満天の星と恋の光 4

 一風変わった光景となった昼食を終え、杏寿郎たちが部屋に戻ったときには、もう二時が近かった。いかに大食漢な杏寿郎でも、さすがに食べ過ぎの感がある。
 それでもせっかくの義勇の手作り――義勇はちょっと手伝っただけだと言うけれど、杏寿郎にとっては義勇の手によるものに変わりはない――クッキーだ。残すなんてできるわけもない。しかも、そのクッキーときたら、見た目からしてワクワクとして、いかにもおいしそうだったのだ。

 あれだけあったそうめんやてんぷらを平らげた後でも、母が皿に盛ったクッキーを食卓に置いてくれたとき、杏寿郎や千寿郎は思わず歓声を上げてしまった。父も感心した顔をしていたし、母からもとてもきれいにできていると褒められ、義勇はちょっぴり恥ずかしそうだった。

 義勇が持ってきたクッキーは、ニンジンやホウレン草、カボチャなどの入った野菜クッキーとやらで、緑やオレンジ色などずいぶんとカラフルだ。特に目を引いたのは紫色のクッキーで、いったいなにが入っているんだろうと首をかしげた杏寿郎に、義勇が言うことには
「紫芋のパウダーで作った。杏寿郎は、サツマイモが好きだって言ってたから……」
「ほぅ! そんなものがあるのか!」
「ほほぅ、どれ……痛っ!」
 杏寿郎が口にする前に、紫色のクッキーをつまんだ父の手を、パシリと母がはたいた。
「あなた、義勇さんが杏寿郎の好物だからと作ってくださったのですよ? まずは杏寿郎が食べてからになさいな」
「……あ、あの、いっぱいありますから」
 母にたしなめられたばかりか、義勇にも困り顔で言われ、形無しとなった父は少々気の毒ではある。けれども母の助勢は正直、杏寿郎にとってはありがたい。心が狭いと思わなくもないが、義勇の手作りならばやっぱり自分が一番最初に食べたいのは確かなのだ。
 父のちょっぴり恨みがましい視線をあびつつ、杏寿郎は、少しドキドキとしながら紫色のクッキーにかじりついた。
 さっくりと軽く割れたクッキーは口のなかでホロホロと崩れて、噛みしめるとバターとほのかな野菜の香りが鼻に抜ける。市販のクッキーと比べると甘さは控えめだ。パウダーと言われたが、しっかりとサツマイモの味もしていた。
 思わず顔を輝かせた杏寿郎の傍らから、義勇の緊張が伝わってくる。じっと見つめてくる瞳はちょっと不安げだ。
「うまいっ! 義勇はすごいな、こんなものを作れてしまうとは!」
「俺は、手伝っただけだ」
 安堵と気まずさをないまぜたような声で言い、義勇は謙遜するが、杏寿郎からすればこんなクッキーが家で作れるということ自体が、称賛に価すると思う。

「謙遜されなくてもよろしいんですよ。お手伝いも立派だと思います。義勇さん、私はこういったものを作ることがないので、よろしかったら今度教えていただけますか?」
「義勇さん、すごくおいしいです!」
「うぅむ、ちゃんと野菜の味がするな。野菜がこんな菓子になるとはなぁ。義勇くんは料理上手だな!」

