満天の星と恋の光 7

「えっ? 同じ川なんですか?」
「でも、名前違う」
 運転席で笑う錆兎の父の発言に、杏寿郎と義勇はそろって驚きの声をあげた。

 全国的にお盆を迎えた八月十三日。今日から二泊三日義勇と一緒だ。目的地である隣県の山麓へは、錆兎の父が運転する車で向かう。
 迎えに来た車には助手席に真菰、後部座席に義勇と錆兎が並んで座っていた。杏寿郎が加わったことで錆兎の母は定員オーバーとなってしまったのかと、一瞬不安になった杏寿郎だったが、錆兎が笑って言うことには元々今年は不参加の予定だったらしい。
 昼休みの非常口と同様に義勇を挟んで三人座っての道行で、初めて今回の目的である石拾いをする川が、実は前回の海岸に流れ込む川と同じ水系だったことを錆兎の父から聞き、杏寿郎はポカンと目を見開いた。思わず義勇へと視線を向ければ、義勇もちょっと呆然としていた。

「川の名前なんてそんなもんだぞ? 上流と下流で名称が変わるなんてよくあることだしな。爺さんちの傍の川は支流だな。義勇と煉獄くんが石拾いに行った海岸に流れ込む川と合流するんだ」
「へぇ、俺も初耳。石拾い、いっぺんで済んでよかったじゃないか」
 父親の説明に錆兎は笑うが、杏寿郎の心中は複雑だ。義勇と出かけられる機会が増えたと思っていただけに、つい肩も落ちる。
 義勇も、意図せずとはいえ杏寿郎に出まかせを言ってしまったとでも思っているのだろう。いかにも申しわけなさげに首をすくめ、ちらりと杏寿郎を上目遣いで見てきた。
「……ごめん」
「なに、気にするな! 錆兎の言う通りだ、むしろよかったじゃないか!」
 落胆を押し隠して笑ってみせれば、助手席からひょっこりと顔を出した真菰が、それならと提案してきた。
「上流の石はお爺ちゃんちの近くのを拾って、川の合流地点のを中流の石ってことにすればいいんじゃない? 帰りに寄るんだと時間ないかもだし、日を改めて杏寿郎くんとふたりで行きなよ、義勇」
 なるほど名案だと顔を輝かせた杏寿郎の隣で、義勇も少しホッとしたように目元を和らげた。それでいいかと聞いているつもりなのか、こてんと小首をかしげるから、杏寿郎は勢い込んでうなずいてみせた。
「ではそうしよう! 楽しみだなっ!」
「……うん」
 顔を見あわせて笑いあう杏寿郎と義勇に、真菰の顔にいたずらな猫のような笑みが浮かんだ。
「義勇、そのときも制服は駄目だからね~。オシャレしなくてもいいけど、歩き回りやすい格好するんだよ? まぁ、オシャレしたほうがいいとは思うけど。義勇は見た目にこだわらなすぎるんだよねぇ。せっかく美形に生まれたのに、もったいないよぉ。ね、杏寿郎くんもそう思わない?」
「真菰っ!」
 話を振られた杏寿郎より早く、義勇が珍しく語気を強く咎める。プンっと膨らませた頬がちょっぴり子どもっぽかった。
「ま、オシャレはともかく制服はなぁ。いくら校則だからって、遊びに行くのに真面目に制服着てる奴なんて稀だぞ? 杏寿郎まで制服で通させることになるしな」
「いや、俺は気にしないぞ? 校則を守るのは当然のことだからな! それに義勇は制服もよく似合うから、毎回制服でもかまわない!」
 この前も、クリーニングから返ってきたと言って義勇は制服だった。本音を言えば私服の義勇ももっと見たいし、オシャレした義勇にはドキドキするけれども、制服が似合うのも本当だ。だから杏寿郎は笑って言ったのだが、錆兎と真菰はちょっぴり呆れた顔をした。
「義勇も馬鹿真面目だけど、杏寿郎くんも真面目だねぇ」
「制服似合うってさ。よかったな、義勇。おまえ、ファッションセンス壊滅的だからなぁ。今日のTシャツもアレだし」
 苦笑する錆兎に、義勇が心外! といった顔をするが、杏寿郎も錆兎の言葉はピンとこない。
 泊りがけということもあり、今日は義勇も、もちろん杏寿郎も私服だ。二泊三日お世話になるあいだ、制服で通すわけにもいかないのだから当然だけれども。
 今日の義勇は、普通のTシャツにジーンズだ。別におかしなところなどないと思うのだが、どこが壊滅的なのだろう。首をかしげた杏寿郎に気づいたのか、真菰がなぜだか急に真顔になった。
「もしかして、杏寿郎くんも義勇のセンスと似たようなもんだったりする……?」
「おい、杏寿郎、義勇のこのTシャツ見てなんとも思わなかったのか?」
 錆兎まで真顔で聞いてくるから、ますます杏寿郎は首をひねってしまう。
 改めて義勇の服装をまじまじと見ると、義勇がすがるような、ちょっと委縮しているような、なんとも言えぬ目で見返してきた。

