満天の星と恋の光 1

 関東直撃はまぬがれたものの、台風のせいで二日ばかり悪天候がつづいた、その翌日。空は濃い青さを取り戻し、太陽はギラギラと照っている。今日も暑くなりそうだと、窓から差し込む眩しい陽射しに、杏寿郎は掃除機をかける手を止め目を細めた。
 八月に入って気温はますます高くなった。窓を開け扇風機を回していても、じっとしているだけで汗がにじみ出してくる。
 朝から三度目の掃除機がけは、終えるたびにもういいだろうと思うのに、ちょっと時間が経つとやっぱりもう少し掃除したほうがいいんじゃないかと気になって、どうにもキリがない。

 今日は、義勇がまた家に来る。思うだけで落ち着かず、杏寿郎は、窓から視線を外すとまた畳の目に沿って掃除機を動かした。

 義勇の訪問は今回で三回目になるというのに、やっぱりどうしても、杏寿郎はソワソワとしてしまう。
 初めてのときは、自由研究のテーマをなんにするのかの相談だった。母に言われるままに居間に通した後で、自室へ誘い直すのもなんだかおかしな気がして、その日は居間での相談となった。
 二回目はと言えば、やっぱり杏寿郎は、義勇を自分の部屋へ招くことはできなかった。

 なにしろ、その日は杏寿郎も義勇も、全身海水でずぶ濡れになった後だったので。

 石を研究テーマに決めて、隣県の海岸へと石を拾いに行ったまではよかったが、あわや水難事故という事態に陥ってしまったのだ。今思い返してみてもとんでもない一日だったと思う。とはいえ、悪いことばかりではなかったのだが。

 同行した千寿郎が離岸流にさらわれ、沖に流されたあのとき。杏寿郎は本当に生きた心地がしなかった。義勇がいなかったら、いったいどうなっていただろうと思うと、今もぞくりと背筋が震え、義勇への深い感謝に杏寿郎は包まれる。それは当の千寿郎や父や母も同じことだ。
 千寿郎などはすっかり義勇の大ファンになったようで、あれ以来、口を開けば義勇さん、義勇さんだ。
 まるで義勇と出逢ったころの杏寿郎を見るようだと、父も母もそんな千寿郎を見て笑っていた。杏寿郎も微笑ましく思いはするのだが、ちょっとばかり気恥ずかしい。もちろん、千寿郎と一緒に義勇の話で盛り上がれるのはうれしいかぎりなのだけれど。
 ともあれ、煉獄家の面々は、その一件以来すっかり義勇に惚れこんでしまったらしく、杏寿郎を笑えないほどに、みな朝からどこかソワソワとしている。残念ながら平日なので、父は今回もひとり寂しく整体院で仕事だけれども。
 せっかく義勇くんが来るのにと、臨時休業などと言い出して母に正座させられていた父は気の毒だが、義勇がみんなに気に入られたことは杏寿郎にとって喜ばしい以外のなにものでもない。義勇は本当に礼儀正しいし、無口で無愛想に思われがちでもやさしいし、とても素敵な人なのだ。父や母にもそれがちゃんと伝わったことが、杏寿郎にはうれしくてたまらなかった。

 もともと杏寿郎がいつでも話題に出しているから、煉獄家の面々にとって、義勇は逢う前から知人同然だ。それに加えて千寿郎の命の恩人にまでなったうえ、義勇と実際に過ごしその為人に触れた結果、庇護欲が掻き立てられたものらしい。父や母は義勇くん、義勇さんと、ずっと義勇をかまい続けていたものだった。
 さもありなんと、杏寿郎は掃除機をかけ終えた部屋を見まわし、思い出し笑いにちょっと頬をゆるめた。

