薄暗い廊下を、『災い』たちはフラフラと、体を揺らしながら歩いて行きます。その後を緊張をあらわについて行きつつ、炭治郎たちはきょろきょろと辺りを見回しました。
もう何度、階段を下りては廊下を渡るのを繰り返したでしょう。藤の花はもう三分の二は枯れています。
「……なぁ、禰豆子。『災い』は質問にも答えるかな」
「わかんない。お兄ちゃん、なにか聞きたいことがあるの?」
うん、とうなずくと、炭治郎はきゅっと唇を噛みしめました。ただ歩いているだけなせいか、気になっていた言葉はどんどん炭治郎の胸で大きくなっていきます。思い切って炭治郎は先を歩く『災い』たちに話しかけました。
「先代の水柱様の眷属の方は、水柱様のご家族だったのか?」
「……知りま、せん……」
コウモリ女が答えました。
「そうか……。なら、狐面って? どんな意味があるんだ?」
「……天狐の、血筋……狐の、面は…肖り者……」
「天狐?」
イタチ顔が言うのに、炭治郎はコトリと小首をかしげました。禰豆子や善逸たちもなんのことやらと首をひねっています。
「日輪の力……天狐は、遣い……。強い力、を、持つ者だけ、肖れる……狐の、面……」
『災い』たちの言葉は断片ばかりで、炭治郎にはさっぱり意味がわかりません。
「禰豆子、意味がわかるか?」
「全然。先代水柱様のご眷属は、天狐っていうのの面をつけてたってことなのかなぁ?」
「あ、俺も俺もっ、俺もそう思ったよぉ禰豆子ちゃぁん。気が合うねっ!」
「んなこと聞いてどうすんだよ、権八郎」
聞くなら無惨の弱みでも聞けよと鼻を鳴らす伊之助に苦笑して、炭治郎は、うーん、と考え考え言いました。
「お守りのハンカチをわたされたときに、洋服屋さんに言われたんだ。俺の耳飾りほどの力はないけど、ハンカチも俺を守ってくれるって。でもこの耳飾りに力があるなんて、聞いたことないし……。水柱様のご眷属が狐の面を被ってたなら、狐となんか関りがあるかもしれないだろ? もしかしたら、この耳飾りにも関係してるのかなって思ったんだけど……」
ただの狐の炭治郎には、天狐だの肖り者だのと言われても、なんのことだかわからないし、きっと炭治郎にも関係はなさそうです。けれど、もしも炭治郎の耳飾りに力があって、炭治郎を守ってくれているのなら、その力を水柱様にも分けて差し上げたいなと思いました。
加護の力を持つ洋服屋さんのハンカチ。強い柱の加護。炭治郎だけでなく、禰豆子も、善逸や伊之助も、もう確信していることでしょう。
水柱様と同じ匂いのする洋服屋さん。水柱様の泉と同じ色の瞳をした人。不思議な力を使える人。いいえ、人ではないのです。狐の炭治郎にも優しくしてくれる人間では、なかったのです。
それは少し悲しくて、少し寂しいことでした。ただの狐でしかない炭治郎には、洋服屋さんと一緒のお家に住むことなど、きっと許されないでしょうから。
初めて逢ったときから、洋服屋さんと水柱様はとても似ている気がしていました。不思議なこともありました。
炭治郎とは初めて逢ったはずなのに、禰豆子のことを洋服屋さんは知っていました。妹の手袋をくださいなんて炭治郎は一言も言っていなかったのに、女の子用の桃色の手袋を出してくれて、妹が待っているだろうと気にしてくれたことを、炭治郎は覚えています。
禰豆子のことを知っているのは、あの日、炭治郎と禰豆子を助けてくれた水柱様のほうです。不思議だなと思うことはどんどん増えて、もうすっかり線は繋がりました。
洋服屋さんも、水柱様も、炭治郎にとてもよくしてくれました。炭治郎を助けてくれました。だから、今度は炭治郎が洋服屋さんを……水柱様を助けてあげられたらと思うのです。
もう二度と洋服屋さんには逢えなくても。水柱様がこれからも炭治郎の前にお姿を見せてくれなくても。少しでも、お役に立ちたい。お手伝いがしたい。
