桜が謳うサンサーラ【完全版】

 大きな山桜の根元に転がる遺体に、虫たちがカサカサと落ち葉をかき分け這い寄りむらがった。烏が舞い降り、肌をつつき肉を食み、うごめくウジをついばむ。獣がやってきて、ただの肉のかたまりとなった体を食いちぎり、持ち去った。
 それは肉体が腐敗するまでつづいた。
 周囲を満たす悪臭を洗い流すように雨が降り、風が吹き、炭治郎の骨と義勇の肉体を、刻々と風化させていく。
 やがて山に冬がきた。雪が降り、獣や鳥によってバラバラになった骨をおおいつくした。
 そうして季節はまた移ろい、春がおとずれた。
 桜の木が満開の花を咲かせる時期である。
 その山桜の花は、ごくごく淡い紅紫色こうししょくをしていた。個体変化の多い種ゆえに、特段の目新しさのない色味ではある。
 若葉の赤紫色にくらべれば、白と言っていいほどに淡い色合いであった。
 桜の花びらは静かに散る。風が吹くたび、はらりはらりと舞い落ちる。根元に取り残され風化した、ふたつの頭蓋骨の上にも、静かに花びらは降りそそいだ。
 風のしわざか、はたまた獣が転がしでもしたか。ふたつの髑髏されこうべは、ピタリと寄り添いあっていた。
 白い雪にも見える淡紅紫色の花弁は、はらり、ひらりと、たわむれるように舞い落ちては、髑髏たちを飾りたてる。
 そこここで鳥のさえずりが聞こえる。獣が番を求めて鳴く声がする。春は命が息吹く季節であった。命を失ったふたつの骨にはもう届かぬ春の音が、山にはひびいていた。

 やがて花がすっかり散って、青々とした葉がしげる夏がおとずれたころ。一匹の子ダヌキが桜のもとにあらわれた。
 親離れしたばかりなのか、成体にくらべればまだ小さい。顔にもどことなくあどけなさが残っているタヌキである。
 ふんふんと黒い鼻をうごめかせながら、小さなタヌキは桜の根元にやってきた。
 タヌキは転がる骨にほてほてと近づくと、つんと鼻先で頭蓋骨のひとつをつついた。
 つんつんとしきりにつついては、なにも起こらぬ骨にあきらめたのか、子ダヌキはその場にしゃがみ込んだ。
 きゅうきゅうと天を仰いで、タヌキは鳴く。そうしてそのまま、しばらくのあいだそこを動かなかった。

 タヌキは転がる髑髏の傍らを、己の居場所と定めたようだった。
 雨が降れば桜のうろに体をすべり込ませ、晴れていれば髑髏に寄り添うように眠る。
 近くには放置されたままの桶もあったが、腐臭が染みつきどうにも使いようがなかったらしい。
 時折餌を求めて出歩くが、タヌキは必ず桜の木の下に帰ってきた。そうして動かぬ髑髏をつんとつついてまた眠る。
 毎日そんなことを繰り返すうち、秋がおとずれ、冬がやってきた。
 タヌキはすっかりと成熟し、大人のタヌキになっていた。
 転がる骨を雪がおおい隠すと、タヌキはきゅうきゅうと鳴いて雪を掘ったが、やがてキリがないことを悟ったか、その上に座り込むようになった。
 山の冬は厳しい。積もる雪は深く、餌をとることもままならない。
 餌を求めて歩きまわる時間は増えたが、それでもタヌキは必ず桜の木の下へと帰ってきた。
 タヌキはただの獣であるから、言語化した思考を持ち得ない。なぜ己がこの場所に、ただの骨に執着しているのかなど、タヌキ自身にもあずかり知らぬところである。
 悲しいだとか恋しいという感情すら、タヌキは理解していなかっただろう。けれどもタヌキは希求するのだ。この骨の在処ありかが我が身の在処と。
 成体となったタヌキの耳に、番となるべきメスの泣き声が聞こえてくる。だがタヌキは本能に逆らいその場を動かなかった。
 体は鳴き声のもとへと行きたがったが、それでもタヌキは、本能よりも骨への執着をえらびとった。
 本能よりも強い切望の源を、タヌキは知らない。人のような思考を持たないタヌキにとって、理由など知ったところで意味はなかった。
 ただ、生まれ落ちた瞬間から、これは定められたことなのだと、タヌキの脳ではなく魂が知っていた。
 己のいるべき場所はここであるとの、本能を凌駕する魂のうったえに、タヌキは粛々としてしたがったのみである。

