義勇が初めてその『お兄ちゃん』に逢ったのは、小学一年生のときだった。
父の勤め先の、重要な取引相手だという人からの誘いだった。そろそろ夏の兆しが感じられる、汗ばむ日のことだったのを覚えている。
取引相手のお偉いさんには、小学六年生の一人息子がいるのだが、体が弱くほとんど学校には通えていないのだという。陽射しすら体に毒らしく、滅多に外には出られないとの話だった。
友達になってやっておくれと大人たちに笑いかけられて、当時の義勇は、とまどいとわずかな反発を覚えた。錆兎や真菰と一緒にゲームをする約束をしていたのにと、少しだけふてくされたものだ。けれど、外で遊べないなんてかわいそうだなと思ったのも事実だった。
行きたくないとは言えなかった。父に頼まれたのもあるが、大好きな姉に、行ってあげなさいよと言われたのも大きい。夏休み前の日曜日。本当は嫌なんだけどという心中を押し隠して、 父に手を引かれて訪れた屋敷は大きく、彼の部屋は離れにあった。
当時は、鬼舞辻という名のその家が、日本でも有数の富豪として知られているなど、まったく興味がなかった。それでも、屋敷の主である鬼舞辻家当主に、自分の父親が腰を低くしているのを見れば、幼子であった義勇も委縮するのは当然だったろう。本当は来たくなかったなど言えるわけもなく、広大な庭を歩き離れに向かう義勇の足取りは重かった。
母屋から比べればかなりこじんまりとはしているが、それでも立派に一軒家と言っていい離れは、陽をさえぎるような木立に囲まれていた。生活のすべてを離れで賄えるようにと建てられたらしく、思い返せばそれは、豪華な鳥かごのようでもあった。
すべてが揃っているということは、ここを出る必要も一切ない。学校にもろくに行かないのなら、閉じ込められているのと同義だ。
当時の幼い義勇には考えつきもしないことではあったが、なにがなし不快な意図は感じとれ、ますます気鬱になったのを覚えている。
陽射しをあびることができない彼のために、窓という窓には分厚いカーテンが引かれていた。暗い家のなかは、いよいよ不吉な感じがして、臆病心まで生じてきた義勇の前で開かれたドアの先に、彼はいた。
ベッドサイドのランプの灯りだけがともされた薄暗い部屋で、彼はひとりベッドのなかで本を読んでいた。来訪者たちをちらりとうかがい見ただけで、その顔はすぐにまた膝の上の本へと向けられる。
「冨岡義勇くんだよ、無惨。小学一年生だ。かわいがってあげなさい」
押し出されるようにして義勇が前に進み出たとき、ようやく彼の顔がこちらへと向けられた。
義勇を見据えた瞳は、燃える夕焼けのように紅かった。
「よくそんな気持ちの悪いものを飲めるな」
心底嫌そうに眉を寄せ、無惨は蔑むような視線を向けてくる。ひどい言い草と態度だが、これぐらいでは腹も立たない。いつものことだ。
「最近寝つきが悪い」
「だからといって、そんなものを飲むな。まずくなる」
それならしなければいいだけだろう。言い返す代わりに、義勇は無言でカップをかたむけた。
ほんのりと甘いホットミルクに、少しだけ脱力感を覚える。幼いころから、寝つけない義勇に姉がいれてくれたのは、これだった。
熱すぎない程度に温めたミルクには、ティースプーン一杯分のはちみつ。
感じる安堵は郷愁なのか、それとも条件反射か。早くに亡くした母も、いつもこれを入れてくれていたというから、記憶にはなくとも体が覚えているのかもしれない。
舌打ちせんばかりに睨みつけてくる視線は無視だ。歯を磨けば文句はないだろう。世話になっているのは確かだが、隷属しているわけではないのだ。飲みものひとつすら選べないような立場なら、とっくに逃げ出す策を講じている。
そうせずここにいるのは、義勇が無惨と同等の物言いをすることを、無惨が認めているからに他ならない。
