満天の星と恋の光 11

 閉じたまぶたを透かして、朝の眩しい陽射しが眼球を刺す。ギュッと眉を寄せた杏寿郎は、すぐにパチリと目を開いた。
 錆兎が夕べセットしていたスマホのアラームはまだ鳴っていない。代わりにどこかの家の雄鶏が、けたたましい鳴き声をひびかせていた。
 窓を開け蚊帳を吊っての就寝だったから、遮るもののない朝日で室内はすっかり明るい。早起きなクマゼミたちも、シャアシャアと賑やかな求愛の合唱を繰り広げている。
 今は何時だろう。室内には時計がないから、時刻はわからない。真夏とはいえ山のなかの早朝は、少し肌寒さを感じる。
 けれども、布団のなかでいつまでもグズグズとしているつもりもなく、杏寿郎はむくりと起き上がると隣の布団に視線を移した。
 隣で眠っていた義勇が、もぞりと身じろいだ。眩しいのか眉をかすかに寄せて「ん、んんっ」とむずかるようにうなっている。そのまた隣では、錆兎がおもむろに腕を突き出し伸びをしていた。
 パッと起き上がってあくびする錆兎に、杏寿郎は明るく笑いかけた。

「おはよう! 今日もいい天気になりそうだな!」

 杏寿郎の声に、義勇もようやくもぞもぞと起き上がったが、まだ寝足りないのか、子どもっぽい仕草で目をこすっている。
「義勇はまだ眠そうだな」
「こいつ、朝弱いんだよ。エンジンかかるまで時間かかるんだ。しばらくは寝ぼけてるぞ」
「……起きてる。変なこと言うな、錆兎のいじわる」
 なるほど、これは寝ぼけている。いつもに比べてずいぶんと子どもじみた口調だ。
「はいはい、さっさと着替えて顔洗おう。後藤さんたちを待たせるわけにはいかないんだからな」
 気の置けない会話に、チクンとお馴染みの痛みが杏寿郎の胸を刺したけれども、錆兎の言葉はもっともだ。厚意で一緒に沢登りしてくれる気さくな大学生たちに、迷惑をかけるわけにはいかない。
 それぞれに布団をたたみ、着替えを済ませたとたんに錆兎のあきれた声がした。

「朝から気が抜ける」

 杏寿郎が振り返り見れば、義勇がこてりと首をかしげていた。
 今日の義勇のTシャツは、杏寿郎も持っているスポーツブランドもののようだったけれども、よく見ればロゴは『NEKO』だし、シンプルだけれど躍動感を感じさせるお馴染みのマークも、実は伸びをしている猫の絵だ。
 義勇はまだ頭がはっきりしていないのか、錆兎に苦笑されても先ほどのような拗ねた様子はない。
「かわいいTシャツだな!」
 笑って言った杏寿郎を見やって、にこりと笑った目も、まだ少しぼんやりとしていた。

 ぞろぞろとみんなで洗面所に向かえば、すでに真菰がいた。ちょうど顔を洗い終えたところのようだ。
「おはよぉ。みんな早いね。たたき起こすの楽しみにしてたのに、残念」
「冗談だろ。おまえ、フライング・ボディ・アタックしてくるじゃないか。朝っぱらから潰されてたまるか」
「……フライパン耳元でカンカン鳴らされるのもキツイ」
 しかめっ面の錆兎と義勇の弁からすると、真菰の起こし方はずいぶんと過激なようだ。寝坊しなくてよかったと、杏寿郎も思わず苦笑してしまった。
 入れ替わりに洗面所に入ると、また真菰が声をかけてきた。
「今朝の稽古は休みだって。明日はお昼食べてから帰るんでしょ? 義勇たちも一緒に朝ご飯前に素振りとかかり稽古して、ご飯の後は私と杏寿郎くんで試合にしようって、お爺ちゃんが言ってたよぉ」
 真菰の言葉に、杏寿郎は思わず義勇たちと顔を見あわせた。寝ぼけ気味だった義勇も、稽古という言葉に反応したのか、パチリと目を見開いている。
「むぅ、確かに沢登りの前に稽古しては体力的に厳しいかもしれないが、範士殿に稽古をつけていただける機会が減ったのは、正直残念だ」
 山を甘く見るつもりはないが、素振りくらいはするものと思っていただけに、杏寿郎としては若干拍子抜けの感は否めない。
「まぁまぁ、今日はしょうがないよ。稽古の代わりってわけじゃないけど、朝ご飯の前に畑に行くよ~。お弁当も作んなきゃだし、忙しいよ。頑張ってねっ」
「あぁ、昨日のトマトやトウモロコシもうまかったな! あれは範士殿が作られているのか?」
「そう。私もお手伝いしてるよ。売り物にするようなもんじゃないけどね。ここらの家はみんな、自分たちが食べる分くらいの野菜なら、自分の畑で作っちゃうの。野菜は新鮮なほうがおいしいしね」
 真菰が笑うのに錆兎もうなずいた。
「確かに、ここで食べた後は、スーパーで買ったキュウリとかが、やけにまずく感じたりするんだよなぁ」
 錆兎の言葉に義勇も同感のようだが、杏寿郎も、昨夜の野菜の味を思い出しさもありなんとうなずいた。
 いつも母がスーパーで買ってくる野菜だって、今まで十分おいしいと思っていたけれども、昨日食べたトマトなどと比べてしまうと、明らかに味が違う。滋味深い野菜本来の味というのは、こういうことを言うのかと、少々カルチャーショックを受けたほどに、昨日食べた野菜はどれも味が濃かった。瑞々しさも段違いだ。
「よし! 弁当作りは手伝えんが、畑仕事ならば俺でも少しは役に立つだろう! なにをすればいい? なんでも言ってくれ!」
 張り切って杏寿郎が言うと、真菰は芝居がかった仕草で一同を見まわし、コホンと咳払いした。
「それじゃ、まずはみんなで畑の水やりします。それから、朝ご飯とお弁当の分の野菜を収穫。今日持っていく軍手あるでしょ。アレ、畑でもはめておくこと。じゃないと痛い目見るよぉ?」
 言っていたずらっぽく笑いかけてくる真菰に、杏寿郎は、はてと首をかしげた。
 畑仕事で痛い目を見るとは、どういうことだろう。
「杏寿郎は畑の野菜採るのも初めてか? だったら真菰の言うことに従っとけよ」
 笑う錆兎に義勇もうなずいたところを見ると、ふたりは真菰の忠告を理解しているらしい。どうやら初めてなのは杏寿郎だけのようだ。

