六月中旬ともなれば、すっかりクラスメイトの顔と名前も一致して、新しい学校での生活にもだいぶ馴染んできた。校内で迷うことも、もうめったにない。
初等部から高等部までが併設された一貫校であるから、中等部の生徒は、ほとんどが持ち上がり組だ。杏寿郎のように外部から入学した者は、それほど多くない。
入学当初は、クラスもなんとなく二分していた気がする。杏寿郎が見るかぎり、クラスメイトたちは持ち上がり組と編入組に分かれて行動することが多いように感じられた。そんなクラスメイトたちも、近ごろではそれぞれの性格も知れて、小学校の別など関係なく仲のいいグループもできてきている。
杏寿郎はといえば、最初からそんなわだかまりめいた差異には頓着していない。どこから進学してこようと、同じクラスの一員であることに変わりはないのだ。気にするなんておかしな話だろう。
とは言うものの、誰に対しても平等に接しているとは、正直なところ言いがたい。だって、クラスには義勇がいるのだ。杏寿郎にとって義勇は、ほかの誰ともくらべられない、特別な存在だ。誰よりも大好きな友達である。
最初から義勇に対しては、ほかのクラスメイトとは一線を画した接し方になったのはしかたがない。そんな杏寿郎に、クラスメイトたちは少し及び腰だったような気もするが、杏寿郎にしてみれば些細なことである。誰になんと思われようと、義勇ともっと仲良くなりたいと願う心は止められないし、そのための努力だって欠かせない。
けれども、そんな努力も今のところ、実りは少なかった。
朝、出がけに見たテレビの天気予報では、とうとう梅雨入りが報じられた。それを裏づけるかのように、最近では爽やかな青空などあまり見られない。今日も空は陰々滅々とした雨模様だ。
夜半から降りつづける雨のせいか、今朝はずいぶんと肌寒い。衣替えした制服は、ブレザーなしの半袖シャツ一枚だ。吹き付ける横殴りの冷たい風に、バス停に立つ杏寿郎は、知らず身震いした。むき出しの腕が粟立っている。朝っぱらからなんとも気鬱になる天候には、さしもの杏寿郎もうんざりしてしまう。
昨夜から振り続ける雨は、ガタガタと窓を鳴らすほど強い風を伴っていて、朝になっても雨足が衰える気配はない。おかげで今朝は、離れの道場への行き来だけで、杏寿郎も父もびしょ濡れになった。風邪をひいては大変と、風呂場に直行させられもして、ずいぶんと慌ただしい朝だ。
自転車での通学も母に止められた。ようやくやって来たバスに乗ったときには、いつもなら学校に着いている時間になっている始末だ。
遅刻するほどの遅れではないが、義勇はもう学校にいるんだろうかと思うと、なんだか焦ってしまう。杏寿郎が早くに行こうと義勇は教室にはいないのだから、こんな不安は正直なところ意味がない。だが、万が一ということもある。もしも今日にかぎって義勇が部室棟に行かずにいたとしたら、会話するチャンスをみすみす逃すことになるではないか。
ジリジリと急かされる心持ちで乗り込んだバスの車内は、一転して蒸し暑い。息苦しさすら覚えるほどだ。
おまけに、バスに乗った途端に雨は小降りになり、風も弱まって見える。これなら自転車でも大丈夫だったのに。ぎゅうぎゅう詰めのバスのなかで、杏寿郎は思わずため息をついた。
あまり幸先の良くない朝だが、さて、義勇は今ごろなにをしているんだろう。揺れるバスのなかで、杏寿郎が考えるのは、やっぱり義勇のことばかりだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
杏寿郎が教室についたのは、朝のホームルームが始まる十五分ほど前だ。教室にはすでに、クラスメイトの三分の二ほどが登校していた。
「おはよう、煉獄くん。今日は遅いんだね」
「俺よりも煉獄のほうが遅いなんて、珍しすぎてビックリしたよ」
