百年の約束は、いらない

 部活を引退したら、放課後がずいぶんと暇になった。受験生なんだから勉強しろって話だろうが、やる気の出ない日だってある。たとえば、今日のような。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 すっかり人のいなくなった教室で、義勇はぼんやりと窓の外を見つめていた。
 図書室で借りた本を読み終えたいから。そんな理由をつけて一人残った教室で、開いた文庫本は、一頁だってめくられちゃいない。
 日が暮れるのがすっかり早くなった。空は茜色に染まって、燃えているように見える。誰かさんを思い出す、その色。
 天空は茜色から紫色へ、紫から紺へのグラデーションに彩られ、じきに夜になる。もう帰らないと。思うけれども立ち上がる気にはならない。
 ほんの一ヶ月前まで、この時間は道場にいた。幼馴染の錆兎につきあって小五から始めた剣道は、たぶんもう、この先やることはないだろう。
 中学、高校と、やめるタイミングはいくらでもあった。錆兎もきっと、無理に引き止めたりはしなかったはずだ。なのに続けてきたのは、約束したからにほかならない。

「冨岡先輩!」

 聞こえるはずのない声がして、義勇は弾かれるように振り返った。
「煉獄……部活は?」
 教室の入口に、剣道部の後輩が立っていた。主将になった煉獄がこの時間の校内に、しかも三年の教室にいるわけがない。
 衣替えにはまだ少し早い。煉獄の白い半袖シャツは、窓から差し込む夕焼けで赤く染まって見えた。
「日本史の先生に資料整理の手伝いを頼まれたので! でも、もう終わりました!」
 言いながら煉獄は、堂々と教室に入ってくる。義勇しかいないとはいえ、相変わらずなんの躊躇もない。三年生の教室に臆することなく足を踏み入れる煉獄を、傍若無人と見るものもいるだろうが、義勇にしてみれば豪胆さが羨ましいばかりだ。
 断りを入れるでもなく義勇の前の席に腰かけ、煉獄は人好きする笑みを浮かべたまま、身を乗り出してくる。
「冨岡先輩はなにをしてたんですか?」
 まっすぐに見つめてくる大きな瞳が、夕焼けを映していっそう赤くきらめいていた。金と朱の髪も、夕焼けと同じ色に輝いている。義勇はわずかに目を細めた。煉獄は、なんだかいつも眩しい。
「本を、読んでた」
「本? なにを読んでいたのか聞いても?」
 お伺いを立てる言葉だが、視線はもう義勇の手元に落ちている。開かれた文庫本の頁を見ただけでわかるとは思わないが、と、義勇が内心苦笑しつつ答えるより早く、煉獄の目がパチリとまばたいた。
「あぁ。漱石か。『夢十夜』だ」
「……なんで?」
  義勇はいつも言葉が足りないと、よく言われる。怒り出す人だっている。けれど煉獄は、いつだってちっとも気にした様子がない。
「俺も中学のとき、感想文のために読みましたから!」
 言って、煉獄は不意に目を細めた。明るく朗らかないつもの笑みとは違う、どこか慈しむような微笑み。馬鹿らしい。そんなの、気のせいでしかないだろうに。あつかましくもトクトクと忙しない鼓動を刻む心臓を、義勇は持て余す。
「まだ、一夜めだ。ここ、『百年待っていて下さい』ってところ、覚えてます」
 日が暮れてきているのに、まだ最初の話。指摘され、義勇の頬が熱くなる。夕日のせいで、ばれないだろうけれど。
 煉獄には、からかったり馬鹿にしたりしているつもりなど、みじんもないのだろう。細めた目はそのままに、さらに身を乗り出し、机に肘をつくと腕組みし義勇を見上げてきた。
「……先輩は、大学では剣道はしないんですよね」
「……あぁ」
「とうとう勝ち越せなかった。残念です」
 いつでも煉獄の声は大きい。ときどきは、耳が痛くなるぐらいに。
 なのに、今日にかぎって煉獄は、なぜだか静かに話す。ハキハキとした快活な声音に慣れた耳に、どこかゆるやかな煉獄の声音と口調は蜜のように流れ込んで、義勇の頬がますます熱を帯びていった。
「先輩が剣道部に入ったのは、俺との約束を守るためでしたか?」
 せわしなくも甘く高鳴っていた心臓が、一番星まで飛んでいきそうなほどに、大きく跳ねた。
「なん、で……」
「だって、先輩は剣道が好きなわけじゃないでしょう? 勝負は真剣に挑むが、試合だろうと本当は人を打つのを嫌がっていた。違いますか?」
 図星だから、義勇はなにも答えられない。嘘をつくのは苦手だ。とっさには言い訳など浮かばない。

「俺が、初めて逢ったときに言ったからじゃないんですか? 待っててくださいって。絶対にあなたに勝ってみせるから、待っててください。先輩は、ビックリしてたけどうなずいてくれた」