 杏寿郎の疑問はともあれ、早いところ一仕事すまさなければ朝食にもありつけない。ぞろぞろと家の裏手へと向かえば、そこには緑の菜園が広がっていた。
「おぉっ、これはすごいな!」
 目に飛び込んできた菜園の野菜たちに、杏寿郎の顔が輝く。あちらこちらに見えるのは、昨日も食べた野菜たちだ。トマトにオクラ、ナスにピーマン。トウモロコシもある。整然と並んだ緑の列は壮観なほどだった。
 杏寿郎も小学校でミニトマトを育てたことはあるが、鉢植えだったし、こんなふうに自分の背丈ほどに伸びた蔓に実るキュウリなんて見るのは、初めての経験だ。家でも見慣れたシソやバジルも植わっているが、ほとんどの野菜はスーパーに並ぶ姿しか見たことがない。
 なぜだか愛らしい花も一緒に植えられていて、真菰が育てているのかと思いきや、コンパニオンプランツといって、野菜と一緒に植えることで虫よけになるのだと教えられた。シソやバジルがトマトやナスと一緒に植わっているのも、同様の理由らしい。身近な野菜にもいろいろと知らないことがあるのだなと、杏寿郎は感心するばかりだ。

 ジョウロで水やりするのかと思いきや、それでは追っつかないよと笑われた。確かにこの広さをジョウロで水をやっていては時間がかかりそうだ。近い場所はホースで直接。遠い位置にはバケツから柄杓でまくよう真菰から指示が飛ぶ。
 ホース係は真菰、男連中はせっせとバケツに水を汲んでは、柄杓でバシャバシャと水をかけていくこととなった。
 水をまくたびに水滴が陽射しにキラキラと光り、青臭いような野菜の匂いと土の匂いが入り混じって立ち込める。真っ赤なトマトや濃い緑のピーマンは、水をあびてまるで宝石のように光って見えた。ときおり小さな虹がかかり、朝の菜園には賑やかな笑い声が響く。早朝の陽射しはもう眩しいかぎりだが、山林を渡って吹き抜ける風は涼しく、過ごしやすい朝だ。
 見上げれば、白い雲がいくつかぽっかりと浮かんでいるばかりで、抜けるような青空が広がっている。昨夜見た天気予報では今日も快晴らしい。初めての沢登りに最適な天候だ。
 今日も初めての経験尽くしの一日になる。杏寿郎の胸も頭上に広がる青空のように晴れやかで、期待が膨らんでいった。
 
「野菜を自分で収穫するというのは楽しいものだな! うちでも育てられないか、帰ったら母に聞いてみよう!」 
 母も土いじりはするが、庭で丹精しているのはあくまでも花壇だ。シソやバジルをプランターで育ててはいるけれど、トマトやナスまでは作っているのを見たことはない。
 シソやバジルを摘み取るのは千寿郎の仕事となっているが、その前は杏寿郎の仕事だった。自分で摘み取った野菜が料理され食卓に乗るのはなんだか誇らしく、とても好きなお手伝いだったのを覚えている。自分が育てたものならなおさらうれしいに違いない。コンパニオンプランツという有り難い知識も得たことだし、トマトやナスを育てて自分の手で収穫することになったら、千寿郎もきっと喜ぶことだろう。
「じゃあ育て方のコツとかあとで教えてあげるよ。秋口からならブロッコリーとかほうれん草がいいかも」
「おぉ、それはありがたい! イテッ!」
 突然手のひらに走った痛みに、杏寿郎は思わず手を引いた。無造作にキュウリを握ってしまったせいか、棘が刺さったようだ。こんなに棘が鋭いキュウリを見るのも、もちろんその棘の洗礼を受けるのも、杏寿郎にとっては初めての経験だ。ピンと張りのある棘は、軍手をはめていてもそれなりに痛む。
「キュウリの棘、刺しちゃった? ナスも気をつけなね。へたの辺りを持っちゃうと刺さるよ~」
 アハハと笑いながら見せてと手を差し出してくる真菰に、軍手を外した手を見せれば、少しばかり血がにじんでいた。
「うぅむ、野菜がこんなに攻撃的だとは」
「野菜だって生きてるもん。身を守る術ってやつだよ。コンパニオンプランツもそうじゃない? 仲良く頑張って育ってる証拠、かわいいよね」

