水柱様の、静かだけれど凛とした名乗りが響いた途端に、無惨の忌々しげな声がそれを遮るように聞こえてきました。
「柱がたかが獣に真名を授けるだと……? 獣に縛られ従う神など、正気の沙汰ではないな」
水柱様は応えず、パンっと両手を打ち合わせるとおもむろに開いていきました。
掌のあいだから現れたのは、青く清浄な光を放つ一振りの刀。それをかまえると、水柱様は、鋭い一声とともに刀で空を薙ぎ払いました。
斬撃で結界を斬り裂いたのでしょう。パァァァンッと高い音が響いて、空気が激しく振動しました。背後にいた炭治郎たちが、思わず尻もちをついて後ろに転げてしまうほど、それは激しい波動でした。
「名を」
唐突にかけられた声は、言葉が足りません。でも、炭治郎にはすぐに伝わりました。コロコロ転がったせいでちょっぴり頭はクラクラしますが、炭治郎はそれでも、大きな声で叫びました。
「煉獄さんっ!!」
途端にゴオォォォッと音立てて熱波が空を薙ぎ、燃え盛る炎が、炭治郎たちの目の前で踊るように噴き上がります。
「我は産屋敷九柱が一柱にして、炎柱を拝命する者なり! 我が赫き炎刀がお前を骨まで焼き尽くす!!」
豪火のなかに現れたのは、金と赤の髪をなびかせた炎柱様です。水柱様の隣で赤くきらめく刀をかまえ、炎柱様は振り返ることなく大きな声で笑いました。
「よく己が責任を果たした、勇気ある少年たち! あとは俺たちに任せるがいい!」
力強く頼もしいお声に、見合わせた炭治郎たちの顔に笑みが浮かびます。
炭治郎たちは、続けてなおも声を張り上げました。
「胡蝶っ!!」 「宇髄さぁんっ!」 「時透さん!」 「不死川さんっ!!」 「甘露寺ぃ!」 「伊黒さぁん!」 「悲鳴嶼さん!!」
全員で口々に柱様のお名前を呼べば、その声に応え、柱様が次々にお姿を現してくださいます。ついに、お館様が歴代最強と称える九柱が、ずらりと無惨の前に立ち並びました。
その頼りがいのある背を、炭治郎たちは息を飲んで見つめました。柱様たちの背を見つめる炭治郎や禰豆子たちの目には、先ほどまでの不安や絶望など微塵もありません。
森の動物たちはみんな、この背に守られ生きているのです。その心強いことといったら、言葉にならぬほど。
ゆっくりと柱様たちの背をお一人ずつ見つめていった炭治郎は、最後に水柱様の背を見つめ、その瞳はそこから動かなくなりました。
お母さんたちが殺されたあのときも、こうして自分と禰豆子の前に立ち、『災い』を斬り祓ってくれた水柱様。思い出せなかった水柱様のお顔が、炭治郎の脳裏にまざまざと浮かび上がりました。
間に合わなくてすまなかったと、悲しげに言って頭を撫でてくれたその人のお顔は、洋服屋さんの顔をしていました。
「炭治郎……よくやった」
不意にかけられた声に、炭治郎の大きな瞳に浮かび上がった大粒の涙が、ぽろりと落ちました。
その声に炭治郎が答える暇もなく、岩柱様のゆくぞ! という大音声の掛け声とともに、柱様方の呼応する声が轟き、戦いが始まりました。
激しく燃え盛り無惨へと襲いかかる炎、空気を震わせ大音量で繰り返される爆発。逆巻く渦潮が無惨を飲み込むように襲いかかり、疾風が玉座を斬りつけます。
霞に紛れて繰り出される斬撃、一心同体に次々と呼吸を合わせて無惨に打ちかかる、うねる二本の刃。轟音立てて鉄鎖が岩を打ち砕くたび、炭治郎たちがいる扉の外も激しく揺れました。
ひらひらと煌めき舞い踊る蝶が無惨を取り囲み、華麗な剣戟が繰り出されていくのも、炭治郎たちは息を呑んで見つめていました。
けれど、どれだけ柱たちが激しく攻撃しようとも、無惨には届きません。
無惨は怒りの表情さえ浮かべることなく、玉座に座ったまま刃に覆われた巨大な触手を伸ばして、柱たちの攻撃をいなしては、鋭く振るって柱たちを打ち据え斬りかかります。ちっとも怯える様子などありません。
「ど、どうしよう、炭治郎っ! 柱様たちの攻撃が効かないよっ!」
「大丈夫だっ、柱様たちが負けるわけないっ! 信じるんだ、善逸!!」
「そうよっ。お館様が仰ってたもの、本心からの祈りが柱様の力になるって! 善逸さん、一緒に祈ろうっ!」
「くそったれがぁぁっ!! 祈ることしかできねぇのかよっ!」
伊之助が地団太を踏みますが、炭治郎たちにできるのは祈ることだけでした。
ただ一心に、心の底から、炭治郎たちは祈りました。
柱様たちの無事を、勝利を、一心に祈り続けました。
きっと柱さまたちのお住まいでも、森の動物たちが同じように自分が感謝し敬愛する柱様に、心からの祈りを捧げているのでしょう。
劣勢に見える柱様たちの刃からは、決して力が薄れることはなく、斬り祓っては再生する触手を、ひたすらに祓い続け、少しずつ無惨へと詰め寄っていきます。
炭治郎の腰にある藤の花は、五分の一ほどを残して枯れ落ちていました。
