きょとんとする炭治郎に微笑んだまま、先代水柱様は、背後に立つ男の子たちを視線で促しました。
狐面の男の子と女の子の手には、いつの間にか一振りの刃がありました。二人はその刀を一緒に掲げ持ち、炭治郎に差し出してきます。
「受け取れ。そして戦え。大切なものを守るために。男なら。男に生まれたならば」
少し戸惑いながら炭治郎が刀を受け取ると、先代水柱様はうなずいて、そっと口を開きました。
「昔……まだ、神がこのキメツの森に多くお住まいだったころ、日の神様と水の神様は、この地で仲睦まじく暮らしておいででした」
突然語られだした昔話に、炭治郎がきょとりと目をまばたかせると、先代水柱様は少しおかしそうに笑い、なおも続けました。
それは、昔々の、神代のお話でした。
生きとし生ける者が健やかに命を育むためには、日の力と水の力が必要です。日の神と水の神はこのキメツの森で、お館さまをお助けし、多くの生き物たちを慈しみつつ、寄り添い合うように過ごしておいででした。
日の神様の眷属である天狐は、そんなお二人から生まれました。お二人は天狐をたいそう慈しみ、幸せに暮らしていたのです。
けれどあるとき、闇のなかから邪悪な命が生を得て、キメツの森に襲いかかりました。それが鬼舞辻無惨。闇の力を宿す『災い』です。
もちろんキメツの森に住まう神々は、力のかぎり戦いました。日の神も水の神も、例外ではありません。
神々は力を合わせ邪悪なそれを追い詰めましたが、増え始めていた人間たちが持つ醜い感情を糧とする無惨は、どれだけ神々が傷つけようと人間たちから力を得ては再生するため、討ち果たすことが叶いませんでした。
長い戦いの末、神々のうちでも力の強い十柱によって、無惨の力を大きく削りはしたものの、戦いの傷がもとで日の神様はお隠れになってしまわれました。残された水の神の嘆きは深く、悲しみはいつ癒えるともしれませんでした。そこでお館様は、水の神が柱の座を譲り天へと還ることをお許しになったのです。
水の神は、ご自分の弟君に柱の座をお譲りになりました。けれども、お二人の愛し子であり日の神の力を継ぐ天狐が、日柱を継ぐことをお許しにはなりませんでした。
神の座に就けば、力を取り戻した邪悪の化身ともいうべき無惨と戦う日が、いつか必ずやってきます。天狐の命が、日の神同様に失われることに、水の神は耐えられなかったのです。
それでも、天狐の持つ日輪の力を一対の耳飾りに封じ込め、それを受け継ぐよう水の神は定めました。いつの日か、ご自分の力を受け継ぎ水の神の座に就く者と、日の神の血を引く天狐の子孫が出逢い、ご自分と日の神のように慈しみ合うことがあるのなら、天狐が日輪の力を取り戻し水の神と寄り添い生きられるようにと願ったのです。
「日輪の力を宿した耳飾りを持つ狐の子……それが、あなたの祖先と、私の弟である水柱の祖先のお話です」
先代水柱様のやさしい笑みは、けれど少しだけ気遣わしげでした。
自分が神の血を引く天狐の子孫だと言われても、すぐには飲み込めず、目をぱちくりとさせる炭治郎をじっと見つめ、先代水柱様は問いかけました。
「その刀を振るい戦うのなら、もうあなたはただの狐の子には戻れません。ほかの動物たちとは異なる永い時間を、神として生きることになります。家族や友人と同じときは過ごせません。普通の動物として生きてきた者が神の時間を生きるには、つらい思いもすることでしょう。狐の子よ、今ならばまだ間に合います。恐ろしいと思うのであれば、このままもとの場所に戻してあげましょう。そうすればただの狐の子として当たり前の生をまっとうし、命を育み、安らかに眠ることができます。それでも、あなたは力を望みますか? 水柱とともに、悠久の神の時を生きる覚悟がありますか?」
