いのちみじかし 前編 (100のお題:93『遊園地』)

 無惨と遭遇した場所と聞けば、柱たちが浅草六区への危惧を深めるのは当然の成り行きだ。
「あの狡猾な鬼が、いまだにこの界隈をうろついているとは思えんがな」
 傍らを歩く煉獄は屈託のない太い声で言い、大きく口を開けて笑うが、目には消えぬ警戒が宿っている。それはべつにいい。義勇にとっては理解の範疇だ。
 だが。

「……なぜ、花屋敷へ?」

 わからないのはそこだ。
 浅草と一口に言っても、それなりに広い。浅草寺を有する浅草公園内のうち、演芸場やら活動写真が立ち並ぶ六区に、無惨は出没したと聞く。
 残念ながら、浅草六区は義勇の担当地区ではない。煉獄も同様だ。
 たとえ自身の管轄でなくとも、無惨が出没したと聞けば落ち着かぬのも当然だ。わずかたりとでも情報を得られればと、ほかの柱たちも一度は足を運んでいるとも聞く。
 炭治郎が無惨に遭遇したとお館様から告げられたのは四月の末。今はもう端午の節句も過ぎた。
 義勇だって、任務が立て込まなければ、すぐにも向かいたかった。果たせず今日になったのは偶然だ。
 煉獄とたまたま任務帰りにかち合わせたのも、今日こそは浅草へ行ってみようと双方が思い定めていたのもまた、示し合わせた結果ではない。たまさかお互いに任務が早くに終わり、めずらしくも次の任務が控えていなかった。体力気力、時間にも余裕がある。多忙な柱同士、そんな日が重なるのはたいへん稀ではあるが、ありえないと言うほどのことでもない。
 だけれども、重ねて言うが無惨が現れたのは、浅草六区だ。煉獄が先に立ち迷わず足を進めた花屋敷は、五区にある。

 平日ながらも周囲にはそれなりに観光客がおり、続々と花屋敷の門をくぐっていく。大看板を掲げた大仰な門を見上げ、内心の困惑を隠しきれずに聞いた義勇に、煉獄はカラリと笑った。
「六区からそう離れているわけでなし、くまなく探査するに越したことはないだろう?」
「それは、そうだが……」
 言わんとすることは理解できるが、それにしたって今は昼日中である。同じ歓楽地であっても暗がりが多い六区や凌雲閣りょううんかく周辺と違い、花屋敷に鬼が潜む場所など、そうそうあるとは思えない。
 義勇はふたたび門を見やった。刹那、陽炎のようにゆらりとよぎった記憶に、ドクリと鼓動が跳ね息を呑む。
 大看板の奥に見えるは五重塔の奥山閣おうざんかく。左手を見れば五月の爽やかな青空を背に、凌雲閣がそびえている。昔より凝った造りに建て替えられた門をくぐっていく人々は、みな笑顔だ。
 賑やかな光景は昔とくらべ少し様変わりしたが、奥山閣と凌雲閣は変わらない。あのころのままだ。二度と戻れない在りし日のまま。自分だけが、遠くへ来た。

