父さんも悪くない。亡くなったのは……義勇の家族だけだった。義勇も、俺も、大会には出られなかった。それから義勇はずっと、自分を責めてる。自分のせいだ、わがままを言った自分が事故の原因だ、全部、自分が疫病神だったからだって……今も、責め続けてる」
錆兎の傘がわずかにかしいで、錆兎の瞳を隠す。白いシャツに包まれた肩が震えて見えた。
「あれからずっと、あいつが心から笑う顔を見ていない。あんなに泳ぐのが好きだったくせに、あんなに強くてきれいに泳いでたのに……今じゃもう、あいつはプールに近づくことすらできないんだ。俺じゃ……俺らじゃ、義勇を救ってやれないんだ」
寒い。われ知らず杏寿郎はブルリと体を震わせた。六月の雨は少し肌寒くはある。けれども風が弱まった今、震えるほどでは決してないのに、やけに寒くてたまらなかった。怒りがふつりふつりと胸の奥にわく。炎のように燃え立つ怒りが胸を焼いて、そのくせ体はしんしんと冷えていった。
誰を責めることもできぬ悲劇は、怒りの矛先をどこに向けたらいいのかわからない。ただ苦しかった。想像するよりほかない義勇の悲しみが、苦しさが、杏寿郎の体から熱を奪っていく。
義勇のせいじゃないと、言ってやりたい。君はなにひとつ悪くないのだと、言い聞かせたい。けれどもきっと、杏寿郎がどんなに言いつのろうと、義勇の心にはなにも響くことはないのだろう。義勇の悲しみや苦しみに寄り添うことすら、できるかわからない。
だって杏寿郎は知らないのだ。愛する家族を突然失う絶望も、笑みを忘れるほどの悲しみや罪の意識も。気持ちはわかるよなんて、誤魔化しは言えない。義勇にそんな嘘を伝えたくはない。
それでも。
「……突然、泣き叫ぶことがあったと、聞いた。それで入院していたんだと」
「あぁ……ちょっと違うな。叫んだりはしてない。でも泣くんだ。唐突にポロポロ泣いて、ごめんなさいを繰り返して……誰がなにを言っても耳に入らない。俺でも、駄目だ。そばにいてやることしかできなかった。最初は、あいつも必死に我慢してたと思うんだ。クラスメイトや部のやつらに、大丈夫って笑い返してさ……馬鹿だよな。一番つらいのは義勇だったんだから、泣きわめいたって誰も責めないのに……。けど、叔父さんたちが亡くなってから初めてのプールの日に、あいつ、怯えて泣きじゃくったんだ。嫌だ、駄目だ、みんな死んじゃうって。そのときはどうにかなだめられて落ち着いたけど、それからだな。ふとした拍子にごめんなさいって泣くようになったのは。それからだんだん食事もままならなくなってきて、眠ることもできないみたいで……うちは共稼ぎだからさ、家で養生させてやりたくても見ていてやれるやつがいなかったんだよな。それで入院して……」
綴られる言葉は独白めいていた。杏寿郎に向かって語っていると言うよりも、苦しくつらい日々の重しのような記憶を、問わず語りに削り落としているかのようにも見えた。
その声が、ふとやわらかさを帯びた。
「やっと泣かなくなったのは、今年の二月に入ったころだ。義勇の誕生日の辺りだった」
そうして錆兎は、静かに笑った。ほんの少し眉を下げた、慈しみとも、自戒ともとれる笑みだった。藤色の瞳が宿す光はやさしく、温かい。
「杏寿郎はどうしてるかなって、事故以来初めてちょっとだけ、笑ったんだ、あいつ。心配かけまいと無理して浮かべてた笑顔じゃなく、自然に、笑った。毎年、そうしてたように」
あぁ、駄目だ。このままじゃ泣いてしまう。こらえていた涙がせり上がってくるのを感じる。目の奥が熱を持って、小さな子供のように泣きじゃくりたくなる。けれど杏寿郎は、グッと唇を噛んで耐えた。
悲しいと、かわいそうだと、自分が泣いて義勇が救われるのなら、いくらでも泣こう。世界が自分の涙で埋まってすべてが海になるまで、泣いて、泣いて、干からびるまで泣き尽くしてやる。けれど、どれだけ自分が泣いたところで、義勇が救われることはないのだ。義勇はきっと、憐みなど求めてはいない。
