満天の星と恋の光 3

 真っ赤になって絶句している杏寿郎を、義勇と千寿郎がそろって不思議そうに見ていた。見やる視線はちょっと心配そうでもある。
 だが、理由など言えるわけもない。杏寿郎自身、なににこれほど動揺しているのは、説明するのは困難だ。母だけが訳知り顔でクスリと笑っていたが、それもまた杏寿郎にはいたたまれなかった。
「兄上、お顔が真っ赤です。大丈夫ですか?」
 千寿郎の心配そうな顔が、ますます杏寿郎を身の置き所がない心持ちにさせる。赤くなっていたはずの義勇の顔も、すっかり赤みが引いていて、やはり不安そうな目で杏寿郎を見ていた。
「だ、大丈夫だ! いやぁ、今日は暑いな!」
 大きな声で空笑いしてみせると、千寿郎は素直に安堵の笑みを浮かべたが、義勇はまだ腑に落ちない顔をしている。

「お昼の支度をしますから、あなたたちも一休みしてはいかがですか」

 杏寿郎の赤く染まった顔の訳を、ひとり承知している気配の母の言葉に、杏寿郎はあわててうなずいた。
「そうだなっ! 義勇、一休みしよう!」
「うん……」
 タイミングよく千寿郎のお腹がキュルっと小さく鳴って、今度は千寿郎の顔に朱が散る。はわわと恥らう様が愛らしくて、杏寿郎の動揺がスッと薄れた。義勇の顔にもほのかな微笑みが浮かんでいる。
「腹が減るのは元気な証拠だ! 千寿郎、恥ずかしがることはないぞ!」
「千寿郎、急いで支度しますからお手伝いしてください」
「……はいっ! あの、義勇さん。今日はおそうめんと天ぷらです。玉子焼きも焼いてくださるって母が」
 まだ恥ずかしげではあるが、どこか誇らしそうに千寿郎が言えば、義勇は小さくうなずいて千寿郎の頭を撫で、台所に向かおうとした母を呼びとめた。
「あの、俺もお手伝いします」
「まぁ、お気遣いありがとうございます。でもお客様なのですから、ゆっくりしておいでなさい」
 いかにもうれしげに笑った母が、千寿郎をうながし立ち去る。取り残された格好の杏寿郎と義勇はなんとなく顔を見あわせた。少しバツが悪いのは杏寿郎だけではないようだ。義勇の顔もほんの少し眉尻が下がっている。

「……とりあえず、片付けて居間に行こうか」

 こくんとうなずく義勇にホッとする。千寿郎のお陰で杏寿郎の動揺はすっかり消えたけれども、義勇はまだちょっと疑わしげな眼をしていた。
「……杏寿郎、本当に大丈夫なのか?」
 そんなことを聞かれてしまえば、またぞろ鼓動が跳ねて、杏寿郎の顔に赤みが戻ってしまうけれども、先ほどほどのような動揺はない。ただただ気恥ずかしい。
「その……下着を貸し借りするというのが、こんなに恥ずかしいとは、思わなかったんだ。というよりも、下着も俺のものだとまで、あの日は気が回らなくて……」
 常になく言い淀んでしまった杏寿郎に、義勇の顔もまたほわりと花の色に染まった。
「あ……そうか」
 言ったきり恥ずかしそうにうつむいてしまうから、また杏寿郎の鼓動は騒ぐ。今度のドキドキは、さっきのようなパニックめいたものよりも、なんだか甘苦しかった。
「さ、さぁ! 片付けようか!」
「うん」
 うながす声もなんとなく上ずって、我ながら空々しい。義勇もなんとはなしぎこちないように見える。けれども居心地の悪さは感じない。うれしく照れくさい恥ずかしさは、やっぱりどこか甘く感じる。
「義勇は料理をするのか? 俺はさっぱりだ。台所仕事だけは、母は頑として手伝わせてくれんのだ」
「そうなのか?」
「うむ。小学校のときも、調理実習ではみんなに煉獄くんは食器洗い専門と言われ、料理させてもらえなかった」
「杏寿郎にも苦手なものがあるんだな」
 ちゃぶ台の上を片付けながら、義勇はクスクスと笑う。初めて逢ったときと同じ、花のような笑みだ。あどけなく穏やかで、やわらかくやさしい。