 必死に泳いで千寿郎を救出したあの日。三人とも夏の陽射しと強い風で衣服はすぐに乾いたものの、叩けばいくらでもパラパラと塩の結晶やら砂やらが落ちてくるありさまで、電車になど到底乗れるものではなかった。
 連絡を受け泡を食って迎えに来た父の車で、一先ずうちへと煉獄家へ義勇も連れ帰ったのだが、もちろんそれだけで済むわけがない。
 当然のことながら、父も母も千寿郎の命の恩人である義勇を、「ありがとう、はいサヨウナラ」と帰す気などさらさらなかったのだろう。風呂だ着替えだ夕飯も食べて行けと、それはもう上げ膳据え膳のもてなしっぷりで、義勇は恐縮しきりだったのか目を白黒とさせていたものだ。
 思い返すだけで、杏寿郎はついクスクスと笑ってしまう。あの日の義勇は、すごく頼もしく格好良かったり、泳ぐ姿は思い返してみれば美しいの一言だったり。そしてなにより、とてもかわいらしかった。
 脳裏にホワンと浮かんだ風呂上がりの義勇の姿に、杏寿郎の頬が少し赤くなる。

 着替えにと母が貸した杏寿郎のTシャツとハーフパンツを着た義勇は、なんだかやけに新鮮に見えた。自分の服だというのに杏寿郎はとんでもなくドキドキとしてしまって、落ち着かなくなったものだ。

 いや、自分の服だから余計にだったのかもしれない。

 いつも自分が着ている服を、義勇が着ている。ただそれだけで、なんだかすごいことが起きているような気がしてしまったのだ。
 なんの変哲もないスポーツブランドのTシャツと、どこにでもあるコットンのハーフパンツだ。特別な装いをしたわけでもないし、よくある格好だというのに、義勇が着ているだけでキラキラとして見えたのはなぜだったのだろう。
 なんだか眩しくて、杏寿郎はぼぅっと呆けたように見つめては、そんな自分に気づくたび、あわてて顔をそらせた。思い返すとかなり挙動不審だ。
 けれども多少は、しかたないことだったとも思うのだ。だって、見慣れぬのは服装だけではなかったのだから。

 杏寿郎の服を着ておずおずと居間に現れた義勇の湯上りの肌は、ほんのりとピンク色に染まっていた。制服のシャツよりも襟繰りの開いたTシャツは、日頃は見えない義勇の鎖骨もチラチラと見える。なによりも、ハーフパンツの裾からすらりと伸びたその脚。その脚に杏寿郎の視線は釘付けになった。
 素足の義勇なんて、初めて見た。いつもは制服のズボンで隠されているその脚が、膝下からとはいえ露わになっていたのだ。つい視線が行ってもしかたがないんじゃなかろうか。
 見慣れないその肌に、信じられないぐらい杏寿郎の胸はドキドキと高鳴って、どうしようもなかった。
 杏寿郎もまだ、さほどすね毛などは生えていないのだけれども、義勇の脚は杏寿郎以上にツルツルとしていた。まるで千寿郎の肌みたいに。水泳部のエース候補と目されていただけあって、しっかりと筋肉のついた脚だったのに、肌は見た目にもつるりとなめらかで、触れたらしっとりと吸いつくようなのかもしれない。なぜだかそんなことを思った瞬間、ゴクリと喉が鳴って、杏寿郎は少しあわててしまった。
 入れ替わりに逃げるように千寿郎を連れ風呂に向かった杏寿郎の鼓動は、ずっとせわしなく鳴り響いていた。いつものように千寿郎の髪を洗ってやるあいだも、気がつけば義勇のほんのりと色づいた肌を思い浮かべてしまって、何度も千寿郎に「兄上?」と怪訝に呼びかけられるありさまだったのだ。

 息を飲むほどの衝撃は、風呂から上がるころにはどうにか薄れてくれたけれども、今もってなんであんなにも動揺したのか、いまだに杏寿郎にはわからない。義勇が着ていたのは杏寿郎の服で、当然、ごく当たり前の格好だった。それなのに、なんでいつもよりも素肌が見えているだけであんなにもドキドキと落ち着かなくなったのか、杏寿郎には不思議でならない。
 もちろん、体育着に着替えるときなどに、素肌が見えることは多々あった。でも、まじまじとなんて見たことはない。着替えをじっと見られるなんて誰だって嫌だろう。人の着替えを見るなんて不躾な真似は、杏寿郎だってしたくない。それが義勇ならばなおさらだ。そんな無作法をして嫌われるのは嫌だ。
 体育着はジャージなので、着替えてしまえば見える肌面積は制服と変わらない。だから、目を向ければずっと義勇の足がさらされているなんていう経験は、初めてだったのだ。
 けれども、なぜ義勇の素肌にドキドキしたのかは、やっぱりよくわからない。