だというのに、自分が泣いてどうする。泣いたところでなにも変わらず、なにも変えてやれないのなら、己の不甲斐なさを涙で誤魔化すな。
今はまだ、義勇の悲しみの一片ですら、心の底から共感してやれることはないのだろう。それはしかたのないことだ。自分はまだ絶望を知らない。自分にできるのは、真摯に想像することだけだ。義勇にかぎらず、人の心のすべてを理解することなど不可能なのだから、それぐらいしかできない。それでも。
寄り添うことは、許されるだろうか。手を握ってやることは、叶うだろうか。義勇は……俺が傍にいることを、許してくれるだろうか。
六月の雨は、肌寒さを伴ってしとしとと降る。いまだやむ気配はない。けれど、いつか必ず雨はあがる。雲の切れ間から光が差して、やがて、義勇の瞳のような青い空が眩しく広がるのだ。
義勇の悲しみも、いつか晴れるだろうか。自分が晴らしてやるのだなどと、考えるのは厚かましい。そこまで自意識過剰な、恥知らずになどなりたくはない。
だが、その日までそばにいてやることなら、自分にだってできるはずだ。許されるのなら――いや、そうじゃない。義勇に拒まれても、俺が離れたくないのだ。どんなに義勇がいらぬ世話だと怒ったとしても、大きな悲しみを抱えて背を向ける彼を、ひとりになどするものか。
そして、なにかひとつだけでもいい。義勇のためにできることがあるのなら、どんな困難なことでもしたい。せずにはいられない。
だって、大好きなのだ。今までも、今も、これからも。
義勇の穏やかで控えめな、小さな白い花のように愛らしい笑みが、心の底から好きなのだ。
「なぜ、俺に話す気に?」
「俺じゃ駄目だったって言ったろ? ――俺や、うちの家族じゃ、無理なんだ。泣く義勇の隣で、笑ってやることはできない。同じ悲しみに溺れる。なぁ、知ってるか? 水難者を救助するときは、抱きつかれたら駄目なんだ。一緒に溺れることになる。……距離が近すぎたら駄目ってこともあるんだよ」
杏寿郎はまだ、義勇にとっては他人だ。少しだけ盛ってもいいのなら、せいぜい友人。好意はあっても、心の距離はまだ錆兎ほどには近くはない。けれども、だからこそ救いになるのだと錆兎は言う。
距離の差は少し寂しい。口惜しくもある。だが、それこそが義勇を救うことになるのなら、それにかけてみよう。そしていつかは、もっと近く、肩寄せあって笑うのだ。義勇とふたりで。
決意が胸に大きく強い火を灯す。この火が絶えることは、きっとない。
「あぁ、しまった。もうこんな時間か」
「錆兎」
錆兎が腕時計に視線をやったのと同時に、小さな声が聞こえて、杏寿郎と錆兎はハッと顔を見あわせた。
聞き間違えるはずもない。振り返り見れば、校舎の影から顔を出したのは、案の定義勇だった。
「……杏寿郎?」
なぜふたりが一緒にいるのか訝しんでいるのだろう。傘の下で義勇の顔は、わずかに眉がひそめられていた。
「探しに来てくれたのか」
「委員会は終わってるはずなのに錆兎が来ないって、部長が言いに来た」
立ちすくむ杏寿郎の傍らをすり抜けるように走り寄り、義勇の隣に錆兎が立つのを、杏寿郎は無言で見つめた。
わきあがる様々な感情は、まだなにひとつ言葉にはならない。
「そうか、ありがとな。なぁ、俺が部活終えるまで、杏寿郎に一緒にいてもらえよ。雨の日嫌いだろ?」
錆兎の最後の一言は、ずいぶんとやさしいひびきをしていた。だが、ドキリと高揚したのは杏寿郎だけだったのだろう。義勇はますます眉をひそめてしまっている。
「……迷惑だ」
「えっ!?」
小さな声に思わず杏寿郎は声をあげた。そばにいてやるのだと心に誓ったその矢先に、迷惑だなどと言われてしまうとは。嫌がられたところで、諦める気はないけれども。それでも悲しいことに違いはない。