「勉強も運動もできるし、みんなに頼られてるし、やさしい。杏寿郎はなんだってできるんだと思ってた」
「えっ! あ、げ、幻滅させてしまったかっ!?」

 思いがけず義勇に褒められたのはうれしいが、つづく言葉にはあわててしまう。
 身を乗り出し食いつくように言った杏寿郎の顔は、いかにも情けなくしょんぼりとして見えたのだろう。義勇が少し驚いたようにパチリとまばたいた。
「なんで? 俺にも杏寿郎よりできることがあるんだなって、ちょっとうれしかった」
 義勇はやっぱり笑っている。咲き初めの可憐な花のように控えめに、静かに。うれしくて、幸せで、見惚れてしまうのに、ちょっぴり胸が苦しいのはなぜだろう。
 けれども、その苦しさはつらくはない。甘やかさを伴う小さな痛みだ。

 痛みの理由はわからない。だが、この笑みをずっと見ていたいと杏寿郎は思った。こんな笑みを義勇がずっと浮かべていられればいい。そう願った。

 蝉時雨のひびくなか、ふたりは、ゆっくりと片付けをする。穏やかでやさしい沈黙が、消えてしまうのはなんだか惜しくて。義勇も同じように思ってくれているのだろうか。カッターなどをしまう動作は杏寿郎と同じくらいゆっくりとしていた。
 千寿郎がご飯ができましたと呼びに来るまで、言葉もないまま、蝉の合唱と風鈴の音だけがひびく部屋で、ふたりきり。穏やかでやさしくて、ちょっぴり気恥ずかしい時間が過ぎていった。

「義勇、大丈夫か?」
 少し気遣わしく聞いた杏寿郎に、小さく笑ってうなずいた義勇の顔は、ほんの少しバツ悪げだ。だがつらそうな気配はまるでなかった。
「おじさん、ちょっとかわいそうだった」
「うむ。だが俺は右利きだからしかたがないなっ!」
 カラリと笑って言えば、義勇の笑みがはっきりと苦笑に変わる。だがそれもすぐにクスクスといかにも楽しげな思い出し笑いに変わった。今日の義勇は表情豊かだ。
 父が居間に現れたときにはちょっぴり緊張したようだったが、杏寿郎の部屋に戻った今は、心底くつろいでいるように見える。

 いつもは台所にあるテーブルで食べる食事も、義勇が一緒の今日は、前回同様に居間の大きな丸い卓を囲んでとなった。
 真ん中にドンと置かれた大量のそうめんは、氷水をまとってキラキラといかにも涼しげだ。ショウガやネギ、ミョウガにシソなど各種取り揃えられた薬味や、めんつゆが入れられた器は、揃いの江戸切子。母のとっておきだ。ずいぶんと義勇を気に入っているのがそれだけでもよくわかる。
 おかずはいくつかの皿に盛られた天ぷらだ。煉獄家ではそうめんと言えば天ぷらがつきものである。サツマイモやちくわ、鶏肉にアスパラガス。人参とごぼうのかき揚げに、ちょっと変わり種のアボカドやら、玉ねぎやカボチャなども取りそろえた野菜を中心とした天ぷらも、どっさりと置かれている。
 今ひとつの皿には、玉子焼きもきれいに並べられていた。焦げ目のないきれいな黄色の玉子焼きは、いつも以上にふっくらとしていかにもおいしそうだ。
 麦茶が入れられているグラスもやっぱり江戸切子で、なかでカランと氷が涼しい音を立てた。