 これが女の子ならドキドキとしてしまうのは当然なのだろう。でも義勇は男だ。脚どころか裸を見たところで気恥ずかしいなんて思うわけがないはずなのだ。事実、小学校のころの友達とは一緒にプールや海に行ったこともあるけれど、一度だってドキドキしたことなんてない。
 なのに、なんで義勇にだけはあんなにも心臓がバクバクと速くなって、なんだかとても恥ずかしいような落ち着かない気持ちになったのか。

 キスしたいと思ったのだって、義勇にだけだ。

 思った瞬間、カァッと顔が熱くなって、杏寿郎は思わずしゃがみ込むと頭を抱えた。思い出さないようにしていたのに、浮かんでしまえばもう駄目だ。頭のなかは義勇があの日言った言葉でいっぱいになってしまう。

 ――友達だから、キスはできない。

 義勇は確かにそう言った。キスしたくないでも、キスなんて嫌だでもなく、友達だからできないと。
 それじゃまるで、友達でなければキスしてもいいみたいじゃないか。
 もちろん義勇は、誰彼かまわずキスするような破廉恥な奴じゃない。それはわかり切っている。ではなぜ義勇はあんなことを言ったんだろう。杏寿郎が思うキスしてもいい関係なんて、恋人や父や母のような夫婦ぐらいだ。いや、家族もか? 千寿郎がもっと小さな赤ん坊のときには、父がやたらとキスしていたし。思わず唸りつつ杏寿郎は首をひねった。

 けれども杏寿郎と義勇はもう赤ん坊なんかじゃない。口と口を触れあわせるキスを、たやすくできる年齢ではないのだ。家族でもないのだからなおさらキスなんておかしな話だ。

 口でなくとも頬や額にだって、男同士じゃ、したがる者などそうそういないはずだ。
 同性を好きになる人たちがいるのは知っているけれど、自分がそうだとは思えないのに、義勇にだけはキスがしたい。それは一体なぜなのか、どれだけ考えても答えは出てこないままだ。

 はぁっ、と、大きなため息が杏寿郎の口からこぼれた。

 ともあれ、いつまでも考え込んでばかりもいられない。今日、義勇は午前中からくるのだ。母がぜひと譲らずに、昼を家で食べることになったから。
 義勇は遠慮していたけれども、一緒に過ごせる時間が増えるのはうれしいし、義勇の家と同じしょっぱい玉子焼きもたくさん食べてほしい。母には、義勇の亡くなった母上が作る玉子焼きは、我が家と同じくしょっぱいのだそうですと伝えてある。母は、静かにうなずいてくれただけだったが、きっと義勇が来る今日の昼には、玉子焼きを焼いてくれるだろう。
 口にするだけでも悲しくて、苦しくて、凍りつきそうに手が冷たくなったとしても、義勇はそれでも忘れたくはないのだ。本当は話したいのだ。家族のことを、幸せだった思い出の日々を。亡き人たちを知る人々には、同じ悲しみを背負わせると話せずにいた義勇は、それでも杏寿郎に聞いてほしいと言ってくれた。

 なんと光栄なことだろうか。なんて幸せな役目なんだろう。

 消えぬ困惑と戸惑いを、幸福感と少しの優越感が追い越していく。温かな心持ちで、杏寿郎は文机の上に置かれた小さな石へと目を向けた。
 ちょこんと置かれたその石は、海で義勇が見つけた青いシーグラスだ。義勇の瞳の濃く深い青にくらべれば、その青は少し淡く、乳白色の膜をまとっているように見える。杏寿郎が同時に見つけた赤いシーグラスは、義勇の元にある。杏寿郎の瞳よりもくすんだ赤の石だ。
 それでも、なんだか互いの瞳のようにも見えて、自分が見つけた石よりも義勇の青い石を持っていたかった。義勇もまた杏寿郎の石を望んでくれたから、青と赤の小さな石は交換されて、今、互いの元にある。

 出逢いを約束する石で、奇跡の石。絆の石。

 奇跡のような出逢いは果たした。絆はこれから築いていく。長い長い月日をかけて、割れたガラスがこの石になり杏寿郎の元に来たように、どれだけかかろうと決して切れない絆を義勇と築いていきたい。