 それは、市で行われる剣道の大会での一幕だ。もうずいぶんと、昔の話。義勇は小六で、小学生の部に出るのはそれが最後だった。
 煉獄と対戦したのは、準決勝だった。結果は義勇の勝ち。あれだけきれいに決まった抜き胴は、あの試合が最初で最後だ。
 優勝は、錆兎だった。錆兎にも、義勇は勝ち越せていない。煉獄の言葉は図星だが、それでもやっぱり少し悔しい。
 でも、もうおしまいだ。もう剣道はしない。夢見る子供時代も、もう終わりにする。夢見ていてもいいのなら、『夢十夜』の男のように百年待つこともできたかもしれないけれど、夢はもう消えた。
「……勝ってるだろう。個人戦でも、稽古でも」
「うむ。勝てるときもあったが、それでも勝ち越してはいません。……最後の掛かり稽古も、負けました」
 勝ちたかった。そんな言葉が聞こえてくるような目だった。いつのまにか笑みを消して、煉獄の瞳は強く義勇を見つめていた。
「もう……待ってはもらえませんか? 待っててほしいんです、もう少し」
 本当は、小学生で剣道はおしまいにするつもりだった。高校に上がったときには、よりいっそう、もうやめようと思った。けれど、やめられなかった。
 約束が、耳によみがえって。あの日の強い瞳が、浮かび上がって。知らず入部届を出し、一学年下の煉獄がやってくるのを、待っていた。
 学年は下だが、二月生まれの義勇と五月生まれの煉獄の年の差は、たった三ヶ月だ。学校という枠組みを外れれば、同い年。それでもずっと、先輩と後輩という関係は続くのだと思っていた。それ以外、なにもない。そう思っている。
「勝ったら……俺がちゃんと先輩より強くなれたら、先輩に言いたいことがある。ずっと、言いたかったことが」
 見下ろす形で見る煉獄の顔は、試合のときのように真剣だ。冨岡先輩と呼びかけてくる煉獄は、いつだって笑顔だったのに。
 茜色の夕焼けで、煉獄の髪も、瞳も、燃え上がっているように見えた。なにもかも焼き尽くされそうな、焔の瞳が、見上げてくる。
 黙り込み、逃げるようにそっと顔を窓に向けた義勇に、煉獄が小さく吐息したのがわかった。
「……燃えてるみたいですね」
「……あぁ」
 二人沈黙のままに夕日を眺めていたのは、たぶん、時間にすれば二、三分にすぎない。けれども義勇にとっては、永遠にも思えるひとときだった。
 煉獄と並んで見つめる、焔のような茜雲。胸が痛い。煉獄の色をしたあの空に染め抜かれて、焼き尽くされてしまえたら。だけど夕焼け空はすぐに夜に塗り込められて、消えていく。
 だから、そんな夢は、もう見ない。もう、終わりにする。

「待ってない。錆兎につきあっただけだ」

 義勇は嘘が苦手だ。だけど、一つぐらいはつけるのだ。
 ずっと、嘘をついてきた。待ってなんかいない。煉獄を待っていたわけじゃない。煉獄とは、ただの先輩と後輩だ。恋なんて、していない。
 自分の心へとひたすらそんな嘘をついて、でも嘘は苦手だから、心の奥でもう一人の自分がバレバレだ嘘つきめと笑う。そんな月日は、もう終わらせる。
 ぐっと息を呑む気配がする。義勇は窓の外を見つめたまま、煉獄へと向かいたがる視線を懸命にこらえた。
 今さらそこに戻るんですかと、いつものように笑ってくれたらいいのに、煉獄はなにも言わなかった。
 窓ガラスに映る煉獄の顔が、組んだ腕にふせられ隠れた。こんな態度も初めて見る。なぜだろう。泣くのをこらえている、なんて。そんなふうに感じるなど、どこまで浅ましいのだか。
 自嘲は思い出したくもない光景を思い出させる。

 今年入った一年女子のマネージャーは、部員たちがさわぐほどに愛らしい少女だった。ポニーテールのつややかな髪と、細いうなじをした華奢な女の子。部外でもモテていただろうが、鼻にかける様子などまるでなく、気立てのいい働き者だ。だけど。

『すまない。好きな人がいる。君の気持ちには答えられない』

 昼休みの校舎裏はめずらしく人気ひとけがなく、グラウンドの喧騒も遠かった。大きな桜の樹の下でひっそりと泣くマネージャーの細い首はうなだれて、小さく震えているのが見えた。窓の影に身を潜めて、図書室で借りてきた文庫本をつかむ、義勇の手と同じぐらいに。
 マネージャーが立ち去った後も、しばらく煉獄はその場に立ち尽くしていたから、義勇も動けなかった。借り物の本を強く握りしめて、ただじっと震えることしかできなかった。部は引退したのだから放課後でもよかったのに、習慣で昼休みに図書室に行ったことを悔やみながら。
 長く深いため息が聞こえて、煉獄がやっと去っていったのは、昼休み終了のチャイムが鳴る少し前だ。その場に佇んだままでいた煉獄が、なにを考えていたのかなんて、義勇にはわからない。自分の初恋が散ったことしか、義勇に理解できたものなどないし、それだけで十分だった。
 あの子でさえかなわない、煉獄の好きな人。知ったら砂粒みたいな希望も打ち砕かれて、馬鹿な時間を過ごしたと笑えるだろうか。でも、やっぱり知りたくはない。知らないまま、終わるほうがいい。
 卒業したら、剣道はもうしない。そうしたら、煉獄とはろくに逢うこともなくなるだろう。そうしていつか、もっとずっと嘘をつくのが上手になって、どこかの街角で偶然出逢ったときには、てらいなく笑うのだ。
 元気か? 結婚したのか、おめでとう。子供は? と。