 野菜がかわいい? ちょっと不思議な気がして、杏寿郎は無意識に菜園を見まわした。実る野菜たちは、瑞々しく光っている。なるほど、懸命に生きている命だと思うと、なんとなく愛おしい。自分で育てているのならなおさらだろう。

「農薬はまいてないから大丈夫だろうけど、これ貼っときなね」
 言って真菰がポケットから出してきた絆創膏は、杏寿郎もよく見かけるリボンをつけた白い猫のキャラクターものだ。絆創膏を持ち歩いているのは女の子らしいなと思うけれども、自分の手に貼るのはなんとなくためらってしまう。杏寿郎は、この手のキャラものをかわいいと思ったことがないのだ。良さが今ひとつわからない。
 幼稚園や小学校のころの友達には、女の子ももちろんいるけれども、みんなこういったキャラクターが好きだったように思う。バッグや服のプリントなどを見せてきて、かわいいでしょとうれしげに言われても、杏寿郎が共感してやれたことは一度もない。
「もぉ、杏寿郎くんもこういうの女の子みたいで嫌なの?」
 絆創膏を手にしたまま貼るでもない杏寿郎に、プンと真菰が頬をふくらませて睨んでくる。
「女の子のほうがこういったものを好いているのはわかるが、別に性別は関係ないだろう? 好みは人それぞれだ。女のようだとは思わない。ただ、俺はこの手のものの良さがよくわからんのだ。あ、千寿郎がカエルのキャラクターのTシャツを着ていたときは、かわいいと思ったな。だがあれは、キャラクターがというより、かわいいと喜ぶ千寿郎がかわいかっただけだしなぁ」
 別にこういったものが好きでもないのに、俺が貼ってしまっていいんだろうかと首をかしげて聞いた杏寿郎に、真菰が少しポカンとした顔をした。
 さして時を置かずにアハハと大きな声で真菰は笑いだす。そんなにおかしなことを言っただろうかと、杏寿郎はますますキョトンとしてしまった。
「じゃ、杏寿郎くんがかわいいと思うのって、なに?」
 クスクスと笑いながら言う真菰は、なんだか慈しむような目をしている。なんでそんな眼差しで見るのかはわからないままに、杏寿郎は、真っ先に思い浮かんだ姿を探して反射的に視線をさまよわせた。
 浮かんだ面影のその人――義勇は、ふたりから少し離れた場所で、バケツを手にじっとこちらを見ていた。
 目があって、パッと杏寿郎は顔を輝かせたが、義勇はなぜだか小さく眉を寄せるなり顔を背けてしまった。パシャパシャとナスに水をかける仕草は、いつになく少し乱暴というか投げやりだ。いったいどうしたっていうんだろう。
 こんなふうに顔を背けられるなんて、再会したばかりのころに戻ったようで、ギュッと胸が痛む。

「おぉい! なに呑気にサボってんだ。早くしないと飯が食えないだろっ!」

 菜園の端でトウモロコシをもいでいた錆兎が怒鳴るのに、真菰が肩をすくめて舌を出す。
「錆兎、お腹減ると怒りっぽくなるんだよねぇ」
 ぺろりと舌を出して笑うと、絆創膏貼っておきなねと言い、真菰はもうピーマンをザルに入れだしている。そんな真菰を横目に、杏寿郎はカラフルな絆創膏をノロノロと手のひらに貼った。
 軍手をはめてしまえばもう見えない、杏寿郎にはわからない『かわいい』と、目をそらされてしまった杏寿郎にとっての『かわいい』人。同じ言葉なのに、なんでこんなに違うんだろう。
 キャラクターが見えなくなってもなんとも思わない。でも義勇にあんな態度を取られるとひどく胸が痛む。好きの度合いがまったく違うのだから、当たり前なのかもしれないけれども。
 特に好きでもないキャラクターと義勇を比べるのも、馬鹿馬鹿しいかぎりだと思いはする。けれども、なんだかかわいいという言葉がよくわからなくなってくる。
 男がかわいいと思われたところで、うれしいものでもあるまい。自分だって、子ども扱いされていると感じて少し複雑になるのだし、義勇もかわいいと言われるのは厭うている。
 NEKOのTシャツだって、よく考えてみればTシャツがかわいいんじゃなく、それを着た義勇がかわいいかっただけのような気がする。でもそれを言えば義勇は、杏寿郎までかわいいって言うと、むくれるだろう。

