満天の星と恋の光 12

 岩盤の高さは、ざっと見積もって三メートルほどだろうか。階段状になった岩を流れてくるので、滝と言われて思い浮かぶイメージとは重ならなかった。流れ落ちる水量も、観光地で見るような瀑布とはけた違いに少ない。
 それでも勢いよく流れ落ちる水は空気を孕んで白く染まり、ザザァと音立てて滝つぼに落ちてくる。ごつごつとした濡れた岩肌は苔むして、黒と緑のまだら模様を見せていた。滝に覆いかぶさるように伸びたシダが、水流が生む空気の流れに小さく揺れているのが見えた。近づくと顔に霧のようなしぶきが降りかかる。そのせいか先ほどよりも空気も冷たい。
 ただ眺めるだけならば、さほど迫力も感じない小さな滝だ。けれど、これを自らの力で登るのだと思うと、杏寿郎の喉は知らずゴクリと鳴った。それでも水しぶきをあげて流れ落ちる滝を見つめる瞳には、恐怖心は微塵も浮かばない。
 川のなかを遡行するという慣れぬ経験に、知らず蓄積し始めていた疲労を、高揚感が凌駕していく。経験者からすれば初心者向けのたやすい滝だろうが、初心者の杏寿郎たちにとっては、十分に大冒険だ。

 武者震いしつつ杏寿郎がふと傍らを見れば、義勇の瞳もキラキラと輝いていた。
 以前はどうだか知らないが、今の義勇は自己肯定感が薄い。自分を卑下しがちだ。滝を目の前にしたら不安に駆られてしまうだろうかと危惧していたが、杞憂にすぎなかったらしい。少年らしい期待と好奇心が気兼ねを上回り、義勇の胸を興奮で満たしているようだ。
 心躍る初めての経験を、義勇とともに体感している。それがまた、杏寿郎の胸に満ちあふれる歓喜を増していく。
 ワクワクとしているのは真菰や錆兎も同様だろう。やっぱりソワソワとして、滝を見上げる瞳は待ち遠しげに輝いていた。
「とうとう滝を登るんだねっ。楽しそう!」
「崖を流れ落ちるって感じじゃないんだな。上のほうは直角に近いからむずかしそうだけど」
「うむ。だが距離的にはそれほどでもないし、素人の俺たちでも大丈夫じゃないだろうか!」
 意欲満々の杏寿郎たちだったが、大学生たちは冷静だった。

「これぐらいの滝だったら、ロープで確保しなくてもいけるだろうけど……どうすっかな」
「鱗滝くんたちいるし、一応アンカーで安全確保するか?」
「でもこれなら小学生でも登ってるだろ。あの子らだったら大丈夫じゃないかなぁ」
「初心者だぜ? それに小学生のツアーは安全確保してるじゃん。万が一滑落したらシャレになんねぇぞ」

 相談する大学生たちに、杏寿郎たちは顔を見あわせた。
 初心者なのは違いないし、心配されるのは当然だ。とはいえ、あまり見くびられるのはちょっとばかり癪である。思いあがるつもりはないけれど、端から技量を疑われるのは心外だった。
 無表情のままの義勇はともかく、錆兎と真菰の顔つきからすると、ふたりの心情も杏寿郎と同様のようだ。無言のまま二ッと笑いあいうなずくと、杏寿郎たちは後藤の前に進み出た。
「初めてだからこそ、まずは自分たちの力で登ってみたいです! これを登り切れないようなら、そこで初めて道具に頼るのではだめですか?」
「お、強気だねぇ。ま、まずはそれでいくか。初心者でもこれならいけるだろうしな。けど、十分注意すること。無理そうだと思ったら意地を張らずにすぐに言えよ?」
 はい! と声をあわせた杏寿郎たちに、後藤たちの顔にも笑みが浮かぶ。
 まずは後藤と長倉が登っていくのを見学し、ルートを頭に叩き込むよう言われ、杏寿郎たちは真剣な顔で後藤たちの動きを見つめた。岩盤にとりついた二人は危なげなく登っていく。水しぶきをあびながら岩に手をかけて、せり出した岩や割れ目を選んで登っていく様を、杏寿郎はしかと目に焼きつけた。

 登りきるまでさほど時間はかからなかった。あっという間に滝の上にたどり着いた後藤たちに、思わず感嘆の拍手がわいた。
 テレビで見るボルダリングの光景からすると、手や足をかける岩が大きいぶんたやすいようにも見えるが、これは滝だ。岩は濡れて滑りやすいし、流れ落ちる水をあびながらでもある。とはいえ、ボルダリングと違って岩盤は垂直ではない。初心者である杏寿郎には、どちらがより難しいかなどはわからないけれども、いずれにせよ油断は禁物だ。

「よし、そんじゃまずは鱗滝くん。来いよ」
「錆兎でいいですよ! ここふたり鱗滝だから紛らわしいし、呼び捨てでかまわないです。お客様じゃなく、ちゃんとパーティーとして扱われるほうがうれしいですしね」
 二ッと笑って自分と真菰を指差した錆兎に、杏寿郎と義勇も顔を見あわせ、うなずいた。
「俺も杏寿郎と呼んでください!」
 頭上にいる後藤が、にまりと笑ったのが見えた。
「了解。んじゃ、錆兎、来い!」
「はい!」