「Tシャツなのに『ふゆ服』とは、ちょっと不思議な感じはするが……普通のTシャツだろう?」
「マジかっ!」
「……まさか義勇と同じセンスの人がいるとは思わなかったぁ」

 ロゴなんていうのもおこがましいぐらいの、なんとも気の抜けた文字ではあるけれども、杏寿郎からすればそれだけだ。『ふゆ服』と書かれたTシャツのなにがおかしいのか、杏寿郎にはさっぱりわからないが、どうやら錆兎や真菰からするとこれはセンスが悪い部類らしい。
 錆兎と真菰にいつもからかわれてでもいるものか、杏寿郎が普通だと言ったのがうれしかったのだろう。ムフフと子どもっぽく笑う義勇に、運転席からも錆兎の父の苦笑が聞えた。
「アイツも笑いのツボがちょっと変だったからなぁ。義勇は母親似だな」
 無意識の一言だったのだろう。一瞬、錆兎と真菰の顔がピシリと固まった気がした。
 錆兎の父が言う『アイツ』が誰を指すのか、理解した瞬間に杏寿郎も少し緊張して、義勇をうかがい見る。義勇の表情は変わってはいなかった。だが、膝に置かれた杏寿郎の手に、指先が触れてきた。まだ凍りついてはいない指先は、それでもかすかに震えている。
 迷わず杏寿郎は、義勇の手を握りしめた。大丈夫だと伝えるように杏寿郎が義勇に微笑みかけたのと、真菰が錆兎の父を睨みつけたのは同時だった。
 ルームミラーに映る錆兎の父の顔が、しまったと焦りを浮かべている。錆兎と真菰も先ほどまでの軽口など消え失せて、心配げに顔をくもらせ義勇を見つめてきた。

 きっと、いつもこんな具合なのだろう。ごめんなさいと繰り返しながら泣くばかりになっていたという義勇の姿が、彼らの記憶には根深く刻まれているに違いない。家族の話はご法度。そんな暗黙の了解があるのはすぐに窺い知れた。

 だが。

 杏寿郎は義勇の目をじっと見つめ、にっこりと笑ってみせた。
「義勇の母上は、どんな人だったんだ?」
 同じ悲しみに溺れると、錆兎は言った。だからこその暗黙の了解なのだろう。けれども杏寿郎は違う。杏寿郎は亡くなった人たちを知らない。痛ましさは覚えても、悲しみに溺れることはないのだ。
 そして、義勇は本当は、話したがっている。それを杏寿郎はもう、知っている。
 ギョッと目をむいた錆兎たちが、一斉に咎める視線を向けてきた。だが、杏寿郎は引く気はなかった。
 だって、義勇は手を握ってくれと無言で伝えてきた。凍りつく手を温めてほしいと。それはきっと、聞いてほしいという意思表示だ。義勇は話したいと思っているに違いないのだ。
 重苦しくなった空気のなかで、義勇の瑠璃色の目はまっすぐに杏寿郎を見つめ返してくる。そうして、ゆるゆると唇が開かれた。

「母さんは……料理上手で、いつもニコニコしてた。でも、怒ると、怖いんだ」
「うちの母上と同じだな! 父もよく説教されてるぞ!」
「こういう、Tシャツとか、好きで……父さんと、姉さんが、いつも……あきれてて、母さん、俺に「面白いのにねぇ」って……」
「じゃあ、他にもそういう服が多いのか? 義勇のセンスは母上譲りなのだな!」
「あの、Tシャツなんだけど、長袖って書いてあるの、とか……かわいいのも、いっぱい持ってた」

 義勇の手は冷たくなっている。でも、瞳に涙は浮かんではこなかった。息を飲んで成り行きを見守っている錆兎たちの視線を感じながら、杏寿郎は義勇の手を握りしめたまま笑いかける。

 大丈夫。ちゃんと聞くから。温めるから。……傍にいるから。

 声にせぬ言葉は、きっと義勇にはちゃんと伝わっている。だって義勇は目をそらさないから。
 義勇のことが全部わかるなんて、そんなおこがましいことは杏寿郎だって思っていない。むしろまだまだわからないことだらけだ。義勇の好きなもの、義勇のしたいこと、苦手なものやなにに怒るのかだって、杏寿郎はまだ知らない。
 春にはまだよそよそしかった義勇と、こんなふうに寄り添って笑いあったり手を握ってやれるようになってから、まだそれほど経っていないのだ。義勇に対しての自分の気持ちの意味すら、いまだに杏寿郎はつかめていない。わからないことのほうが、ずっと多いのは確かだった。
 でも、今このときに、義勇が杏寿郎を頼ってくれていることは、わかる。どんなにつらくても、思い出を薄れさせ忘れてしまうことのほうが、義勇にとっては、もっとずっと苦しくつらいのだということも。
 だから杏寿郎は明るく義勇に笑いかける。義勇の話に応え、うながし、手を握りつづける。大丈夫、俺は溺れないし義勇をひとり哀しみの底に沈めたりしないからと、伝えるように。