「おはよう! 今朝はバス通学にしたんでな。いつもどおりの時間に着くバスには乗れなかったのだ!」
声をかけてくるクラスメイトに明るく返しながら 自分の席に着いた杏寿郎は、隣の席に置かれたカバンを認め、今日も小さく眉を下げた。
義勇はまだ部室棟にいるんだろう。義勇と話す機会が減ってしまうかもとの不安があっただけに、不在を安堵する気持ちはなくもないが、毎度のことながらやっぱりちょっと寂しい。
ため息を押し殺し視線を窓へと転じれば、小降りになったとはいえ、空はいまだ陰鬱な灰色に染まっている。まばらにやってくるクラスメイトたちの顔も、晴れやかさとはほど遠い。
だんだんと騒がしさを増していく教室では、今月末に行われる初めての定期テストを嘆く、うんざりとした言葉ばかりが聞こえてくる。成績が悪かったら小遣いを減らされると、今からかなり落ち込んでいる生徒もいた。
成績で小遣いの額まで変わるとは、よその家は大変なんだな。
聞くともなしに聞こえてくる会話に杏寿郎が浮かべる感想は、他人事めいている。
父や母は、学校の成績を重視するタイプではない。机にかじりついて勉強するよりも、心身を鍛えることを尊び、自分の良心に悖る行いをするなと教え諭すことのほうが、よっぽど多かった。
もちろん、成績だっていいに越したことはないのだろう。だが、平均点をはるかに下回るようなことでもなければ、頭ごなしに叱られたりしないはずだ。それに、杏寿郎は毎日、予習復習だってちゃんとしている。そこまで悪い点も取るまい。成績で小遣いが変動するとも思えないので、たぶん自分は恵まれた環境なのだろう。
義勇はどうなんだろう。みんなと同じように、成績によって小遣いが減らされたりするんだろうか。だとしたら大変だな。一緒に試験勉強できたらいいんだが。
テストが近づいても、杏寿郎の胸を占めるものは、入学したときからちっとも変わらない。いつまで経っても義勇のことばかりだ。義勇が目の前にいてもいなくても、なにかにつけ思考はすぐに義勇のことになってしまう。
取り出したタオルで濡れたカバンを拭きながら、杏寿郎は、ちらりと隣の席を見やった。机に置かれた義勇の通学カバンは、きちんと手入れされているのが見てとれる。まだ新しい杏寿郎のカバンと変わらず、皮の色も艶やかで、汚れや傷などまったくなかった。
義勇の登校時間がいつもどおりなら、きっとまだ雨足は強かったはずだ。ずぶ濡れになっていないといいのだけれど。精神面への危惧からとはいえ、義勇は入院生活がそれなりに長い。たぶん杏寿郎とは体力がまるで違う。冷たい雨風に打たれれば、風邪を引くかもしれない。
カバンの水滴を拭き取りながら、杏寿郎は、義勇の頬や髪も拭いてやれたらいいのにと、ぼんやり思う。けれども義勇はまだ戻ってはこず、持ち主不在のカバンだけが、いつもと変わらずそこにある。
早朝は土砂降りだったから、義勇のカバンもかなり濡れたはずだ。けれども、こげ茶色の皮には、染みひとつ見つけられない。きっと、きちんと拭きあげてから教室を出たのだろう。持ち主の生真面目さが、カバンひとつ見てもよくわかる。
学校指定の通学カバンはどれも同じで、洒落っ気など皆無だ。クラスメイトは、先生に注意されない程度にチャームなどをつけたりしているが、義勇のカバンにはなにもつけられていない。杏寿郎も同じだ。
なんとはなし心の奥がほっこりと温かくなって、杏寿郎の唇がようやく、小さな弧を描いた。
ホームルームまであと十分。カバンの持ち主である義勇はいまだ現れない。水泳部の部室はもう出ただろうか。時間的にみて、校舎に向かっている最中かもしれない。きっと、今日も従弟と一緒だ。
従弟が在籍する水泳部の朝練にあわせて義勇は登校し、下校も水泳部と一緒だ。いつでも義勇は、従弟と行動をともにしている。