 杏寿郎の座布団の右隣に置かれたお客様用の座布団は、義勇のために用意されたものだろう。いつもは千寿郎の指定席となっている場所だが、今日はニコニコと義勇の右隣に座っている。反対隣りは母だ。
 卓は大きいから、昼休みの非常口のようにくっつきあわなくても座れるけれど、杏寿郎と義勇、そして千寿郎の座布団の距離は近い。どうやら千寿郎が座布団を置いたものらしい。
「義勇さん、あの、千がシソを取ってきました。義勇さんはシソの葉っぱ好きですか?」
 モジモジと恥ずかしげに言う千寿郎の頭を撫でる義勇の手は、初めて逢ったときにくらべれば、少しぎこちなさが消えたように思えた。千寿郎ぐらいの年頃の子に慣れてなさげだった義勇も、だいぶ千寿郎とは打ち解けている。
「ならいっぱい貰う。千寿郎はお手伝いできていい子だな」
 義勇の表情はいまだ無愛想に見えなくもないが、少しだけ口角を上げやさしく話す声も穏やかだ。杏寿郎は当然のことながら、母もそんなふたりをにこやかに見つめている。
「もうひとり兄が増えたようですね、千寿郎」
 母の言葉にパッと顔を輝かせた千寿郎が、はい! と答える声もうれしげだ。義勇はといえば、ちょっと驚いたように目を丸くしたものの、すぐにムフフと子どもっぽい笑みを浮かべた。まんざらでもないらしい。

 そういえば義勇には姉がいるっきりだったし、錆兎たちにも世話を焼かれているようだったな。

 なるほど。千寿郎が生まれたころ、杏寿郎もソワソワワクワクとうれしく誇らしい気持ちがしたものだが、同じ気持ちを今義勇も体感しているのかもしれない。義勇はもう、煉獄家にとっては家族同然という扱いだと、母や千寿郎も思っているのだろう。
 思ってふと杏寿郎は目をしばたたかせた。

 家族。兄弟。友達よりも近しい関係だ。もしかして義勇に対していだく大好きの気持ちは、それなんだろうか。キスがしたいと思うのも。

 考えてみれば杏寿郎だって、あんまりかわいくて千寿郎の頬にキスすることはよくある。もっと幼いころには、父や母も杏寿郎の頬によくキスしてくれた。父はたまに口にキスしようとしてきて、おひげイヤですと嫌がる杏寿郎になお笑い、しつこくキスしようとしては母に説教されていたのを杏寿郎は覚えている。今は千寿郎に対して同じことをしては、やっぱり父は、母に正座させられたりしているのだ。

 友達よりももっとずっと近い関係である、家族、兄弟……それなのかもしれない。義勇のことを、俺は兄や弟のように思っているのかもしれない。さすがに息子とは思わないが。

 キスしたくなったのは、そのせいか。それならばごく自然なことじゃないか。
 思い浮かんだその答えは、これ以外ないとも思うのに、なんだかちょっと納得しがたいような気もする。だが、友達以上に、家族以上に、心の距離が近く慕わしい関係など、杏寿郎には思いつかない。
 なんとなくスッキリしないまま、それでも義勇が自分の家族という答えは、杏寿郎に安堵をもたらしもした。
 うじうじグズグズと悩むのは性に合わないのだ。家族ならば一緒にいたいと思ってもなにも不自然ではない。キスだってかわいいと思えばしたりする。これが答えならもう悩む必要もない。

「おぉ、義勇くん! よく来たな。先日は本当に千寿郎が世話になった。あの日はご家族の方にもしっかりお礼をできずにいたが、いずれ改めてご挨拶に伺わせてくれ」

 微笑ましい義勇と千寿郎の様子を見つめながら、自分に言い聞かせていた杏寿郎の思考は、父の登場でいったん途切れた。
「いえ……あの、おじさんたちも気にしないでくれと。かえって俺のほうがいろいろお世話になって、申しわけないです」
 姿勢を正して答えた義勇は、一見落ち着いて見えるが少しあわてているようだ。いつもよりちょっぴり表情が硬く、言葉も少し早口だった。
 それが証拠にちらりと杏寿郎に向けられた顔は、眉尻がわずかに下がっている。謙虚な義勇にしてみれば、当たり前のことをしただけなのに歓待しきりだった前回の訪問のうえ、更に礼など言われるのはいたたまれないのだろう。そんな義勇の心の機微が伝わってくるのが、なんだか誇らしい。
 ほんの些細な義勇の変化を読み取れるぐらいに、杏寿郎と義勇の距離は近くなった。杏寿郎が義勇をかまい続けているためばかりではない。義勇自身が、己の感情をわずかにでも杏寿郎に対して示してくれているからだ。心を開いてくれているのだ。
 思えば杏寿郎の胸は誇らしさと慕わしさにふくらんで、自然と顔もほころぶ。
「義勇、俺も錆兎たちには改めて詫びを言いたいと思っていた。あの日の君への感謝と、不安にさせてしまった錆兎たちへの詫びは、コンビニで買った菓子折り程度で済ませられるものではないからな。それに、俺も君のご家族にちゃんとお会いしてみたい!」
 言えば義勇はますます困り顔になってしまったけれど、こればかりは引き下がるわけにもいかない。

