満天の星と恋の光 10

 バーベキューの後片付けをしている最中に話題になったのは、明日の沢登りである。
 石を拾うことは母にも告げてあったから、大人たちにも伝わっていたようだが、沢を遡行するとは思ってもいなかったらしい。杏寿郎が「俺らでも沢登りできますか?」と尋ねたとたん、鱗滝と錆兎の父は渋い顔を見交わせあった。
「初めて登るのにふたりきりはなぁ。沢登りは俺もしたことがないから、ついてってやるわけにもいかないし……どっかのグループに混ぜてもらうか?」
「明日も沢を登る人たちがいるとも限らんだろう。本来なら講習を受けるなり、コンダクターについてもらうなりしたほうがいいが……ふむ、どうしたもんかな」
 
 大人たちの言葉に、杏寿郎も義勇とともに途方に暮れるしかない。
 ふたりきりでないのには当然目をつぶれるけれども、問題は沢登りの上級者になどまるで当てがないことだ。装備だって、川を遡るだけなら本格的な登山道具までは用意する必要もないだろうと思っていたから、特別なものはなにも準備していない。用意したのはせいぜい丈夫な靴とコンパスや地図ぐらいなものだ。

「なに? 沢登りしたいの? 子どもら全員ですか?」

 杏寿郎たちと同じく鉄板などを洗っていたグループから、不意に声がかけられたのは、どうすると義勇と相談しようとしたまさにそのときだ。
「ううん、登るのは杏寿郎くんと義勇だけ」
 ふたりを指差しながら答えた真菰に、声をかけてきた大学生らしき男の人が、杏寿郎たちに視線を向けてくる。
 サークルで来ているものか、若い男女のグループだ。バーベキューでは隣り合った場所ではなかったので話はしていないが、バドミントンをしていたときに応援してくれていた人のなかにいたかもしれない。確か錆兎の父が肉をお裾分けしに行ったら、ピザをお返しにくれた人たちだったはずだ。
「上流の石拾いが主目的です! 自由研究のテーマに石の比較をするので!」
 杏寿郎の言葉に、自由研究! 懐かしいひびき~! などと、にぎやかな声が上がった。
「じゃあさ、俺らと一緒に行こうぜ。装備は俺らの予備を貸してやるよ。沢靴とかはサイズにあったもの用意しなきゃまずいけどさ」
「えっ!? よろしいんですか!」
 パッと顔を輝かせて義勇を見れば、義勇も戸惑ってはいるようだが瞳が明るい。だが、懸念がないわけでもない。
「沢靴って……なに?」
 後藤と名乗った青年にというよりも、杏寿郎に向けて聞いてきた義勇の疑問はもっともだ。杏寿郎もそんな靴は聞いたことがない。
「苔で川底がぬめるからね、滑りにくいソールの渓流シューズや沢タビじゃないと、転倒しやすくて危ないの。普通のスポーツショップで売ってるよ。沢タビだったらあんまり高くないよ」
 尾崎という女子大生の答えに、なるほどそういうものかと感心したものの、いずれにしてもそんな準備はしていない。
「目的は石拾いなんだろ? だったら途中までは林道登って来ればいいんじゃないか? 水の少ない上流の滝だけチャレンジしてみればいいよ。合流地点決めてさ、俺らと登れば大丈夫だろ」
「どうせならみんな来れば? せっかく夏休みなんだからさぁ、宿題だけじゃなく遊ぼうぜ! シャワークライミング気持ちいいぞぉ」
「昼にいいもん見させてもらったしな! バーベキューでも肉分けてもらっちゃったしさ。白熱の試合とA5ランクの牛肉のお礼ってことで」
「うまかったよなぁ、アレ……口のなかでとろけたもん。まさか山登りに来て極上の肉食えるとは思わなかったわ。君ら運動神経抜群っぽいし、いけるいける。子どもでも登れる初心者向けの沢だから大丈夫だよ」
 盛り上がる大学生たちに、うれしいけれども杏寿郎はちょっと呆気にとられる。ずいぶんと気さくな人たちだ。
 思いがけない申し出に真菰の顔が輝き、錆兎もどこかソワソワと期待の気配をにじませている。
 ふたりきりどころか、大人数で行動することになりそうだなと、ちょっとの落胆に杏寿郎は苦笑した。けれどもガッカリするばかりでもなく、ワクワクとした気持ちもある。義勇と一緒に行動することに違いはないわけだし、初めての経験も、新しい出逢いも、すべてが胸弾むものだ。
「でも、靴は買わなきゃいけないんだろう?」
「うーん、それを言われちゃうと……ちょっと厳しいかぁ。明日だもんねぇ。今回は川遊びにしとく?」
 だから錆兎と真菰の会話への落胆のほうが大きかったし、自分の見通しの甘さが悔しくもなった。
 何事も予習復習は大事だ。思いつきだけでなにもかも進められるわけでもないと、頭ではわかっていたつもりでも、実行が伴わなければ意味がない。もっと十分に調べ、万端の準備をすべきだった。
 千寿郎の事故にしたって、海岸での離岸流の事故を考慮していれば、もっと注意もできたはずだ。痛い経験を糧にできぬとは情けない。せめて繰り返さぬようにしなければ。