全国的にも強豪として知られる水泳部は、学校側からの期待も大きい。部員はどの部活よりも多く、越境入学だってかなり多いと聞く。運動部員専用の寮も、寮生の大半は水泳部員だ。なんとなく肩身が狭いと、剣道部の先輩がぼやいていたのを杏寿郎は覚えている。
義勇は、部には入っていない。けれども、水泳部の部室に入り浸るのを、学校側も黙認している。特別扱い。そんな言葉でやっかまれたりねたまれたりしている様子は、今のところない。きっと、持ち上がり組が多いこの学校では、義勇の事情をおおよそなりと知る者がほとんどだからだろう。
義勇の行動が許されている理由の断片を杏寿郎が知ったのは、五月初旬――奇しくも杏寿郎の十三回目の誕生日にだった。
お節介なクラスメイトが、義勇を案じる体で杏寿郎に釘を刺してきた、その日。一学年上の義勇が杏寿郎と同じ学年になった理由――義勇の家族が亡くなったことや、義勇が一時期心を病んで入院していたのを、杏寿郎は知った。
けれどもそれだけだ。どこまでが事実で、どこまでが勝手な憶測なのかすら、杏寿郎にはわからない。ましてや義勇の胸のうちなど、到底知りようがなかった。
あの日、義勇がそっと口にした言葉を、杏寿郎は今もって問えずにいる。聞き間違いだったらどんなに気が楽になるだろう。思っても、悲しい言葉は紛うことなく現実だと知らしめるように、杏寿郎のペンケースには、義勇が寄越したノートの切れ端が入ったままだ。
現実を杏寿郎に突きつける白い紙片。たった一言が書かれただけの小さな紙切れは、人から見ればゴミだと思われてもおかしくない。それでも。思い返すたび胸が痛くなる文言だろうと、義勇がくれた言葉だから、杏寿郎は捨てられない。
『頭がおかしいのは、事実だから』
なんで義勇は、あんな悲しいことを言ったのだろう。ずっと考えて頭から消えなかった疑問を、義勇自身に聞いてみようと杏寿郎が決意したのは、それから二週間近くも経ってだった。五月のとある晴れた日のことだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
杏寿郎が決意を胸にいだいたその日は、快晴だった。雲ひとつない晴れた空は青く、爽やかな風が吹いていた。
決心のきっかけなんて、とくにない。しいて言うなら、空がきれいに青かった。ただそれだけだ。
きっかけはどうあれ決意は固く、杏寿郎はけっして引くつもりなどなかった。いつものようにホームルーム間際になって教室へと戻って来た義勇に、放課後に話をできないだろうかと告げた声は、我ながら緊張していたように思う。
杏寿郎の真剣な顔から、なにがしか悟るものがあったのだろう。義勇は小さく息を呑んで、身を固くした様子で首を横に振った。
「時間は取らせないようにする。どうしても、君に聞きたいことがあるんだ」
「……俺は、話したいことなんてない」
杏寿郎が話しかけてくれるのはうれしいと言ったその口で、義勇はそんなことを告げた。
どんなにそっけなく無愛想であっても、義勇の青い海の瞳が杏寿郎を拒む色を見せたことなど、それまで一度もなかった。なのに、あのとき義勇の目は、あきらかに杏寿郎を立ち入らせまいとしているように見えた。
泣きだしそうに潤んでいるようにも、触れるなと怒りに燃えているようにも感じられる、義勇の瞳。そんなふうに感じたのは、杏寿郎だけだったかもしれない。ほかの者が見れば、きっといつもと変わりなく、義勇の瞳はなにも映し出していないように感じられるばかりだろう。とらえがたく得体が知れないと敬遠する者も多い、暗く沈んだ瞳だ。
けれどそんな様子であってさえ、義勇の瞳はやっぱり青く澄んでいた。深海を思わせる暗さをしていても、その青は、杏寿郎の目にはいつだって、なによりも美しく映る。
聞かないで。言わせないで。そんな言葉が聞こえてくるような、悲しげな瞳であってもだ。
義勇以外の人だったのならば、なぜだと強固に問いただすこともできただろう。いや、絶対にそうしたはずだ。けれども杏寿郎は、なにも言えなくなった。