 なぜだか今も、ちょっとむくれているようだけれども。

 なにごとにも無表情で、感情をあらわにすることがなかった義勇がそんな態度をとるのは、どこかうれしいのも確かだけれど、不機嫌さの理由がわからないのは不安にもなる。義勇に厭われることが、杏寿郎には一番こたえる。嫌われるなんて考えただけで悲しい。
 かわいいと思ってしまったことを見抜かれたんだろうか。思いながらチラチラと義勇の様子をうかがえば、錆兎と並んでトマトをザルに入れていた。錆兎を見やる顔にはもう不機嫌さは感じられない。
 また胸が痛むのは、もうどうしようもない。
 なんでこんなにも狭量な嫉妬をしてしまうのだか。なかなか制御ができない自身の心を持て余して、杏寿郎はため息さえつきたくなった。
「杏寿郎、ちょっとつまみ食いしてみろよ。もぎたてのキュウリやトマト、最高にうまいぞ」
 落ち込む杏寿郎に気づかぬまま、笑いかけてくる錆兎は、本当にいい奴だと思う。嫌う要素などひとつもない。
 なのに、義勇の隣にいる姿を見るたびに小さい子どものように癇癪を起し、義勇と引きはがしてやりたいなんて思ってしまう自分が嫌だ。
 落ち込んだ気分を悟られたくなくて、杏寿郎は手に取ったキュウリを、言われるままにかじってみた。苛立ちのままにちょっぴり乱暴にかじったキュウリは、張りがあって瑞々しく、確かにパッと眉が開くほどうまい。
 思わずまじまじとキュウリを見つめていたら、とととっと小走りに駆け寄ってきた義勇が、トマトを差し出してきた。
「トマトもおいしいから」
 受け取ってこちらもそのままかぶりついたトマトも、今まで食べたものよりも、はるかにおいしかった。
「うまい!」
 杏寿郎のところへ駆け寄ってきてくれた義勇が、手渡してくれたトマト。トマトの味もさることながら、それがあんまりうれしくて笑った杏寿郎に、義勇もうれしそうに笑ってくれた。錆兎の隣ではなく、杏寿郎のすぐそばで。

 畑仕事は手伝えたが、台所に場所を移してしまえば、杏寿郎と錆兎はとたんに役立たずだ。
 野菜を洗うぐらいはできたけれども、ふたりそろって包丁を振りかぶった途端に、キュウリに面打ちする気かと真菰に叱られ、玉子を割れば欠けらが入り混じって義勇の眉を下げさせてしまった。
 台所から追い出されたふたりに、大人たちも苦笑しきりだ。
 しかたなしふたりで部屋の掃除をすることにしたけれど、錆兎とふたりきりなんて体育委員会で逢ったあの日以来だ。別に緊張するようなことはなにもないはずなのに、なんだか少し体が硬くなる。

「もうちょっと料理も手伝わないと、ひとり暮らしするようになったらヤバいかもなぁ」
「え? 錆兎は家を出る予定があるのか?」

 ぼやく声に驚いて、窓を拭く手を止めて振り向けば、卓袱台を拭いていた錆兎は軽く肩をすくめた。
「高校までは家にいるけど、大学はたぶん地方に行くことになると思うんだ。俺が尊敬してる指導者がいる大学には寮がないから、そこに進むならひとり暮らししないと」
「あぁ、水泳か」
 言われてみれば納得だが、まだ中学二年のうちからそこまで進路を定めている錆兎に、正直なところ杏寿郎は驚きを禁じ得ない。
 杏寿郎はまだ大学のことなど考えたことがない。大人になった自分を想像することもむずかしいのだ。父のように一生剣道をつづけるのはもちろんだけれど、整体院を継ぐというのは違う気がする。父や母もそれを望んでいるわけでもなさそうである。

 そんなまだまだ先の将来よりも、スッと杏寿郎の胸をよぎった不安は義勇のことだ。

 一学年上の錆兎は杏寿郎たちよりも一足先に卒業する。大学が地方ならば、義勇と四六時中一緒にいるのも高三までだ。
 でも、その先は?
 義勇はもしかしたら、錆兎の後を追って行く気でいるのかもしれない。義勇が将来どんな職業に就きたいのか聞いたことはないが、それに必要な知識や資格を得るための大学を選ぶとは限らないのだ。大学まではやりたいことが決まらないまま進むなんて、よく聞く話だ。錆兎と一緒にいるためだけに、義勇が進路を決める可能性だってなくはない。
 そうしたら、きっと別々に暮らすなんてことはないだろう。今と同じく、義勇は錆兎とふたりで暮らすに違いない。

 想像したことがあるエプロン姿の義勇が、おかえりと笑う先にいるのは、錆兎。それは確定された未来のように思えて、杏寿郎の胸は引き絞られるように痛んだ。

「大学に行ったら……義勇と暮らすのか?」
 知らず口をついた声は、我ながらいかにも弱気だ。自分でもらしくないと、不甲斐なさに杏寿郎は唇を噛んだ。
 こともなげに返されるだろう是の声は、けれども返ってはこなかった。
「はぁ? なんでだよ。まぁ、義勇も家を出るかもしれないけど、それでも俺と一緒ってことはないだろ?」
「なぜ? 義勇が一番頼りにしているのは錆兎だろう。錆兎と一緒にいたくて進路を決めることだって、十分考えられると思うが?」
 声はわれ知らず咎めるひびきをしていたかもしれない。言っていて惨めな気分になるなんてことも、杏寿郎にとって初めての経験だ。
 義勇との仲が深まるごとに、嫉妬も強まっていく気がする。自分でも知らなかった感情にいつでも揺さぶられて、そのたび度量の広さを持てとの自戒など吹き飛んでしまいそうになった。
 すっかり手を止めて錆兎を見つめた杏寿郎に、錆兎は、ほんの少し眉を下げて笑った。苦笑とも自嘲ともつかぬ笑みで言ったのは。