 残念だがしかたがない。折角の申し出だが断るしかなかろうと思った杏寿郎だったが、大人たちは違ったようだ。

「今からなら急げばまだ店も開いてるだろ。用意しとけばいいのってなにかな? 靴だけ?」
 後藤に向かって尋ねた錆兎の父に、杏寿郎はあわててしまう。ありがたいが素直に喜ぶわけにもいかない理由がある。
「いえっ! 恥ずかしい話ですが、そんなに小遣いが残っていないのです。靴を買う余裕はなくて」
 石拾いは今回だけで済ませることもできるが、標本箱の材料にまだまだ金はかかる。小学校のころの友人たちにプールなどにも誘われているし、ひと夏を過ごすには現状でさえ少々厳しい。
 中学にあがって月々の小遣いは三千円に増えたけれども、浪費癖のない杏寿郎にもこの夏の出費はちょっと痛かった。勉学のために使うのならばともかく、遊びのために母や父に小遣いを前借りするわけにもいかない。友達と遊びにいくぶんは、貯金から出さないと駄目かなと思っていたのだ。いくらかかるか見当もつかない沢登りの用具を買う余裕は、さすがにない。
「なんだ、気にするなよ。それぐらいは買ってやるって」
「そんなわけにはいきません! あの、でしたら費用をお借りしてもいいですか。帰ったらすぐにお返しします!」
 持ちあわせはほぼないに等しいがお年玉の貯金はそれなりにあるし、万が一足りなくても、理由を話せば小遣いの前借りを母も許してくれるだろう。秋はかなり厳しい懐事情になりそうだがしょうがない。
 あわてて言った杏寿郎に、錆兎の父はカラカラと笑った。
「杏寿郎くんは真面目だなぁ。お母さんからの肉だけでもおつりが来るから、気にするなって。ホラ、急がないと店が閉まっちゃうぞ」
「俺のは?」
「おじいちゃん、私のも!」
 錆兎と真菰も、すっかりもう沢登りに参加する態勢のようだ。うろたえているのは杏寿郎だけらしい。と、思いきや。

「……あの、俺も小遣いあんまり残ってないし」

 言ってうつむく義勇も困り顔だ。生真面目さは義勇のほうが杏寿郎よりも上である。頑なに校則を守ろうと、夏休みでも制服を着て行動するぐらいには。
 義勇にしてみれば、海での一幕で心配をかけたうえに、杏寿郎を誘ったのも自分。大人にも杏寿郎にも、迷惑をかけ通しだというところかもしれない。それでなくとも、親戚とはいえ学費やらなにやらすべてを世話になっている身だという、引け目もあるだろう。いくら気にするなと言われたところで、義勇性格上、あっけらかんと甘えることなどできないはずだ。小遣いをもらうのさえ申しわけないと思っているに違いない。それはいかにも寂しいことのように思える。
 だが義勇までとは言わずとも、杏寿郎だって、大人たちの言葉に簡単にうなずけないのも確かだ。肉や手土産はあくまでも義勇を危険な目に遭わせた詫びと、今回杏寿郎が世話になる礼なのだろうし、杏寿郎自身が出したものでもない。
 杏寿郎が案じるまでもなく、大人たちも、義勇の葛藤は重々感じているのだろう。錆兎の父の笑みは、ほんの少し痛ましげな色をたたえた苦笑に代わり、鱗滝はなにも言わず腕を伸ばした。
 義勇の頭を撫で静かに笑う鱗滝のしわ深い顔には、慈愛だけがある。
 内心では後悔や苦悩もあるかもしれないが、それはまだ未熟な杏寿郎には、窺い知ることができない。杏寿郎が進む道の先に立つ超越の境地にある人の心は、どれだけ深く広いのか。いつか自分もそこにたどり着けるのかすら、杏寿郎にはわからない。
 けれども、ただただやさしいばかりの心境ではないことぐらい、想像することはできる。表面に見えるものだけで判断してはいけないと、心に刻むことは、中学生でしかない杏寿郎にだってできるのだ。そうあれと父や母に教えられてもいる。