 後藤たちが選んだルートは、錆兎の頭にもしっかりと刻み込まれているらしい。迷いなく濡れた岩に手をかけ、錆兎はグイっと体を押し上げるようにして滝を登っていく。水のなかを泳ぐのはお手の物でも、滝を遡上するのは初めての経験だろうに、見た目にはまったく危なげがない。
 見守る大学生たちも感心しきりで、杏寿郎も、やっぱり錆兎はすごいなと素直に感嘆する。
 あっという間に登り切った錆兎が笑いながら手を振るのに応え、杏寿郎が義勇をふと見ると、義勇の視線は錆兎に釘付けになっていた。白い横顔は少し紅潮して、どこか陶酔しているようにも見える。
 錆兎を見つめる瞳に宿る尊敬と信頼の色が、また杏寿郎の胸に痛みをよみがえらせた。
 つい唇を噛みしめうつむきそうになった杏寿郎は、それでも懸命に視線を外すのをこらえた。錆兎に嫉妬したところで、どうしようもないのはわかっている。渦巻く負の感情を抑えきれない自分の不甲斐なさが、自身への苛立ちを生むけれど、うつむき見ないふりしてもなにも変わらない。せめて毅然と顔をあげていよう。小さな決心のままに、杏寿郎はグッと顔をあげて滝口に到着しそうな錆兎を確と見つめつづけた。

「つぎ、義勇! そのあと真菰ちゃんで、ラストが杏寿郎なっ」
 後藤の声に、義勇の顔つきが引き締まるのが見えた。ひとつうなずいて岩に手をかけた義勇もまた、迷う様子は見受けられない。ナビの声なしでも次々に岩肌に手足をかけて、水しぶきをものともせずに登っていく。
 知らず錆兎のとき以上に息を飲んで見守っていると、傍らからクスリと小さな笑い声がした。
「杏寿郎くん、ハラハラしすぎ」
「えっ? そんなことは」
 うろたえる杏寿郎に、真菰は少しからかうような目で笑う。

「あるよ。錆兎もだけどね。過保護すぎるんだよねぇ。まぁ、錆兎の場合は、義勇は初恋の子だから気持ちはわかるんだけど」

 真菰の声は小さい。きっと杏寿郎しか聞こえてはいなかっただろう。けれどもその言葉は、杏寿郎の胸に矢のように突き刺さった。
「……初恋?」
「そう。錆兎の初恋はね、義勇なの」
 真菰の目は登っていく義勇と、上で見守る錆兎に向けられたままだ。表情はやさしい。どこか慈母のような慈しみがたたえられた横顔は穏やかだった。その顔が不意に杏寿郎に向けられ、茶目っ気のある表情で人差し指を唇の前で立ててくる。
「私がしゃべったことは内緒ね?」
「……なぜ、俺に?」
 杏寿郎の声は知らずかすれて、押し出すようになった。

 与えられた情報は許容範囲を超えていて、理解が追いつかない。初恋? 錆兎は義勇に恋していたというのか。男同士なのに、それでも好きだったのか。いや、過去形ではないかもしれない。今も錆兎は義勇に恋しているのかもしれないではないか。そして、義勇も……。
 ズキリと胸が痛む。まるでナイフでも刺されたみたいだ。義勇を見上げる瞳が揺れた。

「ん~、頑張ってってエールもあるけど……ごめんね、ちょっとだけ意地悪しちゃった。だって、杏寿郎くん、私の夢を壊しちゃったから」
 しょうがないけどねと、杏寿郎へ笑みを向けた真菰の顔は、言葉とは裏腹にさっぱりとしている。
 わからないことばかり増えていく。高揚感とは異なる胸のざわめきは息苦しいほどで、少しばかり恨みがましい気持ちも生まれた。
 真菰の夢とはと、聞こうとした杏寿郎の声は、わっ! という小さな悲鳴に消えた。

「義勇っ!」

 錆兎の鋭い声がして反射的に振り仰ぎ見れば、もう少しで登りきるというところにいる義勇が、なぜだか岩から手を離したのが見えた。
 揺れて不安定になった義勇の姿に、思わず踏み出した杏寿郎の足が、身を乗り出した錆兎が義勇の手をつかむのを目にして止まる。
「ごめん、ヒルが顔の近くに落ちてきた」
「あ~、ここらってヤマビルがすっげぇ多いんだよなぁ。代名詞かってぐらい地名で検索するとヒルもついてくるっつうか……」
「顔の辺りに落ちてきたらパニくってもしょうがないって。でも、落下するほうが危険だからさ、次は気をつけてな? 冷静さをなくすと大怪我するぞ」
 引き上げられるように登り切った義勇が肩を落として言うのを、後藤たちが慰めるのが見える。杏寿郎も安堵したが、それも義勇の首筋に顔を寄せた錆兎が目に入るなり、すぐに痛みと焦燥へと変わった。
「うわ、いるいる。ライターであぶるか?」
「うげっ、そんなとこに落ちてきたらそりゃビビるわ。火傷したらヤバいからこれかけときな」
 襟元についていたのだろう。まだ吸血はされていないらしい。頭上から聞こえてくる会話はどこか呑気だけれど、杏寿郎の心中は嵐のように乱れた。
 義勇の表情が見えないことが、余計に苛立ちとも悲嘆とも知れない衝動を生んで、われ知らずこぶしを握り締める。
 後藤から受け取ったスプレーをかけてやり、義勇の首筋を払う錆兎の姿は、ヒルを取りのぞいてやっているだけだとわかっていても、見ていられない。なのにどうしても視線は外せなくて、握りしめる拳に力がこもる。朝に刺した棘の跡が、チリリと痛んだ。