ゆっくりと炭治郎の頭に染み込んでいく先代水柱様のお言葉は、きっと炭治郎を案じてのものでしょう。
それでも、炭治郎はにっこりと笑いました。刀を持つ手に力を込め、ピンとしっぽを立てると、はい! と元気にうなずきます。
「もちろんです、先代水柱様。だって、どんなに永い時がつらいとしても、義勇さんが怪我をしたり死んでしまうのよりつらいはずがないですから! それに俺は長男なので、どんなにつらくても我慢できます!」
笑う炭治郎に、先代水柱様と眷属の子たちは、呆気にとられたのか目を見開き、やがてうれしそうに笑いました。
「では、日輪の力を目覚めさせましょう。水の神によって封じられた日輪の力は、水の神の力を持つ者によって目覚めます。天狐の子よ、私たちの名を覚えていてくださいね……私の名は蔦子。今ここにいる私やこの子たちは、大切な義勇への想いだけの存在です。とうに命を失った身でありながら、あの子を心配するあまり未練がましく存在し続けた私たちに、最期の役目をくれてありがとう」
眷属の子たちも、面を外して炭治郎に近づき、素顔で笑いかけてくれました。
「俺の名は錆兎だ。義勇は人見知りな上に口下手だから、よく誤解される。手助けをしてやってくれ。あまりに不甲斐なければ鉄拳制裁してもかまわんからなっ」
「この子だったら、拳に訴えるよりも泣いてみせるほうが、きっと義勇には効くと思うけどな。私の名前は真菰だよ。義勇をよろしくね、かわいい狐さん」
口々に言って笑った先代水柱様たちが、炭治郎の耳飾りに代わる代わる触れました。たちまちお姿がぼやけて、霞のように薄れた先代水柱様たちは、スゥッと耳飾りに吸い込まれていきます。
待ってくださいと炭治郎が止める間もなく、幸せそうな笑みを残して消えてしまった先代水柱様たちに、炭治郎が茫然としていると、耳元で大きな声が聞こえました。
「お兄ちゃん、ねぇ、どうしたの!? しっかりしてっ!!」
「炭治郎っ! 炭治郎ってばっ!!」
「おいっ、権八郎! くっそぉっ、無惨の野郎の仕業かっ!?」
肩をグラグラと揺すぶられて、目を回しかけながら炭治郎が、大丈夫だからと声を上げると、禰豆子と善逸が泣きながらよかったぁと抱きついてきました。伊之助に心配かけんじゃねぇと頭をぽかりと叩かれて、炭治郎は慌てて辺りを見回しました。
「俺、ずっとここにいたのか?」
「いたよっ、当たり前だろ!? でもいきなり魂が抜けたみたいになっちゃって、声かけても全然聞こえてないみたいだし、揺すぶってもなんにも言わないしさぁ! すげぇ心配したんだからなっ!!」
善逸の言葉に、そうかとうなずいて、炭治郎はじっと禰豆子たちの顔を見回しました。
まるで夢を見ていたかのようですが、夢でないことはわかっていました。だから炭治郎は、もしかしたら最後になるかもしれない禰豆子の顔をじっと見て、にっこりと笑ったのです。
「禰豆子、兄ちゃんこれから大好きな人を助けるために戦ってくるよ。戻ってこられたら、さっきまでの俺とは違う俺になってるかもしれないけど、でも、俺はずっと禰豆子の兄ちゃんだからな!」
「なんのこと? お兄ちゃん、なにをする気なの?」
心配そうに言う禰豆子に笑ったまま、炭治郎は善逸と伊之助に向かって言いました。
「禰豆子を頼む。行ってくる!」
「えっ、ちょ、炭治郎っ!?」
「権八郎っ!? どこに行くってんだよっ!」