「子どもは甘えるのも仕事のうちだ。なんでもかんでも人に頼る甘ったれでは困るが、頼るべきは頼ることも必要だぞ、義勇。人はひとりでは生きられん。こういうときは素直に甘えなさい」
 でないと大人の立場がないと、莞爾として笑う鱗滝に、義勇が小さくうなずいた。

「おー、靴買ってもらえてよかったな!」
「しっかりしてんのなぁ、君ら。俺、中学生のころなんて親にねだってばっかだったわ」
「はぁ? 野口は今もだろ。車の頭金出してもらったって言ってたじゃん。親に迷惑かけんなよなぁ」
「うっせぇぞ、吉岡!」
 事情を知らぬ大学生たちは明るい。息を飲んで義勇と鱗滝を見守っていた錆兎や真菰の表情には、気づいた者はいなそうだ。
 ワイワイと楽しげな声に瞳を明るくして、どういうのがいいの? と尋ねる真菰に、アレがいいコレがいいと先を競って教えだす人たちから視線を外し、杏寿郎は、義勇に向かって笑いかけた。
「義勇、靴を買っていただくからには不甲斐ないところなど見せられないな! 明日は足手まといにならぬよう、頑張ろう! 自由研究もコンクール入賞を狙わねばならんなっ!」

 申しわけないとうつむくよりも、きっとそのほうがいい。自分だって義勇には笑っていてほしいのだ。

 義勇に頼られる男になるためには、手本となる大人たちの言葉に、素直に耳を傾けることも必要だろう。自分はまだ、どうしたって子どもでしかない。やれることには限界があるし、自分だけで考えたところで答えの出ない難問は未来にはきっと山積みだ。義勇への想いの理由だって、いまだつかみきれずにいるのだから。
 剣道も、人生も、まだ道の始まりでしかない。義勇とともに歩むなら、それを強く望むなら、前だけを見据えるのではなく、周りを見ることもきっと大切なことだ。
 義勇の背負った荷は重い。一緒に背負う覚悟はあるが、今はまだ義勇は首を横に振るだろう。杏寿郎も子どもだからというばかりでもなく、義勇自身が頼ることをよしとしないからだ。義勇の強さは、頑なさでもある。悲しみに固くこわばった心の奥はやわらかいのに、それを表に出すことをためらっている。

 思いあがるな。慢心するな。義勇に頼られたいのなら、まずは俺が大人にならねば。

 杏寿郎は笑いながらも心に強く誓う。
 ただでさえ杏寿郎は義勇よりも年下だ。たったひとつといえども、子どもである今はその差は大きい。錆兎がいい例だ。杏寿郎の目から見ても、たった数カ月早く生まれただけの錆兎は、ずいぶん大人に見える。
 それでもまだ、錆兎だって中学二年生の子どもでしかない。義勇を救いたくとも一緒に悲しみに溺れると、手を伸ばしあぐねていた子どもだ。
 錆兎にもできなかったことを、自分はしようとしている。もしかしたら鱗滝にさえできなかった、義勇の心を救う支えという大業を志しているのだ。ならば、いらぬ意地など捨て去るのに杏寿郎に躊躇はなかった。

 道は長い。しっかりと歩んでいくには、先人に頼り教えを乞うのは当然のことだ。
 今自分ができることは、頼ることをためらう義勇の頑なな心を、少しでも軽くしてやることだけだろう。