 口々に感心され、義勇は恥ずかしそうに身を縮こまらせていた。けれどもどこかうれしそうだ。

「本当にうまい! 義勇、よければまた作ってくれないだろうか」
 図々しいかなと思いつつ、期待を込めて言えば義勇は、まだ少し恥らうようにしながらも、こっくりとうなずいてくれた。
「……あの、クッキーだけじゃなくて、パウンドケーキとかにもそのパウダー使えるんだ。だから……今度は、それで」
 断られるかとも思ったが、義勇はそんなことまで言ってくれる。『今度』がある喜びと、よもやの驚きに、杏寿郎は目を輝かせた。
「本当か!? 義勇はケーキまで作れるのか、すごいな! 楽しみだ!」
「あら、ならそのときは、我が家で作っていただきましょうか。作り方を教えてくださいな、義勇さん」
 どこか弾んだ声で言う母にも義勇はうなずいた。
「俺は手伝うだけだったけど、あの、姉さん――姉のレシピノートがあるので、たぶん大丈夫です」
 義勇の言葉にギクリとして、あわてて杏寿郎は手にしていたクッキーを口に放り込んだ。
 すぐさま義勇の左手を握ろうと手を伸ばしかけた杏寿郎に、義勇の顔が向けられる。義勇は落ち着いていた。ゆるく小さく首を振り、そっと微笑んだのは、大丈夫という意思表示だろう。
 けれどもそれで杏寿郎が安心できるかと言えば、そうもいかない。モグモグと急いで口のなかのクッキーを噛んでいると、義勇がちょっぴりおかしそうに笑った。
 重ねて大丈夫と告げるようにうなずいた顔も、やっぱり穏やかなままで、笑みは少し苦笑めいている。とはいえ、なんともないわけではないのだろう。唇はほんの少し震えていた。
 だが杏寿郎にしても父や母がいる前で、本当に大丈夫かと問い詰めるわけにもいかない。家族のことを話すと義勇の手が凍りついてしまうことまでは、誰にも話したことはないのだ。
 それは、義勇が杏寿郎だけに明かしてくれた秘密だ。義勇の許可なく杏寿郎が話していいものではない。だから父や千寿郎、母にさえも、杏寿郎は教えてはいない。
 義勇を温めてやるのは自分だけがいい。そんな身勝手な望みもある。
 杏寿郎の不安が途切れたのは、母の少し楽しげな声によってだった。

「いつか杏寿郎のお嫁さんが来たときの予行練習ですね。義勇さんとお台所に立つのが楽しみです」
「嫁っ!? い、いや、瑠火。義勇くんは男の子だろう。むろん、そんじょそこらの女の子よりもかわいらしいし、性格もすこぶるいいと思うが……」

 面食らった顔で母につめ寄った父が、まじまじと義勇を見つめてくる。杏寿郎も母の発言にはギョッとしたが、父の衝撃はそれ以上だったようだ。
「義勇くんが……杏寿郎の嫁……」
 なにを想像しているのだか腕組みしじっと見据えてくる父に、隣で義勇がカチンと固まっている。
 父の視線は圧があるから気持ちはわかる。だが、父を咎める余裕は杏寿郎にもなかった。

 嫁……義勇が、俺の、嫁……?

 父の言う通り、義勇は男だ。嫁になどこない。わかっているのに、嫁という言葉が頭のなかをグルグル回って、勝手に顔が熱くなっていく。
「あなた? お嫁さんが来たときと言ったでしょう? 義勇さんがお嫁に来たときとは言っておりません」
 すました声で言い、母は杏寿郎を見て微笑んだ。どこか意味ありげな視線に、杏寿郎の動揺はますます高まってしまう。
 きっと母の言葉に他意はないのだろう。義勇が嫁に来るなどあり得ない話だ。だけれども、母の瞳はなにもかもお見通しとつげているようで、落ち着かないことこの上ない。
 思った刹那、また杏寿郎は疑問を覚えた。

 なんでお見通しなんて言葉が浮かんだんだろう。なにを母はわかっていると、自分は今思ったのか。

 自分でもつかめずにいる杏寿郎の心を、義勇に対する大好きの気持ちの本当の意味を、母はわかっているということだろうか。
「さぁ、そろそろ千寿郎もお昼寝の時間です。あなたも急いで整体院に戻らないと、ご予約のお客様がいらしてしまいますよ」
 言って立ち上がる母を視線で追えば、千寿郎がクッキーを手にしたままコクリコクリと舟をこいでいた。どうりで先ほどから静かだったわけだ。朝から義勇が来ると興奮していたし、いつもよりも少し遅い昼食になったから、こらえきれなかったのだろう。

「義勇さんもお気になさらず。……あなたの素直なお気持ちのまま、お進みなさい。どのような答えを出されても、我が家は動じません。杏寿郎、あなたもですよ?」
「え……? あ、あの」
「母上? それはいったい」
 言葉の真意がわからず腰を浮かしかけた杏寿郎の隣で、やはり義勇も同様なのか、すがるような視線を母と杏寿郎に交互に向けている。

「る、瑠火? それは、その」
「あなた、お早く。お客様をお待たせする気ですか? 義勇さんのクッキーは後でまた持っていって差し上げます」
「……はい」

 母は答えず、千寿郎を抱きあげニッコリと笑っただけだった。しょんぼりと肩を落とした父が未練ありげに居間を後にしてしまえば、杏寿郎たちにも居間に留まる理由はない。片付けはいいからお勉強の続きをなさいと母に言われてしまえばなおさらだ。