禰豆子たちの声を背に、炭治郎は高らかに呪文を唱えました。
「一二三四五六七八九十の十種の御寶!!」
すると耳飾りがきらきらと光り輝いて、放たれた赤い光は見る見る間に集まり、一振りの刀となって炭治郎の手に収まりました。
これで十種の宝──十の神の力が揃いました。遠い昔、神代の時代に強い力を持つ十柱が、邪悪の化身を追い詰めたときのように。
炭治郎は刀なんて持ったことはありません。けれど不思議とどうすればいいのかわかっていました。
スラっと刀を鞘から抜くと、炭治郎はとんっと地を蹴り飛び上がりました。
ふわりと炭治郎の体が宙に浮きます。炭治郎は、叫ぶ禰豆子たちの声を背に、ためらうことなく柱たちと無惨との戦いのなかへ飛び込んでいきました。
「義勇さんっ!」
大きく叫んで、炭治郎は義勇の隣に躍り出ると、向かってくる触手に刀を振るいました。ギョッとする義勇ににっこり笑って、お手伝いします! と元気に言います。義勇の狐面は戦いの最中に外れてしまったのか、見慣れた洋服屋さんのきれいな顔がそこにはありました。
「炭治郎、お前……」
「ちゃんとお手伝いしますから、ずっと一緒にご飯を食べて、ずっと一緒に眠ってくださいね、義勇さんっ!」
笑う炭治郎を見つめ、わずかに泣き出しそうな顔をした義勇は、すぐに面持ちを引き締めて刀をかまえると、強い声で言いました。
「行くぞっ、炭治郎!」
「はいっ、義勇さん!」
揃って振るう刀から、怒涛の水流と、眩いばかりの光の渦が放たれます。水と光は虹を生み、睦み合うように絡み合いながら、無惨へと向かっていきました。
援護するように炎が、爆風が、唸る鉄鎖が、舞い狂う蝶が、無惨の触手を遮り薙ぎ払います。
霞が湧き無惨の視界を遮り、疾風が触手を切り裂き、恋の矢のようにまっすぐに、または蛇のようにくねり放たれる斬撃が、水と光の渦に触手を近づけさせません。
「日輪……っ、日の神めがぁぁっ!! またもや私の邪魔をする気かぁぁっ!!」
初めて感情をあらわにした無惨は、憤怒の表情を浮かべています。
ドォンッ! ドォンッッ!! と、城が崩れていく音が轟きました。
激流と化した水は光をはらみ、虹色にきらめきながら、無惨の胸を貫きました。
絶叫が轟き、無惨の身体が玉座から転がり落ちていきます。無惨の体からは、どす黒い霧のようなものが噴き出していました。
「手を止めるなぁっ!! 畳みかけろっ!!」
岩柱の声が響いて、柱たちの攻撃が一斉に無惨へと襲いかかります。
崩れだした無限城は、禰豆子たちがいる扉付近も無事ではいられず、床が崩れて禰豆子たちの悲鳴が聞こえてきました。
思わず振り返った炭治郎の視線の先で、大きな鳥が、何匹もの蝶が、禰豆子たちを救い出すのが見えました。無限城が崩れたことで結界が完全に消え、眷属も近づくことができるようになったのでしょう。
しかし、『災い』たちもまた、夜の訪れとともに無惨を救わんと集まってきます。
炭治郎たちが無限城にいるあいだに雪はやみ、夜空には月が白く輝き、数多の星がまたたいていました。けれど、どんなに美しい星空でも、眺めている時間なんてありません。
無惨が糧を得て再生するのを阻みながら、襲ってくる『災い』たちを斬り祓っていくのは、並大抵のことではありませんでした。けれど、炭治郎も、義勇も、ほかの柱たちも、決して攻撃の手を止めません。
眷属の少年少女も、柱たちの援護をし『災い』たちを撃ち抜き、斬り祓います。禰豆子たちを不思議な霞で覆い隠して、お面を被った子供が張り上げる声が聞こえてきました。