 なんであそこにいるのが俺じゃないんだろう。義勇が頼りにしてくれるのは、俺じゃ駄目なんだろうか。

 杏寿郎の胸に逆巻くのは、悔しさと不安だ。痛みも消えない。
 義勇を温めてやれるのは、自分だと思っている。その役目を誰にも渡したくないし、渡さないと誓ってもいた。けれど、義勇はどう思っているのかなど、杏寿郎にはわからない。
 同じ悲しみに溺れぬようにと、義勇は、錆兎たちには家族のことを話せなかった。それは義勇のやさしさだけれど、その想いのなかには錆兎への恋慕もあったのだろうか。錆兎だからこそ、義勇は言えなかったんじゃないのか。
 友達である杏寿郎には言えても、恋しい錆兎には、言えない。だからこそ義勇は、杏寿郎の手を拒まなかったのかもしれないではないか。
 どうしようもなく胸が苦しい。今すぐに義勇の元に飛んでいって、腕のなかに閉じ込めたい。そんな衝動が消えてくれなかった。

「杏寿郎くんと真菰ちゃんも、もう一度スプレーしときなね。沢だとどうしてもすぐに薄れちゃうから。塩は持ってきてるから、すぐに作れるけど」

 もしも尾崎が声をかけてこなければ、杏寿郎は、冷静さをかなぐり捨てて岩盤に手をかけていたかもしれない。
「うちでも塩水使うよ。ここに住んで二年になるけど、ヒルだけは全然慣れないなぁ」
「気持ち悪いよねぇ。血が止まんなくなっちゃうのもちょっと怖いし。毒はないってわかってても、私もヒルだけは無理だわ」
 軽口で会話しながらスプレーをかけていた真菰が、はい、と笑みを向けてきた。手にしたスプレーは、自分でしろということだろう。どんなに心が乱れようと、和まで乱すわけにはいかない。ありがとうと杏寿郎がスプレーを受けとれば、真菰はちょっと自嘲めいた苦笑を浮かべていた。
 吉岡に呼ばれて尾崎が離れると、真菰の顔が少しばかりうつむいた。
「ごめんね、余計なこと言った」
 声にはいつもの朗らかさがない。けれどすぐに真菰は顔をあげ、まっすぐに杏寿郎を見つめてくる。
「でもね、知っといてほしかったの。杏寿郎くんには、錆兎が諦めたものを諦めてほしくないから」
 言い切る声音も強い。どこか懇願にも似た声だ。
「それだけ。あとは自分で気づいて。それと……」

 後悔はしないようにしてね。

 小さく微笑んで、真菰は呼び声に応えて滝に向かってしまった。問い返す暇などまるでない。
「気づく……」
 なにに? 自分はなにを見逃しているんだろう。自問した答えは、すぐに出た。
 義勇だ。義勇に対していだく大好きの意味。杏寿郎がつかみとれずにいるものなど、それしかない。
 錆兎の諦めたもの。それを杏寿郎には諦めてほしくないと真菰は言った。真菰の夢を壊したのは杏寿郎だとも。そんな言葉たちが指し示すものはなんだろう。
 わからないと目をつぶることは簡単だ。知らぬふりで現状維持をつづけるのも、きっとたやすい。気づいて、知って、苦しむよりも、きっとそのほうが楽なのだろうと、おぼろげに杏寿郎は思う。
 けれど、それでは嫌なのだ。答えはおそらくもうすぐそこに見えている。つかみとる勇気だけが、まだ足りないのかもしれなかった。怖気づくのはきっと未知の感情だからだ。
 知らないことを知るのは楽しい。けれども不安もある。知らず入ってきつづける情報の渦が育てた価値観は、恐れを生んだ。
 なにも知らない小さな子どもでいられたのなら、大好きと口にするのはたやすかった。大好きな想いにも、なんの区別もいらなかった。一番大好き。そんな言葉ひとつで己の感情を示すこともできた。
 でももう、杏寿郎は幼い子どもではない。まだ中学一年生でしかなく、大人たちから見れば子どもであろうとも、いだく感情は大人と遜色ないのだ。
 恋なんて知らない。どんな感情なのか杏寿郎にはまだ理解できない。いつかは自分も誰かに恋をする。思ってみてもそれは想像もできない先の出来事でしかなく、そのとき自分がどう振舞うのか、どんなふうに人を恋い慕うのか、杏寿郎には見当もつかなかった。錆兎がどんな気持ちで義勇を見つめてきたのかだって、計り知れずにいる。
 けれど、恋愛感情ばかりでなく、大人に近づくたび未知の経験を積んでいくのは、当たり前のことなのだ。
 知らないことなら、知ればいい。恐れて目をふさいでいたのでは、前には進めない。