もうじき夜が来ます。夜が来れば無惨の力が蓄えられたこの無限城に、『災い』たちが無惨の加勢をせんと戻ってくるか、もしくは一斉に森の動物たちに襲いかかるでしょう。
『災い』たちが力を増す夜になる前に、この無限城を打ち崩し、新年のご来光を無惨の身に浴びせること。それが無惨を討ち果たす唯一の術です。
父さん、母さん、竹雄、花子、茂、六太……お願いだ、どうか水柱様を……義勇さんを助けて。禰豆子たちを守るために、義勇さんに力を貸してあげて。
義勇さんのお姉さん、眷属の人たち、お願いします。俺は皆様に差し上げられる対価なんて持たないただの狐だけど、俺にできることならなんだってします。だからどうか、どうかお願いです。義勇さんを、悲しくて寂しくて、でも誰よりもやさしいあの人を、守ってあげてください。力を貸してあげてください……っ。
炭治郎は必死に祈りました。柱様たちすべてに頑張ってください、ご無事でいてくださいと。そして、一心にお願いしました。天に昇ったお父さんたちや、お隠れになった義勇さんのご家族に、義勇さんを守って、と。
自分のことは一度も思い浮かびませんでした。願うのはただ、柱様たちや禰豆子や善逸、伊之助のこと。お館様や森の動物たちのこと。そして、水柱様である大好きな洋服屋さん──義勇さんのことばかりでした。
藤の花はもう数えるほどしか咲いていません。けれど炭治郎は諦めませんでした。
ひたすらに祈り続けている炭治郎の耳で、不意にゆらりと耳飾りが揺れました。
懐にしまい込まれたハンカチが、青く透き通った光を放ちだし、ゆっくりと炭治郎を包んでいきます。
気づかず目を閉じ一心に祈っていた炭治郎の頬に、やさしく触れる手がありました。
驚いて炭治郎が顔を上げると、目の前にとてもきれいな女の人が労り深く微笑んでいます。女の人は炭治郎の頬をそっと撫で、静かに口を開きました。
「その願いに見合う対価として、あなたはその身を捧げられますか?」
「はいっ! それで禰豆子たちが……義勇さんが無事でいられるなら!」
悩むことなく間髪入れずに、炭治郎は大きな声で答えました。すると、女の人の背後で高笑いが聞こえました。
女の人が手を離し立ち上がり、炭治郎は、ようやく自分が青い光に包まれた不思議な場所にいることに気がつきました。禰豆子たちの姿はどこにも見えません。柱様たちと無惨が戦う激しい音も聞こえません。ただ静かで穏やかな空気に満ちた、青く清浄な光のなかに炭治郎は跪いていました。
「身を捧げるという意味が本当にわかっているのか? 狐の子」
「幻覚を見せて動物を食べる『災い』もいるんだよ? もっと用心しなくちゃ駄目だよ」
炭治郎に声をかけてきたのは、白い狐の面をつけた宍色の髪をした男の子と、同じく狐面をつけて花柄の羽織を着た女の子でした。男の子が白い羽織の下に着ている着物の柄は、義勇さんのベストの柄と同じものです。水柱様の羽織の半分とも同じでした。
「狐の子……自分の言葉に責任は持てますか?」
きれいな女の人の言葉に、炭治郎は強くうなずきました。女の人の着物は、義勇さんのベストのもう半分、水柱様の羽織の半分と同じでした。
もう炭治郎にもわかっていました。この女の人が誰なのか。狐面の二人が誰なのかも。
「はい、先代水柱様、眷属の方々。俺にできることならなんだってします!」
いったいここがどこなのか、なぜ、ただの狐の子である炭治郎がお隠れになった神様とお逢いできたのか。それはまったくわかりませんでしたが、たった一つ炭治郎にもわかることがあります。炭治郎にも、水柱様のためにできることがあるのです。それだけわかれば、炭治郎には十分でした。
もしも自分の身を捧げることで水柱様が……義勇さんが無事でいられるのなら、それでかまわないのです。禰豆子たちは泣くでしょうが、禰豆子のことはきっと善逸が守ってくれるでしょうし、伊之助だっています。炭治郎は心配なんてしていません。義勇さんにも叱られるでしょう。どうしてそんなことをしたと、もしかしたら嫌われるかもしれません。
それでも。もしも義勇さんに嫌われたとしても、義勇さんが無事でいてくれるなら、いつかご伴侶様や神嫁様を迎え入れ幸せに暮らしてくれるなら、炭治郎はそれだけでよかったのです。
敬愛する水柱様。大好きな洋服屋さん。ただの狐の子である炭治郎に、真名を教えてくれた義勇さん。大好きで大好きで、誰より大好きなその人から、悲しくて寂しい匂いが消える日がいつか訪れるには、無事に生きていてくれることがなにより大事なのですから。
じっと見つめる炭治郎に、先代水柱様は静かに微笑みました。
「では、あなたに柱たちを援ける力を授けましょう。私の大切な弟を、どうか手伝ってあげてくださいね。天狐の血を引く、日輪の力を宿した子供よ……」