決心が鈍るなんて、生まれてはじめてだった。
一度決めたことは、なにがあろうとやり抜く。たかだか十三年の人生であっても、一度としてその信条を覆したことがないのは、少なからず杏寿郎にとっては誇りであったというのに。
なのに、どうしても、義勇を問いつめることはできなかった。そんなことしたくない。そう思ってしまった。
だって、義勇にはいつでもやわらかく笑っていてほしいのだ。悲しい思いも、つらい思いも、してほしくはない。ましてや、ほかでもない自分が傷つけてしまうなど、言語道断だ。
杏寿郎は、自分が問いただすことで義勇が泣いたのなら、涙を拭って笑わせてやるのだと思っていた。義勇が笑顔を取り戻すためなら、なんだってする。そう決意もしていた。
断念せざるを得なかったのは、違うと思ったからだ。
もちろん、知りたい気持ちは消えない。義勇のことならば、なんだって知りたい。けれども、そのために義勇の心を無理やりこじ開けるのは駄目だ。それは違う。そんなの本末転倒もいいところじゃないか。
義勇の瞳がきれいなのは、義勇の心がきれいだからだ。どんなに悲しみに彩られていようとも、義勇の心はきっと、瞳と同じく澄んでいるからこそ美しい。自分が知りたい一心で、踏み荒らしていいはずがない。
しょんぼりと眉を下げ黙り込んだ杏寿郎から、義勇の視線がぎこちなく外された。
ホームルームが始まって、いつもと同じ一日が繰り返され、そうして、六月の末も近づいた今も、それは変わらずにいる。
だが、あきらめたわけではない。義勇に以前のように笑ってほしい気持ちは、なにひとつ揺らいではいないのだ。
焦るまい。杏寿郎は自身に強く言い聞かせる。繰り返し、何度でも。
どんな長雨でも、いつかは晴れる。夜のあとには必ず朝がおとずれるように、冷たく降り続く雨もいつしかやんで、晴れた空が一面に広がるのだ。だからきっと。いつかは、きっと。
思いながら見る窓の外は、雨が降っている。
今日は義勇と少しぐらいは会話できるだろうか。ちょっとでいいから、笑ってくれたらいいのに。雨に濡れて風邪を引いたりしなければいい。
願い、思うのは、義勇のことばかり。
騒がしさを増していく教室に、義勇は、まだこない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
この学園は中高問わず、毎週火曜の放課後には、委員会がある。杏寿郎は体育委員で、クラス代表の委員長だ。中等部一年の委員長には、初等部から持ち上がりの生徒が就くのが常らしいが、体育委員長は満場一致で杏寿郎に決まった。どうやら声の大きさが決め手だったようだ。体育の授業で体操や集合の掛け声をかけるのは、基本的に体育委員長の務めだから、杏寿郎が適任ということなのだろう。
校則で、中等部以上の生徒は原則的に、全員なんらかの委員会に入ることになっている。義勇は図書委員になった。委員長ではない。月に一度、当番で図書室に行くことになってはいるが、それ以外で、義勇が委員の仕事をしているのを杏寿郎が見たことはない。ほかの委員と行動をともにしているところも同様だ。義勇はいつだって一人で図書室へと向かう。
正しくは、ほかの委員が義勇に声をかけない。気にならないわけではないが、べつにいじめや無視をされているようには感じられないから、杏寿郎も声をかけあぐねている。ひとつ年上ということもあるし、なによりも義勇自身が近寄りがたい雰囲気をまとっているものだから、大人しい生徒が多い図書委員たちは声をかけづらいのだろう。学級委員でもない杏寿郎が、無理に強いるというわけにもいかない。
きっと今日も義勇は、帰りのホームルームが終わったら部室棟にいくはずだ。結局、今日も会話らしい会話もなしに、授業が終わる。予想のうちだけれど、がっかりとしてしまうのはしょうがない。
