満天の星と恋の光 13

 装備を使って岩盤を下りる懸垂下降の練習には、さほど時間はかからなかった。本格的に登山をするのならともかく、ハイキングめいた山登りでは、そもそもロープやカラビナなどの装備自体、必要ないだろう。懸垂下降はアクシデントの際に必須な技術ではあるが、リスクを伴うものでもあるとは後藤の言だ。
「死亡事故が多いのって、実は懸垂下降のときなんだよなぁ。これからも山に登るならともかく、その予定がないなら、一応経験しときなってぐらいのもんだ」
「でも貴重な経験でした! ご教授ありがとうございました!」
「うん。いい経験になったんならよかったわ。もし本格的に登山やるなら、絶対に必要な技術でもあるから、そんときはちゃんと講習受けろよ? 自分を守れるのは自分だけだからな」
 はい! と、みんなで元気よく返事すると、後藤と長倉は満足げに笑った。

「よぉし、そんじゃまた登るかぁ! この先は今までよりも高い滝が多くなるからな。気合い入れてけよ」

 後藤が言ったとおり、先ほどの三段目の滝を登り切った後は、そびえるように高い滝がつづいた。水の流れはいっそう細くなり、滝というよりも濡れた崖といった風情でもある。それでも、岩盤に深く刻み込まれた溝を流れ落ちる水には、自然の力強さを感じる。
「こんなに水が少なくても、この大岩をこれだけ削るのか。自然というのはすごいな!」
「俺たちが拾った石も、こんなふうに削られて海岸まで辿り着いたのかな」
 杏寿郎と義勇にとって、主目的はあくまでも自由研究の石拾いだ。川底の石をときどき拾いながらとなるので、どうしても先を行く面子よりも遅れがちになる。けれども錆兎たちはもちろん、後藤と長倉も嫌な顔ひとつせずにいてくれるのがありがたかった。
 それどころか長倉は、積極的に協力までしてくれた。上流に行けば行くほど大きな石が多くなり、採取には向かないものばかりになったのだけれど、それでもそれなりの数が集まったのは、長倉たちのお陰だ。

「あ、なぁなぁ、これとかすげぇきれいだぞ。珍しい石かもしんない」

 その石を見つけたのも長倉だった。摘まみ上げられた石は白っぽく、青みがかった紫色の結晶がついている。
「ほんとだ、きれい! この紫のって宝石かなぁ」
「まさか。そんなもん簡単に見つからないだろ」
 たちまち瞳を輝かせた真菰に、錆兎が少しばかり呆れたふうに苦笑した。むぅっとふくれた真菰をなだめるばかりでもなさげに後藤が言うには
「そうでもないぞ。ひーこが言ってたみたいに、ガーネットとか翡翠とかは割合よく見つかるらしいからなぁ。意外と値打ちもんかもよ?」
 とのことで、杏寿郎と義勇は思わず顔を見あわせると、無言のままうなずきあい、それぞれ鉱物図鑑を取り出した。
 アメジストだったりして。それはさすがにないだろ。などと、ワイワイと言いあう面々に囲まれながら、鉱物図鑑と石を見比べていた杏寿郎と義勇は、そろって「あっ!」と声をあげた。
「あった。これかもしれない」
「フローライトという石らしい! 日本名では蛍石というそうだ。ブラックライトをあてると光るらしいぞ」
「えっ!? 石が光るの!?」
 杏寿郎の言葉に真菰が目を丸くした。錆兎も少し驚いた顔をしている。
「あぁ、だから蛍石なのか」
「いや、この石の破片を真っ暗い場所で火にくべると、パチパチと音を立てて蛍みたいに発光するからっていうのが、名前の由来だって」
 義勇が言うと、一同が感心した声をあげた。
「光る石なんてすごいよねっ、試してみたいね!」
「いやいや、これ杏寿郎たちの宿題なんだからさ、燃やしちゃ駄目だろ」
「もうひとつ見つけたら、実験用と標本用にできるんじゃないか?」
 錆兎の言葉に思わず顔を見あわせれば以心伝心。サッと一同そろって下を向き、川底を探しだしたけれども、残念ながら蛍石はこれきりのようだった。