 いよいよ餌がなくなってくると、タヌキは頻繁に山犬や鷹におそわれるようになった。
 どうにか逃げのびては、ボロボロになった体でタヌキはよろよろと桜の下に帰ってくる。
 タヌキ自身も餌を得られぬのだから、体は弱るばかりである。
 人里におりれば冬を越すだけの餌も得られよう。少なくとも、この木の――雪の下にある髑髏のもとを離れれば、生き延びるために必要なだけの餌をとることは、可能なはずだった。
 だがタヌキは動かなかった。
 弱った体にさらに雪が降りそそぎ、タヌキの茶色い毛をおおいつくしても、タヌキはこの場を離れ生き延びるという本能にしたがうことはなく、やがて短い生を静かに終えた。

 春がまた巡りきた。雪がゆっくりと解けていき、凍ったタヌキの体を春の陽射しがつつむ。
 ゆるゆると解けていく遺骸の下から、雪に洗われて白い人骨がふたつあらわれた。
 タヌキの体は、そのうちのひとつにおおいかぶさるようであった。
 しばらく経ち、やがて桜の木の周りの雪がまばらに残るだけになると、大きな白い鳥が一羽、その地に羽ばたき降りてきた。
 真白いその鳥は鷺であった。若いオスの白鷺――人がつけた名称で呼ぶならば、大鷺と呼ばれる鳥である。
 鷺は虫や獣に食われ原型をとどめぬタヌキの遺骸を、しきりとつついては、叫びのような鳴き声を上げた。
 天を仰ぎ、鷺は鳴く。鷺の語源は『さわぎ』という説もあるが、その鳴き声はさわぐというよりも、哀惜の悲鳴に似ていた。
 鷺は桜の下で一昼夜鳴きつづけた。
 時折覚醒をうながそうとでもするものか、タヌキの肉を鷺はそっとつつく。けしてその肉をついばむことはない。
 けれども当然タヌキのむくろが動くことはなく、鷺はただただ鳴きつづけたのだった。

 鷺という鳥は、水田などの水域に集団で営巣する習性を持つ。だがその若い鷺は、夜が明けてもただ一羽で、山奥の桜の木のもとにとどまりつづけた。
 本能はこの場を去れとしきりに鷺をうながしたが、若い鷺はけしてその場を離れようとはしない。
そこに立ちつくしたまま、鷺は時折タヌキの腐肉にむらがる虫をついばむ。雪客せっかくの異名にふさわしい真白い羽は、日が経つにつれだんだん薄汚れ、灰色がかっていった。
 水鳥であるにもかかわらず、鷺は山間の桜の木の下から飛びたつ気配がない。ときに耐えきれぬような風情で天を仰ぎ鳴いたが、そこに鷺の感情はなかっただろう。
 鷺はただの鳥であるから、人のように悲しみはしない。