「……うん。頑張る」
「うむ! 一緒に頑張ろう!」
 うなずいてくれた義勇を見て、杏寿郎は、より明るく笑った。
 一緒にという言葉の深さを、義勇は受け止めてくれるだろうか。昼間のバドミントンを、杏寿郎はふと思い出す。あんなふうに義勇と息をあわせて協力し合って、いつまでもどこまでも、行ければいい。それを願って、杏寿郎は誰よりも明るく笑った。

 後藤たちと別れてあわただしく駅前の店に駆け込んだのは、もう閉店時間が近かった。
 アドバイスにしたがって選んだ靴は、ソールがフェルトの沢タビだ。ソールが柔らかいぶん、地面を長時間歩くには不向きだが、足先の感覚がつかみやすく靴に比べれば安価なのだという。
 購入したのは靴だけではなかった。タビと言う通り、靴の先はふたつに割れていて普通の靴下では履けない。最終的には、沢登りに適した合成ゴム製の二割れの靴下やら、登山用ヘルメット。防水性のザック。真夏でも沢の清流は冷たいから低体温症にも気をつけなければと、教えられたウェアなどまで買い求めることになり、さすがにこれは甘えすぎるのではと、杏寿郎は少々焦る。
 けれども、もしも沢登りが気に入ったらこれから先も使えるだろうと、笑って言い切られてしまえば断るわけにもいかない。恐縮仕切りでお言葉に甘えた。
「ありがとうございます! 大事に使います!」
「うん。でもタビは結構消耗するらしいから、そこは気を使い過ぎないで、ダメになったらすぐに買い替えなね」
 笑う大人たちに義勇はまだためらっていたようだったが、杏寿郎くんもこう言ってるだろうと錆兎の父に言われ、杏寿郎と同じく一揃い装備を購入してもらっていた。自分が義勇の背を押す手助けになったのならなによりだ。

 靴からなにから、義勇が選んだのは全部杏寿郎と一緒のもので、色もおそろいだ。おそろいだなと笑えば、なんだか照れくさいのは義勇も同様なのか、こそばゆそうに笑ってくれた。
 錆兎ともおそろいだし、真菰も色が違うだけだけれども、まぁそこはよしとする。みんな一緒が嫌なわけでもない。
 今回は登山サークルの後藤たちに混ぜてもらうということで、スリングやカラビナなどの登山と変わらぬ装備は借りることになる。そんなものまで全部買っていたら総額いくらになっていたことやらと、杏寿郎は肝を冷やしたが、縁があってよかった。
 ただの石拾いのはずが、ずいぶんととんでもない大事になってきたけれど、後藤たちとの縁ができたことで、また新しい楽しみも増えた。

 帰宅するなり座敷に新品の装備を並べて、ワイワイと騒がしく準備する杏寿郎たちの様子をにこやかに見守っていた鱗滝が、ふと顔つきを改めた。元々温和すぎるほどの顔立ちなので、相変わらず微笑んでいるようにも見えるけれども。
「初心者向けの沢と言えども、油断はするんじゃないぞ。獅子は兎を撃つに全力を用うと言うだろう。なにごともなめてかかれば痛い目をみるからな」
 重々しく言う鱗滝に、杏寿郎の背が知らず伸びた。グッと顔を引き締め、神妙にうなずく。
「肝に銘じます。剣の道と同じですね」
 真剣な声で言った杏寿郎を、鱗滝は少し視線を和らげで見やり、ゆっくりとうなずき返した。
「煉獄くんは良き指導者に教わっているとみえる。習っているのはお父上だったかな。一度逢ってみたいものだ」
「ぜひ! 父が喜びます!」
 もし実現すれば父がどれほど歓喜することだろうと、満面の笑みで即答した杏寿郎に、鱗滝もどこか満足げだ。
「帰る前に一度、うちの稽古に参加するんだろう? 煉獄くんの剣を見るのが楽しみだ」
 そんなことまで言われてしまえば、杏寿郎の胸だって期待にはちきれんばかりとなる。義勇と過ごす喜びもさることながら、杏寿郎にとっては切っても切り離せない剣道で、偉大な先達の教えを受けられる喜悦は計り知れない。
「俺も杏寿郎が剣道やるのを見るのは初めてだな。クラスの剣道部のやつが、すごい新人が入ってきたって焦ってたぞ。今年は団体戦のメンバーに選ばれるかもしれなかったのに、煉獄がいるんじゃ無理そうだって落ち込んでた」
 少し愉快そう笑った錆兎の頭を、こつんと鱗滝が小突いた。
「笑っとる場合か。おまえも稽古には参加しろ。本格的に続けろとは言わんが、精神鍛錬だ。義勇も一緒にな」
「うぇっ、藪蛇。ちゃんとやるって。な、義勇?」
 鱗滝の言葉に思わず杏寿郎が義勇に視線を移せば、笑った錆兎とは異なり、義勇は首をすくめて小さくうなずき、ちらりと杏寿郎を見返してきた。下手だから一緒に稽古したら迷惑になる。そんなことを考えているのが丸分かりだ。
 無意識に杏寿郎は義勇に向き直り、ガシッと肩をつかんでいた。