「うーん、これ以上はタイムオーバーだな。吉岡たちが待ちくたびれてっかもしれないし、先進むぞ」

 石が光るところを見てみたかったが、しかたがない。後藤にうながされて、一行はまた滝を登る。
 もともと体を動かすのはお手のものな、運動神経抜群なメンバーだ。クライミングのペースはだいぶ早くなってきていた。反して、崖を落ちる滝の水はどんどんと少なくなり、岩盤はほとんど岩山の様相を呈している。最後の滝などは、もはや岩肌を濡らすばかりで、水流とも呼び難い。
 ラストの滝を登っていく錆兎と真菰を見上げて、義勇がポツリと言った。
「これがちゃんと川になって海に行くのか。すごいな」
「まったくだ! 自然というのはすごいものだ。さざれ石の話にも驚いたが、ささやかに見えるこの水も、集まりあってあれほど大きな海になるのだからな!」
「……うん」
 川や海の流れに削られた小さな小石が集まり、再び大きな岩となる。そんな話を聞いたのは、千寿郎を伴い義勇と一緒に石を拾うため、海岸へ向かう電車内でのことだった。
 義勇もあの日のことを思い出したのか、応えはどこか感慨深げだ。少しばかり気恥ずかしそうでもある。泣いてしまったことを思い出しているのかもしれない。
 この滝のように義勇の悲しみの岩も少しずつ削られて、さざれ石のごとくに小さくなることを、杏寿郎は願う。そしていつか、巌のような揺るぎない大きな幸せになればいい。いつか訪れるその日に、義勇の傍らで笑いあうことができればいいと、願ってやまなかった。
 義勇はそれを、許してくれるだろうか。傍にいたいと、義勇も思ってくれたらいいのだけれど。

「杏寿郎」
「ん? なんだ?」

 ぼんやりと遠い未来に想いを馳せていた杏寿郎は、義勇の呼びかけに、少しあわてて笑い返した。岩に手をかけ、義勇は今まさに登りだそうとしつつも振り向き、小さく笑ってささやくように言った。

「蛍石はもうなかったけど、本物の蛍なら見られる。夜になったら見に行こう……ふたりで」
「え?」

 即座には言葉の意味が飲み込めず、ポカンとした杏寿郎の答えを待たずに、義勇は岩を登っていく。声をかけようにも、濡れた岩は今まで以上に滑りやすいらしく、錆兎たちも苦戦気味だったのを見ている。うかつに声をかけて、意識をそらさせるわけにもいかない。
 問いかけたい衝動をグッと飲み込んで、杏寿郎も、後藤にうながされ足場となる岩に足をかけた。
 ドキドキと胸が高鳴ってしょうがない。だが、油断するわけにもいかないし、義勇に声をかけ注意をそらせるのも論外だ。気もそぞろになりかけるのを懸命に抑えつけながら、杏寿郎は、自分より少し先を登っている義勇を何度も見あげた。
 義勇はべつに、特別なことだとは思っていないのかもしれない。意識しての発言というよりも、そちらのほうが断然考えられる。錆兎たちがいるのに義勇が自分とふたりきりで行動しようとするなど、杏寿郎にとっては、うれしさよりも驚きのほうが大きかった。
 義勇は万事において錆兎を頼るし、錆兎の判断をあおぐのが常だ。学校での昼飯だって、一緒に食べるのにも錆兎の許可を取ってからだったし、錆兎も同席するのが定着している。初めて私服を見たときだってそうだ。自身の趣味ではない服を着てきた理由を、義勇は、錆兎も着ろと言ったからと口にしていた。
 いつだってそんな具合だけれど、少しぐらいはうぬぼれてもいいのだろうか。ふたりだけでと望んでもらえるぐらいには、自分は義勇に近づけたんだろうか。杏寿郎の胸が期待に高まり、せわしない鼓動を打つ。だが、思う端から不安も頭をもたげた。
 もしかしたらふたりでというのも、錆兎にそう言われたのかもしれない。杏寿郎が義勇とふたりがよかったと思っていたことぐらい、錆兎にはきっとお見通しだろう。せっかく来たのだからと、気を回してくれた可能性はある。錆兎の後押しがなければ、義勇はそんなこと思いつきもしなかったかもしれないじゃないか。
 杏寿郎の心は、期待と不安の狭間でまるで振り子のように揺れて、定まる気配がなかった。
 弱気になるなんてらしくない。歯噛みしても、揺れ惑う心はどうしたって、ひとところに落ち着いてくれそうもなかった。
 いつだって義勇だけが、こんなふうに杏寿郎の心を乱す。圧倒的な多幸感に包まれるのも、不安に怯懦が胸に兆すのも、義勇に関してだけなのだ。
 こんな自分を、杏寿郎は義勇に再会するまで知らなかった。義勇に対していだく気持ちの答えも、自分の心だというのにつかみとれない。
 先を行く義勇は慎重に、けれども着実に崖上を目指している。杏寿郎を顧みることはない。そんな余裕もないのだろう。なにげない一言にこんなにも心揺らしているのは、自分だけなのだ。義勇にとっては、すぐに頭から締め出してしまえる他愛ない言葉だったのだろう。それが寂しくも少し悔しい。
 とはいえども、じわりと胸の奥に広がる喪失感に似た寂しさと悔しさを、義勇にぶつけるのはお門違いというものだろう。
 濡れてツルツルと滑る大岩は、気を抜けばすぐにも手足をすべらせそうだ。傾斜もきつい。今まで以上に息が上がっていた。杏寿郎は、力を振り絞ってしっかりと手や足で岩をつかみしめる。慣れぬ動きは、普段ならば使わぬ筋肉が酷使する。剣道の稽古とは勝手が違い、いつもよりも疲労を色濃く感じていた。
 指先の感覚に意識を集中しなければ。思いつつ杏寿郎は、視線の先にいる義勇を見上げた。今、自分が落下などして万が一のことがあれば、きっと義勇は、一生悔やむ。自分が誘ったからだ、自分が変なことを言ったせいかもしれないと、自分を責めつづけるだろう。自分が疫病神だからだなどと、また思い込んでしまうのは想像に難くない。それだけは絶対に避けなければならないのだ。杏寿郎にとっては、義勇を苦しめる存在など、たとえ自分自身だろうとも許せるものではない。第一、怪我などすれば後藤たちにだって迷惑をかける。