「杏寿郎! 来いよ!」

 錆兎の声にハッと我に返れば、すでに真菰は滝の上で笑っていた。少し前かがみにのぞき込んでいる義勇の視線が、杏寿郎にそそがれている。表情のとぼしい義勇の感情は、離れてしまえばまるきり読めない。杏寿郎を待ち望んでいるのか、ぼんやりとしていた杏寿郎に苛立っているのかすら、わかりはしない。
 それでも。

「今行く!」

 杏寿郎は笑って義勇に手を振った。
 義勇は、杏寿郎を厭わない。再会したその日から素っ気なく、踏み込ませまいと一歩引いているように見えても、義勇は一度も杏寿郎を嫌厭するそぶりなど見せなかった。ろくに言葉を交わすことなく過ぎた間でさえ、挨拶すれば必ず小さな応えが返ってきた。無視されたことなんてない。
 本の感想を告げる言葉を、静かに聞いてくれていた。一緒にご飯だって食べている。今では、杏寿郎が差し出すおかずを口を開いて受け入れてくれたり、抱きあって眠ることだって許してくれるのだ。杏寿郎に向かって、笑ってくれる。
 なによりも、杏寿郎がずっと義勇を忘れなかったように、義勇も杏寿郎のことを覚えていてくれた。たった一度逢ったきりの、友達とすら言えない数分話しただけの杏寿郎のことを、何年も、ずっと。
 そして今も、隣に錆兎がいても義勇は、杏寿郎が一緒にいることを渋ったりしないでいてくれる。今この瞬間もきっと、杏寿郎がたどり着くのを待っていてくれているに違いない。今はまだ錆兎のほうが近くとも、義勇はけっして杏寿郎を拒否しないでくれる。それを杏寿郎は信じていた。
 だからきっと、自分が見つける答えがなんであれ、義勇は真摯に受け止めてくれるはずだ。杏寿郎は大きく深呼吸して顔を引き締めた。
 自分が出した答えを、義勇が受け入れてくれるかどうかはわからない。けれども、必ず誠実に答えてくれる。たとえ本当に義勇と錆兎が恋しあっているのだとしても、それは疑いようのない事実だ。そんな義勇だからこそ、大好きの気持ちはふくらむばかりなのだから。

「慎重にいけよ? ヒルがついても慌てんな。しっかり塩水かけたか? 塩かかってれば離れてくから、冷静にな?」
「はい! 油断せず登ります!」
 島本の声に快活に答え、杏寿郎は岩肌に手をかけた。
 今は無心に上を目指す。義勇のいる場所へと向かう。答えはすぐには出ないかもしれない。答えに気づくことを無意識に拒んでいる可能性もあった。知らないことを知る期待よりも、不安のほうが多いのは、義勇のことだからだ。義勇を少しでも傷つけ苦しめる可能性があるかもしれない未来よりも、義勇にやさしい今のままでと、心のどこかで自分は望んでいたのかもしれないと杏寿郎は気づいていた。
 でも、それじゃ嫌だ。今のままでは駄目だ。今よりもっと近づきたいのだ。ずっと一緒にいたい。誰よりも近くで、ともにいられる未来が欲しい。
 見出す答えがそれを確約してくれるものとは限らないが、乗り越えなければたどり着けないのなら、先へ進むしかないではないか。

 指先に力を込めて、杏寿郎は岩を登っていく。濡れて苔むした岩は滑り、ルートを誤れば滑落しそうだ。顔にかかる水しぶきは、今までの水よりも冷たい。ときおり目に入り視界がブレる。
 沢登りは、なんだか人生を凝縮しているようだ。
 安全な舗装された道ではない手つかずの自然は、たったひとつの判断ミスで惨事も産む。シダや木々の枝で阻まれた先は見えない。楽だと思ったすぐそばから、必死に腕を伸ばさなければ先に進めなくなりもする。
 この滝は、初心者向けなのだという。小学生でも登れるらしい。確かに大岩で構成された階段状で、垂直に近いイメージ通りの滝と比べれば困難さはさほどない滝だ。杏寿郎の人生も、まだたったの十三年しか過ぎてはいない。そのあいだに積み重ねてきたものなど、父や母、ましてや鱗滝から見れば微々たるものだろう。後藤たち大学生にだって、経験値はかなわない。
 それでも、進むのだ。進むしかないのなら、前へと進め。先に進むたび困難さを増したとしても、乗り越え進まなければきっとたどり着けない場所がある。
 今はまだ、先人が示してくれた安全な道筋を進んでいく。けれども、いずれ自分で進むべき先を見定め決断していくことになるのだろう。もしも義勇が落ちそうになったときに、自分がその手をつかみたいと願うなら、上を目指せ。安牌に逃げるだけの人生なんて、くそくらえだ。
 人生も、剣道も、ならされて平坦な道ではない。だからこそ楽しい。苦しさを乗り越えたときの達成感と充足は、未知を恐れて安全な場所を歩んでばかりいては得られないのだ。
 義勇への想いも同じだろう。目をそらすなと杏寿郎は自分に念じながら、上へと進む。
 困難が立ちはだかろうと、どれだけ苦しかろうと。その先で義勇が隣で笑ってくれる未来があるかもしれないなら。乗り越えろ! 切り開け! それしか選べないし、選びたくない。

 後悔なんて、するものかっ!