イライラとした様子を隠しもしない無惨は、それでも義勇のカップが空になるのを待つつもりでいるようだ。腹立ちを露わにするとき、無惨の紅い瞳は色濃く光る。地獄の猛火とはこんな深紅をしているのだろうかと、焼き尽くさんとばかりに睨み据える瞳に、幼いころは怯えることもままあったが、今ではすっかり慣れてしまった。
ことさらゆっくりとミルクを飲み干し、義勇はわれ知らず小さく吐息した。それを合図ととらえたのだろうか。無惨の腕が伸びてきて、有無を言わせず引き寄せられる。
「カップを洗っていない」
「そんなもの放っておけ。私をこれ以上待たせる気か」
傲岸不遜な声音に、義勇はわずかにまつ毛を伏せただけだった。
ふと、無惨の目から苛立ちが消えた。代わりに浮かんだのは、いっそ無邪気と言ってもいいような稚気に富んだ笑みである。
思わず義勇の眉根が寄る。
無惨の怒りは今更どうでもいいが、こういう笑みはよろしくない。またぞろろくでもないことを考えついたのだろう。
そしてそれは、往々にして義勇にとっては災難としか言えぬものだった。
「そんなにホットミルクが好きなら、いくらでも飲ませてやる」
別にいらない。そんなに大量に飲むようなものじゃないだろう。
そんな言葉は、義勇の口から発せられることはなかった。なにを言い出すんだかとの疑問も、すぐさま霧散した。
紅い瞳が淫靡に煌めく。視線ひとつで次の意図を察することができるぐらいには、義勇が無惨とともに過ごした時間は長い。
感情を乗せぬ目で無惨を見返せば、知らず義勇の唇は薄く開かれ、かすかに吐息がこぼれた。それはあきらめのため息だったのか、それとも期待が誘ったものなのか、義勇にもわからなかった。
光を嫌うくせに、こういう時、無惨は寝室の灯りを落とそうとしない。皓々とした明かりのもとでおこなわれる行為は、義勇にしてみればふざけるなと舌打ちしたくなるほど、屈辱的だ。だが、そこに愉悦がないとは、言いきれない。羞恥と屈辱は、義勇の官能を高める。嫌だと拒もうとも、体の反応は薄暗がりのなかでの行為より顕著であるのは、認めざるを得なかった。
まったく、どうして快感というやつは自分の意思ではままならないのだろう。
調教などという言葉を用いたくはないが、しつけられていることは否めなかった。無惨の指に、唇に、ともすれば吐息ひとつにさえ、感じ入り身悶えるようこの体はできている。ともに過ごした月日のなかでそうなるように育てられた。
「舌がお留守になっているぞ。飲みたいんだろう?」
熱いミルクが。
ククッと喉の奥で笑いながら見下ろしてくる無惨を、義勇はギンッと睨みつけた。しかし、息苦しさと快感に潤んだ瞳では、無惨でなくとも怯む者などいないだろう。
小学生のころには枯れ枝のように細いばかりだった無惨の体は、成人して数年経った今、すっかり逞しくなった。ずっと剣道に勤しんでいた義勇とくらべても遜色ないどころか、今では義勇を抱きあげようとびくともしない。
ここで反論したところで、行為の時間が長引くだけだ。義勇は目を伏せると、口にしたそれをキュウッと頬がすぼむほどに吸い込んだ。
そのまま少し顔を前後して、咥えた熱を唇でしごく。無惨の手が髪に差し入れられ、やんわりと頭をなでてきた。どうやらお気に召したらしい。
いい子と褒めるように撫でつづける手にうながされ、義勇は一度口を離すと、深く息を吐いた。流れ込む酸素に安堵する間もなく、黒々とした茂みから屹立する熱棒の根元に唇を寄せる。
鼻先を縮れた茂みにこすりつけるようにして、ゆるゆると根元をなめ擦った。ベッドに膝立ちになる無惨の足のあいだにもぐりこむようにして、上目遣いに見上げれば、無惨は薄く笑い返してくる。
屹立の下にぶら下がる肉の袋に音をたてて口づける。己にもある器官ではあるが、毎度のことながらこの光景はなんとも間が抜けていると義勇は思う。