 そうして。
 ちょっと気まずく戻った杏寿郎の部屋で、再び向かい合って座れば、思い起こされるのは義勇の震えていた唇や手だ。
 母の言葉はよくわからなかったが、どういうことだろうと口にしてしまえば、嫁という言葉も蒸し返すことになる。ただの冗談、笑い話としてしまうには、その文言は杏寿郎の胸をざわつかせて、たやすく口にすることはできそうにない。
 それに、義勇が話したがっていたのを止めてしまったのも確かだ。
 大丈夫かと聞いた杏寿郎の意図は過たず義勇には伝わったらしい。ちょっぴりバツ悪く笑った義勇に、いつも通りの空気が戻ってくる。
 父をダシにしてしまったのは申しわけないが、笑いあったことで義勇もまたくつろいでくれたようだ。

「さて、続きをやるか。頑張らないと今日中に終わらなくなってしまうからな!」
「標本箱、あといくついる?」
 会話もスムーズで、作業を始めてしまえばすっかり元通りだ。互いに黙々と手を動かすばかりとなる。
 午前中と違って家には母も千寿郎もいる。だが、千寿郎は昼寝しているし、母も台所にでもいるものか物音は聞えてこない。
 ふたりきり、蝉時雨と風鈴の音が聞こえる部屋で、向かいあい言葉もなく。けれども沈黙はけっして気詰まりではない。ふと顔をあげれば、そこに義勇の顔がある。視線に気づいてあげられた義勇の目が杏寿郎の視線と合って、互いに少しこそばゆく笑いあう。義勇の視線が先でも同じこと。沈黙のなかでただ眼差しをあわせて微笑みあう、やさしく穏やかな時間が過ぎていく。

 どれぐらい経っただろう。ずっと下を向いての作業に、首がこわばっている。杏寿郎は作業の手を止めた。首を回せばコキリと音がする。
 一休みしたほうがいいかもしれない。義勇もそろそろ疲れただろう。
 麦茶のお代わりを貰ってこようかと、義勇に声をかけようとした杏寿郎は、義勇の様子にパチリとまばたいた。
 うつむく義勇の頭がゆらゆらと揺れている。ハッと顔をあげては小さく首を振り、また手を動かしだすのだが、動作はずいぶんと緩慢だ。
「義勇、眠いのか?」
 珍しいこともあるものだと少し心配して聞けば、義勇の目が杏寿郎に向けられた。どうにもまぶたが重そうで、瞳もとろりと焦点が合わずにいるようだ。
「ん……」
 イエスともノーともつかぬ一音をもらし、パチパチとまばたきして眠気を追いやろうとしているようだけれど、あまり効果はないのだろう。今にも寝落ちてしまいそうだ。

 教室で義勇が居眠りするところなど、一度も見たことがないのに、こんなに眠そうにしているのは本当に珍しい。

 必ずクラスのなかでひとりは眠ってしまう五時限目の国語の授業でも、義勇はしゃんと背筋を伸ばしているのだ。国語の先生は老齢でしゃべり方もおっとりと穏やかなものだから、朗読を聞いていると杏寿郎でも眠気を覚えるというのに、義勇だけは真面目な顔で眠気など感じていないように見えた。
 その義勇が、こんなにも眠そうにしている。
 杏寿郎は義勇が舟をこぐさまなど、海に行った帰りにしか見たことがない。離岸流から逃れるために必死に泳いだときと同じくらい、もしかしたら今日の義勇は疲れていたということだろうか。気づかずに我慢させてしまっていたのだとしたら、申しわけないにもほどがある。
「眠ってもいいぞ。続きは俺がやっておこう」
 小さな声で促しても、義勇は首を振るばかりだ。
「だが、もうまぶたがくっつきかけてるぞ? ひと眠りしたほうが効率もいいだろう」
「……杏寿郎だけに作らせるの、駄目だ」
 そんなことを言うくせに、小さくあくびまでするから、杏寿郎はちょっと苦笑した。
 生真面目が過ぎる義勇の言は、微笑ましくもあり寂しくもある。