 木々が開けて眩しい陽射しが目を刺した。滝口まであと数十センチ。精一杯、腕を伸ばす。
「杏寿郎っ」
 逆光に陰る義勇の顔が見える。差し伸べられた手。つかむのに、躊躇はなかった。助けはいらないなんて、言うわけもない。頑張ることと意地を張ることは違うと理解できる程度には、自分も大人になっているのだろうか。
 しっかりとつかみしめた義勇の手は、興奮からかいつもよりも少しほてっている。グイっと体を岩の上に乗り上げて、杏寿郎は義勇の手を握ったままカラリと笑った。

「よっしゃ! 全員ロープの補助なしでもいけるな。んじゃ、次行くぞ~」

 後藤の言葉に振り向けば、滝はわずかな平坦の先にまだ続いていた。水の流れは今登ってきた滝よりもわずかばかり細い。階段状になっていた下の滝とは違って垂直に近い岩盤は、迫力はあまりないが、いかにも滝といった風情を見せている。
「ここで懸垂下降の練習してから、三段目に進むからな」
「懸垂下降?」
「この滝、何段もつづいてるの?」
「三段で、ここは五メートルぐらいかな。次の三段目が四メートル。合わせて十二メートルの、この沢では二番目のハイライトって感じの滝だよ。水量もあって一番登り甲斐があるのは、君らと待ち合わせたよりもう少し下流にあるやつ」
 錆兎と真菰の疑問に答えたのは、長倉だった。後藤はすでに滝を登りだしている。
「懸垂下降ってのは、ロープやセルフビレイっていう装備を使って崖を下りる技術。登山は登るよりも降りるほうがよっぽど難しいんだよ。急な崖でも意外と素人でも登れちゃうんだけど、降りるとなると、どんなベテランだってロープなしじゃ危険すぎて無理。アクシデントで崖を下りなきゃいけなくなったとき、懸垂下降できるのとできないのが生死の分かれ目になったりもするんだ」
「あぁ、なんとなく想像つくな。木登りも登るよりも降りるほうが大変だし」
「上だけ見てる分には怖くないけど、見えない下に向かってくのは怖いよねぇ」
「なるほど! では、万が一に備えてここで練習するのですね!」
 杏寿郎たちの言葉に長倉が笑うと同時に、上から後藤の声がした。
「おーい、ロープおろすぞ!」
 直角に近い上段の岩の上から聞こえた声に長倉が応えると、ロープが投げ出された。長倉のロープよし! の声がひびいたと同時に、するするとロープを伝って後藤が降りてくる。
「道具は俺らのを貸すから、まずは登ってみ? 全員登ったら練習するから、その場で待機。日向ぼっこして体力回復しとけよ」
「下でナビするから、今度は自力で登ってみなよ。左側なら登りやすいと思うよ。無理そうと思ったらロープも使っていいから」
 言われ、みんなで顔を見あわせる。誰からいくと杏寿郎が尋ねる間もなく、錆兎が拳を突き出した。
「最初はグー!」
 あわててじゃんけんポンと出した手は、錆兎と真菰がチョキ、杏寿郎と義勇がグーだ。
「杏寿郎、先登るか?」
 義勇と自分のどちらかが一番手かと思ったそばから、義勇はそんなことを言ってくる。遠慮なのか、それとも一番手が不安なのか。言葉の真意が読めず、杏寿郎は小さく首をかしげた。
「俺が先のほうが安心か? なら、俺が先に行く。でも俺に遠慮してるだけなら、義勇が先に行ってくれ!」
「……杏寿郎が登ってるとこ、さっきは上からだったから、今度は下から見たい」
 どちらでもない義勇の答えは、杏寿郎の胸を弾ませた。ほら、義勇はちゃんと自分を見ていてくれた。隣に錆兎がいても。杏寿郎の顔に笑みが広がる。
「仲いいなぁ。じゃ、杏寿郎からな」
 笑う後藤の声にも背を押され、杏寿郎は明るく「はい!」と返事すると、岩肌を眺め上げた。
 末広がりに水が流れ落ちる小ぶりの滝だ。先ほどよりも水流が少し少なく感じる分、乾いた岩のほうが目立つ。けれどもそのぶんシダやら野草が生えた岩も多く、岩肌はなだらかにも見える。とっかかりとなる場所は限られているように感じられた。
 だが、岩肌に入った亀裂もまた多い。目の前の大岩を踏み台にして、まず確保するのはあの一番近い切れ目。それから少しせり出したあの岩をつかむ。頭のなかで模索するルートに、よしとうなずいて、杏寿郎は大きな岩に足をかけた。
 先ほどよりも垂直に近い岩壁は、それでも登ろうという意思があれば登っていける。大事なのは慎重さと大胆さを併せ持つこと。楽観しすぎたり油断するのは禁物だが、見極める前から諦めないこと。
 そんなところも、人生に似てる。そんな気がした。