 落ち着け。自分に言い聞かせ、杏寿郎は深く呼吸した。

 義勇の真意は、登りきれば聞ける。乗り越えた先のご褒美だと思え。逆に言えば、ここを乗り越えなければ義勇がなぜ自分だけを誘ったのかもわからぬままだし、ふたりで見る蛍も絵に描いた餅になる。
 よし! と気合いを入れ直し、杏寿郎は滑る岩肌のわずかな出っ張りを、ガッシリとつかんだ。義勇はもう少しで滝口に着く。万が一のために後藤たちが安全確保のために張ってくれたロープを、ところどころ使用しながら登っている。自分の力だけでと意地を張り、無理をする様子はなかった。
 ロープをたぐる義勇の姿を視界にとらえた杏寿郎は、懸垂下降を学んでいるときに後藤から言われた言葉を、不意に思い起こした。

『登山中にセルフビレイ取るための支点になるアンカーは、前に登った人らが残してったやつを使うのがほとんどなんだけどさ、大事なのはそれの見極めなんだよ。古いやつは丈夫そうに見えても内側まで完全にさびてることもあるからな。アンカーを設置した岩や灌木自体がもろくなってることだってある。信頼できるって確信したアンカーじゃないと、自分の命を預けることはできないだろ?』

 だからバックアップも重要だと、後藤も長倉も言った。ひとつのアンカーだけに頼らず、次点としてのバックアップも確保してこそ、安全性は高まるらしい。
 信頼できる支点。万が一に備えてのバックアップ。義勇にとって自分がどちらでも、義勇を守り頼られるものであるのなら、それだけでうれしい。
 できることなら永久保証付きのアンカーになりたいものだと思いながら、杏寿郎もロープをしっかりとつかんだ。
 自分を守れるのは自分だけ。けれども、支えてくれる支点は必要だ。義勇にとってのアンカーになれたらいい。そうなりたい。いや、きっとなってみせる。杏寿郎の望みは揺るがない。
 自分にとってのアンカーはなんだろう。ふと思った瞬間に、答えは出ていた。そんなの決まっているじゃないか。義勇だ。義勇に向かう大好きの気持ち。それこそが、自分にとっての永久保証付きアンカーだ。
 それだけは、きっと、ずっと、変わらない。

 後藤たちが設置してくれたアンカーは、揺るがず頼もしく、安心して身を任せられた。

 杏寿郎が滝を登りきると、水の流れはほとんど見られず、ゴロゴロとした岩が転がる光景が広がっていた。空は大きく開け、真夏であるのを思い出させるギラついた陽射しが、目を突き刺すように照りつけている。濡れたウインドブレーカーが見る間に乾いて、先ほどまでの涼しさから一転、暑さと眩しさに、一瞬、クラリと目がくらんだ。知らず細めた目線の先で、遠く高く、黒点のような鳥が飛んでいくのが見えた。
 ジーッジッジッジと鳴いているのはセミだろうか。山の上では蝉の声も街とは違うんだなと、今さらのように気づいて、杏寿郎は暫し夏の声に耳をかたむけた。こめかみを伝った汗が、焼けた石にぽたりと落ちる。登りきった。達成感がじんわりと心に満ちていく。
 先に登った義勇も、目を少し細めてどこか感慨深げな顔をしている。義勇の拳が握りしめられているのが見えた。小さく控えめなガッツポーズ。杏寿郎の顔が思わず微笑んだ。