そして、少しでもいいから、悲しくて寂しい匂いを消してさしあげたい。
そのためにも、炭治郎は頑張るつもりです。
藤の花はすでに四分の一しか咲いていません。炭治郎たちは歩きながら匂いを嗅いで、空腹を満たしました。
いったいどれぐらい歩けばいいのか。藤の花が全部枯れるまでに間に合うのか。だんだん不安になってきた炭治郎たちの目の前に、大きな扉が現れました。
見た目はただの扉なのに、震えあがるほど禍々しい気配がしています。それはそれは陰鬱で恐ろしく、臆病な善逸だけでなく、豪胆な伊之助までもがブルリと体を震わせてしまうほどでした。
きっとここが、無惨の玉座がある部屋なのでしょう。
炭治郎と禰豆子は手を繋ぎ、ギュッと強く握り合いました。
扉に手をかけようとした『災い』たちが、唐突にガタガタと大きく震えだしました。
『災い』たちは、グラングランと大きく体を揺らし、言葉にならない恐ろしい悲鳴を上げだしました。息を飲んで後退った炭治郎たちの前で、絶叫が響き渡り、コウモリ女の体に大きな瘤のような膨らみがボコボコと浮かび上がってきます。イタチ男の大きく開いた口からは、ズルリと太い指先が、喉の奥から現れだしていました。
コウモリ女の瘤も、イタチ男の口から出る手も、見る見るうちに膨らみ、這い出て、『災い』たちは床に転がりのたうち回っています。
真っ青な顔で茫然とする炭治郎たちの前で、とうとうイタチ男の口から現れた巨大な手が、イタチ男の頭を掴みました。
グシャリ。イタチ男の頭は湿った音を立てて、熟れきった桃みたいにたやすく、大きな手に潰されてしまいました。間を置かず耳をつんざく絶叫が響き、コウモリ女の瘤も、火にくべた栗の実のように次々破裂していきます。コウモリ女の叫び声は、この世のものとは思えないほど恐ろしく、炭治郎たちは悲鳴を上げることすらできません。
飛び散った血が、炭治郎の足元で、ビシャリと音を立てて弾け散りました。炭治郎たちは、それを避けることもできず、動かぬ足を震わせて、ただ見ていることしかできませんでした。
ちょっとでも動いたら、たちまち自分たちも二人と同じように殺されてしまいそうで、臆病な善逸すら叫び声一つ上げられずにいたのです。
ガタガタと震えるばかりの炭治郎たちの目の前で、不意に音もなく扉が開いていきました。
怯えてばかりいちゃ駄目だ! 炭治郎は咄嗟に禰豆子たちを庇い、扉の前に立ちはだかりました。善逸は禰豆子を強く抱きかかえ、伊之助も炭治郎の隣に立って開いていく扉を睨みつけます。けれどもそのひたいには、汗がダラダラと滴り落ちていました。
扉はとうとう完全に開け放たれました。
炭治郎たちの目の前に広がっていたのは、岩壁に設えられた豪奢な椅子に座る男の姿と、岩壁と扉を隔てる深く幅広い地割れした崖です。崖はお札の力をもってしても暗く、覗き込むまでもなく底知れないほどに深いことがわかります。
「愚かな獣が我が居城になんの用だ」
静寂を破って聞こえてきたのは、静かな声でした。けれども、お館様や洋服屋さんのような穏やかさは微塵も感じられない、空恐ろしい声でした。
炭治郎はごくりと喉を鳴らすと、懸命に勇気を振り絞り、声を上げました。
「無惨だな! お前に森は襲わせない!」
「っそうだぁぁっ!! 俺様がいるかぎり、てめぇの好きにはさせねぇぞっ!!」
隣で伊之助も怒鳴ります。けれど、二人の足はどうしたってガクガクと震えました。心臓の音はうるさいぐらいで、汗が勝手に吹き出してきます。
だって、炭治郎はなんの力も持たない狐の子供で、伊之助だってイノシシの子供でしかないのです。ただの『災い』すら倒す力はありません。『災い』の首魁なら、指先どころか、吐息一つで炭治郎たちを殺すことだってたやすいでしょう。怖くて怖くてたまりませんでした。