落胆のなかで杏寿郎が思い起こすのは、入学して初めて、義勇と二言以上の会話を交わせた日のことだ。
入学して一週間ほど経ったその日、ホームルームの議題は委員決めだった。朝のホームルーム前や昼休みの教室に義勇がいない理由が、ようやく判明したころの話だ。
どんなに話しかけても、義勇はいつでもそっけなくて、質問に返される言葉も断片的な一言でしかない。しかも、どんなに杏寿郎が頑張って話しかけても、一日のうちに一度だけ返してもらえればいいほうなんて有り様だ。
それでも話しかけないなどという選択はさらさらなく、その日もホームルームが終わるなり杏寿郎は、会話の糸口を求めて義勇に問いかけた。
「義勇は図書委員か。もしかして、本が好きなのか?」
返ってきた義勇の答えは「嫌いじゃない」だ。好きと嫌いじゃないでは意味が異なると思うのだが、それでも答えてくれたことに違いはない。話を広げるべく、杏寿郎は勢い込んで言葉を重ねた。
「どんな本が好きなんだ? 俺も君のお薦めならば読んでみたい!」
杏寿郎は、読書を苦手としているわけではないが、本音を言えば体を動かすほうが好きだ。読むのも、小説よりも図鑑や指導書が多い。父の教えを優先しているが、それでも剣道に関する本を目にしたときには、一度は目を通すようにしている。娯楽としてより、勉学や向上のためにというのが、杏寿郎の読書傾向だ。
でも、義勇が好きな本ならば、どんな内容だろうとちっとも苦じゃないだろう。それに義勇だって、好きな本の話題なら会話に乗ってくれるかもしれない。
共通の話題ができればありがたいと、期待に心浮き立たせて言った杏寿郎に、義勇は珍しくも考え込むそぶりをみせた。
少し目を伏せて黙り込んだ義勇の顔は、無表情ではあるが、なんだかずいぶんと真剣なようにも見える。
そんなに考え込んでしまうようなことを言っただろうか。ちょっぴり不安にもなったが、話しかけて思案の邪魔をするのは忍びない。杏寿郎の言葉を真剣に受け止めてくれている証明のようで、うれしくもあった。
それに、考え事をしている最中なら、じっと見つめていても気づかれずに済む。
真白い磁器のように滑らかな頬や、少し伏せられた長いまつ毛が目元に落とす影。艶やかなサクランボみたいな小さめの唇なんかをすべて、余すことなく眺めていられるのだ。義勇の顔は、いつまで見ていたって飽きやしない。義勇のすべてが、杏寿郎の目には眩しく、好ましく映る。
部室棟に向かうのすら忘れていたのか、掃除当番が「おまえら邪魔っ、掃除すんだからどけよ」と声をかけてくるまで、義勇はずっと黙り込んだまま熟考していた。
結局答えを聞けぬまま、義勇はあわてた様子で立ちあがり、カバンをつかむと杏寿郎に「ごめん」と小さく謝って教室を出ていった。あれは返す返すも残念だった。
けれど、残念なことばかりではなかったのだ。
ここはテストに出るぞとの台詞が多くなった授業がすべて終わり、帰りのショートホームルームも終わってしまえば、義勇は、いつもと同じく静かに教室を出ていく。今日もひとりでだ。
「義勇! また明日!」
杏寿郎が言えば、こくりとうなずいてくれる。それだけでもいいかと杏寿郎は思っている。いや、本音を言えばもっと一緒にいたいのだけれども、焦るのはやめた。
一緒に部室棟に行こうと誘うのも、もう諦めて久しい。義勇は二年の教室に向かってから、従弟と連れ立ち部室棟に行くのだ。その習慣は今のところちっとも変化がない。
中等部の部室棟はふたつあり、位置はそれなりに離れている。水泳部の部室は屋内プールに近く、杏寿郎の入った剣道部は当然のことながら道場に近い。まったくの逆方向だ。誘ったところで、一緒に行けるのは昇降口まででしかない。
それに今日は火曜日だ。委員会がある。委員長は必ず出席しなければならないから、杏寿郎は部活も休みだ。