「お疲れ~。みんな初めてなのに早かったね」
「義勇、これマジうまい。今度俺も真似してみるわ」

 ヒルが寄ってこないようにだろう、立ったままで杏寿郎たちを待っていた面々が、明るく声をかけてきた。義勇とそろって視線を向ければ、尾崎たちが手にしているのは真菰と義勇が作ってきたおやつだ。先に登る真菰に両方預けていたから、義勇お手製のチーズ巻きも、この分ではもう残りは少ないかもしれない。すでに食べているので文句はないが、本音を言えば、もうちょっと食べたかった。だって義勇が作ってくれたのだから。
 少し残念な気がして、杏寿郎はつい苦笑した。これでは真菰に食いしん坊と言われても、反論しづらい。
「うまいのはわかるけど、水分もちゃんととれよ。こっから藪こいで、林道登ってくんだからな」
 杏寿郎のあとに滝を登りきった後藤が、皆を見まわして言う。声はいかにもあきれ気味だ。
 そうだ、ここで終わりではないのだ。杏寿郎はグッと唇を引き結んだ。滝の遡行は終わったが、ゴールの予定は山頂だ。周囲を見回せば、岩場の周りは鬱蒼とした木々が生い茂る傾斜に囲まれている。このなかを突き進んでいくのかと思うと、沢登りというのは想像以上に体力がいるものなのだなと、感心せざるを得ない。
 だというのに尾崎たち女性陣も、こんな悪路を登っていくことに文句をつけるでもないのだから、大したものだ。体力自慢な杏寿郎でも、少しばかりげんなりとしそうになるのに、尾崎たちの顔には笑みしかない。まったくもってクライマーというのはすごい。
「しばらく雨が降ってなかったから、それほどぬかるんでないはずだけど、沢タビだと今度は逆に滑るぞ。靴に履き替えておけよ」
「靴下の替えもあるなら履き替えときな。渓流用のって、水のなかではいいけど、蒸れるからさ」
「あ、脱ぐときヒルがついてないかちゃんと見ろよ? 入り込まれたら噛まれるぞ」
 次々に飛んでくるアドバイスに、杏寿郎と義勇があわただしく従っていると、尾崎と東城がビニール袋を手に近づいてきた。
「ね、石拾えた? 私たちもちょっと拾っといたんだけど、標本にできそうなのある?」
 言いながら広げられたビニール袋には、ザラリと小石が詰まっていた。ただでさえ装備やらで荷物は杏寿郎たちよりも重いはずである。なのに屈託などまるでなく笑ってくれるふたりに、杏寿郎と義勇は思わず視線を見交わせた。そろって深く頭を下げる。
「ありがとうございます! 重かったでしょう、ご協力本当に感謝します!」
「いっぱい拾ってくれてありがとうございます。長倉さんも珍しい石を見つけてくれました。これ……フローライト」
 義勇がザックから取り出した石に、東城が目を輝かせた。上げる声も弾んでいる。
「フローライト? うわぁ、いい石拾ったねっ」
「ひーちゃん、この石そんなにいいの?」
 相反して尾崎はキョトンとしているのをみるに、女性がみな石言葉だの効能だのに詳しいというわけではないのだろう。なんとなく女性らしい感性だと思っていたけれども、自分だってシーグラスの石言葉に勇気をもらったようなものだ。性別で判断するのはよくないのかもしれないなと、杏寿郎がなんとはなし考えていると、東城はいかにも楽しげにうんちくを語りだした。
「フローライトはねぇ、天才の石とも呼ばれてるの。既成概念や固定観念に凝り固まった思考から解放してくれる、自由の石なんだよ。発想力を上げるから受験のお守りとしても人気だね。でもって、恋愛では新しい出逢いがあったり、あと不安を和らげてくれるんだって。恋してるとさ、ふられるかもって臆病になっちゃったり、嫉妬しすぎたりとかもするじゃない? フローライトは、そういうネガティブな感情を払ってくれるの。コミュニケーションのサポートもしてくれるから、恋愛のお守りみたいな石でもあるかも」
「へぇ、すごい石なんだぁ。よかったね、義勇、杏寿郎くん」
 ウキウキとした声で言う東城は、ずいぶんと年上なのになんだか愛らしく見える。興味津々に寄ってきていた真菰の声も華やいで明るい。恋愛という言葉にドキリと跳ねた鼓動が、ふたりがキャッキャと立てる笑い声に、スッと静まっていくのを杏寿郎は感じた。
 恋という言葉で、即座に浮かんだのは錆兎の顔だ。錆兎の初恋について考えると、まだ胸が苦しくなる。だが、真菰が勝手に思い込んでいるだけかもしれない。錆兎の口から聞いたわけではないのだ。思い悩んだところで、本当に錆兎の初恋が義勇かどうかなんて、杏寿郎にはわからない。
 けれども、事実がどうあれ、錆兎が義勇を大切にしていることに変わりはないし、義勇もまた錆兎を頼っているのは疑いようがない。どうしたって覆らぬ事実などそれだけだ。
 それにもう、進むしかないと決めた。望みははっきりしている。義勇の傍にいつまでもいること。義勇に頼られる男になること。悩み惑いはしても、去っていく義勇の背をひとり立ち止まり指を咥えて見ているだけなんて、できっこないのだ。