「……と、いうのはじつは建前だ。すまん!」

 黙り込んだ義勇の変化に気づかなかったのか、煉獄が唐突に頭を下げた。
 いきなり謝罪され、無表情の裏側で義勇は困惑したが、それでも驚愕のおかげで息が軽くなったのは確かだ。遠い日の思い出はやさしすぎて、息が詰まる。煉獄にはそんな意図など微塵もなかっただろうが、空気が変わったことに義勇は安堵した。
「本当の理由は別にあるということか」
「ん、まぁ……そうだな」
 頭を上げ、少しだけ視線を泳がせながらも義勇を見やった煉獄は、すぐに大きな目をパチリとまばたかせた。
「冨岡? どうした、気分でも悪いのか?」
「なぜ、そんなことを?」
 動揺は一瞬だ。突然の謝罪に息苦しさも消えた。常と変わりなくいるはずだと義勇自身は思うのに、煉獄はいかにも心配そうに眉をひそめている。
「いつもより少し顔色が悪い。瞳も……君の瞳はいつでも凪いだ海を思わせるのに、先ほどは、雨に打たれ波立っているかのように見えた」
「……煉獄は詩人だな」
 揶揄したわけではなかったが、煉獄はサッと頬に朱を走らせた。悲しみとも苛立ちともつかぬ様子でグッと口を引き結び、淡く染まった頬はそのままにじっと義勇を見据えてくる。
「茶化さないでくれ。体調が悪ければ遠慮しないでほしい。つらいのなら無理をさせたくはない」
 真摯な声音は、一切の裏表を感じない。煉獄は心の底から案じてくれている。少なくとも義勇には、煉獄の心根のまっすぐさを疑う理由などなかった。
「どこも悪くない」
「俺に気を使っているわけではないんだな? それならいいんだ! 君が健やかならそれにこしたことはない!」
 快活に笑う煉獄は、まるで真夏の晴天に輝く太陽のようだ。まぶしすぎて、義勇はいつも正視できない。つい目を伏せてしまう。
「では、もしかしたら花屋敷が嫌なのだろうか。どこかほかへ行くか?」
「調査するんだろう? ほかにも無惨が潜む場所に心当たりが?」
「いやっ、そうではないが……」
 そういえば建前と言っていたか。無惨の手がかりを探る以外にも、煉獄には花屋敷に入りたい理由があるのだろう。
 無言で答えを待てば、常にはない逡巡を見せた煉獄は、すぐに意を決した顔をして口早に言った。
「冨岡と入ってみたかったんだ。俺のわがままだ。君の意思を尊重すべきなのに、騙し討のような誘い方をしてすまなかった。不快な思いをさせて申し訳ない」
 まっすぐに義勇を見つめ言う煉獄の頬は、いまだ赤い。朱に染まった目元が、なんだか初々しくすら見える。
 そういえば、煉獄は年下だったな。ふとそんなことを思い、なんとはなし義勇はうつむいた。
 目が潰れそうにまぶしい笑みから逃れるいつもの仕草と違い、我ながらそれは、照れくささが勝る行動だった。けれども、なぜ気恥ずかしさを覚えたのかは、よくわからない。うれしいような、もどかしいような、不思議な心持ちがする。
「いや……少し、昔のことを思い出しただけだ。なぜ俺となのかはわからないが、煉獄が入りたいと言うのならそれなりにわけがあるんだろう。俺はかまわない」
 花屋敷が嫌だというわけではない。感傷にゆらぐ己の心こそが不甲斐ないと、義勇は内心の鬱屈を抑え、努めて冷静に言った。
 おかしな台詞ではないはずだ。だが、煉獄はなぜだか目を見開き、義勇をいっそう凝視してくる。呆然として見えたのは数瞬で、すぐに煉獄は泡を食った様子で義勇に詰め寄ってきた。
「むっ、昔とは、よもや冨岡は以前にもここに誰かと来ているのか!? どんな女性なんだ? その人とはどのような関係なのだろうかっ!」

 なぜ女性だとわかったのだろう。煉獄は千里眼か。

 驚きは、義勇にはめずらしく、はっきりと表情に出てしまったらしい。するとどうだろう。煉獄はさらにうろたえだした。
「すまん! 詮索するつもりは……いや、嘘だ。気になってしかたがない。君が言いたくないのなら、追求しないと誓うが……」
 オタオタと狼狽したと思えば、肩を落としてうなだれている。尻すぼみに消え入る声も、やけに力ない。てんで煉獄らしからぬ反応だ。
「姉だ」
 いつも威風堂々として自信に満ちて見える煉獄の、らしくない挙動に呆気に取られつつ、義勇はポツンと呟いた。たちまち威勢よく煉獄の顔があげられた。こぼれ落ちんばかりに目を丸くして、また義勇をまじまじと見つめてくる。
「姉?」
「あれはたしか、俺がとおのころだ。姉に連れられて来たことがある。ここにくるのは、今日で三度目だ。一度目は、覚えていない。三つのときに、両親と姉と一緒にきたらしいが……」
 家族総出できたのは記憶にないが、姉と訪れた日ならば覚えている。脳裏に知らず浮かび上がった記憶は、今も鮮やかだ。空の青さも、風の爽やかさも、姉のやさしい笑みとつないだ手のぬくもりだってすべて、ありありと思い出せる。それが義勇には少しつらい。
 平静を心がけたつもりだったが、義勇の声には、わずかな寂寥がにじんでいた。煉獄の顔がたちまちくもる。
「冨岡のご家族の話は、聞いたことがなかったな。ご両親と姉上は……」
「両親はコレラだ。俺は五つだった」
 それだけで悟るものがあったに違いない。煉獄はそれ以上たずねてはこず、静かにうなずき、ふたたび頭を下げた。
「不躾なことを聞いた。重ねがさね申し訳ない」
「かまわない。……昔の話だ」
 隊士の大半は、鬼に家族を殺されている。義勇もまた、その一人であるに過ぎない。声高に仔細を語り悲しみを吐露する気は毛頭ないが、かたくなに答えるのを拒むたぐいの話でもなかった。
 それでも姉のことを思い出せば、心が揺れる。どれだけ月日が流れても、自責の念は消えない。
 だが煉獄を責めるのはお門違いだ。いまだ心乱される自分を恥じるだけである。
 と、義勇は不意に思い至ったそれに、ゆっくりとまばたいた。
 煉獄の家族について聞いたことはなかったが、先代炎柱は、義勇が入隊するより前に奥方を病で亡くしたと聞いた。つまりは煉獄の母だ。
 義勇より年若であるのをかんがみれば、母を亡くしたときの煉獄は、相応に幼かったはずである。大切な人を失った状況は異なるが、煉獄もまた、かけがえのない人との別れを幼いうちから経験しているのだ。その気づきは、奇妙な感慨を義勇にいだかせた。
 煉獄はまだ、義勇をまっすぐに見つめている。義勇もまた煉獄の眼差しをひたと受け止め、見つめ返した。