席に着いたまま杏寿郎は、廊下をいく義勇の背中を視線で追った。白いシャツの背中はすぐに見えなくなり、杏寿郎は小さくため息をつくと、カバンからビニール袋に包まれた一冊の本を取り出した。
それはとても古い文庫本だ。奥付には一九六九年発行とある。小口は日焼けし、ページ全体も薄茶色く染まっていた。
『パール街の少年たち』
そんなタイトルが書かれた表紙も色あせて、潔癖症の者ならば、触れることさえためらいそうな本だ。
それでも、持ち主がこの本を大事にしてきたのは間違いないだろう。経年劣化のほかには、傷や汚れはひとつもない。大切に扱われていたことは疑いようがなかった。
「……杏寿郎が気にいるか、わからないけど」
いつもよりも少し早く教室に戻ってきた義勇が、席に着くなりそんな一言とともに差し出してくれた本だった。
委員を決めるホームルームがあった翌朝のことだ。
「これが義勇のお薦めなのか!」
「杏寿郎は、好きじゃないかもしれない。つまらないと思ったら、読まなくていい」
そればかりが気になるようで、義勇はためらいがちにうつむいていた。
「そんなこと絶対にするものか! 義勇が一所懸命考えてえらんでくれた本だ! 大事に読ませてもらう!」
嘘なんかひとつもない。少しでも乱雑に扱えば、ページが落ちてしまいそうに古い本だ。ギュッと抱きしめたくなるのをこらえて、杏寿郎は声を弾ませた。うれしくて、幸せで、しょうがなかった。我慢しなければ、それこそ本を抱きしめ飛び上がってしまいそうなぐらいに。
だってきっと義勇は、どんな本なら杏寿郎が楽しめるのか、一所懸命考えてくれたに違いないのだ。自分が好きなだけではなく、杏寿郎が楽しめるものを。生真面目に、誠実に悩んでくれたはずである。そうしてえらんでくれた一冊だ。けっして疎かになどするものか。
真剣に言った杏寿郎に、義勇はひとつ小さくまばたきして、こくりとうなずいた。微笑んでこそくれなかったものの、青い瞳はどこかうれしそうだった。
それは四月の出来事だ。今はもう六月も末に近い。だというのに、いまだこの本を杏寿郎が借りたままなのは、義勇が返さなくていいと言ったからだ。
すぐにでも義勇と話がしたくて、借りた本は一晩で読み終えた。
朝のホームルームが終わってすぐに、ありがとう、面白かったと笑って杏寿郎が差し出した本を、義勇は受け取ることなく首を振った。
「杏寿郎が持っていてくれ」
「なぜだ? この本はかなり大切にされているようだが、いいのか?」
「俺は……もう何度も読んだから」
義勇からのプレゼントだと思えばうれしいが、そう言った義勇の態度には、なんとはなし痛みをこらえているようなぎこちなさがあった。本音ではない。なにかを隠している。そんな気がした。
だから杏寿郎は、ならば義勇がまた読みたくなるまで俺が預かることにしようと笑ったのだ。
それから毎日、杏寿郎はこの本を持ち歩いている。義勇の大切な本だから、汚すわけにはいかない。濡らすなどもってのほかだ。だから雨の日には必ずビニール袋に入れている。
今日も差し障りのない言葉ばかりになってしまったから、この本を返す機会もなかった。思い返せば、一言きりの返答ではない会話も、あれきりだ。出逢った日のように屈託なく話ができる日など、いつになるやら。現状、杏寿郎には見当もつかない。
もう一度ため息をついて、杏寿郎は丁寧に本をカバンに戻した。
義勇が貸してくれた『パール街の少年たち』は、モルナールというハンガリーの作家による児童文学である。モルナール自身の子供時代の体験が元になっていると解説にはあった。杏寿郎の読書傾向からすれば、生涯読むこともなかったかもしれない話だ。
遊び場となる広場をめぐって対立した二組の少年たちの、争いのなかでの友情や正義が生き生きと描かれた物語は、義勇が薦めてくれたからというばかりでもなく、面白かった。小説も悪くないなと素直に思いもした。