「よぉし、順調順調。その先、右の出っ張りつかんで! 滑るから気をつけてな!」

 下から聞こえるナビの声にも、素直に従う。意気込んだところで初心者には変わりない。先人の知恵は貴重なコンパスだ。逆らわず右へと手を伸ばし、杏寿郎はさらに上へと登っていく。
 立ちはだかる壁のように見えた岩壁も、登ってしまえば距離はさほどない。山林に吹く風は涼しく流れる清流は冷たいほどだが、差し込む陽射しに焼かれた肌にはそれでも汗が伝った。日頃は使うことのない筋肉も駆使しているばかりでなく、緊張感が体を疲弊させていくのだろう。けれども杏寿郎の登坂ペースは落ちることがない。判断から決断までの時間は短く、後藤たちの指示の助けも借りて、杏寿郎は最後の岩に手をかけた。
 グイっと腕の力で体を引きあげれば、途端に開けた視界に新たな滝が飛び込んでくる。岩肌をえぐるようにして流れる細い水流と、うっそうとした木々。緑はますます色濃く、広がる青空が眩しい。
 知らず深く深呼吸して、杏寿郎は思わずこぶしを握った。誰も見ていないガッツポーズに、決意をこめる。

 大丈夫だ。きっとどんな答えが出ても受け入れられる。それが苦しみを生む答えだろうとも、乗り越えてみせる。こんなふうに、自分の力で。

「義勇っ!」
 滝つぼ辺りにいる義勇を見下ろして、杏寿郎は笑った。
 おいでと言葉にはせずに両手を差し伸べて笑ってみせる。義勇が眩しそうに目を細めたのが見えた。杏寿郎を見上げたままうなずいて、岩に手をかける姿には迷いがない。
 杏寿郎がたどったルートを、義勇は着実に進んでくる。視線はほぼ上。杏寿郎に向けられていた。
 登りきるまでにかかった時間は杏寿郎と同じぐらいだろう。最後の岩の代わりに、今度は杏寿郎が伸ばした手を素直につかんだ義勇を、力を込めて引き上げる。
 勢いあまって胸のなかに飛び込むように体勢を崩した義勇を、杏寿郎は、しっかりと受け止めた。足場は悪いが体幹には自信がある。ぐらつきもせず受けとめた義勇の体は、滝の水に濡れてひやりと冷たい。けれど息は少し荒く、白い頬はわずかに紅潮していた。

「やったな!」
「うん」

 笑いかければ面映ゆそうに、小さく微笑み返してくれる。腕のなかに収まったままでだ。
「ん? 義勇、もしかして身長並んでないか?」
 平坦な場所ではないからはっきりしないが、以前よりも目線の位置が近い気がする。
「……ほんとだ」
 答えた義勇の声は少しだけ呆然としていたかもしれない。
「義勇よりも大きくなる日も近いかもしれんな!」
 喜色満面に言った杏寿郎に、かすかに目を座らせて義勇は小さくもがくと、腕のなかから抜け出てしまった。
「……まだ俺のほうが大きい」
 呟くように言う声は不満がにじんでいる。やっぱり義勇は負けず嫌いらしい。剣道をやめてしまうぐらい人を気遣うわりには、負けることも同様に嫌がるアンバランスさは、なんだかかわいく思えた。ひとつ年上とはいえ義勇もまだまだ子供なのだと、そんな矛盾をはらんだアンバランスさが教えてくれる。
「なんの! すぐに追いこしてみせるぞ! 俺は父上にそっくりだとよく言われるからな、身長もきっとあれぐらい大きくなるはずだ!」
 笑って宣言すると、義勇はなぜだか少し遠い目をして、あぁ、うん、とそぞろな声で答えた。なんとなくこの反応の意味は察しが付くから、杏寿郎は思わず苦笑してしまう。
「気にせず笑っていいぞ、義勇。慣れっこだ! そっくりどころか、クローンみたいだと言われることも多いぞ。千寿郎と俺と父上が並ぶと、マトリョシカみたいだと言われたこともあるからな!」
 言えば義勇は、いかにもこらえきれぬ様子で吹き出した。小さく声を殺してクツクツと笑う様がなんだかかわいくて、ムズムズと胸の奥がこそばゆくなる。もっと笑ってほしい。楽しそうに笑ってくれと杏寿郎は願う。父には悪いが、義勇がこんなふうに笑ってくれるなら、話のタネになってもらうとしようか。
「あんまりそっくりだから、存命だったころの祖母に父はよく俺の名で呼ばれたらしい。まだ俺はオムツだったというのになっ。あんまり間違われるものだから、いっそ名札を下げようかと本気で悩んでいたのを、母が却下したと聞いた」
 とうとう声をあげて笑い出した義勇に、杏寿郎の笑みもグンと深まる。こんなに楽しそうに笑う義勇を見ることなど滅多にない。父もたぶんこの笑顔のためなら、道化役でも許してくれるだろう。
「おじさん、本当に杏寿郎にそっくりだから……あ、逆だな。杏寿郎がおじさんに似てるのか。千寿郎も杏寿郎にもっと似てくるのかな」
「みんなそう言う。だが、千寿郎が俺に似るのはちょっとな。かわいいのにもったいない」
 こればかりは少々本気で言った杏寿郎に、義勇がキョトリと目を見開いた。
「なんで? 杏寿郎もかわいいから、千寿郎だって大きくなってもきっとかわいい」
「は? 俺がか?」
 義勇の言葉に杏寿郎の目も負けず劣らず丸くなる。
 かわいいなんて、そんなことを言われたのは父や母からぐらいだ。もっと幼いころにはお愛想も含めて何度となく言われてきたのだろうが、もう大人たちだって杏寿郎にかわいいなど言わない。ましてや義勇に言われるなんて、なんとなく子ども扱いされているようでちょっと肩だって落ちる。義勇もかわいいと言われたらふてくされる癖にと、少しだけ釈然としない気分にもなった。
「あ、ごめん」
 けれども慌てた様子で肩をすくめて謝られれば、杏寿郎こそ慌ててしまう。これしきのことでへそを曲げるなど度量が狭いにもほどがある。
「いや、気にするな! 義勇は褒め言葉のつもりだったのだろう?」
 かわいいなど言われないぐらいに、自分が頼りがいのある男になればいいだけの話だ。思い、胸の内で誓ったそのとき。