ぶらぶらと揺れるそれを口に含んで、飴玉のようにしゃぶれば、キュッと縮こまり固くなるのを感じた。それはどこか楽しい気がしないでもない。
ここだけでは不服だろうと、チュパチュパと故意に音をたてながらなめつつ、義勇は、すっかり育ちきった熱棒をそっと握りこんだ。
先端から滲みだしたぬめりの助けを借りて、ゆるゆると手を動かせば、ビクンと手のなかで小さく痙攣する。楽しい。そんな言葉が浮かぶのを心のどこかで感じる。次第に夢中になり、まるで子どもが手遊びに熱中するように、義勇は無惨の熱を高めていった。
その行為は、義勇自身の体にもなぜだか熱をこもらせる。
慣らされた体は、どこもかしこも無惨の体温や感触を覚え込んでいた。今、この手のなかにある熱が、どれほどの快感をもたらすのか。それを嫌というほど、義勇はもう知っている。
十五になったその日から、毎日のようにおこなってきた行為だ。義勇がどれだけ反論しようとも、体は無惨のもたらす悦楽を待ちわびてしまう。
はぁっと熱い吐息をもらし、義勇は知らず無惨を見上げた。熱棒から手を離し、犬のように四つん這いになると、見上げたまま舌先だけでぬれた肉のかたまりをなめたどる。ゆっくりとじれったいほどに上へと移動し、頂きまで上り詰めると、零れる透明な雫をチュッと音立てて吸い取ってみせた。
そのあいだも、視線は無惨の紅い瞳から逸らさない。
挑発にも見えるだろうその行動に、無惨の笑みが淫蕩さを増した。
「おまえは本当にこれが好きだな、義勇。そんなにおいしいのか」
蔑むように見下す視線ではあるが、そこに宿る熱は無惨にも隠しようがないのだろう。
応えず薄く開いた唇から舌先をのぞかせて、義勇は、ちろりとなめらかな先端をなめあげた。
ご託はいいからさっさとよこせ。訴えは、口にせずとも無惨にはしっかりと伝わったらしい。やさしく髪をなでていた手が、いきなり手荒な仕草で髪をつかむと、仰のけさせた義勇の顔にぬれた肉の棒をなすりつけてくる。
思わず開いた唇のあいだに、熱いそれをねじ込まれて息がつまった。
喉の奥をつくように腰をグラインドされるたび、苦しさに嘔吐きそうになる。無意識に眉根が寄り、生理的な涙が目尻からこぼれた。
ブルブルと強張る体が震える。ギュッとシーツを握りしめた。グッと押し込められた熱に喉をふさがれ、熱いしぶきが喉の奥へと叩きつけられたことを知る。
反射的に逆流しそうになる胃液を許さずに、無惨は、義勇がすべて嚥下するまで小さく腰を押しつけつづけた。
それはおそらくはほんの一分ほどの行動だろう。けれども義勇には、数十倍にも長く感じられた。
ようやく腰を引いた無惨に、義勇の口からずるりと肉のかたまりが抜きだされる。思わずカハッと咳き込むと、再び無惨の手はやわらかく義勇の髪に触れた。
泣く子どもにするように頭をなで、そのまま指先が涙のたまった眦をぬぐう。それは数瞬前の身勝手な動きが信じられぬほどに、やさしい。
やさしいなんて、この男には最も不似合いな言葉だろうに。
「感想は? これが飲みたかったんだろう?」
馬鹿馬鹿しい。即座に浮かんだ言葉は、けれど口にはしなかった。頬を包む手のひらに、猫のように頬ずりしてちらりと視線だけで見上げれば、どこか幼げな仕草で無惨の目がまばたいた。
不毛なやり取りよりも今は、体の奥でくすぶる熾火を燃え上がらせてくれ。
言葉にしない願いは、懇願よりも命令に似ている。そんなことを思う自分こそが、馬鹿馬鹿しいと思う。
隷属ではないと口では言おうと、誰の目にも自分は無惨に囚われた愛玩用の鳥だ。精々無惨を楽しませるべく、淫らな声をあげつづけるだけの存在なのだろう。問うたことはないが、誰もがそう義勇の立場を位置付けていることは理解していた。
あの暗い離れの家を出て、無惨がこのマンションに居を構えたその日から。
まだ幼さの残る義勇が、ここで無惨とともに住むことを定められた、その日から。
きっと自分は飛ぶための羽根をもがれた、愛玩用の鳥になったのだ。