「俺と義勇は、トマトとナスみたいなもんなんだよ」

 なんのことだ? と、さらに問う間もなく、皿を両手に真菰と義勇が現れてしまえば、もう会話をつづけることもできない。
 当の義勇の目の前で続けたい話題でもない。
 錆兎ももう話の続きをするつもりはないようで、いそいそと真菰から皿を受けとっている。顔に浮かんでいるのもいつもの笑みだ。
「杏寿郎のぶん」
「お、おぉ! ありがとう! うまそうだ!」
 義勇が置いてくれたさらには、スクランブルエッグとともにキュウリやトマトがどっさりと乗っていた。おいしそうな焦げ目のついた厚切りベーコンも皿からはみ出しそうだ。
「杏寿郎くんは食いしん坊だからって、義勇がいっぱい切ってくれたんだよぉ。昨日も思ったけど、杏寿郎くん、ホントよく食べるよねぇ。大食い選手権とか出られそう」
「義勇が料理してくれたのか! ならばすべて食べなければなっ! だが、真菰。確かに俺はよく食うほうだと思うが、食い意地が張ってると思われるのはちょっと心外だ」
「なんで? いっぱい食べるの、見てて気持ちいい」
 こてりと首をかしげる義勇は、いかにも不思議そうだ。瞳にはからかいの色など一切浮かんではいない。
「そうなのか?」
「うん。いっぱい食べてほしいから、頑張って切った」
 皿に盛られたトマトやキュウリは誰よりも多いし、ナスの浅漬けの入った小鉢も山盛りだ。
「おばさんと一緒にケーキ作るときも、杏寿郎がいっぱい食べてもいいよう頑張る」
 畑での態度など、杏寿郎の気のせいだったかと思うほど、義勇はいつも通りだ。いや、いつもよりも明るくうれしそうにも見える。

「楽しみだ!」

 いくら悩んでも、嫌だと泣きわめいても、義勇の気持ちは義勇だけのもので、錆兎や真菰よりももっとずっと自分と一緒にいてほしいなんて、言えるわけもない。言ったところで、願いにふさわしい男に自分がならないかぎり、義勇の気持ちを変えられることもないだろう。
 鬱々と悩んで苛立ってを繰り返すのは、もうどうしようもないのかもしれない。それでも、義勇の隣に立って、義勇の支えになれる男になるという目標を、諦める必要なんてない。諦める気だって微塵もないのだ。
 ならば、頑張るしかない。少しずつだっていい。錆兎よりも、真菰よりも、これから義勇の人生に現れるだろう魅力的な人たちよりも、もっと、ずっと、誰よりも頑張ればいいのだ。
 どうしてこんなにも義勇の特別になりたいのか。義勇と一緒にいたいのか。それはまだわからないままだけれど、願う未来は変わらない。

 義勇の隣で。義勇とともに。

 それだけは変わらないのだから、頑張るよりほかない。
 カラリと笑った杏寿郎に、義勇だけでなく錆兎も小さく笑っていた。
 杏寿郎と義勇を見つめる瞳は、どこかやさしい色をしていた。

 後藤たちはキャンプ場に泊り、八時半から沢を登るらしい。渓谷にかかる小さな橋があるそうで、スタートから一時間後に、そこで待ちあわせることになっている。
「後藤くんたちを待たせるのも悪いしなぁ。早めに出るか」
「沢から林道に出るにも、藪を切り開いて登ることになるからな。余裕を持って行動できるようにしてやったほうがいいだろう」
 大人たちの言葉に、杏寿郎は気を引き締めた。
 昨日車のなかから見た渓谷の周囲は、うっそうと木々が生い茂っていた。沢から人が通れる道へと出るだけでも、一苦労なのは想像に難くない。そんななかをわざわざ林道へ出てくれる後藤たちには、ただ沢を登るよりも苦労をかけることになる。
 せっかく厚意で申し出てくれたのに、迷惑までかけるわけにはいかない。足手まといにならぬよう、油断せず慎重に事におよばねばと、杏寿郎は無言のまま肝に銘じた。

 お礼代わりに後藤たちの分の弁当も持参する杏寿郎たちは、それなりに大荷物だ。真菰と義勇がせっせと握ったおにぎりには、杏寿郎と錆兎で海苔を巻いた。少しでも手伝えることがあってホッとしたが、なんだか労働量としては不公平な気がしてならない。錆兎も同様なのか、やっぱり少しは料理できたほうがいいよなぁと苦笑された。
 鱗滝の教えでも、男だからと言って料理のひとつもできないのはよろしくないようだし、杏寿郎も錆兎の言には同感だ。問題は母が料理させてくれるかだけれども、せめて義勇が菓子を作りに来る日には自分も台所に入れさせてもらえればいいのだが。