 杏寿郎は、義勇をそっとうかがい見た。
 なにを考えているのか、義勇の静かな表情から知ることはできない。でも、ふたりでと言ってくれた。そうだ。夜になったら、ふたりで蛍を見に行くのだ。真意はどうだろうと、義勇は嘘など言わない。だからそれは、きっと果たされる。

 義勇が手に乗せているフローライトを、杏寿郎は見るともなしに見つめた。フローライトの名を持つ結晶自体は、申し訳程度に見えるだけだ。ダイヤを自慢する親戚連中などが見たら、冷笑を浮かべそうなほどに、ちっぽけな石ころ。でも、もしも東城が言うような力があるのなら。杏寿郎のまなざしに熱が灯った。
 どうか、不安や嫉妬心を払ってくれ。杏寿郎は小さな石に願う。揺るがぬアンカーは自分の心。でもバックアップはあったほうがいい。心の支えになるのなら、人が笑う小さな石だってかまわない。絆を約束してくれたシーグラスのように、願いを託したっていいじゃないか。石言葉などに頼るのは、女々しいと言われるかもしれない。だが、それがどうした。そんな型にはまった固定観念などどうでもいい。なにかを心から願うのに、性別なんて関係ないはずだ。
 思った刹那、なにかが胸をよぎった。それは蛍の放つ光よりも小さなひらめきで、言語化される前に消え失せ、杏寿郎は我知らずパチリとまばたきした。

 今、俺はなにを考えただろう。切れ切れに浮かぶ言葉は、なんだかまるで真っ白なジグソーパズルのようだ。どこからはめていけばいいのか見当がつかない。初恋。固定観念。恋愛。自由。嫉妬。性別。いくつもヒントはあるはずなのに、全体像はまるで見えてこない。