「……よしっ! 悩むのはやめだ!」

 パンッと両手で自分の頬を叩いて、杏寿郎は、グッと顔をあげた。
 悩むことは決して悪いことではないのだろう。けれども鬱々とひとりで悩んでいても答えはきっと出ない。考えなければならないのは確かだが、それだけに囚われて、万が一にも義勇を悲しませたり、傷つけたりするのは絶対に嫌だ。
 今は、義勇の悲しみや自責の念が、少しずつでも薄れてゆくよう努めることこそが重要だ。自分にどれだけのことができるか分からないけれども、それでも、凍えた義勇の手を握って、話を全部聞いてやるのだと、杏寿郎はまた胸に固く誓った。それだけは、その役目だけは、誰にも譲りたくはない。
「一歩ずつだ、杏寿郎。焦るな」
 自分に言い聞かせ、杏寿郎は、まずは今日こそこの部屋に義勇を招くべく、本日四回目の掃除機をかけ出した。
 義勇に少しでも快適に過ごしてもらうために。それと、やっぱりちょっぴり落ち着かない心を、どうにか落ち着かせるためにも。

 約束の時間は十時半。時計の針は二十五分を指した。もう道は覚えたと言って、残念ながら迎えは断られてしまったけれども、義勇は迷ったりしていないだろうか。
 時計の針から目を離せないまま、もう十五分ほども杏寿郎は身じろぎひとつせずにいた。
 部屋でひとりで待っていても落ち着かないし、五回目の掃除機がけはあきれ返った母に止められた。ならばと雑巾で畳やら窓やらを拭いて回るのも、三回目にしていい加減にしなさいと叱られ、断念せざるを得なくなった。
 しかたなし居間で千寿郎に本を読んでやっていたのだが、それも、買い物に出る母が千寿郎を誘ったことで終了だ。義勇がくる時間にはまだ少し早かったが、留守番を頼みますと先手を打って言われてしまえば、荷物持ちに同行することもできない。

 結果、杏寿郎はずっとソワソワとしっぱなしでいる。動物園の檻の熊よろしく自分の部屋をウロウロと歩き回ってみたり。はたまた、今日の予定である標本箱づくりの材料を確かめたり。鉱物図鑑と石を見比べて分類し、いやこれは義勇が来てから一緒にやったほうがいいかと、また袋のなかに戻すなんて意味のないことをしたりするうちに、時刻は十時を回り。

 そうして今、杏寿郎は時計の前に正座して、じっと時計の針を睨みつけている。

 泰然自若とした、なにごとにも動じぬ男になりたいと思うのに、なんとも不甲斐ないことだ。カチコチと動く時計の針はちゃんと時が過ぎていくのを示しているのに、体感的には一分が一時間にも感じられて、どうしても気もそぞろになってしまう。
 義勇は迷ってはいないか。今日も暑いから熱中症で倒れてでもいたらどうしよう。前回迎えに行ったときには、車の少ない通りを選んで帰ってきたけれど、今日にかぎって大型車がビュンビュンと飛ばしていたりしたら。
 母が聞いたらあきれを通り越して説教されそうな不安ばかりがふくらんで、もういっそ迎えに出てしまおうかと、とうとう杏寿郎は腰を浮かせた。
 と、同時に玄関のチャイムが鳴った。
 パッと杏寿郎は顔を輝せて、弾かれるように立ちあがると一目散に玄関へと駆けていく。母が留守でなによりだ。こんなところを見られたら、きっと叱られることだろう。
 玄関の引き戸のすりガラス越しに見えた人影に、いよいよ杏寿郎の胸は高鳴って、鍵を開けるのももどかしく思いきり戸を開けた。

「義勇っ!」
「……あ、えっと、こんにちは」

 杏寿郎の勢いに面食らったのか、義勇は目を丸くして、ちょっと戸惑うように頭を下げた。杏寿郎の目も同じぐらい、いや、義勇以上に丸く見開かれた。
 玄関先に立つ義勇の姿は、見慣れた制服ではなかったので。
 そう、前回も、前々回も見られなかった、初めての私服姿で義勇は立っていた。