 ともあれ、すっかり弁当も作り終え、それぞれのザックに分けて持ったら準備は完了だ。昨日汲んだ湧水も、それぞれペットボトルに詰められて二本ずつ持っているし、真菰と義勇は梅干しの入った小瓶まで持っている。
「沢のなかじゃ低体温症に気をつけなきゃいけないぐらいだろうけど、道に出たら熱中症に注意しないといけないからな。塩分と水分はちゃんととれよ?」
「わかってるって。爺ちゃんがつけた梅干しうまいんだよなぁ。楽しみだ」
 笑う錆兎に、真菰が今年は私も手伝ったんだよと胸を張った。
「婆さん直伝の味を、真菰も覚えたかぁ。婆さんもきっと喜んでるな」
「ホレ、出る前に仏壇に挨拶してこい」
 鱗滝に言われて、錆兎と真菰が顔を見あわせた。義勇に向けられた瞳が少し不安げなのはなぜだろう。
 案じる視線は、義勇の手が杏寿郎の手をつかんだのと同時に、やわらかい笑みに代わった。
「こっち、杏寿郎」
 杏寿郎の手を自らとって歩き出した義勇に、杏寿郎はちょっと不思議に思いながらも素直に従った。義勇から手をつないできたのは初めてだ。うれしさのほうが勝って、あまり深く考えることもなかった。
 錆兎たちの表情の意味を悟ったのは、一番奥の小さな部屋に入ってからだ。
 きっと鱗滝の自室なのだろう。こじんまりとして家具も少ない整然とした和室だった。襖を開いてすぐに目に飛び込んできたのは、一対の白い盆提灯が置かれた仏壇である。
 煉獄家では大きい盆棚を設え、まこものござに蓮の葉やら精霊馬などを飾るのだが、盆棚を置くスペースはないせいか盆飾りは簡素だった。
 仏壇にはいくつかの写真立てが置かれている。やさしそうな中年の女性の色あせて古い写真と、まだ新しい若い男女の結婚式の写真。そして、制服を着て微笑んでいる少女の写真だ。高校の卒業式だったのだろうか、少女は卒業証書の筒を持っている。
「お婆ちゃんと……父さんと、母さんと……姉さん」
 ささやくような小さな声に、杏寿郎はハッと目を見開き、少し息を飲んだ。

 そうだ。義勇の母は鱗滝の娘なのだ。姉は孫である。娘婿の義勇の父だって、全員、鱗滝にとっても家族だったのだ。

 改めて見やる写真のなかで、誰もが幸せそうな笑顔を浮かべている。少女の顔には見覚えがあった。初めて義勇と出逢った日に、義勇を見つけてホッとしたように笑ったのは、確かにこの人だ。
 もう覚えていなかった面差しが、写真を見たことで鮮やかによみがえってくる。
 義勇、と不安をにじませて呼んだ声。安堵に微笑んだ顔。きれいな人だった。とてもやさしい微笑みだった。
 古めの写真は鱗滝の妻だろう。義勇にとっては祖母だ。写真のなかの女性は、お婆ちゃんなんて言葉が似合わぬほどに若い。
「お婆ちゃんは、パパたちが中学生のころに亡くなっちゃったんだって。だから、私たちもお婆ちゃんのことはパパたちの話で知ってるだけなんだぁ」
「体が弱い人だったらしい。だからかな、うちの父さんも叔父さんや叔母さんも、みんな製薬会社に入ったの。聞いたことはないけどな」
 いつのまにか後ろに立っていた真菰と錆兎が言うのに、杏寿郎が義勇へと顔を向けると、義勇はまっすぐ仏壇のなかの写真を見つめたまま、小さく口を開いた。
「母さん……営業先の病院で、父さんと逢ったんだって」
「病院で?」
「うん。父さん、医者だったから。姉さんは、看護婦になりたいって、言ってた」
 繋いだ手は、まだ冷えてはいない。声も震えだしてはいなかった。それでも杏寿郎は、繋いだ手に力を込めた。大丈夫だと励ますように。
 杏寿郎は、そっと促すようにして義勇とともに仏壇の前に進み出ると、静かに膝を折った。
 きちんと正座して、杏寿郎もまっすぐに仏壇のなかで微笑む人たちを見つめる。一度義勇に微笑みかけて、杏寿郎はそぅっと義勇の手を離した。
 仏壇には燈明が小さく揺れていた。朝ご飯に出されたトマトやキュウリが乗った皿と小さく盛られたご飯も置かれている。鱗滝の仕儀だろう。
 たぶん、家族が亡くなって以降に、義勇がこの仏壇を参ることはなかったのではないだろうかと、杏寿郎はふと思った。
 話をすることもできずに泣いていた義勇が故人と向き合うことを、錆兎たちが黙って見ていられたとは思えない。もしかしたら墓参りもままならなかったかもしれない。
 この家に住む真菰はともかく、義勇だけを蚊帳の外に、錆兎がひとりで仏壇に手を合わせるとも思えなかった。
 背後に座った錆兎の表情は見えない。けれどもきっと、懐かしげな瞳をしているような気がした。

 そういえば、義勇の家族が亡くなったのは中学に入って初めての大会の日だったか。ならば、おそらく今年は新盆だ。義勇の家はもうない。だから家族はこの家に迎えられたのだろう。
 目には見えずとも、義勇を愛し慈しんできた人たちが、今この瞬間もそっと義勇に寄り添っているのかもしれない。