 海岸に行ったその夜に、車で送っていった義勇を玄関先で待っていた錆兎や従妹の真菰の顔は、くっきりと杏寿郎の脳裏に焼きついている。母から無事を伝えられていても、落ち着けずにいたのだろう。ふたりは玄関前でずっと待っていたものらしかった。
 義勇! と叫んで一目散に駆け寄ってきたふたりは、杏寿郎のことなどまるで目に入っていない様子だった。
 いつも余裕綽々に見える錆兎の不安げな顔や、初めて見た真菰という女の子の半泣きの顔に、杏寿郎だって胸が締めつけられたのだ。義勇の罪悪感はきっとそれ以上だったに違いない。
 すぐに出てきた錆兎の両親も、安堵の顔をしていた。改めて礼にとの父の言葉に、お気になさらずにとは言ってくれたが、やはりそれで済ませていいものでもないと杏寿郎も思う。大人である父や母は尚更だろう。

「お礼やお詫びという形ではなくとも、お近づきになれたということでいずれ会食でもいたしましょう。長いお付き合いになるかもしれませんし」
 
 さぁ、その話はおしまい。早く食べてしまいなさいと微笑む母は、ひとり泰然としている。杏寿郎と義勇に向けられた眼差しが、なぜだかちょっと意味ありげに見えて、杏寿郎はキョトンと小首をかしげた。だが母はクスリと楽しげに笑っただけだった。

 大食漢である杏寿郎はもちろんのこと、上機嫌な父や日頃食が細い千寿郎も、よく食べた。最初は少し緊張していたような義勇も、やがて昼休みと同じ穏やかな落ち着きをみせていた。
 真っ先に選んだ薬味は杏寿郎ともどもシソで、千寿郎がうれしげに笑うのに「おいしいよ」と笑い返してやる顔はやわらかかった。
 和やかな昼食は、やっぱりみんな義勇をかまいたがるから、いつもよりちょっとだけ賑やかだ。
 いつものように義勇の顔には食べかすがついている。錆兎がするように摘まみとって自分の口に入れた杏寿郎に、父が一瞬呆気にとられた顔をしていたが、なぜだろう。

「今日は食後にクッキーがありますよ。義勇さんからのおもたせで失礼ですが」
「おぉ! そういえば手作りなんだったな。錆兎の母上と真菰さんが作ったのか?」
 母の言葉に、義勇が母に手渡していた袋を思い出し杏寿郎がワクワクと聞けば、義勇はこくりとうなずいた。
「野菜ので……俺も、手伝った」
「えっ!? 義勇の手作りなのか!?」
 驚いた杏寿郎が、少し恥ずかしそうに言う義勇につめ寄れば、義勇はちょっと頬を赤く染めて、またこくんとうなずく。
「でも、人参とかすったり、型抜きしたりしただけだ。いつも……姉さんと一緒に、してた、から……姉さんは、お菓子作り好きだった、から……」
 話しながら、義勇の顔の赤みがスッと冷めていく。声はだんだんと小さく、か細くなり、唇も少し震えていた。
 千寿郎たちの前だ。必死に落ち着こうとしているのだろう。義勇は箸を持つ右手はそのままに、左手をそっと膝に下ろしギュッと握りしめていた。震える唇も懸命に微笑もうとしているように見える。