羽ばたきに羽を広げ、喉も切れよとさえずろうと、自由に空を飛ぶことは許されない。そんなちっぽけな鳥だ。
だが、それを受け入れたのは自分で。
この関係から逃げ出さないのも、自分の意思だ。
ねだる瞳に乗せた命令に、無惨は笑いながら従った。子どもにするように義勇の両脇に腕を差し入れ起き上がらせると、頬に、耳元に、小さなリップ音をたてて口づけてくる。
甘やかすその仕草に、トクリと胸が小さく弾むなんて、本当に馬鹿げている。
「おまえは本当に愛らしいな……私の空、私の海……私だけの青」
義勇の瞳をのぞき込んでくる赫い目は、笑みにたわんでいる。けれどそこに孕まれた灼熱は、どこか狂気めいて義勇を射抜いていた。
静かに重ねられた唇。きっとろくな味はしないだろうに、無惨はためらいなく舌を差し入れ、絡めてくる。
脳裏の片隅でそれに安堵する自分を感じながら、義勇はそっと無惨の腕にすがって目を閉じた。
多分、すべては無惨の手のひらの上の出来事だったのだろう。姉のイギリス留学が決まったのと前後して、父のロンドン支社への栄転が告げられた。そのとき、義勇は十五歳だった。
初めて逢ったときは、ろくにベッドから起き上がることもできない脆弱な体に苛立っていた無惨は、月日を追うごとに少しずつ丈夫さを得ていた。
学校には結局ほとんど通わなかったようだが、博識ぶりは同じ年ごろの子どもとは比べものにならない。毎週必ず遊びに行くことを命じられたときには、落胆を禁じ得なかった義勇ですら、無惨と話すのが段々と楽しみになっていたぐらいには、無惨は義勇の知らない様々な知識を与えてくれた。
無惨から聞きおよんだことを錆兎たちに披露するたび、感心されるのは心地好く、義勇が日曜日を待ちわびるようになるまで、さほど時間はかからなかったように思う。
そして日曜日がくるたびに、陽射しをその身にあびることができない無惨は、義勇の頬をなでながら飽きもせず口にしたものだ。
「おまえの目は、空の青で、海の青だな。私だけの空、私だけの海だ」
じっと見つめられるのは照れくさく、けれども、ガラス細工に触れるような手つきでなでられるのは、フワフワと心が浮き立つような心地がした。
十五歳にもなれば、そんなやり取りがどこか異常だと気づいてもよかったのだろう。だけれど、義勇は無意識に、それを考えまいとした。
無惨とともにいることは、もはや義勇にとっては当たり前のこと過ぎて、離れるなど考えられなかった。
それでも大人になれば自然とこんなやり取りもなくなるのだろうと、漠然と思っていたが、義勇が中学を卒業すると同時に日本を出ることになった父と姉に、それは思ったよりも早く訪れたことを思い知らされた。
「……もう、ここへはこられないと思う」
離れの無惨の自室で、いつものように頬をなでられながら小さく告げた義勇に、無惨はわずかに眉をそびやかしただけだった。引き留める言葉も、残念だと嘆く言葉も、無惨の口からは出てこない。
あぁ、この時間が終わるのを惜しんでいるのは、俺だけだったのか。
そんな落胆が、義勇の胸を締めつけた。
高校に上がる年の義勇に、一人暮らしさせるなど誰も考えてはいなかっただろう。義勇自身も、父についてイギリスに渡ることになるのだと、疑いもしなかった。
だが、父の口から告げられたのは、無惨が鬼舞辻の家を出て暮らすマンションに、義勇も同居しないかという提案だった。
「無残くんを一人で暮らさせるのは、鬼舞辻さんも心配らしくてね。義勇が一緒なら安心だと言ってくださってるんだよ」
そう穏やかに笑った父に、おそらくは大それた野心などなかった。人のいい父は、素直に無惨を案じ、義勇の将来のことも考えたのだろう。希望する高校に進学が決まったというのに、父親の都合で海外に引っ越さなければならないのはかわいそうだ。そんなふうに思ったに違いない。