少年たちの幼くとも真剣な戦いは、大人の目には戦争ごっこでしかないと馬鹿馬鹿しく感じられるかもしれない。女子が好む本でもなさそうだ。けれども登場人物たちの年が近いこともあり、杏寿郎はワクワクと一気に読んでしまった。
争いごとは嫌いだが、戦う意義ならば杏寿郎にも共感できる。結末の意外さには驚きもしたが、胸に迫るものがあったのは確かだ。
なぜこの本を義勇が選んだのかはわからない。物静かな義勇も、この物語に心高ぶらせたのだろうかと思うと、少しだけ意外な気もする。いずれにしても、義勇が読んだ本を自分も楽しめたのは、嘘偽りなくうれしかった。
休み時間のたびに興奮した声で感想を告げる杏寿郎の言葉を、義勇は無言で聞いてくれた。応えはなかったが、それだけでも格段の進歩に感じたものだ。
あの日の義勇の眼差しは、常よりもやわらかく温かかったように思う。
いつか、義勇自身の感想も聞かせてくれるといいのだが。
そのときには、借りている本も返せるだろうか。預かっておくのはかまわないし、信用されているのだと思えばうれしくもある。とはいえ、大事にしていた本ならば、いずれは義勇に返すべきだ。それまでに、できれば同じ本をどうにか手に入れたいと思っているのだけれど、古すぎるせいかなかなか見つけられない。
違う出版社から出ているものならば見つかったが、どうしようか。おそろいが欲しいなんて、そんなことを言ったら義勇はあきれるだろうか。
近づくテストよりも、よっぽどそちらのほうが杏寿郎には気がかりだ。
だが、どんなに頭のなかは義勇で占められていたとしても、責務はきちんと果たさなければならない。成績にはうるさくなかろうと、父や母に学費を出してもらっているからには、学業をおろそかにするわけにはいかないのだ。委員長に選んでくれたクラスメイトたちに対してだって、おざなりな仕事をするなど申しわけない。責任もって務めを果たすべきだろう。
ふぅっとまたひとつ軽く息を吐きだすと、文庫本をしまったカバンを手に、杏寿郎は立ち上がった。
雨はまだやみそうにない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
委員会が行われる教室に杏寿郎が入ったときには、すでにほとんどのクラスの委員長が着席していた。ぼんやりしているうちにかなり時間が経ってしまっていたようだ。
体育委員長は、学年を問わず運動部に在籍している者が多い。剣道部の先輩もふたりほどいる。杏寿郎の顔を見て、先輩たちが小さく手を振ってくれた。先輩たちの近くの席はすでに埋まっている。いつもなら剣道部員で固まって座るのだけれど、自分が遅れたのだからしかたない。先輩に会釈を返し、杏寿郎も空いた席に着いた。
部員数が多いわりに、委員長のなかには水泳部はひとりしかいない。委員会に出席する時間も惜しいと考える者が多いのだろう。唯一の水泳部員は二年生の先輩だが、今日はまだ来ていないようだ。
水泳部員ならきっと部室での義勇のことを知っているだろう。聞いてみたいと思いつつも、義勇のいない場所で探るような真似をするのはいかがなものかとの逡巡もあり、いまだに親しく話したことはない。
「全員集まったか?」
指導教師が声をかけてきたのと同じくして、バタバタと騒がしい足音が近づいてきた。間を置かずガラリと開いたドアから「すみません、遅れました!」との声とともに飛び込んできたのは、宍色の髪をした男子生徒だ。
「なんだ、鱗滝。おまえ委員長じゃないだろうが。それと廊下は走るな、水泳部エース。顧問の先生にチクるぞ」
「うちの委員長、今日は風邪で欠席なんで代理です。途中までは早歩きだったんですけど、時間になりそうだったもので。走ったのはちょっとだけだから、見逃してくださいよ」