 もっと頼ってくれてもいいのに。甘えてくれたら、絶対に張り切って終わらせてみせるのに。

 少しばかり歯がゆくはあるが、でも、これが冨岡義勇という人なのだ。そんな義勇だから大好きで、そんなだから杏寿郎は、もっともっと義勇を甘やかしてしまいたくなる。

 このまま言い合っても義勇は頑として聞き入れないだろう。杏寿郎は静かに立ち上がると義勇の腕を取った。
「なら、一緒に少し昼寝しよう。一緒ならいいだろう?」
 ぼんやりと見あげてくる義勇の顔は、常よりどうにも幼い。むぅっと眉根を寄せて小さくイヤイヤするように首を振る様は、まるで千寿郎を見ているようだ。
「布団を敷くから待っててくれ」
 義勇を文机の前に座らせて、杏寿郎はテキパキと卓袱台を部屋の隅に寄せた。
 慣れているから洋間よりも落ち着くけれど、こういうときには和室というのはちょっぴり面倒だ。ベッドだったのなら、そのまま義勇を押し込んでちょっと眠れで済むけれど、押入れから布団を出して敷くまで待っていてもらわなければならない。
 慌ただしく片付けを済ませて布団を敷けば、義勇はいよいよぼんやりと、小さく唇を尖らせている。その様子はやっぱり、もっと遊んでいたいとむずかる千寿郎とよく似ている。
「ホラ、義勇。ちょっと眠ろう」
 笑いかけながらポンポンとやさしく頭を撫でてやれば、見上げてきた義勇が、眩しいものでも見たみたいにキュッと目をつぶった。
「限界みたいだな」
 動くのも億劫そうな義勇の腕を引くと、存外素直に義勇は立ち上がった。でも顔はふてくされる子どもみたいなままだ。
 そっと腕を引きながら布団に横になれば、義勇もコロリと杏寿郎の隣に横たわった。千寿郎に添い寝してやるのと同じ距離だ。腕のなかに閉じ込めてしまえる近さに、義勇がいる。

 ひびく蝉しぐれ。風がカーテンを揺らすたび、リーンと涼やかに鳴る風鈴。ちょっと古い扇風機がブーンと音を立てて回っている。
 寝転んだ瞬間には、ヒヤリと涼を伝えてくれた乾いたシーツは、すぐに体温に馴染んで気だるい暑さにふたりは包まれた。
 義勇はゆるゆると目を開けたり閉じたりしている。半開きのとろりとした目はあどけない。
「義勇が寝不足とは珍しいな」
「真菰が……悪い」
 チクリと胸を刺した痛みは、嫉妬だと、杏寿郎はもう知っている。けれども、それがどこからくるものなのかは、まだわからない。
 狭量な自分を諫めるように、杏寿郎はまた義勇の頭を軽く撫でた。
 義勇の髪は艶やかだけれど癖が強くて、まとまりなく跳ねている。でも触り心地がいい。腰があって硬い髪質のようなのに、触れると存外柔らかくて、ずっと撫でていたくなる。
 千寿郎に添い寝してやるときと同じことをしているはずなのに、全然違う。撫でていないと抱きしめてしまいそうだなんて、そんなこと、千寿郎に思ったことはない。義勇にだけだ。
 髪を撫でて、頬に触れて、ギュッと、ギュウッと、抱きしめたくなる。キスがしたいと、思ってしまう。
 そんなのは、義勇にだけなのだ。義勇だからなのだ。
 でも、それは友達のすることじゃない。友達の距離はきっとここまでだ。こんなに暑いなか抱きあって眠るなんて、きっと友達はしない。だから、義勇に近づけるのはここまで。これ以上は、近づけない。抱きしめてはいけない。
 なぜ抱きしめたいなんて思うのか、理由はまだわからないまま。甘く苦しい胸の痛みを覚えつつ、杏寿郎は義勇の髪を撫でつづけた。
 不意に、身じろいだ義勇がすり寄ってきた。額を杏寿郎の胸にこすりつけるようにして、寝心地の良い場所を探している。まるで猫の子のようだ。
 近すぎる距離は、跳ねて飛び出しそうになった心臓の音までも義勇に聞こえてしまいそうで、杏寿郎は思わず声をあげた。
「ぎ、義勇?」
「……ん?」
 とろんと潤んだ瞳が見上げてくる。青い青い海の瞳は凪いで穏やかだ。眠気のせいかいつもより濡れて見える瞳は、キラキラと星がまたたくようなきらめきをたたえて見えた。
 鼻先をくすぐったのは、少しの清涼感と汗の匂い。シャンプーの匂いだろうか。ペパーミントに似た匂いだ。それに混じる汗の匂い。不快感はまるでなかった。ただドキドキとする。