 なぜ餌もとれぬこの場から飛びたてぬのか。
 なぜ番を求め集団のなかへと戻らぬのか。
 鷺にはわからない。考えたこともない。

 言語を介さぬ思考は単純で、本能にしたがい体は動くはずなのに、鷺はすべての本能に逆らいつづけた。
 生きる。繁殖する。突き詰めればそれだけの、けれども生き物にとってあらがいがたいそんな本能ですら、鷺をしたがわせることはできなかった。
 鷺が求め欲するのは、ただひとつ。この場に――タヌキの躯のもとにとどまることだけであった。
 なぜ己がそんな行動をとるのかすら、鷺自身にすら理解はおよばなかっただろう。理由を求めるような複雑な思考は鷺にはない。
 理由も理屈も知らぬままに、それでも鷺は求めるのだ。本能ではなく、思考でもなく、魂が欲するままに。
 恋しいとか悲しいだとか、そんな感情すら持ち得ぬままに、鷺は天を仰いで声をあげる。
 若い鷺は、ハクビシンやほかのタヌキなどが肉を求めてやってくるのを、羽を広げ大きく鳴いて威嚇し、追い払う。鷺自身がおそわれることもままあったが、鷺は逃げることなくその場にとどまり、タヌキの遺骸を守るように戦いつづけた。
 鷺は腐肉にむらがる虫をついばみ食む。そうして命のかぎり、タヌキが骨になっていくのをただ見ていた。
 やがてタヌキの体は、すっかり肉を失った。
 タヌキの皮が、しがみつくようにぺたりと人の髑髏に張りつき、小さな骨がカラカラと地面に転がるばかりになったころ、鷺にも死がおとずれた。
 鷺がそれをどう受けとめたかなど、知りようもない。
 安堵なのか歓喜だったのか、それとも絶望だったのか。鷺にはそんな人の定めた感情など、ひとつも浮かぶ余地などなかったかもしれない。
 黒々とした瞳から光が消えていく。命の火が消える。
 けれども、すっかり力を失いだらりと地面に横たわった鷺は、最期のときにたしかに見た。まるで太陽から飛んでくるかのように、まっすぐ鷺に向かって飛ぶ小さな虫を。
光を失いきる寸前に鷺の瞳に映ったちっぽけな虫は、迷うことなく鷺のくちばしへととまった。
 そこで終わりを告げた鷺の肉体には、もう魂はのこされてはいない。はたして最期のそのときに、鷺がなにを感じとったのかを、知る者はどこにもいなかった。