「ひーこ、パワーストーンとかパワースポットとか好きだよなぁ。女ってどうしてそういうのに踊らされんのかね」

 あきれを含ませたからかい口調で言った野口に、悪気などかけらもなかっただろう。言われた東城にしても、気を悪くした様子はない。うるさい野口と歯をむいてみせても、目は笑っている。顕著な反応を見せたのは、真菰だった。
「女だからってことないでしょ? 男の人だってゲン担ぎだのジンクスだのにこだわる人いるのに、女の子だと踊らされてるなんて言われるのおかしいよっ」
 激昂は一瞬で、すぐに真菰は、周囲の空気を察したらしい。珍しくうろたえを露わに眉根を寄せると、泣きだしそうな顔で勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい、野口さんっ」
「あ、いやいやっ! 俺もつい女性差別っぽいこと言っちゃったからっ」
「そうだぞ、野口。おまえ失言多いんだから気をつけろよ」
「吉岡に言われたくねぇわっ」
 大学生たちに不満の気配はないが、なんとなくぎくしゃくとした雰囲気になったのは確かだ。きっかけになった野口はオロオロとしてしまっているし、吉岡のフォローも上滑りして、誰からも笑い声は出てこない。
 杏寿郎だって面食らったが、義勇も驚いた顔をしていた。真菰をよく知る義勇から見ても、真菰のこんな様子はめずらしいのだろう。
 声をかけたくとも、言葉が見つからないのだろうか。義勇はいかにも心配げに真菰を見つめている。真菰のことも気がかりだが、杏寿郎としては、気遣わしい目をして言葉をかけあぐねている義勇のことも気になってしまう。
 真菰が過敏な反応を示した理由なんて、杏寿郎にはわからない。けれども元気で朗らかな真菰が落ち込んでいる様は労しかった。
 心を決めると、杏寿郎は真菰の前に進み出た。
「真菰、なにか悩んでいることがあるなら言ってくれ! 助けられることがあるなら、俺ができることはなんでもしよう。だが俺は、まだ真菰と話すようになって二日目だ。真菰がなにに悩んでいるのかなんて、言ってもらわなければなにもわからん!」
 うつむいたままだった真菰の顔が、真摯な杏寿郎の声にそろりと上げられる。浅葱色の明るい瞳は戸惑っているように見えた。
 言おうか言うまいか。真菰が悩んでいることは、杏寿郎ならずとも感じただろう。真菰の首が小さく振られて、パッと笑みを浮かべたのに、出された結論は後者だと知れた。
「本当になんでもないから。疲れててちょっと怒りっぽくなっちゃった。空気悪くしてごめんね?」
 声もいつもどおり朗らかだ。野口ら数人はホッとした顔をしたが、錆兎の顔は険しい。義勇の眉根はいよいよ寄っている。そんなふたりの表情を見ずとも、杏寿郎にも強がりだとわかるぐらいだ、後藤や尾崎たち女性陣も、まだ納得していないようだった。
「それならいいんだ。だが、俺にできることがあるならなんでも言ってくれ。……君も、悩んだときには相談に乗ってくれると言っただろう?」
 最後の一言は、真菰の耳に顔を寄せて、声をひそめ杏寿郎は言った。わずかに目を見開いた真菰が、どことなし呆然とした顔で見つめてくるのに、思わず杏寿郎はクスリと笑った。同い年なのになんだか姉のような態度をとる真菰が浮かべた、少しばかり幼い表情に、ふと千寿郎を思い出してしまった。今の今までまるで意識していなかったけれども、真菰は杏寿郎よりも背だって低い。手も足も、鍛えてあろうといかにも華奢だ。
 女の子なんだなぁと、不思議と改めて思う。だけれど、それだけだ。真菰がかわいい女の子であるのは、疑いようのない事実だ。それでも、触れ合いそうなぐらいに顔を寄せようと、気恥ずかしくはなっても、胸にときめきは生まれない。義勇に顔を寄せるのは、それだけでドキドキとして、勝手に顔が熱くなるのに。
 姿勢を正し、杏寿郎は、胸をたたいて快活に言った。
「俺だって君の力になりたい。もう友達だからな!」
 皆の視線が集まっているのを感じたけれど、恥じる気持ちはなかった。堂々と笑う杏寿郎に、真菰はなぜだかくしゃりと顔を歪めた。
「……杏寿郎くんがそう言ってくれるのは、私が女の子だから?」
「なぜ? たしかに真菰は女の子だし、女性とは守るべきものだ! だが、力になりたいと願うのは、女の子だからではないな! 真菰だからだ。真菰ではなく、錆兎が悩んでいたって同じことだ! 友達の力になりたいという想いに、性別など関係ないだろう?」
 オォーッ! と、なぜだかあがった歓声に、思わず目をしばたたかせた杏寿郎が振り返ると、大学生たちがやたらと盛り上がっている。
 絵に描いたような青春だなぁ、おい! だの、ピュアッピュアなマイナスイオンがすごい! だのという言葉は、なにがなにやらわからないが、笑う顔はみな明るいのだから、口々にあがる言葉に悪い意味はかけらもないのだろう。
 少し苦笑してふたたび真菰へと視線をやれば、真菰の顔にも、強がりなどどこにもない楽しげな笑みがあった。
「……うん。ありがとう、杏寿郎くん。明日の手合わせ、本気でやってくれるって言ったもんね」
 言って、前とは逆に真菰から差し出された拳に、杏寿郎も笑って拳を突き出し、コツンとあわせた。
「もちろんだ! 俺も楽しみにしている!」
 ニッと笑った真菰の目に見て取った真剣な光に、杏寿郎の顔も無意識に引き締まる。
 もしかしたら真菰にとって、性差というのは杏寿郎が思うよりも深刻なのかもしれない。性別など杏寿郎は深く気にしたことはないが、小学校のころだって、女なんかと遊べるかと妙に意地を張る子はいた。真菰にも、そういうことを言ってくる子がいるんだろうか。
 真菰の先ほどの様子や、やけに杏寿郎に本気でとこだわるあたり、想像はそう外れてもいない気がする。だが、詳しく聞く間はなかった。

「よっしゃ、いいもん見せてもらったところで、そろそろ出発!」
「お昼遅くなっちゃうもんね。真菰ちゃん、行こっ」

 後藤のかけ声に、三々五々答える声があがるなか、東城と尾崎が笑って真菰を手招いた。
「うん! ね、ひーこさん、お勧めのパワーストーンってある?」
「おっ、興味ある? 拾った石のなかにあるかもだけど、後藤くんが言ってた橄欖石かんらんせきとかいいよ。緑色でね、真菰ちゃんの目の色にも似てるかも。可能性を広げてくれる石なんだって」
 パチリと浅葱色の目をまばたかせた真菰に、東城がふわりと微笑むのが見えた。
「困難に打ち勝つ強さや、自信を与えてくれる石だよ」
 笑って言う東城に、真菰は少し戸惑っているようだ。
「人生長いからね。これから先もいろいろあるだろうけど、お互い頑張ろ」
 ポンと真菰の背を軽く叩く尾崎の顔も、なんだかさっきまでよりもずっと優しい。
 杏寿郎が気づいたぐらいだ。起因となったものはわからずとも、歳上な女性たちには、真菰の葛藤はちゃんと伝わっていたのかもしれない。どこか照れくさげに笑ってうなずく真菰の頬は、少し赤かった。
 先を歩いていく三人を見るともなしに見ていた杏寿郎の手が、ツンと突かれた。
「杏寿郎、石見せて」
「あ、そうか!」
 義勇の言葉の意味を悟り、杏寿郎は急いで手にしたビニール袋を広げてみせた。
「橄欖石はあっただろうか」
「……たぶん」
 東城の話を義勇も聞いていたんだろう。真菰にやるのだということはすぐに察しがついた。これだけあるのだし、真菰のためだ。杏寿郎にだって否やはない。