姉も同様に、義勇を一人で残すのは心配だけれど、無惨さんと一緒なら安心ねと笑っていた。
ふたりとも、まさか自分が毎晩のようにこんなことに興じているだなんて、まったく思いもよらないだろう。
「……んっ!!」
頭の片隅でつらつらと、思い出をたどっていた義勇は、太股に感じた痛みに息をつめた。
「こういうときに考えごとはいただけないな、義勇」
肩に担ぎあげた足にちろちろと舌を這わせつつ、じっと見つめてくる無惨の紅い瞳に、義勇は長く細い息を吐いた。
失敗した。浮かんだのはそんな言葉だ。
今日の無惨は、穏やかに触れあうことを望んでいたらしい。先までの奉仕で満足して、あとは義勇を甘やかしてやろうとでも思ったのかもしれなかった。
じわじわと、たゆたうような心地よさをもたらす愛撫に、ぼんやりとひたっていたものだから、無惨の興をそいでしまったようだ。
自分がそう仕向けたくせに、いざ義勇が安心しきり意識を逸らすと、途端にへそを曲げる。
身勝手な奴めとなじることはたやすいが、SM寸前のプレイにシフトチェンジされるのは御免こうむりたい。
ごめんと謝る代わりに、義勇は担がれた足を動かして、つま先で無惨の背をなでた。歯形が残るほどに噛まれたわけではないところをみると、まだ無惨も甘やかすか苛むか決めあぐねているのだろう。
許して。つづき、早く。そんな甘えと媚に、無惨の機嫌が直れば儲けものだ。思いつつ、ゆるゆると足を動かせば、義勇の意図を悟っているだろうに無惨は軽く鼻を鳴らし、足に唇を落とすことで了承を伝えてきた。
今日は本当に機嫌がいいようだ。
初めてこの体を暴いたときには、あんなにも性急で乱暴だったのに。
思い返すその日の無惨の姿を、追いつめるようなその手の熱さを、脳裏から振り払い、義勇は与えられる愛撫に素直に声をあげた。
無惨の指や舌は、器用に動く。深く体を折り曲げられ、立ちあがる欲の象徴を咥えこまれて、義勇の喉から細く高い声がこぼれ出た。いつのまに準備したのか、潤滑剤をまとわせた指が、ひくつくつぼみに触れてくる。
固く閉ざされたそこがほころぶのを、ゆっくりとうながすように、閉じた花弁にも似たひだをゆるゆるとなだめていく指は、ときおり確かめるようにプツリと浅く差し入れられた。
やさしい手付きは、それでも穏やかだからこそ義勇を追いつめる。初めてのときとは違い、恐怖ではなく期待に追い立てられ、知らず腰が誘いに揺れた。
無惨の体温は義勇よりも低い。触れると手はときどき氷のように感じることすらある。
けれども今義勇の雄を捕らえてなぶる唇も舌も、火傷しそうに熱い。つぼみに触れる指もまた、熱を帯びている。
そこを弄られると、猛烈な寒気に襲われることがあるのだが、今日はただ燃やされそうな熱だけを感じた。けれど、足りない。燃え上がり、焼き尽くされて白く染まるには、もっと熱く激しい火が欲しい。
それが地獄の猛火でも構わない。体の奥でくすぶり、燃え上がるのを待ちわびている熾火を誘う、無惨の火に焼かれたい。
その理由は、今もまだ、わからないけれど。
そして、無惨の心の内も、いまだ義勇が知ることは、ないのだけれども。
「も、いいっ。なか、早く!」
上ずる声で言い、腹をさわさわとくすぐっている髪をつかみしめれば、無惨の目が垣間見てくる。紅く燃える瞳は、淫逸な遊戯を心の底から楽しんでいるようだ。猥雑な興奮と、無邪気な稚気がない交じる視線に、義勇はギュッと眉を寄せ顔をしかめた。
無惨の目に、自分の顔はどんなふうに映っているのだろう。幼くなにも知らなかったころのように、無邪気に微笑みかけることなどもはやない。すごいね、おにいちゃん。なんでも知ってるんだね。そんな素直な感嘆で、無惨を褒め称えることもない。