それでも、炭治郎も伊之助もぐっと足を踏ん張って、決して後退りはしませんでした。臆病な善逸も、ガタガタ震えて早くもボロボロと涙を零してはいましたが、禰豆子に傷一つつけまいと、ぎゅっと抱え込むようにして立っています。
無惨はなにも言いません。つまらなそうに、炭治郎たちに冷めた視線を向けているだけでした。餌でしかない炭治郎たちになど、なんの関心もないのでしょう。
炭治郎は懸命に震える息を整えると、大きく息を吸い込みました。
「煉獄さんっ!!」
一番最初にお逢いした、気さくで威風堂々とした炎柱様のお名前を、炭治郎は叫ぶように呼びました。
けれど。
「え……? な、なんで?」
声は辺りに木霊しただけで、なにも起こりません。
サァッと炭治郎たちの顔から血の気が引きます。なんで? どうして? 混乱する頭にはそんな言葉ばかりが浮かびます。
炭治郎はなおも叫ぶように名を呼びました。
「胡蝶さん!」
「宇髄さんっ!」
「時透くんっ!!」
「不死川さんっ! ……甘露寺さん!!」
「伊黒さん! 悲鳴嶼さん……っ!」
喉が裂けそうになるほどに呼んでも、誰のお姿も現れません。
「なんでぇ……っ、なんで誰も来てくれないんだよっ!」
善逸の叫びは炭治郎の叫びでもありました。きっと伊之助や禰豆子も、同じ言葉を思い浮かべているでしょう。
「……無様だな」
もしも絶望を与える声があったのなら、きっとこれに違いないと思うほどに冷たい声音が、洞窟に響きました。声は大きくはありません。けれど、心を切り裂くような響きで、炭治郎たちの耳に届きました。
「産屋敷も衰えたものだ。こんなちっぽけな獣に私の結界を破らせようなど、愚かすぎて笑えもしない」
産屋敷というのはお館様のことでしょうか。無惨は、森の護り神として長く鎮座してらっしゃるお館様のことを、知っているのでしょう。無惨もおそらくは、長く長く生きているに違いありません。
「浅はかな獣たち、私の結界にそんな通称で柱を呼び込めるとでも思ったか。真名を呼ばれでもしないかぎり、私の結界に、ハエのように鬱陶しい柱たちなど入れるものか。だが、貴様ごときちっぽけな獣に、己が身を縛る真名を教える柱などいるわけもない。実際、お前たちに真名を教えた柱は誰一人としていないだろう?」
いかにも退屈そうな無惨の声は、もはや独り言のようでした。冷たく光る真紅の眼も、炭治郎たちのことなど見ていません。
伊之助も、善逸も、禰豆子も、もうどうにもならないと、冷や汗まみれの顔に絶望の色を浮かべています。
けれど、炭治郎だけは、まだ諦めていませんでした。
ふさふさのしっぽをピンと立て、炭治郎は、今までよりも大きく息を吸い込みました。
炭治郎が知るお名前は、あとお一人。
やさしくて、悲しくて、寂しい匂いのする神様。長い黒髪を半半柄のベストの背で揺らせ、炭治郎を深く青い瞳で見つめて、やさしく頭を撫でてくれる人。宝物みたいなそのお名前を、炭治郎は大きな声で呼びました。
その声に、感謝と、尊敬と、そしてただひたすらに心に浮かぶ、大好きの気持ちを込めて。
「──義勇さぁぁぁんっ!!」
炭治郎の声が辺りに木霊して、残響が消えたそのとき。ザンッ、ザザァッ、と、激しく打ち寄せる波のような音が辺りに轟きました。
音が聞こえてきた瞬間に、玉座のひじ掛けを掴む無惨の指先が、ピクリと震えるのが見えました。
轟く波音に無惨の眉根が不快感を露わに寄せられて、ゴオォォォッと轟音立ててそびえあがった高潮が、玉座と炭治郎たちを隔てます。それが音もなく凪いでいった後に宙に立っていたのは、白い狐の面をつけ、半半柄の羽織を羽織った男の人でした。炭治郎たちに向けた背で、一つに結わえた黒髪が揺れています。
「我は産屋敷九柱が一柱にして、水柱を拝命する者なり。真名の誓約により参上し仕る」