 無言で瞳を見交わしていたのは三分にも満たないが、大の男が二人して人波で立ち止まったままでいれば、邪魔以外の何物でもなかろう。気づけば周囲から迷惑げな視線が集まっていた。
 これはいけない。ただでさえ帯刀を見とがめられることも多いのだ。政府非公認の組織は、こういうとき厄介だ。
 注目されていることに煉獄も気づいたのだろう。精悍な顔には苦笑が浮かんでいた。
「このままではほかの客の迷惑になるな。冨岡、君が嫌でなければ、今日のところは俺につきあってもらえないだろうか」
 目元をやわらげた煉獄は、それでもどことなし緊張して見える。
 緊張? 馬鹿な。煉獄の物怖じしない性格を、義勇はもう知っている。義勇に語りかけてくれるときの煉獄には、いつだって屈託がない。それなのにどうしてだろう。今日はなぜだか、見知った煉獄ではないような気がする。
 思った端から、義勇は内心で自嘲した。緊張など気のせいだ。煉獄が自分に対してそんな反応をする謂れはない。
 なぜ自分を誘うのかはわからないままだが、煉獄が固執するからには、それなりの理由があるはずだ。義勇は小さくうなずいた。
 途端に煉獄の顔がパアッと輝く。その笑みに胸の奥がそわりとさざめいた所以もまた、義勇自身考えもつかない。それでも不快さはどこにもなかった。まばゆい煉獄の笑みに、ただ心が揺れる。

「行こう! 俺は初めてだ、案内してくれ!」

 煉獄の声は弾んでいる。差し伸べられた手が義勇の手をつかむ。羽織をはためかせて足早に歩きだした煉獄の背を、義勇は呆然と見つめるばかりだ。なぜ手をつなぐのかと問うことも、離せと拒むこともできない。
 無言のままついていく義勇を、煉獄はどう思っているのだろう。ギュッと握りしめられた手に戸惑い、義勇の目がパチパチと忙しなくまばたいた。
 幼い子供でもあるまいし、成人男性が手をつなぎあって歩くなど、そうあることではないだろう。けれども煉獄は、ちっとも気にした様子がない。
 もしかしたら自分とは初めてなだけで、ほかの柱たちと行動するときには、手をつなぐことが多いのだろうか。考えた途端、なぜだかチリリと義勇の胸は痛んだ。
 柱の資格などない自分にさえ、煉獄はほかの柱と同様に接してくれる。ありがたいと感謝こそすれ、同じ扱いを悲しむなんて、思い上がりも甚だしい。自分のさもしさが嫌になる。
 けれどもやはり義勇は、手を離してくれとは言えなかった。

 誰かと手をつなぐなど何年ぶりか。最後に手をつないだのは……そうだ、錆兎だ。
 思った瞬間、義勇はまた、喉の奥に大きな塊を詰め込まれたかのような息苦しさを感じた。

 錆兎の手は、煉獄よりもずっと小さかった。自分の手だってそうだ。お互い、子供の手だった。
 煉獄の手のひらは、あのころの錆兎よりもずっと固く、大きい。長年、刀を握り続けてきた者の手だ。義勇の手も、今では錆兎よりはるかに大きくなっている。刀胼胝かたなだこや古傷だらけな固い手のひら。それだけの月日はとうに過ぎた。
 煉獄は義勇より少し体温が高いのだろう。大きくてたくましい大人の手なのに、子供めいた体温だ。いっそ汗ばむほどに熱くすら義勇には感じられる