夏の陽射しの焼けるような暑さ、流れる汗の匂い。鼻の奥が痛くなるような凍える冬の空気、うららかな陽射しの下で舞う桜。そんなささいな日常をこそ知らぬ無惨に、セミの抜け殻やら拾った花びらなどを手土産に、あのねと逢えなかった一週間の出来事を告げる義勇の言葉を、いつも無惨は冷めた顔をして聞いていた。
それでも必ず最後には、そっと義勇のまろい頬をなで、私の青と囁くように言い微笑むのだ。
当時の無惨の立場の危うさを義勇が知ったのは、ずいぶんと後になってからだった。
跡取り息子であるはずの無惨は、生まれ落ちたときから生命の危機に見舞われていたらしい。長くは生きられないだろうとの宣告に、古い慣習に従いつけられた名は、無惨。憐れで不遇な名をつけてこそ、長く生き延びることもできるのだという。
この歳になって初めて聞いたのならば、あんまりな名だと眉をひそめもするだろうが、馴染んだその名以外、この男に似合う名などない気がする。いずれ改名をとの親の意を、無惨が拒んだ理由は知らない。義勇が「無惨」と呼べるのなら、それでいい。
理性を残させる穏やかな愛撫は、思考があちらこちらに飛びすぎる。思い出にひたるような場合ではあるまいに、なぜだか幼いころのことばかりが頭に浮かんだ。
多分、郷愁を誘うあのミルクのせいだ。
淫らな遊戯のきっかけともなった白く甘い温もりが、口のなかによみがえった気がして、義勇は知らず唇をなめた。
その様が誘っているようにでも見えたのか。無惨の頭が大きく前後し、激しく追い立てられた。
いきなりの強い快楽に、射精感が一気にせり上がる。止めようとする間もなく、義勇の背がしなりグッと腹に力がこもった。
ビクリビクリと腹筋が痙攣する。だらしなく開かれた口は小さくおののき、あっ、あっ、と意味なく音を発した。
無惨の顔が股座から離れ、放心する義勇の上に覆いかぶさってくる。ぼんやりと見あげた顔は薄く微笑んでいた。高貴な者が下々に向かって浮かべる施しの笑みとも、蝶の羽をむしる残酷ないたずらめいた笑みともとれるその顔に、知らず見惚れる。
どんなに中身はクズのような男だろうと、無惨はきれいだ。かがり火に引き寄せられる虫のように、目を惹きつけられてしまう。
だが、そのまま降りてきた顔に、意図を察すれば、見惚れるのもそこまでだ。あわてて義勇は顔をそむけようとしたが、無惨が許すはずもなく、顎をつかまれ開かされた唇に無惨のそれが重なった。
「ん、う……っ」
注ぎ込まれる苦みに、ドンと胸を叩いて抗議するが、無惨の唇は離れていきそうになかった。
どろりとした粘着質の液体をまとった舌が、なすりつけるように口中を動きまわる。きつくつぶった目の端から、ジワリと涙がにじみ出た。
やっと無惨が顔を離したときには、義勇の息は、全力疾走した後のように上がっていた。たかがキスだ。けれども、じつに質が悪い。
「どのミルクが一番好みだったかな?」
「……死ね」
涙に潤んだ目で睨みつけて吐き捨てれば、クツクツと機嫌よく笑う。義勇の反発など、子猫の甘噛み程度にしか思っていない。
「おまえのは、少し甘い。これならいくらでも飲んでやろう」
「ふざけるな。そんなわけあるか」
そっぽを向き言い捨てるが、どこかで、確かに少し味が違うと、思わなくもない。それがなぜだか悔しくて、義勇は、グイっと無惨の胸を押しのけた。
「一度ずつ出した。もういいだろう」
言いながらも、そんなわけがないと自分でもわかっている。萎えた自身とは裏腹に、体の奥のうずきは増していた。無惨によって花開くことを覚えたつぼみは、きゅうきゅうとひくつき、早くここにもと訴えかけている。
どんなに義勇が認めたくないと思っても、それはどうしたって目をそらせぬ事実だった。
無惨によって咲き誇ることを覚え込まされた体は、義勇の意思とは関係なく、水を欲するように無惨を欲している。
「それで夜泣きするのは、おまえのほうだろう? 義勇?」
耳元でささやきながら、再び秘口を指先で叩かれれば、キュウッと無惨の指を食み奥に誘い込もうとしてしまう。そんな様子に愉快げな笑みを深めて、無惨はゆっくりと指を差し入れてきた。