ショックを隠せずにいる杏寿郎を見やり、錆兎がクツクツと笑った。
「杏寿郎は迷惑なんかじゃないってさ」
「錆兎になんでそんなことがわかるんだ」
聞こえる会話に、ん? と杏寿郎は首をかしげた。傘の影で義勇の顔はよく見えないが、声は少し拗ねているようにも聞こえる。
「義勇は、俺のことが迷惑なんじゃないのか?」
「なんで?」
耐えきれず声をかければ、義勇はいかにも心外といった顔した。
「義勇は言葉が足りないからな。杏寿郎、義勇の言葉から真意を悟るのは慣れだぞ、慣れ。ちびっ子の話を聞く気持ちで、焦らず怒らず聞くのがコツだ」
「……チビじゃない。錆兎よりは、少し低いけど……健康診断じゃ杏寿郎より三センチ高かった」
わかったわかったと笑いながら、義勇の頭を撫でる錆兎の姿に、杏寿郎の胸がチリッと痛む。義勇も常の無表情とは違い、なんとはなし甘えを露わにふてくされているようにも見えた。
なんだかおもしろくない。そんな言葉が浮かんだそばから、自分の狭量さに忸怩として、杏寿郎は少し落ち込んだ。
「いいか、ひとりでいるんじゃないぞ。なんだったら、杏寿郎と一緒に先に帰ってもいいからな」
「錆兎っ」
笑って去って行く錆兎を追いかけようとしたものか、義勇もあわてたように踵を返す。杏寿郎はとっさに義勇の腕をつかみ引きとめた。考えなしに腕を伸ばしてしまったものだから、持っていたカバンがバシャリと音を立てて地面に落ちる。
「あ……」
「一緒にいよう! 迷惑なんかであるものか! 俺はもっと君と一緒にいたい! 錆兎に言われたからじゃなく、俺が、君と一緒にいたいのだ。すまない、義勇。君に拒まれても、これだけは譲れん」
義勇の腕をつかんだまま急いた声で言いつのった杏寿郎に、義勇は、束の間困惑したように視線を泳がせた。だが、やがてこくりとうなずくと身をかがめ、杏寿郎のカバンを拾い上げてくれた。
「汚れた」
「あ、あぁ、これぐらい大丈夫だっ! タオルを持ってきている。すぐに拭けば染みにはならんだろう!」
許されたうれしさに、杏寿郎の声は弾んだ。雨の当たらないところに行こうと、義勇の腕をつかんだまま歩き出す。
「……部室、カバン置きっぱなしだ」
「あぁ、義勇のカバンか。だが、水泳部の部室に部外者の俺が入るのはまずいんじゃないのか?」
「たぶん……大丈夫だと思う。錆兎が言っておいてくれると思うから」
疑いなどかけらもない声に、また胸がチクリと痛んで、杏寿郎の手に知らず力がこもる。
小さく息を詰めた義勇に気づき、あわてて杏寿郎は手を離した。近くに見えた非常口を指差し言う。
「あそこなら庇があるから雨はしのげるだろう」
胸の奥のざわめきを知られたくなくてせわしなく言えば、義勇は少し怪訝そうに小首をかしげたものの、幼い仕草でうなずいてくれた。
コンクリートの三和土に並んで腰を下ろす。狭いスペースは、くっつきあわないと座れない。肩が触れあう距離は入学してから初めてだ。初めて逢ったあの日の距離に、今ようやく、自分と義勇はいる。深い感慨にトクリトクリと杏寿郎の胸は甘く高鳴った。
畳んだ傘を並べて壁に立てかけて、なんとはなし、ふたりそろって空を見上げる。
「カバン……拭かないのか?」
「おぉ、そうだな。うっかりするところだった。ありがとう、義勇!」
差し出されたカバンを受け取り笑いかけても、義勇はいつもの無表情だ。けれどいつもよりもほんの少し、杏寿郎を見る眼差しがやわらかいような気がする。
「……あ」
「ん? あぁ、この本か」
杏寿郎がカバンからタオルを取り出すのを見ていた義勇が、かすかに声をあげた。視線の先はビニール袋に包まれた文庫本だ。
「持ち歩いてるのか?」
「無論だ! 義勇がいつ返してほしくなってもいいようにな!」