「……あのね、お爺ちゃんたち、昨日お水汲んだ後で一度帰って、迎え火炊いたんだって」
「じゃあ……蔦子姉ちゃんたち、帰ってきてるんだな」

 真菰と錆兎の声は静かだ。なにげないよう会話するその声に、慎重さがにじんでいるように感じられたのは杏寿郎の気のせいとも言えまい。義勇を心から気遣う声だ。
 杏寿郎はそっと隣に座る義勇を見つめた。義勇の横顔も静かだった。
 なにを考えているのかは、わからない。だがきっと、苦しく悲しいばかりではないだろうと思った。
 声をかけようとして思いとどまり、杏寿郎は黙って手を合わせ目を閉じた。
 家族の話をするだけでも、義勇は手が凍りつき動けなくなる。それでも今、義勇の瞳は、涙を落とすことなく仏壇に飾られた写真を一心に見つめていた。もしかしたら家族に話しかけているのかもしれない。ならば声をかけて邪魔をするのは忍びない。
 杏寿郎も、心のなかで彼岸から帰ってきた人たちへ、語りかける。誓う。義勇の傍にいます、いさせてくださいと。守りますと。ずっと一緒にいたいのです。義勇と支えあって生きたい。だから頑張りますと、静かに、けれど強く語りかけ、杏寿郎はやさしい笑顔の人達に誓った。

 蝉時雨がひびく。クマゼミだけでなくヒグラシやアブラゼミも鳴きだしたようだ。夏の声、恋の歌がひびきわたっている。誰も言葉は発しない。杏寿郎と同じく目を閉じ手を合わせているのだろう。義勇も、きっと。

 杏寿郎が目を開き傍らを見たのは、義勇と同時だった。視線が絡まって、自然と杏寿郎の唇が弧を描く。向けた微笑みに、義勇もまたほのかな笑みを返してくれた。
「明日は帰る前にお墓参りしようねっ」
「義勇……帰ったら、叔父さんたちの墓にも行こうな」
 背中から聞こえた声が明るいのは故意にだろう。仏壇へ向かわせた鱗滝はもちろんのこと、錆兎と真菰も、暗黙の了解を破る決意をしたのに違いなかった。
 こくりとうなずいた義勇は、後ろを振り返るのではなく杏寿郎へと顔を向けたまま、そっと口を開いた。
「……あの、杏寿郎も、一緒に……行ってほしい。手を……」
「あぁ! ちゃんと温めるとも。手を繋いで行こう」
 錆兎たちが義勇とともに悲しみに溺れることは、もうないかもしれない。それでも、凍える手を温める役目を、義勇は杏寿郎に任せてくれる。それがただうれしくて、どうしようもなく幸せだった。

 軽トラの荷台に揺られて林道を登り、橋に着くと後藤たちが道の脇に立っていた。
「おー、来たな。ヘルメットとかもちゃんと買ってもらえたかぁ」
「決まってるじゃん。いっぱしのクライマーに見えるぞ」
「虫よけスプレー持ってきた? ヒルも多いから、塩水かけておいたほうがいいよ。ひーちゃん、スプレー貸して」
 すでに沢を遡行してきたとはいえ、後藤たちは元気だ。明るい笑顔をみな浮かべている。
「今日はお世話になります! よろしくご指導ください!」
 ぺこりと頭を下げた杏寿郎の隣で、義勇も頭を下げる。錆兎たちや大人も同様だ。
「晴れの日が続いてるから水量は少ないだろうけど、落石だってあるかもしれないからな。十分気をつけるんだぞ。後藤くんたちに迷惑かけないようにな」
 錆兎の父の言葉にも、全員、軽口で反論することなく神妙にうなずく。
「この前登った別のグループの話だと、倒木とかもなかったみたいですから、中学生でも十分登れますよ。危なそうな箇所があったら無理させずに終了します」
「よっしゃ! じゃあ行くかぁ!」