「義勇、剣道はうまい下手よりも、強いか弱いかだ! そしてそれは、勝ち負けではない! 君は誰よりも強い男だ、俺は尊敬していると言っただろう? ぜひ一緒に稽古してくれ!」

 紛うかたなき本心だ。だから杏寿郎は真剣に義勇を見つめて言った。
 錆兎たちを苦しめまいと、ひとりで絶望と悲しみを抱えてきた義勇への尊敬の念は、決して誇張ではなく、ましてや嘘などひとかけらもない。千寿郎を救うために冷静に素早い判断力を見せ、迷いなくそれに邁進する決断力も、義勇にはある。尊敬に足る男であることは間違いないのだ。
 義勇が貸してくれた本――『パール街の少年たち』の誰よりも病弱でチビな、けれども誰よりも強い心と勇気を持っていた主人公のネメチェックに、千寿郎は義勇をたとえたが、杏寿郎もまったく同感だ。
 ネメチェックのような運命を、けっして迎えさせてなるものかとも思うけれども。

 まっすぐに見つめて言い切った杏寿郎に気圧されたか、義勇は目を白黒とさせていた。杏寿郎の眼差しは圧が強すぎるとよく言われるのだが、義勇もそれを感じているのだろうか。なんだか獅子を前にした子ウサギのように、プルプルと小さく震えてすらいる。なんだかかわいそうになるほどだ。
 怖がられているとしたら嫌だなぁとちょっぴり思った杏寿郎に、クスクスと笑った真菰が話しかけてきた。

「杏寿郎くん、私との手合わせも忘れないでね」

 義勇への助け船のつもりでもあるかもしれないが、杏寿郎にとっても少しありがたい。義勇に怯えられるのは悲しすぎる。とはいえ、義勇を見つめていたいのも事実なのだ。義勇は自己卑下が過ぎるきらいがあるから、杏寿郎のほうから視線を外せばやっぱりお世辞だと思われる可能性もあるし、どうしようかと思っていたところでの真菰の一言だ。
「おぉ、もちろんだ! 真菰もかなりの剣士だときいているからなっ。実に楽しみだ!」
 朗らかに笑った杏寿郎に、真菰の目が少しだけ真剣みを帯びた。
「手加減一切なし。本気でやってね?」
「当然だろう? 範士殿もおっしゃったではないか。女の子だろうと、なめてかかるような真似をするわけがない!」
 ましてや真菰は鱗滝の弟子だ。大会でも優勝していると聞いた。下手をすれば食われるのは自分のほうかもしれない。
 そもそも剣道には本来、男女の別がないのだ。体格差による優劣を防ぐために大会などでは男女別れての試合となるが、昇段試験は男女ともに入り混じっての実技となる。
 剣道はスポーツの一種に位置づけられてはいるが、あくまでも武道だ。人を斬る技術から始まっているとはいえ、今は己を研鑽することこそを重要視している。同じ武道であっても、空手や柔道とは違い男女の別すらない。どこまでも個としての技術と心を磨くものなのだ。だからこそ人の道に通ずる。
 真菰も秋に昇段試験を受けるそうだから、お互い段位は一級。杏寿郎も大会優勝経験はあるが、初段の昇段試験は父の方針でまだ受けていない。真菰もきっと同様だったのだろう。
 剣道はほかのスポーツと違って、年齢や修行年数が重要な要素となる。満十三歳にならなければ初段の昇段審査を受けることすらできないし、基本的には一級をとってから一年は修行しなければならない。
 大会で優勝回数が多いなどの特に優秀な者は、一級を取っていればその限りではないのだが、父には初段までは周りに倣えと止められた。技量優位の大会成績で段位を所得するのはもってのほかとの教えだ。
 剣道では相手との心の読みあい、相手の力量を引き出すこともまた、大事なことだ。心技体の一致。それこそが剣道の真髄である。相手に勝つのではなく己に勝つ。それを剣の道を歩む者は志すのだ。勝敗よりも人格形成をこそ剣道人は尊ぶ。
 一級までの受審資格は地区や加盟する支部によっても異なるが、一級ならば小学六年生以上、初段は満十三歳からと定められているのもそのためだろう。未熟で不安定な精神を、年齢や性別による体格差で補うような真似はできない。
 剣の道においては、技量だけが優れていても、意味はないのだ。