 それはいいのだが……。

「……義勇? なにか怒っているか?」
「べつに」
 なんでだろう。なんだか義勇の声がそっけない。常と変わらぬ無表情が、どことなくふてくされているようにも見える。
「そうか? でも」
 義勇の機嫌を損ねるようなことをしたつもりはまったくないのだが、どうしたというんだろう。ソワソワと落ち着かなくなった杏寿郎が重ねてたずねようとした声は、早くこいよと呼ぶ後藤たちの声でさえぎられた。
 義勇は目的の石を目ざとく探しだしたらしい。袋から緑色の石を一つ取り出すと、杏寿郎に声をかけることなく歩きだしてしまった。
「義勇!」
「待たせたら悪い」
 慌てて追いかけた杏寿郎が呼びかけても、義勇は前を見据えたままだ。視線を向けてくれさえしない。わけがわからず、それでもこのまま引き下がるなんてことが、杏寿郎にできるわけもなく。とっさに義勇の手を握ろうと杏寿郎が手を伸ばすより早く、コツンと義勇の頭に拳骨が落とされた。
「コラ、態度悪いぞ、義勇」
「錆兎……」
 いつのまにやら近づいてきていた錆兎が軽く睨むのに、たたかれた義勇は、ちょっぴり呆然として見えた。
 空に浮いたままとなった手を、思わず杏寿郎は、ギュッと握り込む。胸がズキンと痛んだのは一瞬だ。すぐに杏寿郎も、義勇に負けず劣らずポカンと目を見開いた。

「ヤキモチ焼くにしても、今の態度はない。杏寿郎に嫌われるぞ?」

 バッと振り向いた義勇の顔は、いつもとは逆に感情があふれすぎていた。なんだか泣き出しそうですらある。
「嫌わない! 義勇を嫌うわけないだろう!?」
 思わず大声で言った杏寿郎の声が、辺りにひびきわたる。喧嘩か? と長倉が声をかけてきたのに答えたのは錆兎だ。
「大丈夫、なんでもないです! ホラ、話はあと。ふたりとも行くぞ」
 カラリと笑って言って、義勇の背をポンとたたいた錆兎が駆けていってしまえば、ふたりだけがその場に取り残された。
 そうだ。グズグズしている暇なんてなかった。後藤たちはすでに藪を登る準備を始めている。
「あの、義勇」
「ごめん。行こう、杏寿郎」
 杏寿郎の声にかぶせるように言われ、オズオズと差し出された義勇の手を、答えるより先に杏寿郎は握っていた。
 手をつなぎあえば、視線が重なる。探るような視線はお互い、一瞬だけ。すぐにふわりと自然に笑みが浮かぶ。汗をかいた手のひらは、お互いにいつもよりもちょっぴり熱い。
「あぁ! 行こう、義勇! 皆が待ってる!」
「うん」
 きっと義勇は、怒った理由をちゃんと話してくれるだろう。以前とは違うのだ。どんなに杏寿郎が話しかけても、相槌を打ってくれるでもなかったころとは、違う。義勇は杏寿郎と手を繋いで、笑ってくれる。
「あとで、話をしよう」
 ヤキモチと、錆兎は言った。本当だろうか。自分が錆兎や真菰に嫉妬してしまうように、義勇も今、ヤキモチを焼いてくれたのか。でも、どちらに? 真菰と話をしていたことが原因だとして、今、義勇は真菰と自分のどちらに妬いたのだろう。
 考えれば落ち着かない。やっぱり胸も痛くなる。それでも期待にソワソワともする。
 走り出しながら言った杏寿郎に、義勇はコクンとうなずいてくれた。少し不安そうに、なんだかちょっと恥ずかしそうに。淡い笑みはそのままで。
 どちらに嫉妬したのにしても、たぶんこれは、いいことなのだ。杏寿郎は自分に言い聞かせた。
 だって以前の義勇なら、そんな誰でもいだく感情一つを、罪悪だと考えてしまっていただろう。ヤキモチを焼く資格など自分にはないと、ただうつむいて感情を押し殺したに違いない。
 話をしようと言えば、うなずいてくれる。嫉妬して、あからさまにふてくされる。そんな義勇の変化がうれしくて、杏寿郎は繋ぐ手に少しだけ力を込めた。
 義勇の手も、同じぐらいの強さで握り返してくれる。それがただ、うれしくて。
「……蛍、見に行ったら、話そう」
「ふたりで?」
「うん、ふたりだけで」
 そんなことを言ってくれる義勇に、大好きだという言葉だけが、杏寿郎の胸いっぱいに満ちた。