 野口という青年の掛け声で、大人たちに元気に手を振ったら沢へと降りていく。急斜面を木々をつかみながら慎重に降りるのだが、のっけから難所という感じだ。雨は降らずとも露に湿った落ち葉はやけに滑る。
 とはいえ、運動神経も体感バランスも優れている子どもたちである。杏寿郎や錆兎はもちろんのこと、真菰や義勇も、危なげな様子はない。
「石拾いするんだろ? 岩が多くてあんまり小石は拾えないかもしれないぞ」
「島本ぉ、いい加減なこと言わない! 大丈夫だって。泥で汚れてっから分かりにくいかもしれないけどさ、この川はローム層を流れてきてるから石も結構面白いの拾えると思うぞ」
 昨夜声をかけてきてくれた後藤という学生が、このグループのリーダーのようだ。男五人、女二人の男女混合グループの仲はずいぶんといいように見える。
 冷たい水のなかをザブザブと水を跳ね上げながら進む最中の会話は、杏寿郎たちの自由研究である石についてだ。ときどき苔でぬめる川底やら浮いた岩などに注意は飛ぶが、水量が多くないこともあり遡行はさほど困難ではない。みんなの口も軽かった。
「ここらの石や砂は緑色凝灰岩――グリーンタフってやつな、それと火成岩とかが削れてできてんだよ。ローム層を流れてくるから火山灰や溶岩片の粒子とかを含んだ石も多くて、珍しい石もよく探せば見つかるはずだ。斜長石とか、もしかしたら橄欖石かんらんせきもあるかもしれないぞ」
「なんと! 後藤さんは鉱物にも造詣が深いのですね、勉強になります!」
 素直に感心の声をあげた杏寿郎たちに、長倉という学生があきれ顔で手を振った。
「違う違う。こいつ、昨日君らと別れた後でスマホで調べてたからね。一夜漬けだよ」
「なんで言っちゃうんだよっ、長倉!」
 アハハと明るい笑い声がひびく。生い茂る木々の枝に阻まれて、頭上に見える空は細切れで差し込む陽射しは少ない。けれどもその分、差し込んでいる幾筋もの光は、なんだか幻想的にすら見えた。
 大学生たちも杏寿郎と義勇の自由研究には協力的で、特に女性陣は、注意深く石を見ながら歩いてくれているようだ。
「ね、斜長石ってガーネットとか翡翠もそうなんでしょ? 拾えないかな」
「あー……たまに川や海岸でそういうのも拾えるって聞くけどなぁ。けど、そうそう見つかんないだろ。あっても売り物にならないぐらい小さいだろうし」
「っていうか、尾崎、目的変わってね? 杏寿郎くんたちの自由研究より自分の欲かよっ」
「えー、でも私も見てみたいなぁ。ガーネットって宝石でしょ? 川で宝石が拾えちゃうなんてすごいよっ!」
 真菰もめっきり興奮気味だ。杏寿郎は思わず苦笑してしまう。
 宝石に目を輝かせる辺りは、いかにも女の子と言えなくもない。いや、親戚連中のなかには男でもダイヤがどうこうと自慢げに腕時計を見せびらかしてくる輩もいるのだから、性別は関係ないのかもしれないけれども。
「宝石もパワーストーンみたいに石言葉があるのか?」
「……あったと思うけど……ごめん、よく知らない」
 杏寿郎と義勇の会話に、ひーちゃんと呼ばれている女子大生が目を輝かせた。
「あ、ふたりはそういうの興味あるの?」
「いえ、知っているのはシーグラスだけです。海で拾ったので」
 昨日作ったチャームは、万が一落としたら見つけるのは不可能だろうと、今日は置いてきた。いつも持ち歩いている文庫本も、今日は留守番だ。けれども、シーグラスのチャームを思い浮かべると、杏寿郎の顔は自然と緩む。なんだか誇らしい気持ちにもなる。
「義勇とおそろいで赤と青のを拾いました! 真菰に教わってチャームにしたので、通学カバンにつける予定です!」
「仲良しなんだねぇ。シーグラスは絆の石だもんね」
「はいっ!」
「ガーネットはね、想いを実らせてくれたり生涯のパートナーと結ばれる力をくれる石なのよ。守護の石でもあるね。大地のエネルギーを持った火炎の石だよ」
「……杏寿郎みたいな?」
 ポツンと言った義勇に驚いて、まじまじと見つめれば、義勇も杏寿郎を見返してくる。
「俺?」
「だって、杏寿郎はすごく強いし、火みたいだ。明るく照らしてくれるし、温めてくれる」
 ずいぶんと気恥ずかしいことを言われている気がするが、羞恥の色はその瞳には見られない。表情もいたって真面目だ。心の底から、杏寿郎は火のようだと義勇は思ってくれているのだろう。
「義勇は……海の水だな。凪いだ海は見ていて心が晴れるし、穏やかになれる。だが、強く波打ちもする……強くてやさしい海だ。ラピスラズリと言ったか? 義勇の目の色に似ている石があるんだろう? 一度見てみたい」
 誇らしさと恥ずかしさが入り混じった声で言えば、義勇はパチリとまばたいて、少し恥ずかしそうに顔をうつむけた。自分が言われるのは恥ずかしいらしい。
「うぉーい、ひーこ、なに身悶えてんだぁ?」
「や、なんか中学生のピュアッピュアな会話のマイナスイオンがすごい。お姉さんは自分の汚れた心が恥ずかしいよ」
 先を歩いていた後藤が振り向き声をかけたのに、一斉にみんなの視線が杏寿郎たちに集まった。そんなに変わったことを言ったつもりはないがと、杏寿郎は首をかしげただけだったけれども、義勇は注目を浴びていっそう恥ずかしくなってしまったようだ。目元を赤らめもじもじとうつむいたままでいる。
「では、汚れた心を清流で洗い流したまえよ。さぁ、沢登りの醍醐味っ! いよいよ滝を登るぞぉ!」
 おぉ! といくつも声が上がって、前方を見れば、立ちはだかる岩肌と流れ落ちる水流が待ち構えていた。
 切り立つ岸壁はさほど高さはない。水流も有名な観光地の滝のような激しさは感じられないが、それでも杏寿郎は思わず身震いした。
「こっからは、今まで以上に気を引き締めてかかれよ? 足をすべらせたら落下するからな」
「はいっ!」
 力強く答えた杏寿郎の声は、義勇や錆兎たちの声と重なった。
 さぁ、小さな大冒険の始まりだ。