それに、義勇の持ち物が身近にあるのは、なんだかこそばゆいようなうれしさを感じるのだ。さすがに、そんなことは少々気恥ずかしくて、言えなかったけれども。
「もう読めないから、いいのに」
「読めない?」
読まないではなく読めないとは、どういう意味だろう。問い返した杏寿郎に、義勇は一瞬、しまったと言いたげな目をして、視線をそらせた。じっと見つめたまま答えを待っていると、諦めたように義勇の唇が小さく言葉をつむいだ。
「……その本を開くと、手が」
「手?」
ポツリとこぼれた義勇の声は平坦で、抑揚がなかった。思わず視線をやった手は白く、小刻みに震えている。
「義勇?」
「手が……冷たくなって、動かなく、なる」
震えているのは手だけではなく、呟く唇もいつしかおののくように震えていた。
寒いのだろうか。でも、こんな突然に? 様子がおかしい。
不安になって本をしまい込むと、杏寿郎は、気遣わしく義勇の顔をのぞき込んだ。義勇の瞳は、先までとは違って虚空を見つめ、なにも映すまいとしているようにも見えた。
「姉さんと行った古本屋で、姉さんが買ってくれた……。杏寿郎と逢った日に、あの商店街で。次の日は、俺の誕生日だったから」
「誕生日プレゼントだったのか。それならなおさら、義勇が持っていたほうがいいだろう?」
責めるつもりなどかけらもなかった。だが義勇は苦しげに眉を寄せ、フルフルと首を振る。
「ごめん……杏寿郎」
「なぜ謝るんだ? 義勇が詫びることなどなにもないぞ」
「持ってると……思い出すから、読めない。そのくせ、捨てることも、誰かにあげることも、できなかった。杏寿郎に押しつけた。ごめん」
「……そうか、これは義勇が好きな本ではなかったのか。しかし、面白かったからな! 問題はない!」
残念だと思わないわけではないが、怒りなどない。持っていることさえつらいのなら、助けになれて幸いだとすら思うのに、義勇は小さく首を振りつづけた。
「好き、だった。でも、手が、冷たくなる」
ゆるゆると義勇の手が持ち上がった。震える手に義勇の眼差しが落ちる。
「凍りついて、動けなく、なって……泣いたら、心配させるのに、涙が……出る」
たどたどしく言いながら見つめる先で、震えているその手は頼りない。幼いころよりもずっと大きくなっているのに、初めて逢ったあの日よりも、ずっと小さく、やけに儚く見える。
義勇が寒いのは、嫌だ。
思った瞬間、杏寿郎は迷わずその手をつかんでいた。ギュッと握ってやれば、義勇はゆっくりと杏寿郎に顔を向けた。
「大丈夫だ。ホラ、こうしたらあったかい」
ひとまとめに両手で包み込んでやった手は、冷えきっていた。冬のあの日と同じように。
「義勇が寒いときには、いつだって俺が温めてやろう。だから、ひとりで震えるのはやめてくれ。本だって俺がちゃんと預かっておく。絶対に汚したりしないし、なくさないと誓おう」
冷たい手を握りこんで、杏寿郎は、真剣に宣言した。
凍りついた白い手が、泣き出しそうに震える義勇が、温もりを取り戻しあの日のように笑ってくれるのなら、いつだってこの手を握ろう。杏寿郎は胸のなかで誓う。胸に強く、揺るぎなく、義勇への想いの炎が燃える。
この火で、義勇を温めてやるのだ。心も、体も、全部。自分の全身全霊をかけて、もう二度とひとりで震えて泣かないように。
つっ、と、義勇の頬を水滴が一滴、静かに零れて落ちた。青い目から流れた透明な雫は、義勇の手を握る杏寿郎の手にぽたりと落ちて、小さくはじけた。
「……杏寿郎は、あったかいな。前も、今も、あったかい……やっぱり、お日さまみたいだ」
雨ではない雫は、ほんのりと温かく。きっと、舐めとったら海の味がするんだろうなと、杏寿郎は心の片隅で思った。
雨雲に覆われた夕方の空は薄暗い。雨はやむ気配を見せず、しとしとと降り続いている。
六月の湿った空気は肌寒く、けれど、握りしめた冷たい手は、わずかな温もりを伝えだしていた。