今日はとってもいい天気。青く澄みわたった空には、お日様がピカピカと輝いています。
まだ冬の入り口だというのに、このところとっても冷え込みが厳しくなりました。今日も空気は冷たいけれど、炭治郎の手は市松模様の手袋でぬくぬくです。しもやけのせいでずっと元気がなかった妹の禰豆子も、桃の花の色した手袋のおかげで、今日はニコニコしています。
「本当に買ってきちゃうんだもんなぁ。しかも一円って!! ありえないから! 町で買い物したら絶対に手袋二つで一円なんてありえないからっ!!」
昨夜、炭治郎が帰ってくるのを道の途中で待っていた善逸と伊之助は、無事に戻ってきた炭治郎に大喜びしてくれました。でも、洋服屋さんが一番小さい硬貨一枚で手袋を二つ売ってくれたと話したら、善逸はとんでもなく驚いて、そんなの変だとわめいたのです。
町で暮らしていたねずみの善逸は、キメツの森しか知らない炭治郎や伊之助よりもずっと、人間のことを知っています。だからきっと、善逸が言うことは確かなのでしょう。
「どうしよう、洋服屋さん間違えちゃったのかな。明日また行って、足りないお金を払ってこなくちゃ」
「えー? でもこれでいいって言ったんだろ? もしかしたら炭治郎を油断させようとして、一円しかとらなかったのかもしれないぜ? 次に炭治郎が行ったら捕まえて、毛皮にするつもりかもしれないっ!! 人間は狐の毛皮が大好きなんだ!」
善逸はそう言って心配していました。それを聞いた伊之助も大騒ぎです。
「なんだとぉ? そんなことしようとしてやがんのか! だったら俺様が権八郎が捕まる前にその人間を倒してやるぜ!」
「ちょっ、伊之助! 駄目だってば!」
短気な伊之助がお店に突進しようとしたものだから、炭治郎は止めるのにとっても苦労しました。
「まったく、善逸も伊之助も心配性だなぁ」
「でもお兄ちゃん、洋服屋さんはなんで、一番小さいお金でいいって言ったのかしらね?」
「うーん、間違えちゃったんだと思うんだけど……」
とことこと二人で森の奥へと歩きながら、炭治郎と禰豆子は首をかしげあいます。
二人とも人間のことはよく知らないので、洋服屋さんがなにを考えたかなんてわかりません。
「でも、すごくやさしい匂いがする人なんだ。善逸が言うようなことには、きっとならないよ」
「そっかぁ。お兄ちゃんは山犬さんや狼さんよりも鼻が利くものね。きっと大丈夫だね」
話ながらどんどん進んでいくと、森の奥にあるきれいな泉に着きました。お土産に持ってきた木の実をそっと泉のほとりに置いて、炭治郎と禰豆子はぺこりと泉に頭を下げました。
「水柱様、こんにちは! 今日も俺と禰豆子は元気です。水柱様が助けてくれたおかげです、ありがとうございました!」
炭治郎と禰豆子はときどき、この泉にお礼を言いに来ます。何度訪れても水柱様は姿を見せてはくれないけれど、二人はそれでもお土産にお花や木の実を持って、お礼を言いに来るのです。
いつか水柱様が姿を見せてくれて、きちんと目の前でお礼が言えるといいのだけれど。それまで二人は、何度だって泉に来るつもりです。
でも、今日も泉は静かなまま。凪いだ水面はきらきらと、お日様の光を浴びてきらめくだけ。
澄んだきれいな泉からは、とてもやさしくて、でも、とてもとても悲しくて寂しい匂いがします。
炭治郎が水柱様に初めてお逢いしたのは、『災い』に襲われて、お母さんや弟や妹たちが死んでしまった日のことでした。
怪我をしていた禰豆子を連れて逃げ出したものの、すぐに追いつかれて、炭治郎も殺されそうになりました。禰豆子だけは守らなきゃと、『災い』に向かって両手を広げて立ち向かった炭治郎の前に現れて、『災い』を斬り祓ってくれたのが水柱様です。おかげで炭治郎と禰豆子は助かったのです。
水柱様から、泉と同じ匂いがしていたことを、炭治郎はよく覚えています。
『よく耐えた。あとは任せろ』
そう言って、炭治郎たちに襲いかかろうとした『災い』を斬り祓ってくれた、キメツの森の神様。