「祈ってっ!! 祈りが柱の力になるんです! 怯えや憎しみを捨てて一心に祈って! 負の感情は無惨の糧になっちゃいますから!」
「うわぁぁんっ、私も頑張りますけどぉ、期待しないでくださいねっ! 私、みそっかすなんですからぁ!」
「弱気なこと言ってんじゃないよ! こんなチビっ子がここまで体張って頑張ったんだ、私たちが頑張らなくてどうすんの!」
「大丈夫よ、私たちが決してこの子らに手出しはさせないから」
音柱様の神嫁様たちも、禰豆子たちを守って戦ってくれています。
義勇とともに刀を振るい続けながら、炭治郎は、ぶわりと体の奥から力が沸き上がってくるのを感じました。きっと禰豆子たちの祈りが届いているのでしょう。義勇もまた、放つ水流が激しさを増しています。
禰豆子たちだけじゃありません。キメツの森中の動物たちが、きっと柱様への祈りを捧げていることでしょう。祈りは力となって、柱の攻撃はますます苛烈さを増していきました。
対する無惨は、いまだ激しく抵抗していますが噴き出す黒い霧は止まらず、それによって力はじわじわと失われているように見えます。
激しい戦いは夜を徹して続き、炭治郎の小さな体には、数えきれない傷ができました。ふさふさのしっぽも毛が千切れ、『災い』の術によってところどころ焦げています。けれど、炭治郎は泣き言なんてもらすことなく、義勇の隣で刀を振るい続けました。どんなに痛くたって、どんなに怖くたって、みんなを守るためなら力はどんどんと湧いてきます。
頑張れっ、頑張れ俺! みんなを、義勇さんを守るんだ!
自分を鼓舞しながら、炭治郎は必死に刀を振るい続けました。
炭治郎が日輪の力を持つ光の束を放つと、それにあわせて義勇も清浄な水流を放ち、触れた『災い』たちは一瞬で塵となり消えていきます。生命の源である日と水の力が一体となり襲うのです、生命に反する存在である『災い』はひとたまりもありません。
けれども首魁である無惨には、それだけでは足りず、何度となく光と水を食らっても、無惨の抵抗は止むことがないように見えました。
いつまでこの戦いは続くのでしょう。幼い炭治郎の息が上がっていきます。義勇が庇ってくれるのですが、それでもすべての攻撃は払いきれず、炭治郎の体には傷が増えていきました。
けれど、夜はいつまでも続きはしません。
「朝日だ……朝日が昇るぞぉぉおおぉおぉぉっっ!!」
善逸と伊之助と禰豆子の声が、戦いの終幕を告げる言葉を響かせました。
遠く、東の山の端から、ご来光がゆっくりと差し込んでくるのが見えました。
「炭治郎っ!!」
義勇の声が響いて、炭治郎はそれだけでその意味を悟り、はいっ!! と声を張り上げました。
同時に振り抜いた刀から放たれたのは、水と光の龍。二匹の龍は戯れるように縺れあいながら、一直線に無惨へと向かっていきます。
そして。
龍の顎門に囚われた無惨がもがく姿を、差し込む来光が照らしました。
『災い』たちが絶叫を上げながら、光のなか、塵となって崩れていきます。
その絶叫の渦をつんざくように、呪詛をはらんだ嘲笑が響き渡りました。
「水め……っ、日輪めぇぇぇぇっ!! 私は消えない……人が呪い、憎み、妬み、他者を害して喜びを得るかぎり、私はまた復活する!! 水の神、日の神よ、お前らが育む命など、いつか必ずや私がすべて滅ぼす日が訪れるぞっ!!」
無惨の最後の嘲笑は、無惨の体が塵となり、風にさらわれるまで響き続けました。
「炭治郎……っ!!」
悲鳴のような義勇の声を聞きながら、力を使い果たして義勇の腕に倒れこんだ炭治郎の頭に浮かんだ言葉は、あぁ、お腹空いたなぁ、でした。