 誰とでも手をつなぐのだとしても、今この瞬間に煉獄が手をつないでいるのは、自分だ。この熱さと力強さを、今は自分だけが与えられている。

 義勇の心臓がドクリと大きな音を立てた。離さないでほしい。心の片隅に、不意にそんな言葉が浮かぶ。
 なぜそんなことを思うのか。なぜこんなにも自分の鼓動はドキドキとうるさいのだろう。自分で自分がわからずに、義勇の瞳が困惑に揺れた。
 戸惑いがまさる願いは長くはもたず、料金所についたと同時に煉獄の手は離れていった。
 落胆はほんの一瞬だ。二人分と告げる煉獄に、義勇はひとつ深呼吸すると話しかけた。
「払う」
「いや! 俺が無理に誘ったのだから、俺に出させてくれ!」
 攻防にもならないやり取りは、ふたたびしっかと手を握られ終わりだ。
 年下の同僚に支払いを任せてしまうなど、不甲斐ないにもほどがある。けれど、自己嫌悪すること自体、思い上がりでしかないのだろう。煉獄はすべてにおいて上位の存在なのだ。意固地になっても始まらない。そんな卑屈な感情が、多少なりと義勇のなかには存在していた。
 せめてなにか言わなければ。思うけれども言葉は出てこない。己の口下手さを義勇は嘆いた。
 口が重いのは自覚している。義勇が語る言葉は、なぜだか人を苛つかせ、呆れさせもする。けれど、煉獄はいつでも明るく話しかけてくれるのだ。
 君は声が小さすぎだなと笑いはしても、もういいと話を切り上げようとはしない。義勇が返す言葉はいつだって、ほんの短い相づち程度だ。会話が弾んだことなど一度もない。それでも煉獄は見限ることなく、顔を合わせるたび明るく声をかけてくれる。
 煉獄に握られている己の手へと、義勇はなにげなく視線を向けた。自分とさして変わらぬ大きさと固さをした、剣士の手。煉獄の手だ。改めて思い、心臓がトクンと弾んだ。
 もしかして花屋敷を巡る間中、煉獄は手をつなぎ続けるつもりなのだろうか。先まで以上に湧き上がる当惑は、不可解な甘さを含んでいる。
 姉や錆兎、鱗滝に手をつながれたときだって、義勇は安堵と多幸感に包まれた。けれども煉獄の手はどこか違う。今まで義勇の手をこうして引いてくれた人たちは、年齢の差はあれどもみな義勇が甘えられる人ばかりだ。煉獄は、違う。仮初でしかない義勇とは異なり本物の柱だとはいえ、立場上は上下などない。ましてや、入隊したのも柱を任じられたのも、義勇のほうが先だ。歳だって煉獄は下だし、甘えるなどとんでもない話ではないか。
 そうだ、年下なのだ。思いながら、義勇はひるがえる煉獄の羽織の白さに目を細めた。

 初めて柱合会議に現れた煉獄は、まだ甲だった。
 俺が炎柱になれば問題ないと堂々のたまった煉獄に、自分がなにを思ったのか、義勇は覚えていない。けれども正式に炎柱としてふたたび煉獄が現れたその日、絶えずの藤咲く庭に舞い込み肩口に落ちた桜の花びらは、不思議とはっきり覚えている。
 であればあれは、四月だったのだろう。歳を問われ十八だと宇髄に答える声を聞くともなく聞き、二十歳になって間もない義勇は、あいつは俺よりも歳を重ねるのだろうなと思ったものだ。
 桜の季節に炎柱の羽織をまとった煉獄は、お館様の言を借りれば鬼殺隊の運命を変える一人だ。自分なぞとは格が違う。だというのに、煉獄は義勇に対して常に笑いかけてくれた。

 あれから、一年が経った。煉獄はもちろんのこと、義勇も今なお生きている。
 先に立ち歩いていく煉獄の背は、爽やかな五月の日差しを弾いて真白い。煉獄はいつでも、義勇の目にはどうしようもなくまぶしかった。