お館様と呼ばれるキメツの森の護り神様の配下には、柱様という九人の神様たちがいらっしゃいます。水柱様は、そんな柱のお一人です。
炭治郎たちが生まれる前まで、水柱様は、とても美しくてやさしい女神様だったそうです。けれど、あるとき『災い』に襲われて、水柱様はお守りする眷属たちの奮戦むなしく、眷属たちもろともに亡くなってしまったのだと、炭治郎はお母さんから聞きました。
弟君が後を継いで水柱様になったのですが、誰もそのお姿を知りません。
ほかの柱様と同じように、『災い』から守ってくださるのですが、誰一人として水柱様のお姿を覚えていないのです。
炭治郎と禰豆子も同じでした。
禰豆子を守ろうと『災い』に向かって立ちはだかっていた炭治郎を見て、水柱様はほんのちょっと驚いたような顔をした気がしましたが、炭治郎はそのお顔が思い出せません。
お礼を言おうとした炭治郎と禰豆子に首を振り、間に合わなくてすまなかったと悲しげに言ったそのお声も、そっと頭を撫でてくれた手の大きさや温かさも、なに一つ炭治郎は思い出せません。
水柱様のお顔もお声もぼんやりとしていて、どうしても思い出せないのです。けれど、炭治郎はとっても鼻が利くので、匂いだけはしっかりと覚えていました。
水柱様がお住まいになっている泉と同じで、とてもやさしくてとっても悲しく寂しい匂いが、水柱様からはしていました。
そういえば、洋服屋さんも同じ匂いがしてたな。
もちろん、神様である水柱様と人間の洋服屋さんが、同じなわけはありません。でも、炭治郎には二人が同じ匂いだとはっきりとわかりました。
小さな洋服屋の窓から漏れる灯りの色も、洋服屋さんの匂いも、水柱様と同じようにやさしくて悲しくて、寂しい。
水柱様に直接お礼を言うぞ! という意気込みと同じくらい強く、炭治郎は洋服屋さんの悲しくて寂しい気持ちを消してあげたいなと思いました。
あんなにきれいでやさしい人なんだもの。狐の炭治郎とだって、お友達になってくれるかもしれません。そうしたら、いっぱいいっぱい仲良くして、洋服屋さんの悲しいのも寂しいのも、炭治郎が消してあげられたらいいなと思うのです。
「禰豆子、兄ちゃん今日も洋服屋さんに行ってみるよ。もしもお金を間違えてるなら、足りない分を払わなきゃ!」
「そうだね。でも気をつけてね、お兄ちゃん。洋服屋さんはやさしくても、ほかの人間はわからないもの」
お店にほかの人間が来ていたら、善逸の心配どおりに捕まってしまうかもしれません。禰豆子の言うことはもっともだと、炭治郎もうなずきました。
「わかったよ。ちゃんと気をつけるから、禰豆子も気をつけて帰るんだぞ? もしも『災い』がやって来たら、すぐに逃げろよ?」
「大丈夫、お兄ちゃんがお出かけのときは、善逸さんと伊之助さんが来てくれるもの」
それはそれで心配だなぁ。炭治郎は、ちょっぴり苦笑いしてしまいました。
禰豆子と別れた炭治郎は、とっとことっとこと森の外れへと急ぎます。昨日は狐の耳やしっぽを見られちゃ大変と、夜にお邪魔しましたが、洋服屋さんにはもう炭治郎が狐だと知られています。それならお昼からお邪魔しても大丈夫でしょう。
禰豆子を一人にするわけにはいかないので、炭治郎は夜には帰らなければいけません。でも今からお邪魔すれば、お日様が沈むまでにいっぱいお話しできるはずです。炭治郎はウキウキと走りました。
とっとことっとこ炭治郎が走るたび、ふさふさのしっぽが楽しそうに揺れて、耳の飾りもゆらゆら揺れます。お日様模様の大きな耳飾りは、本物のお日様の光を浴びて、きらきらと光っていました。
そうして辿り着いた森の外れ。まだ明るいからでしょうか、小さな洋服屋さんの窓には灯りが見えません。
トントントン。昨夜と同じようにノックして、炭治郎はドキドキしながら扉を開けました。
「こんにちは! 洋服屋さん、いらっしゃいますか?」
ひょこりとお店のなかを覗くと、棚の前にいた洋服屋さんが、くるりと振り向いてくれました。
「……本当に来たのか」
「はい! 約束しましたから!」
洋服屋さんは元気にお返事した炭治郎を見て、ちょっとだけ溜息をつきました。