 藪のなかを行くのは、ひたすらに体力勝負だ。先鋒を務めるのはサブリーダーの長倉と吉岡で、地図やコンパスを確かめつつ進んでいる。ときどき吉岡が、真菰ちゃんのとこから上がってきてだとか、その辺は滑るぞ野口だのと、指示を飛ばしてくる。リーダーの後藤は最後尾だ。全体を見てルート決めをするためらしい。
 大学生たちに言わせると、これぐらいの藪は困難さで言えばせいぜいレベル2ぐらいだそうだ。
「うわぁ、こんなにキツイのにレベル2?」
「もっと本格的なのだと、見ただけで気力もなくなるからなぁ。入り込んだら身動きとれないようなやつを、進まなきゃいけなくなることもあるぞ」
「そんなとこどうやって進むんですか?」
「そりゃ、どうにかして。バイト先の嫌味な社員の顔とか思い浮かべて、うりゃあっ! ってひたすら笹を蹴り枝を蹴り倒したりするわけよ」
「でもって狸のため糞を踏んづけて尻餅をつくと」
「なんで人の失敗をバラすんだよっ、島本!」
 それは勘弁と笑う真菰の顔には、もう憂いはない。隣りにいる錆兎も笑っている。なんとはなしホッとして、杏寿郎がちらりと後ろを窺えば、話が聞こえたのだろう、義勇の顔はほんの少しげんなりとして見えた。枝や笹を軽々しく切り払い自然破壊するわけにもいかないので、基本的には手や足で押し払ったり踏みつけなければならない。初めての沢登りで疲労しているあとの藪こぎは、体力が落ちている義勇にはかなりこたえるようだ。杏寿郎もなるべく義勇が進みやすいように、しっかりと道を作るべく笹を踏みしめるのだが、自然の力にはかなわない。まだ中学一年生の杏寿郎の脚力や腕力など、逞しく生い茂る山の草木からすれば微々たるものだ。
 手を引いてやりたくても、藪のなかでは手を繋いで進むわけにはいかない。両手で前を塞ぐ枝やら笹を払わなければ進めないのだからしかたがないが、せめて義勇の後ろにつけばよかった。背を押してやることぐらいはできただろうに。背後の義勇が気になって、少し進むごとに杏寿郎はついつい振り向いてしまう。
「義勇、大丈夫か?」
「うん。でも、ヒルが落ちてくるのが困る」
「うむ、蚊が多いのも困りものだが、ヒルのほうが厄介だな。沢を外れてもけっこういるんだな」
「虫よけマメにかけろよぉ。もうちょっとで登山道に出られるはずだから、頑張れ」
 最後尾の後藤がちょっと苦笑めいて言った。杏寿郎が振り向くたびに後藤とも顔を合わせているから、呆れられたのかもしれない。だが、後藤の顔には小馬鹿にするような気配はみじんもなかった。
 真菰の激昂や義勇の不機嫌さは、もうすっかり鳴りを潜めて、蒸し返す者も誰ひとりとしていない。そんな場合じゃないのもあるが、大学生たちはみな、とにかく人がいいのだろう。からかい口調も気が置けぬ者の気安さと親しみ深さばかりがあって、杏寿郎たちのことも先を競うように気遣ってくれる。自然と杏寿郎の顔に笑みがのぼった。義勇と初めての経験を積み重ねることもうれしいが、見習うべき先達と縁を結べたこともまた、僥倖と言うべきだろう。

「道に出たぁ! うわぁ、地面が平ら!」
「いや、斜めってるだろう。坂なんだから」
「錆兎、うっさい」
 上から聞こえてきた声に、思わず杏寿郎はまた義勇を振り返り見た。義勇も安堵したのだろう、花開くように笑った。
「よしっ、もうすぐだ義勇! あとひと踏ん張りがんばろう!」
「うん」
「その調子。仲良くがんばれ」
 後藤の声に、ふたり同時にパチンとひとつまばたきし、杏寿郎と義勇はクスリと笑いあった。
「はい!」
「はい」
 嫌味な響きなどかけらもないから、素直な声をふたり重ねた。

 仲良くいつも、いつまでも。やがて開けた視界に広がった青空は、願う心へのエールのように眩しかった。