 スンッと、鼻をすする小さな音は、錆兎の父か真菰だろうか。錆兎は窓の外を見ていた。誰も口を開かない。車内には、ポツリポツリと話す義勇の震える声と、それに明るく返す杏寿郎の声だけが聞えていた。
 ドライブインの駐車場に車を止めるまで、ずっと。

 高速を下りて市街地に入ったころには、車中の空気はもう、朝と変わらぬにぎやかさを取り戻していた。話題も滞在中の予定が占めている。
 義勇たちの祖父であり、父の憧れの存在である鱗滝範士の家は、隣県の面積の六分の一を占める広大な山脈地帯にあるということだった。都心から気軽に行ける登山場所としても知られているらしい。今回は川での石拾いが最優先事項なので、真菰が薦めるミシュランで二つ星を獲得しているという神社からの眺望は見られそうにないのが残念だ。
 ドライブインでの休憩中にも、杏寿郎はずっと義勇と手を繋いでいたけれど、錆兎も真菰もなにも言わなかった。錆兎の父も同様だ。少しだけ眩しいものを見るように、潤んだ瞳をたわませてふたりを――義勇を見ていたように思う。
 緑の山脈が近づくにつれ、車窓から覗く風景もいかにも牧歌的な様相を見せ、道は急勾配が多くなった。
 鱗滝家は市街地を離れた山中にほど近い集落にあるそうだ。近くを流れる川の上流は、沢登りの入門コースとしても知られているらしい。いつもは遠くかすかに見えるだけの富士山も、この辺りまで来ると日本一の雄大な姿を見せてくれる。
 曲がりくねった山道は川と並行してはいないので、ときおりしか見えなかったが、渓谷は緑が濃く、都心の川とは違って澄み切った清流であるのが知れた。車窓から見る分には水量はさほど多くなさそうだが、滝も多いのだと真菰が教えてくれた。湧水は他県から汲みに来る人も多いそうで、名水百選にも選ばれていると言う。

「いいところだなっ。うちは本家だから田舎というのがないのだ。こんな素晴らしい田舎がある義勇が羨ましい!」
「でっしょ~! 不便なのは確かなんだけど、買い物ならネットでもできるしね。本当は義勇にもうちに来てほしかったんだけどなぁ。お爺ちゃんも喜ぶし」
「うちだって楽しいよなぁ? 義勇? というか、まだあきらめてなかったのか、真菰」

 錆兎の父が苦笑しつつ言うのに、ぺろりと舌を出して見せた真菰は、いかにも楽しげだ。
 言われてみれば、義勇が世話になる相手は祖父の鱗滝範士になっていた可能性もあったはずだ。
 もしかしたら、義勇は錆兎とではなく真菰と同居していたかもしれないということか。思った瞬間に、一瞬ヒヤリと背が冷えたのは、義勇と再会できなかった可能性に思い至ったからだと思いたいところだ。けれども大半は、真菰に対する嫉妬だと杏寿郎ももう自覚している。
 けれども、今さら義勇が錆兎の家を出て真菰と同居するということはないだろう。あったかもしれない可能性に苛立ったり不安に鳴ったりするなんて、馬鹿な話だ。モヤモヤとした気分を振り払うように、杏寿郎はことさら明るく笑ってみせた。
「真菰はなかなかの剣士だと義勇が言っていたが、滞在中お手合わせ願えるだろうか」
「いいよぉ。杏寿郎くんも強いって錆兎から聞いてるよ。楽しみだねぇ」
 気負いなく笑った真菰は、だが、ちょっとだけしみじみとした声でつづけた。
「杏寿郎くんは、女の子と一緒に稽古するの嫌がらないんだね」
「ん? 確かに中学からは男女別れての稽古や試合が多くなるが、連盟の大会では女子がメンバーに入っているところも多いだろう? 体格差はあっても互角に戦えるということだ。強さや人格に男女の別は関係ないなっ!」
 父の道場でも、門下生には女子もそれなりにいる。今のところ杏寿郎が叶わないと認める女子には出逢ったことがないけれど、鱗滝範士の教えを直々に受けているからには、真菰の実力は相当なものだろう。義勇だって褒めていた。嫉妬心はどうしても消えてくれそうにないが、剣道においては余計な雑念が浮かぶ余地は、杏寿郎にはない。
 ワクワクと言った杏寿郎に、ルームミラーに映る真菰の顔が、ちょっぴり切なげな苦笑を浮かべた。
「……そっか! ならいいんだぁ」
 クフフとどこかうれしげに真菰が笑った理由は、よくわからないが、傍らで義勇も少し微笑んだのがやけに心に残った。