教師のあきれ声にも悪びれず、笑って答える生徒の名に、杏寿郎の胸がドキリと大きな音を立てた。
その名前は知っている。顔も、うっすらと見覚えがあった。
義勇の顔ほどしっかり覚えていたわけではないが、一度だけ逢ったことがある。あの宍色の髪はちゃんと記憶に残っていた。間違いない。義勇の従弟だ。
錆兎。あの日、たしか義勇はそう呼んでいた。
カラリと笑う快活な笑顔は好ましい。だが、義勇はあの先輩と常に一緒にいるのだと思うと、なんだか胸の奥がザワザワとして、知らず杏寿郎は鱗滝から視線を外せなくなった。
空いた席を探してか、鱗滝がキョロキョロと教室を見まわした。じっと見すえていたせいか、すぐに視線が合った。
杏寿郎の眼差しに、鱗滝はわずかに怪訝そうな顔をしたが、すぐに眉を開きパチリとまばたきした。二ッと笑った意味を悟ったのは、迷う素振りなく彼が杏寿郎の隣に座ってからだ。
「なぁ、おまえ煉獄杏寿郎だろ?」
「なぜ、俺の名を?」
「義勇から聞いた。一度だけ逢ったことがあるよな」
話し合いが始まったからか、鱗滝はひそひそと声を潜めて話しかけてきた。杏寿郎を見やる眼差しは、楽しそうにも、杏寿郎を見定めているようにも感じる。
「義勇が迷子になったときですね。義勇は、俺の話を鱗滝先輩にするんですか?」
「敬語じゃなくてもいいぞ、杏寿郎。部活が同じわけでもないし、義勇のことは呼び捨てなのに俺だけ先輩呼びってのも、なんだか落ち着かないからな」
「わかった。では錆兎と呼ばせてもらう」
杏寿郎も声を抑えて返したが、内心の高揚は抑えがたかった。自分のことを家で義勇が話してくれているというのは、うれしい。心が躍る。だが同時に、鱗滝――もとい、錆兎に、義勇が自分のことを話している姿を想像すると、なんだか胸の奥がモヤモヤとしてしかたがなかった。
錆兎と義勇の仲の良さは、杏寿郎だってよく知っている。初めて逢ったときだって、錆兎の顔を見た瞬間、義勇は迷いなく杏寿郎の手を放して駆けて行ってしまった。今では同じ家に住んでいるはずだし、登下校だって一緒だ。杏寿郎と義勇の関係とは、ずいぶんと違う。
杏寿郎は、義勇と出逢ったときにはたった一度きり十数分話しただけだったし、クラスメイトになれた今だって、顔をあわせるのは教室でだけだ。会話は常に杏寿郎が話しかけるばかりで、義勇はほとんどしゃべってくれない。昼休みも、義勇は錆兎と一緒に食べているし、錆兎と比べたら、杏寿郎が義勇と過ごす時間なんてほんのちょっぴりだ。
あまりの落差にズンッと落ち込みそうになるが、負けるのはごめんだ。自分でもなにと戦っているのかよくわからないが、視線を外したら負けだという気がする。
じっと見つめてくる錆兎の視線を、杏寿郎も真っ向から受けとめた。見定められているのだとしたら、自分からそらすわけにはいかない。凛と背筋を伸ばし、杏寿郎は、錆兎の反応を静かに待った。
見つめあったのは一分にも満たなかっただろう。クッと喉の奥で忍び笑う声がして、先に錆兎が視線を外した。
「話は後でな」
錆兎は教壇に視線を向けたまま、杏寿郎を見ずにささやいた。
杏寿郎の喉が、知らずコクリと鳴る。
錆兎が杏寿郎と話をしたいと言うのなら、目的はきっと、義勇のことにほかならない。
義勇にかかわるな。それとも、義勇をよろしく? 錆兎の目的はどちらだろう。
宣戦布告か、それとも義勇を守るため──義勇を偏見の目で見る輩がそれなりにいるのは、杏寿郎も知っている──共同戦線でも張るつもりなのか。
どちらにせよ、味方にできれば心強い相手だろうが、敵に回ればこれ以上ない難敵であるのに違いはない。なにしろ義勇との距離は、杏寿郎よりも錆兎のほうがぐんと近いのだ。ともに過ごした年月ときたら、くらべものにならない。
緊張に武者震いしつつ、杏寿郎もまっすぐ前を見据えた。
ちらりと横目で杏寿郎を眺めた錆兎が、目元だけで薄く笑ったのには、気づかなかった。