 迷わず杏寿郎は箸を置いた。空いた右手で義勇の左手を包むように握りこむ。義勇の手は冷たかった。

「義勇っ!」
 笑ってアーンと大きく口を開けた顔を義勇に向ければ、義勇はわずかに戸惑う様子を見せたが、昼休みと同じように玉子焼きをつまんだ箸を杏寿郎に差し出してくれる。
「うむ! うまい! やはり義勇に食べさせてもらうといつもよりおいしく感じるなっ! 次はサツマイモをくれ!」
 握る手に力を込めて笑いかけると、義勇の青い瞳が少しゆれて、震える唇が自然に弧を描いた。
 父や母の前で泣きだすまいと我慢していたらしい義勇の瞳は、うっすらと涙の膜が張られていた。けれども杏寿郎の口におかずを運ぶたび、少しずつやわらかな笑みが浮かんでくる。
 話したいけれど話せば泣いてしまう。そんな義勇の葛藤を酌みとれたことに杏寿郎は安堵した。
 いっぱい話を聞いてやりたいが、ふたりきりでのほうがいい。義勇を思い遣っての判断には違いないのだけれど、ほんのちょっぴり、義勇の心に一番深く触れるのは自分だけがいいなんて、そんなわがままな気持ちがあるのが不思議だった。

 父や母、千寿郎にだって、見せたくない。震えて凍える義勇を温めるのは、自分だけがいい。

「あらあら、仲のいいこと。でもそれじゃ義勇さんが食べられませんよ」
 ポカンとしている父とは裏腹に、母はどこまでも楽しげだ。
 それもそうだなと杏寿郎は思っただけだったが、義勇は、母の言葉に気恥ずかしくなってしまったらしい。ちょっと身じろいで視線を泳がせていた。
「それなら義勇さんには千が食べさせてさしあげます! 義勇さん、なにがいいですか?」
 なんの含みもなくうれしげに笑った千寿郎に「玉子焼き」と答えた声も戸惑いが露わだ。
「義勇さん、はい、アーン」
 小さな子ども用の箸で器用に摘まみ上げた玉子焼きを、義勇の口がパクリと食んで、うまいと微笑む様は心が和む。

 義勇にアーンされるだけでなく、食べさせてやるのも千寿郎とおそろいになってしまったか。ちょっと残念な気もしたが、海岸でのような嫉妬は浮かんでこなかった。
 少しは自分も成長して余裕が出たんだろうか。いや、むしろ。
「では、千寿郎には私が食べさせてあげましょう」
 と笑って、千寿郎の口に天ぷらを入れてやった母と、どこか嬉々とした気配をにじませて「なら瑠火へは俺だな」と箸を持った父に、呆気にとられたせいかもしれないが。

 精一杯威厳を保とうとしているようではあるのだが、どう見ても父の顔は脂下がっている。アーンと口を開ける母はすまし顔だ。モグモグととり天を咀嚼する母を凝視して
「う、うまいか? 瑠火」
「ええ、とても」
 などと会話する様は、見ていてなんだか気恥ずかしい。自分も義勇に食べさせてやるとき、あんな顔をしているのだろうか。それはちょっといただけない。
 不意になにかが脳裏をよぎった気がしたけれど、その尻尾をつかむ前に、杏寿郎の意識は父の声で阻まれた。

「俺には杏寿郎からだな。よし、杏寿郎、こいっ」
「すみません、父上! 俺の右手はふさがっています! どうぞご自分でお食べください!」

 だって、杏寿郎の右手は義勇の左手を握っているのだ。父にアーンしてやるのと義勇の手を握るのでは、どうしたって義勇に軍配が上がる。まだ義勇の手はちょっとだけ冷たいのだから。

「あなた、義勇さんのクッキーは、おやつの分も含めて多めにあなたに差し上げます。それで我慢なさい」

 すました母の声に父が情けなく眉を下げると、傍らでクスリと笑い声がした。
 クスクスと、あどけない顔で義勇が笑っている。それにぼぅっと見惚れてしまったのは杏寿郎だけじゃなかったようだ。気がつけば千寿郎の頬が赤い。父もこれでもかというほど目を見開いて義勇を見ていた。そんなに見て義勇に穴が開いたらどうしてくれるのですかと、思わず言ってしまいそうになる前に、母が父を小突いてくれて幸いだ。

 義勇の手はすっかり温かさを取り戻していたけれど、それでも、杏寿郎は手を握りつづけた。すっかりおかずもそうめんも空になり、手作りクッキーが卓に置かれるまで。
 杏寿郎の手の下で、引く気配を見せずにとどまりつづける義勇の温かな手を、ずっと。