「やったぁ、てっぺん!」

 明るい声が背後から聞こえて、振り返り見れば真菰がたどり着いたところだった。
「ね、笑い声聞えたけどなんか面白いことあったの?」
 近づいてきた真菰に問われ、杏寿郎は義勇と顔を見あわせた。クスリと笑いあって肩をすくめる。
「内緒だ!」
「えー、ズルいっ。仲間外れ反対!」
「たいしたことじゃない」
 教えてもいいが、なんとなく真菰にまで話すのは父に申しわけない気もする。義勇も同様なのだろう。馬鹿にして笑いものにしたつもりはないが、父を実際に知る義勇に話すのと真菰に話すのでは、なんとなく違う気もした。それに、ふたりだけの秘密は多いほうが楽しいし、うれしい。
 真菰もそれほど引きずる気はないのだろう。笑みを見交わすふたりをながめ、どこかうれしげにくすっと笑った。
「ま、いいや。これで貸し借りなしね? 杏寿郎くん」
 少しいたずらっぽい真菰の視線に、滝を登る前の会話を思い出し、杏寿郎は一瞬顔を引き締めた。

 錆兎の初恋相手が義勇だと知ったのは衝撃だったけれども、真菰を恨むつもりはない。錆兎の気持ちがどうあれ、きっと自分のなかにある義勇への気持ちの答えは変わることがないだろう。ならば、しっかりと答えを出すのだと決意させてくれた真菰に、恨み言を言うのは筋が違うはずだ。感謝するとは言えそうにないが、それは自分の未熟さゆえだ。まだそこまで大人になりきれないだけのこと。