「もしかして、お忙しいですか?」
炭治郎のしっぽがしょぼんと下がると、洋服屋さんは、少し困ったように小首をかしげました。
よく考えてみたら、お店が開いているのですから洋服屋さんはお仕事中です。炭治郎とお話しする時間はないのかもしれません。
どうしようと扉の前で困っていると、洋服屋さんは、そっと炭治郎を手招いてくれました。
「そこに座って待っていろ」
指差されたのは丸いテーブル。椅子は四つ。
言われるままによいしょと炭治郎が椅子に座ると、洋服屋さんはうなずいて、お店の奥にある扉に入ってしまいました。
一人っきりになった炭治郎は、興味津々にお店のなかを眺めまわしました。
外から見るととっても小さなお店なのに、なかはずいぶん広く感じます。奥の大きな棚には、色とりどりの手袋やマフラーがいっぱい。上着やシャツ、マントが掛かったハンガーもあります。 帽子や耳当て、ブーツまであって、寒い冬でもあったかく過ごせるものがいろいろありました。
お店には、炭治郎が座っているテーブルセットのほかにも、さらに大きな机が壁際に据えられていました。上には見たこともないいろんな道具が乗ってます。きっと洋服屋さんのお仕事机なのでしょう。
あそこにあるもこもこの靴下は、善逸に似合いそうだ。伊之助は冬でも裸ん坊だけど、あのマフラーだったらつけてくれるかな。あっちの帽子、お花がついててかわいいなぁ。禰豆子が喜びそうだ。
友達や禰豆子の顔を思い浮かべながら見るお洋服は、なんだかとってもウキウキとします。炭治郎の楽しい気持ちに合わせて、しっぽもふりふり揺れました。
そうしてお店のなかを見ているうちに、洋服屋さんが戻ってきました。コトンと炭治郎の前に置かれたカップから、温かい湯気が立っています。甘い匂いに炭治郎は、思わず鼻をひくひくさせてしまいました。
「……気をつけろ」
そう言って洋服屋さんは、炭治郎の向かいの席に腰を下ろしました。
カップのなかで揺れるのは、美味しそうなホットミルク。炭治郎のために温めてきてくれたのです。
炭治郎はうれしくなって、両手でカップを持つと、大きな声でありがとうございますとお礼を言いました。
ふーふー冷ましてこくんと飲めば、ミルクはほんのりハチミツ味。甘くてとってもおいしくて、炭治郎はたちまち笑顔になりました。
「とってもおいしいです!」
洋服屋さんはなにも言わず、小さくうなずいただけでした。もしかしたら、とっても無口な人なのかもしれません。
「あの、洋服屋さん。昨日買った手袋、あの小さなお金一枚じゃ全然足りないって、友達が言ってました。足りないお金を払います。ここから取ってください!」
今日も首から下げていたお財布を洋服屋さんに差し出せば、洋服屋さんはそっと首を振って、もうお代は貰ったと言います。でも、それでは炭治郎の気がすみません。
「駄目です! お金はちゃんと払わないと! この一番大きくてきらきらしたお金だったら足りますか?」
「金はいらない。代わりに手伝ってくれ」
頑固な炭治郎に洋服屋さんも根負けしたようです。押し問答の末に、とうとうそんなお願いを口にしました。
「お手伝いですか? はい! なにをしたらいいですか?」
「炎柱の住まいに咲いている、火の花を一輪もらってきてくれ」
「炎柱様のお住まいに咲いてる火の花ですね。わかりました! 明日行ってきますね!」
ニコニコと笑って言った炭治郎の頭を、洋服屋さんはやさしく撫でてくれました。
笑ってくれないしあんまりお話もしてくれないけれど、洋服屋さんからはやっぱり、やさしくて悲しい匂いがします。
炭治郎の狐の耳としっぽを見ても、ちっとも驚かなかった洋服屋さん。手袋を二つも売ってくれて、あったかいミルクをくれた、やさしくてきれいな人。悲しくて寂しい匂いのする人。
ちゃんとお手伝いができたら笑ってくれるかな。洋服屋さんの寂しくて悲しいのが、少しは消えてくれるかな。もっともっと仲良しになれたらいいんだけれど。
よし、お手伝い頑張るぞ! 張り切る炭治郎を、洋服屋さんは静かに見つめていました。