「うん。私も心してかかるよ。杏寿郎くんとやるの、すごく勉強になりそう。胸をお借りします」
 ふと表情をゆるめ、姿勢を正して深く頭を下げた真菰に、杏寿郎も居住まいを正す。
「俺も勉強させていただきます。真剣勝負をよろしくお願い致します!」
 一礼し言えば、真菰の顔が明るく輝いた。ふたりを見つめる一同の顔も穏やかだ。鱗滝はいかにも満足げである。
 義勇は、いつもと変わらぬ無表情だ。稽古に参加することはなし崩しに決定したようなものだが、拒む気はないらしい。
 ほんのわずかに伏せられた目は、小さな葛藤が残っている証だろうか。ためらう気持ちはわからないでもないので、杏寿郎は内心で苦笑するにとどめた。問い詰める気はない。
 そしてまた、錆兎が浮かべた小さな苦笑に一瞬ただよった、寂寥に似た切なげな色合いの意味も、杏寿郎にはわからなかった。

 川は入渓点となる辺りがいちばん水量は多いが、流れは穏やかで、源流に近づくほど流れは急となるらしい。このたび遡行する沢も、いくつもの支流が合流して、入渓点の泉の付近に流れ込んでいくそうだ。
 後藤たちは入渓点から遡行するが、杏寿郎たちは林道と並行した途中の箇所からの参加となる。滝が注ぎ込む釜と呼ばれるスポットも、深いものではなく、登りやすい滝を選んでくれるそうだ。
 朝から登っても、山頂辺りで昼を食べて泉まで戻るのに、五時間もあれば済むということだが、杏寿郎の目的は石拾いである。その時間も考慮してかからねばならない。
 途中から登山道を進むので、準備していた靴もザックに入れた。合流地点までは鱗滝の軽トラックで送ってもらえるが、山頂までは自力で歩かねばならない。沢タビだけでは無理だろうという話だ。
 ロッククライミングをする予定はないとはいえ、登山道は急坂続きだというから、かなり体力を使いそうだ。

 早寝しなければと、順番に風呂に入った後は客間に並べた布団に早々に横になったので、義勇の隣の布団で眠る緊張はあまり感じなかった。高揚感のせいで、眠気がやってこないのだけが困りものだ。
 中学生の男子三人にあてがわれたのは、客間として使われている座敷だ。つるされた大きな蚊帳を見ても驚かなかった杏寿郎に、真菰がちょっとつまらなさげにしていたのには苦笑してしまったが、杏寿郎の家でも蚊帳は割と活躍している。見慣れたものなのでしかたがない。
 初めての経験を前にワクワクとしているのは杏寿郎だけではないようで、錆兎もどことはなしそわついて見える。義勇はバドミントンの疲れが残っていたのか、誰よりも先にあくびしていたので、布団に入ってすぐに眠ってしまった。運動部員で毎日体を動かしている杏寿郎たちと違って、今の義勇はそう体を動かすこともないのだ。俺らに比べれば体力が落ちてるんだろうとは、錆兎の弁だ。
 寝息を立てだした義勇を気遣って、小声で交わす会話は長くはつづかなかった。
「もう寝ないと明日がつらいぞ」
 そう言って背を向けられてしまえば、義勇を挟んで会話をつづけるのもためらわれる。
 杏寿郎が感じた違和感だって、気のせいだと笑われてしまえばそれまでだ。強硬にそんなことはないだろうと問い詰めることなどできやしない。
 だから杏寿郎も口をつぐんだ。眠らなければきつい思いをするのは自分だ。