 ブルブルと痙攣した鷺の体が、ビシリと音がしそうなほどに硬直しだした。ピンと足が伸び、くちばしは大きく開きわななく。
 それきりだった。それきり若い鷺の命はつきた。
 命の終わりを告げるその様子が、小さな小さな虫に見えるはずもない。
 赤い小さな甲虫は、動いたくちばしにしっかりとつかまり、はらわれぬようにするばかりである。
 鷺の色あせた黄色いくちばしの上で、ポツンと鮮やかにうごめく赤。それは一匹のテントウムシだった。
 カサカサとテントウムシは鷺の体を這いまわる。山の早春は寒い。春の虫であるテントウムシにとっては、まだまだ活動時期には早かった。
 テントウムシは、草の根元などに数匹で固まりあい、越冬する習性を持つ。そのテントウムシも、本来ならば今はまだ、仲間と身を寄せあい、生きるためにできうるかぎり動かぬようにしているはずだった。
 けれどもそのテントウムシは、まるで本能に逆らい探し求めてきたのだと言わんばかりに、鷺から離れなかった。
 仲間ではなく、テントウムシの目にはただの大きな塊にしか見えぬであろう鷺にこそ、寄り添いたいのだとでも言うように。
 そんなわけはない。人がこの様子を伝え聞いたのなら、ひとり残らずそう答えるだろう。
 虫に感情などあるわけもなく、よしんば感情らしきものがあったとしても、なぜテントウムシが餌としてついばまれかねない鳥なぞを探し、そばにいようとするのだと、失笑するに違いなかった。
 だが、テントウムシはたしかに、この鷺の遺体を求めているようであった。
 鷺の体にはすぐにハエがたかり、卵を産みつけていった。ウジがわき、シデムシやアリが羽をかき分け肉を噛み千切っていく。
 白い羽は土や流れる体液でむごいほど汚れ、ボロボロと抜け落ちていった。
 小さなテントウムシには、鷺のそんなむごい有りさまは見えない。テントウムシの狭い視野では、鷺の体のすべてを目に映すこともできなかった。
 テントウムシはただひたすらに、鷺の遺骸にしがみついているばかりだ。
 時々テントウムシは鷺の体を歩きまわる。それは、どこかに命が残っていないかと、探るような動きであった。
 けれども鷺の命はとうにそこにはなく、あるのはわき出るウジやら、逃げ出そうとするマダニ、うぞうぞとむらがるアリばかりだ。
 テントウムシの餌となるものなど、なにひとつそこにはない。
 植物の葉につくアブラムシやハダニを餌とするテントウムシにとって、鷺の体についていたところで、命をつなぐ糧は得られない。けれどもそのテントウムシは、かたくなに鷺の体にとどまりつづけた。
 鷺の肉やウジを求めて烏がむらがる。毒を発するテントウムシを食らう烏はいなかったが、餌をとれぬのならば、テントウムシに死が近づいてくることに変わりはなかった。
 テントウムシは刻一刻と弱っていく。鷺の体に残るわずかな羽の下に身を寄せて、テントウムシは眠った。アリがテントウムシも餌にしようと寄ってくるたび、もぞもぞと移動するが、一向に飛び立つ気配はなかった。
 羽が抜け落ちるたび、テントウムシはまた鷺の体によじ登る。そうして再び羽根の下で眠りにつく。その繰り返しだった。
 獣がやってきて、鷺の肉を噛み千切っていくこともあった。
 テントウムシにとっては、そんなことどもも理解のおよばぬところである。大きな影が落ちて鷺の体がゆれるから、しっかりと羽にしがみつく。ただそれだけの出来事であった。

 テントウムシはただそこにいた。食い散らかされ、腐り落ちていく鷺の体に、そっと寄り添うようにそこにいる。テントウムシはそれだけの存在となっていた。
 生存するために餌をとり、種を残すために繁殖するという、生命としての使命すら、そのテントウムシは果たす様子がない。
 本能のみに生きる小さな虫だ。感情も思考も持ちあわせぬ、ちっぽけな虫である。もしもなにがしかの思考を持っていたとしても、そのテントウムシ自身、己の行動を理解などできなかっただろう。
 理由などわからぬまま、テントウムシはそこにいつづける。もうとうに死んだ鷺とともにあることが、己の命の意味だとでもいうように、テントウムシはその場から離れなかった。
 テントウムシにはなにもわからない。
 本能を凌駕する鷺への執着が、いずこからくるものなのかも、鷺の遺骸の近くに散らばる小さな獣の骨や、ふたつの人の頭蓋骨の意味など、テントウムシに理解できることなどひとつもなかった。
 ときを待たずにやってくるだろう自分の死すら、きっとテントウムシが解することはないだろう。小さな小さなテントウムシのなかにあるものは、きっと、ただひとつの欲求だけであった。

 そばに。ただそばに。二度とけして離れぬように。

 ひたすらそれだけを、テントウムシは願っていたに違いなかった。
 無論、小さな甲虫でしかないテントウムシに、そんな明瞭な思考などありはしない。
 それは脳での思索ではなく、魂の希求と呼んでも差し支えないだろう。
 ちっぽけな魂に宿る、大いなる嘆願が、テントウムシをそこにとどまらせていた。
 けれども、そんな願いに応えるものは、ここにはない。あるのは命の抜け殻ばかりである。
 テントウムシが真に求めるものは、いったいなんなのか。テントウムシ自身も理解などしてはいないし、沈吟ちんぎんすることもない。
 もしも。
 もしも鷺の命がつきたその瞬間に、テントウムシもまた、死を迎えていたのなら。テントウムシはその名のとおりに、鷺の魂をつれ、お天道様に向かって飛んだだろう。
 魂に形があるのなら、手をとりあい仲睦まじく、光のなかへと飛んでいけただろう。
 けれども鷺はテントウムシをおいて逝ってしまった。
 死という概念すら持たぬ虫であるから、それを無念ととらえることも、嘆き悲しむことも、テントウムシはしない。
 それでもテントウムシの魂は泣いていた。ただただ悲しいと、泣いていた。