 義勇の、匂いだ。

 やり場に困ってあげたままの腕を、背に回しても許されるだろうか。抱きしめて眠るなんて、そんな距離を義勇は許してくれるのか。でも、近づいてきたのは義勇だ。この状態で直立不動で眠れなんて無理難題は言わないんじゃないのか?
 グルグルと回る思考を持て余していると――ついでにあげっぱなしの腕も少々つらい――また義勇が身じろいで、にじるように離れていこうとした。
 嫌だ。そんな言葉が浮かぶより早く、杏寿郎の腕は動いていた。ギリギリで欲求を抑えこんだ自制心によって、そっと義勇の背に回した手は、少し震えている。義勇に気づかれないといいのだけれど。
「その、このまま寝てもいいだろうか……?」
 恐る恐る聞いた声は、我ながら情けないほど甘ったれている。
 幻滅されるだろうか。嫌がられたらどうしよう。泣きたくなるかもしれない。
 不安は、こくんとうなずいた義勇によって、すぐに体中を駆け回る歓喜へと取って代わった。

 抱きあう体は熱い。自然と流れる汗がこめかみを伝う。義勇の体も汗ばんで、でも、触れるサマーニットの背はサラリとしている。
 そっと背を撫で辿り、義勇のうなじにかかる髪に触れてみた。うなじに触れていた髪は汗を含んでしっとりとしている。
「君の髪は……真っ黒だな。やわらかい」
「きょうじゅろは……キラキラ」
 常にはなく舌っ足らずな義勇の声は、子どもじみていた。緩慢にまばたきを繰り返す目も稚くて、愛らしさに息が詰まった。と、義勇の腕がゆっくりと持ち上げられ、杏寿郎の背に回された。
 呼吸すら止まるほどの衝撃は、義勇には伝わってはいないようだ。身を固くしてまじまじと見つめる杏寿郎の動揺など気づいていないのか、義勇はそろりと杏寿郎の髪を撫で、花のようにふうわりと笑うと目を閉じた。

 幸せそうに。なんの憂いも悲しみもなく、ただ安堵と幸福感だけに包まれて浮かべる、花の笑み。

 そうっと、杏寿郎は息を吐きだした。抱きしめるだけでなく、抱き返されている。抱きしめあっている。友達とするハグよりももっと密やかにやさしく。
「……おやすみ」
 ささやいた声が、やさしく義勇に届けばいい。髪を撫でる手が、やわらかく温かく感じられるものならいい。なにも心配いらないと、この腕のなかはどこよりも安全なのだと、思ってほしい。幸せだと、笑ってほしい。
 そして。願いに応えるように、義勇の唇が少しだけ動いた。なにをつぶやこうとしたのかはわからない。けれど、義勇の顔はたとえようもなく幸せそうだった。

 すうすうと穏やかな寝息が聞こえる。ともすれば蝉の大合唱にかき消されそうな、小さな吐息の音も、この距離ならば聞き漏らすこともない。鼻をくすぐるのはペパーミントと汗の匂い。義勇の匂いだ。

 義勇のこめかみから汗が一滴、白い頬を伝い落ちていくのを、杏寿郎はじっと見ていた。腕のなかの義勇の体温は熱い。命の温もりがそこにある。あの手の冷たさはそこにはなく、ホッとするのになぜだか涙が出た。
 まばたきすることすら惜しい。一瞬たりと義勇から目をそらせたくない。見つめていたい、義勇のすべてを。
 胸を締めつけるのは愛おしさ。それは信じがたいほど大きく、揺るぎなく、杏寿郎のすべてを支配する。
 義勇を見つめる杏寿郎の瞳から、涙は静かにあふれては落ちる。なぜ自分が泣いているのかなんて、知らない。わからない。けれど止まらなかった。
 悲しいわけでも、つらいわけでもないのに。そう、ただ幸せで、愛しくて。涙が止められない。

 好きだ。大好きだ。浮かぶ言葉はそればかり。
 こんな感情は、やっぱり友達へのものじゃない。
 友達よりももっと深く、強い、揺るがぬ愛おしさ。
 家族とも違う。家族でも足りない。狂おしい切なさ。

 答えはきっと単純で、どこにでも転がっている凡庸な一言なのだろう。けれど、それを明確な形にすることを杏寿郎はためらった。認めてしまったら、どうなるのだろう。臆病な心がささやく。義勇は、どう思う? 義勇には迷惑なだけじゃないのか? ささやきが答えを出すことを阻む。
 見えている答えをつかむことができぬまま、杏寿郎は、ただ義勇を見つめていた。
 瞳を閉じることもせず、ただじっと、静かに。義勇だけを、見つめつづけた。
 カーテンを揺らして吹き込む風にも乾くことなく流れる涙は、そのまま静かに乾いたシーツに吸い込まれていった。