 ふっと肩の力を抜き、義勇は重い腰をようやくあげた。パタンと文庫本を閉じても、煉獄はまだ顔を伏せたままだ。
「もう暗くなるぞ。練習まだやってるだろう? 行かなくていいのか?」
 問いかけても、煉獄は答えない。本当にめずらしいこともあるものだ。なんだか少し不安になってきて、義勇は、どうしようと小さく拳を握った。
 肩を、揺すってみてもいいだろうか。触れても、かまわないだろうか。最後に一度だけ、自分から。
 煉獄は高校生になってもどこかしら無邪気なところがあって、物怖じしない性格も相まってか、「先輩」と敬う口調や態度はそのままに肩を組んできたり、座り込む背に寄りかかってきたりする。そのたびいつだって、跳ねる鼓動の音が聞こえてしまわないかと不安になりながらもうれしくて、義勇は泣き出しそうになった。
 だけど、義勇からは一度だって触れたことがない。自分から手を伸ばしてしまったら、嘘をつけなくなりそうで怖かった。
 今も怖い。だから戸惑う手を、握りしめることしかできずにいる。

「先輩と見るなら……夕焼けよりも、星が光る夜空のほうがよかった」

 不意に聞こえた声に、義勇はビクンと肩を揺らせた。腕に顔を伏せたままの煉獄の声は、少しだけくぐもって、それでもやっぱり穏やかだ。ささやくようだった。
「……おまえは、夏空とかのほうが好きかと思っていた」
「夏の空も、好きです。青いから。だけど、夏空よりももっと、星月夜は冨岡先輩の目に似ている」
 夢は、もう見ない。終わりにするんだ。決意したのに。
「……待っててくださいとは、もう、言いません」
 毅然と上げられた煉獄の顔。もう日はかなり沈んで、教室は暗い。だけど、義勇を見上げる瞳は、変わらず燃えるようだった。
「待たなくていい。どれだけ先輩が離れようとしたって、俺が追いかけるだけだ。勝負はもうしてもらえなくても、先輩を追いかけ続ける。誰かに取られる前に、絶対に追いついてみせる」
 いつもの敬語も消えている。大きな手が伸びてきて、握りしめたままの義勇の手をとった。焼き尽くされそうな焔の瞳と同じぐらい、その手は熱い。
「……好きな、人、いる」
 って、言ってただろう。
 そこまで言い切ることはできなかった。痛いぐらいに強く、手を握られたので。立ち上がった勢いで倒れた椅子が立てた、ガタンっという大きな音に、グッと寄せられた顔に、鼓動が止まりかけたので。
「……誰? 冨岡先輩の好きな人は、もしかして、鱗滝先輩か?」
 おまえの話をしているのに、なんでそうなる。とっさに義勇はブンブンと首を振ったけれど、できたのはそこまでだ。煉獄の顔は真剣すぎて怖いぐらいで、言葉を紡ぐことはできなかった。
「俺の知ってる人か?」
 痛い。握りしめられた手も、うるさいぐらいに騒がしい胸も。
 夢なんて、もう見ないって、決めたのに。
「……五センチ、俺より、背が低かった」
 煉獄の眉間にギュッと深いシワが刻まれる。真剣なんて通り越して、獰猛にすら見える怖い顔で、煉獄がうなる。
「春に、一センチ、超されたけど」
 名前は、言えない。まだ怖い。このまま夢を見ていていいのか、わからなくて怖いから、言えない。
 かすかに煉獄の首がかしげられる。瞳はまっすぐに義勇を見つめたまま。焔を宿したその目は、ゆっくりと見開かれていった。

 初めて出逢ったとき、煉獄はまだ、義勇より小さかった。中学になっても、高校になっても、煉獄が伸びるぶん義勇も背が伸びる。それでも差はだんだん縮まっていき、とうとう追い越されたのは、今年の春のこと。
『やった! 冨岡先輩より大きい!』
 身体検査の次の日に、満面の笑みでうれしげにガッツポーズした煉獄を、たった一センチじゃないかと部の全員が笑ってた。

 ゴクリと鳴った小さな音は、どちらが立てたものだろう。窓の外には一番星。もう、日はとうに暮れていた。星と月がきらめく夜空が天空には広がっている。
 ゆっくりと目を閉じたのは、義勇のほうが早かった。自分は夢一夜の女と違って、白百合のようにきれいなものではないけれど、煉獄は首を前に出して接吻してくれたから、きっとそれで正解だったんだろう。

「いつか……朝焼けも、一緒に見たい。義勇と……」

 約束、と指を絡める気はなく、義勇はただ小さくうなずいた。
 百年なんて、待たせたくないし、待たなくていい。