 蚊帳を吊った座敷は窓を開け放っているから、虫の音がやけにひびく。リーンリーンと鳴く鈴虫、コロコロと鳴くコオロギ。真夏ではあるが、涼しい山中は虫の音ももうにぎやかだ。昼間は騒がしかった蝉たちは、日もとっぷりと暮れた今は静かなものだ。ときどきホゥホゥと夜行性の鳥が鳴く声もする。

 自然の中にいるんだなぁと思いながら隣を向けば、差し込む月明りに照らされた義勇の寝顔が見えた。
 白い寝顔は安らかだ。すぅすぅと小さな寝息が聞こえる。
 鈴虫たちにしろ蝉にしろ、鳴くのはすべて雄なのだと知ったのは、いつだったろう。ふと浮かんだ言葉を、杏寿郎は義勇の寝顔を見つめながらぼんやりと考えた。

 虫の声は恋歌なのだ。そう教えてくれたのは父だった気がする。

 確か『鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす』と言っていたか。都々逸からとの説もあるが、平安時代の和歌集に発祥とされる歌があるそうで、人の心ははるか昔から変わることがないと笑っていた。
 あぁ、そうだ。そのときだ。なんの話がきっかけだったかは覚えていない。だが、縁側で月を見上げながら、虫たちの声は恋の歌を奏でているのだと、いつになく静かに笑った父が教えてくれたことを杏寿郎は思い出した。

 恋に身を焦がすと言われても、杏寿郎にはピンとこなかった。今よりずっと幼いころの話だ。恋という言葉自体、不思議な感じがしたものだ。それは今も大差がない。
 幼稚園には、好きな友達がたくさんいた。男女の別を特に感じたことはなく、好きという気持ちに差もなかった。誰も彼も横並びの『好き』だ。
 杏寿郎にとって友達への好きより特別なのは、家族だけだった。父や母は大好きだったし、千寿郎が生まれてからは千寿郎のことだって大好きだ。
 違っているのは、義勇だけ。最初から大好きで、父や母、千寿郎に対する大好きともどこか違う『大好き』が、義勇を見つめていると胸に込み上げる。

 自分がいつか恋をするように、義勇も誰かに恋をするんだろうか。

 考えると胸の奥がキリリと痛む。真菰と義勇の仲の良さにまで嫉妬を覚える自分が、義勇の恋人と会ったときにどうなってしまうのか、杏寿郎には想像もつかない。
 今はまだ、恋なんて自分には早すぎる話だと思いはする。義勇だってそうだ。けれどもいつかはそういう日がおとずれる。そのとき自分は、笑えるのだろうか。
 考えただけで目の奥が熱くなって、心臓が握りつぶされそうに痛むのに、そのときをどうやって耐えればいいんだろう。
 それは自分がまだ子どもだからかもしれない。恋を知れば自然と、互いに笑って祝福できるようになるのかも。考えてみても納得には遠かった。

 錆兎と真菰は、もう恋をしたことがあるんだろうか。それはどんな人だったのだろう。

 ふと思った。ふたりに聞いてみたい気もしたが、なんだか怖いような気もする。
 錆兎はまだ寝入ってはいないかもしれない。聞こえる寝息は義勇のものだけだ。けれども声をかけることはできなかった。起きてるかと問うこともできぬまま、杏寿郎も息を殺してギュッと目をつぶった。

 もう眠ってしまえ。明日は滝を登り石を拾って、山頂まで山を歩くのだ。睡眠不足で足手まといになるわけにはいかない。

 義勇は、誰かに恋をしたことがあるのか。誰を好きになるのか。
 そんなことは、考えるのすら痛くて。なぜだか無性に、怖くて。
 考えまいと無心を心掛けるうちに、杏寿郎も眠りに落ちていた。