とっさに息を吐き、体の力を抜くのは、もはや条件反射だ。それぐらいには義勇の体は受け入れることに慣れている。
潤滑剤が乾きかけた指は、痛みを伴い秘所を暴いていく。知らず体に力がこもるから、余計に痛みは増していく。
義勇は必死に大きく深く息を吐き、痛みを逃そうとした。熱く荒い吐息すら自分のものだとでも思っているのか、再び合わせられた唇に、義勇の苦鳴も息も飲みこまれていく。だが、口づけは痛みを逸らす効果もあるのは確かだ。
身のうちを暴こうとする痛みから逃れるように、夢中で舌を絡めて快楽を追えば、自然、指を含まされたそこも緩んでゆく。われ知らず持ち上げた足を無惨の腰に絡めて、義勇はゆらゆらと体を揺らせた。
腰を揺らすたびにジワリと悦楽が広がって、痛みすら快楽にすり替わっていくようだ。
一度引き抜かれた指が、手探りでまた潤滑剤をまとって埋め込まれる。ふたを開けっぱなしのボトルからとろりとこぼれた液体を、義勇は視線の端で一瞥し、また洗濯が大変だと場違いな感想を思い浮かべた。
男同士でこんなことをしている非日常性は、そんなささいで凡庸な日常と背中合わせに存在する。
これがもし、愛だの恋だのと呼ぶものであったのなら、それすらも愛おしく思ったのだろうか。
潤滑剤がすっかり馴染み、指の代わりに火傷しそうな灼熱が押し当てられるのを感じながら、義勇はそんなことを考えながら、唇だけで小さく笑った。
自室で目覚めるときならば、大概は朝の陽射しによって義勇の意識は覚醒する。だが、昨夜は無惨の腕に抱きこまれ、濡れたシーツでそのまま眠りに落ちた。だから義勇の目を覚ましたものは、無粋なスマホのアラーム音だ。
パチパチとゆるくまばたきして起き上がる。無惨はすでにベッドにはいなかった。ピロートークなど恋人でもあるまいし望んではいないが、せめて後始末ぐらいはしてくれても罰はあたらないと、肌をごわつかせる汚れに眉をひそめる。
「起きたか。朝食が届いている、さっさとこい」
開いたドアから顔を出し、尊大に言い捨てる無惨には答えず、義勇は緩慢な動きでベッドからおりた。今更恥じるいわれもなく、余すことなく肌をさらしたまま部屋を出ようとした義勇に、今度は無惨の眉がひそめられた。
「服ぐらい着たらどうだ」
「……シャワー」
どうせ脱ぐのだから面倒だ。さらに小言をつづけるかと思われたが、無惨はあきれた様子で見下すような視線をよこすだけにとどまった。
行為を終えれば、甘さなどどこにもない。今日は体育の授業がなくてよかった。まだ部活を続けていたら、多分えらい目に遭っていただろう。
熱めのシャワーで淫猥な汚れを洗い流しながら、義勇は薄く自嘲の笑みを浮かべた。
言い訳ばかりだ。男らしい錆兎が聞けば、言い訳するなと叱り飛ばされるかもしれない。
勿論、こんな生活のことを誰にも知らせるつもりはないが。
中学生までつづけていた剣道をやめたとき、錆兎はなぜとしきりにたずねてきた。本当の理由など言えるわけもない。
俺の飼い主が不機嫌になる。なんて。馬鹿馬鹿しい冗談だと、笑ってくれたならまだ救われるが、この境遇から助け出そうとされても困る。
軽くぬぐっただけの髪から雫を滴らせながらダイニングに向かえば、無惨の顔がまたしかめられる。高貴な出は行儀にうるさくていけない。男ふたりの暮らしなのだから、多少は無精に過ごしたところでかまわないだろうに。
そんな胸の内の不満やらあきれは、どこかに甘えをひそませている。自分がなにをしても、無惨は最後には許すだろう。それを義勇は疑わない。
狂気めいて思えるほどの執着や独占欲の正体は、いまだ義勇に告げられたことはなく、もしかしたら無惨自身も理解できてはいないかもしれない。だが、疑いの余地などなく明確に存在する。その執着心に、甘えているからこその対等な物言いだとの自覚は、義勇にもあった。