「あぁ、見えてきたぞ」
 錆兎の声にうながされて前方に目をむけると、昔ながらの瓦屋根の民家が見えた。隣に立つ建物は道場だろうか。
「お昼前につけてよかったねぇ。おじさん、運転お疲れ様でしたぁ」
「おぉ、渋滞にはまらんで済んで助かったな。爺さんが昼飯用意してくれてるはずだから、今日のところはのんびり休んで、石拾いするなら明日にしとけよ、義勇。杏寿郎くんもな」
 明るい真菰たちの声に笑い返そうとして、杏寿郎はふと目をしばたたかせた。
 そういえば、真菰が普通に話していたから気にしていなかったけれど、錆兎だけは、義勇が家族の話をしだしてからこっち、ずっと言葉数が少なかった気がする。
 話しかけられれば当たり前のように答えるから気づかなかったけれども、思い返してみると、錆兎から話しかけてくることはなかった。
 義勇の状態を案じていたのは確かだろうけれども、ドライブインでの休憩以降は義勇ももう常と変わりなかったし、家族の話もおしまいになっていたのに。義勇の家族のことは錆兎にとっても悲しみを呼び起こすのだろうし、そのせいかとも思うのだが、なんとはなし気になった。
 だが、車がついたことに気づいたのか玄関先に出てきた人物を認めてしまえば、杏寿郎の脳裏からそんな小さな疑問は吹き飛んでしまった。

「おじいちゃーんっ! ただいまぁ!」

 ドアを開けるなり明るい声をあげてその人に真菰が駆け寄ったのを見るまでもなく、ニコニコと柔和な笑みを浮かべているその人は、鱗滝左近次範士十段に違いない。杏寿郎は知らずブルリと体を震わせた。
 初段をようやく取ったばかりの――十三歳以上にならなければ初段の昇級試験は受けられないのだからしかたないけれども――杏寿郎から見れば、もはや雲上人と言ってもいいぐらいの人だ。剣の道を目指す先に立つその人の姿は、父にくらべれば小柄と言ってもいい。シャンと立つ背筋はピンと伸びて矍鑠としているが、いかにも好々爺然とした笑みには威圧感など微塵もなかった。
 感動と興奮に身を震わせる杏寿郎の肩を、つんっと義勇が指先でつついた。無表情のままだが目が少し笑っている。
「あ、あぁ、すまん! 義勇が降りられないなっ」
 あわててドアを開け車を降りると、義勇も後につづく。錆兎の側から降りずに杏寿郎につづいたのは、きっと杏寿郎を祖父に紹介するためなのだろう。すぐに杏寿郎の隣に立った義勇に、鱗滝の温和な眼差しがいっそうやわらかな笑みをたたえた。
「よく来たな、義勇。そちらが煉獄くんか」
「うん。いつもやさしくしてくれる。一緒に自由研究するんだ」
 微笑む目が、ひたりと杏寿郎に据えられた。と、その刹那、ゾクリと背を走った戦慄に、杏寿郎はグッと息を飲んだ。
 一瞬、鱗滝の体が一回り以上も大きく見えた気がした。見定められている。柔和な笑みはちっとも揺らいでなどいないのに、見据える瞳に宿る強い光は射抜くようだ。

 ゴクリと喉を鳴らし、杏寿郎は背を伸ばし胸を張った。

「煉獄杏寿郎と申します! お世話になります!」
 錆兎たちが――義勇がどう杏寿郎のことを伝えているのかなど、知らない。きっと悪く言われてなどいないだろう。だがそれに甘えてはいけない。鱗滝はおそらく自分の目で杏寿郎を見定めたいのだろう。だからこそのこの視線だ。
 ならば堂々と、あるがままの自分を見てもらわなければ。見栄や誇張はいらない。己を卑下し必要以上に卑屈になるのも違う。
 
 臆することなくまっすぐ鱗滝の目を見返した杏寿郎を、寸時沈黙したまま見つめた鱗滝は、ふと気配を緩ませるとやわらかく笑った。

「うむ。いい目だ。なにもないところだが、まぁのんびりしていきなさい」

 真菰にまとわりつかれながら背を向け玄関に入っていった鱗滝に、思わず杏寿郎の口から長い吐息がこぼれた。さて、これは合格ということだろうか。
 いずれにしても、二泊三日は気を抜けないかもしれない。武者震いした杏寿郎を、義勇が少し不思議そうに見つめていた。