「あぁ。あの話はおしまいだ!」
 拳を突き出して言うと、真菰はひとつまばたきし、笑って拳をあわせてきた。
「うん。でもね、悩んだときは相談に乗るからね?」
 こそりと耳打ちしてきた真菰に、杏寿郎もパチンとまばたきした。なんだかずいぶんと楽しげな真菰に、よく意味はわからないままつい苦笑してしまう。
「ん? 義勇、どうした?」
 つんと袖を引かれる感触に視線を移せば、義勇は少しうつむいて杏寿郎の袖をつかんでいた。昨日も確かこんなことがあったなと思いつつ聞けば、義勇は一瞬不思議そうに小首をかしげ、すぐにうろたえた様子で手を離した。どうやら無意識だったらしい。
 隠すように後ろ手に手を組んで視線をそらせた義勇は、なんだか戸惑っているようでもあり、少し拗ねているようにも見える。感情を露わにしないのが常なだけに、こんな態度を取られると杏寿郎は気になってしかたがない。
「なにか気になることでもあったのか? 言ってくれ! 君の気に障ることをしてしまったのなら、ちゃんと謝りたいし改めるようにしたい!」
「……なんでもないから」
 なんでもないということはないだろうと、問い詰めることはできなかった。
 杏寿郎たちが登るのを見ていた錆兎は、さすがに早い。到着っ、と言いながら現れた錆兎に、義勇はそそくさと近寄ってしまった。
 われ知らず杏寿郎はへにゃりと眉を下げたが、落ち込んでばかりもいられない。錆兎が着いたのなら、後藤たちが到着するのはすぐだろう。懸垂下降の練習は、おそらくは登ったのと同じ順で行うに違いない。思っていれば、やはり時を置かずに後藤が登ってきた。
「みんな飲み込み早いのな。俺が初めて登ったときよりも、よっぽど早いわ」
 笑って言う言葉にはお愛想でもない感嘆がにじんでいた。続いて現れた長倉も、これなら入渓点から一緒でも良かったなと笑ってくれた。
 面映ゆく笑みを見交わしあった杏寿郎たちを見まわして、後藤が口を開いた。
「島本たちも登ってくるから、そうしたら先頭交代するぞ。あいつらがここを登るあいだに、錆兎たちは懸垂下降の練習な。みんなが登ってくるまでは体を休めて、日向で体温上げとけよ。自分で思ってる以上に体が冷えてるからな」
 言い終わらぬうちに滝を登り切った尾崎が顔を出した。残りの面々もあいだを置かずに続いてくる。杏寿郎たちと違って間を開けずに登ったものらしい。
 褒めてもらったとはいえ、やはり初心者がいることで、普段よりも時間がかかっているのだろう。先に行ってるねと笑うなり休むことなく滝を登りだす尾崎たちに、申しわけなさを覚えたのは杏寿郎だけではないようだった。
「尾崎さんたちは休まないの?」
「先に湧水地点まで登って、真菰ちゃんたち待ちながら休憩するよ。真菰ちゃんたちも水分補給とカロリー摂取忘れないようにね」
「腹が減ってから食っても遅いぞぉ。こまめになんか食っとけよ」
「そうそう。マラソンやロードレースと同じ。食いながら挑む! これ大事!」
「ヒル対策忘れないようにな。マメにスプレーしろよぉ」
 不安げに言った真菰に明るく笑って、尾崎たちは口々にアドバイスを告げながら次の滝に挑んでいく。迷惑がるようなそぶりはみじんもなかった。
「ま、そういうことだ。余計な気を回さんでもいいって。錆兎たちと同行するのにあわせてスケジュールは立てなおしてあるし、むしろ予定より早く進んでるからな。ほい、わかったら練習すっぞ」
 笑う後藤にも屈託はない。もう滝を登り始めている面々を引き留めるわけにもいかず、せめて練習に手間取らぬようにするしかないかと、忠告に従い食塩水をスプレーしていると、真菰が「そうだ!」とザックのなかから紙袋を取り出した。それを見た義勇も、あわてたように自分のザックを開けている。取り出されたのは真菰と同じ紙袋だ。
「片手で食べられるおやつも持ってこいって言われたから、朝ご飯作ってるときに一緒に作ったんだぁ。後藤さんたちも食べて」
 真菰が差し出した紙袋をどれどれとみんなでのぞき込むと、なにやらスティック状の菓子のようなものが詰められていた。
「春巻きの皮であんこを巻いて焼いたやつ。こっちはチーズ」
 義勇の持つ紙袋は、真菰のものとは具材が違うらしい。おぉ、うまそう! と明るい声をあげた後藤と長倉は、さっそく真菰の持つ紙袋に手を伸ばしている。
「義勇が作ったのか?」
「俺とおじいちゃんで。あんこのは真菰とおじさん」
 それを聞けば杏寿郎が最初に手を出すほうなんて決まっている。
「ではチーズをいただこう! うむ、うまそうだ!」
 きつね色に焼きあげられた皮から、うっすらとチーズの黄色が透けて見える。時間が経っているからかパリッとした触感ではないが、かじるとわずかにバターの香りがした。たぶん表面にバターを塗って焼いてあるのだろう。バターの風味とチーズの塩気が混ざりあい、冷めていても十分においしい。
「うまい! やっぱり義勇は料理が上手だな! 見習わねば!」
「おじいちゃんがよく作ってくれたおやつなんだ。おばあちゃんがいつも作ってくれてたんだって、伯父さんたちが言ってた」
 そう聞くとますますありがたいような気になってくる。やはり自分も料理のひとつもできるようにならなければならないだろうかと、杏寿郎は思わず小さくうなった。
「……おばさんとお菓子作るとき、杏寿郎もやってみるか?」
 杏寿郎が考えていることは筒抜けだったようで、義勇が少し小首をかしげて聞いてきた。渡りに船とはこのことか。パッと杏寿郎は顔を輝かせた。
 義勇と一緒に菓子を作るとなれば、真菰曰く「義勇のかわいいエプロン姿」も見られる。
「いいのか!?」
「おばさんがダメって言わなければ」
「むぅ、それが一番の難題だ」
 つい渋い表情になった杏寿郎に、義勇はくすりと笑った。先ほどの不審な態度はもうどこにも見つけられない。
「帰ったら頼み込んでみることにしよう! しかし、これは実にうまいなっ! 義勇と範士殿が作ってくれたと思うと、なおさらうまく感じる!」
「私とおじさんが作ったあんこのもおいしいよ。杏寿郎くん、いくら義勇が作ったからってチーズひとり占めしないでね」
 手を止められずにパクパクと食べ続けていた杏寿郎は、真菰の言葉に思わず頭をかいた。笑い声があがるなか、苦笑しつつ義勇をうかがい見れば、義勇もどこか面映ゆそうに笑っている。
 やっぱりさっきの行動は、特に意味のあることではなかったのだろう。小さく笑っている義勇の憂いなど見えぬ顔に、杏寿郎の胸から不安が消えていった。

 滝を流れる清流は白く、水しぶきは眩しい陽射しにキラキラと光り、木々を揺らす風は爽やかだ。蝉の大合唱に交じって鳥のさえずりが聞こえてくる。水に濡れたシダや苔の匂い。少し腐葉土のような匂いもするのは、落ち葉や朽木だろうか。自然のなかにいるのだと、五感が訴えていた。
 義勇とふたりきりでという望みはかなわなかったが、残念な気持ちは杏寿郎の胸のなか、もうどこにもなかった。みんな笑っている。義勇の顔にも笑みがある。杏寿郎にとってはそれがなにより大事だ。
「来てよかったな、義勇!」
「……うん」
 心の底から笑った杏寿郎に返された義勇の微笑みは、かすかだけれどキラキラと輝いて見えた。