「今日は何時に帰る?」
「いつもどおり」
毎日繰り返すやり取りが、確認よりも懇願のようにひびくのは義勇の願望ゆえだろうか。
子どもに言い聞かせるように寄り道するなと命じる声に、私を一人にしないでくれと、すがる気配を毎日探す。
もしも。自分が家を出たまま帰らなかったら、無惨はどうするだろう。ときどき義勇は想像する。答えはまだ出ない。
あくせく働かなくとも名ばかりの重役手当てや株の配当、不動産収入で暮らしていける無惨には、義勇ぐらいしか執着するものはない。家を継ぐのは無惨が蔑んでいたはずの愛人の子である次男だし、父や母の期待はすでにない。ありあまるほどの才覚は、虚弱な肉体という枷ひとつで無惨からすべてを奪った。
体を鍛えて、命の危機はもはやなくとも、もう無惨の手に残るものなどなにもないのだろう。
それを知るからこその憐みだろうか。義勇は自分の心の縁を、幾度も覗き見る。
幼いころのフワフワとした幸せが、今も心のどこかに残っているから、離れられないのではないだろうか。かわいそうだなと思った小さな思い遣りが、離れられない理由だろうか。そっと心を覗いては、そうではないと言いきる理由を探してしまう。
ことりと目の前にグラスが置かれた。白い液体がゆらゆらと揺れている。
「残されても迷惑だ。さっさと全部飲んでしまえ」
答えずグラスを手に取り、こくりと一口飲みこめば、ほんのりとはちみつの甘さが舌に乗った。
食事を届けるだけの使用人が、そんなことをするわけもない。
あぁ、これだから嫌なのだ。
こんなふうにときおり与えられる甘さが、義勇を鳥かごに留まらせる。
そっと無惨の手が、義勇の頬に触れた。
「今日もおまえの瞳はきれいだな……私の、空だ」
空を飛ぶことを忘れた鳥の目に、おまえが空を見るのなら、せいぜい見つめてやろうじゃないか。
この関係が、いつまでつづくのかなど知らない。そこにはおそらく義勇の意思は介在しないだろう。すべては無惨の胸ひとつだ。
もしかしたら、無惨の自分に対する執着は、寵愛と呼んでもいいのかもしれない。けれども、そんな言葉ひとつで片付けられるものならば、冷めてしまえばそれまでだ。
それが悲しいのか、悔しいのか、それすら義勇にはまだわからない。答えを求められぬまま、行為だけを教え込まれたことが、この関係のゆがみだろう。
グラスのミルクを飲み干して、義勇は無言で立ちあがった。
「おい、ちゃんと食べていけ」
「遅刻する」
春がくれば、義勇は高校生ではなくなる。そのとき無惨はどうするのか。それまでに、無惨はなんらかの答えを出すのか。そして、それを聞いた自分は。
ドアを開ければ、晴天が広がっていた。青い空を仰いで、義勇は眩しく目を細める。それでもけして、目は閉じない。この青が、瞳に焼きつき溶け込めばいい。空を望めぬこの男の孤独を、癒す色であるのなら。
この感情をなんと呼ぶのか、答えはまだ出ない。それもきっと、無惨の答え次第なのだろう。だがそれでもいい。今はただ、舌に残るスプーン一杯分のはちみつの甘さほどのやわらかななにかを飲みこむだけだ。
義勇は振り向き、玄関にたたずみ義勇を見送る無惨に近づいた。
「……いってくる」
唇を触れあわせるだけの、小さなキスは、ミルク味。
驚く無惨にうっすらと笑い、ドアを閉める。
再びこのドアを開けるころには、青い空は燃えるような深紅の夕焼けに染まっているだろう。無惨の瞳の色に染められる、青い空。それを無惨は知っているだろうか。
もしも毎日この味のキスを送ったら、無惨の心にも、ふたりのあいだにたゆたうかすかな甘さに名をつける覚悟が生まれるだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい期待に苦笑して、ひとり日常のなかを歩きながら、見えない答えをただ待っている。