 そばに。どうかそばにいて。二度と離れはしないから、いついつまでも、ともにいてと。

 それは判然たる形を持たぬ欲求である。言語を解さぬ虫でしかないテントウムシにとっては、願いや祈りといった認識すらない。
 それでもテントウムシはたしかに願っていた。願い、求めている。
 テントウムシはなにもおぼえてなどいない。魂の奥底に残る愛しさの所以ゆえんなど。魂の片割れと呼ぶべき存在のことなど、なにひとつ、おぼえてはいなかった。
 けれども願っていた。思考という形で明確化はされずとも、魂が求める存在にふたたび出逢い、寄り添いあうことを。
 ちっぽけな虫のなかにある魂が、強くいだきつづける嘆願は、今生も果たされることなく、魂はまた、この世を去った。

 幾度か魂が旅立つのを見送ったその地には、変わることなく季節が巡っていた。
 すっかり朽ち果てた鷺も、影も形もなくなったテントウムシも、山の生き物たちや桜の木にとっては、てんであずかり知らぬところである。
 桜の木の下に残る野晒のざらしも、獣や鳥にとっては木の根となんら変わらない。物言わぬただの物体である。
 桜が咲くのを待たずに死んだ鷺の躯が朽ちて、汚らしい羽根の残骸がいくらか散らばるばかりになった地面を、昨年よりもわずかに色味を深めた花弁がおおった。
 それもあまさず風に飛ばされたり土に還ったりしたあとには、セミがやかましく騒ぎたて、鳥たちは枝に巣をつくりさえずり、桜の木はたいそうにぎやかになった。
 季節は移ろう。人の営みも、獣の生き死にも、なにひとつ知らぬ顔で、おとずれては去っていく。
 桜の木は、ただそこに立っていた。四季に応じた姿を見せ、ただそこにあった。

 薄汚れて弱った様子のキツネが一匹、桜の木の下へとやってきたのは、秋も深まるころだった。
 キツネの生まれは、その山よりもずっと以北であった。
 生態に詳しい者が見れば、目を見張っただろう。キツネは本州にはいないはずのキタキツネであった。
 まだ若いオスのキツネである。オスであるからには、家族群を離れ己の縄張りを求めるのは当然のことだ。だとしても、海をわたってキツネが移動するなど、信じるものは少なかろう。
 けれどもたしかにそのキツネは、海をわたり、ただ一匹で関東までやってきたものと思われた。
 どれだけ餌を食べていないのだろう。あわれなほどにやせ細り、肉の薄い体は骨が浮いて見えた。毛艶もこの上なく悪い。
 病気ではなさそうだが、とにかく弱りきっている。おそらくは、海を越えたあとにも里を行けば人に追われ、山野を駆ければ熊やら山犬におそわれて、ようようここにたどり着いたものとみえる。
 キツネは転がる髑髏のそばへ、よろよろと歩み寄った。
 ふんふんと辺りをしきりと嗅ぎまわり、落ち葉をかき分けては、ひっきりなしに地面を掘り返す。
 そっと土をひっかいては、這い出て逃げる虫をじっと見すえ、キツネはまたそれを繰り返した。
 キツネは明らかになにかを探していた。
 威風堂々たる大樹である桜が落とす枯葉は多く、キツネがいくら落ち葉をかき分けても、新しい葉はどんどんと落ちてくる。
 キツネは転がるふたつの髑髏も転がしどけた。虫がわっと逃げ散っていったが、キツネの求めるものではないようだった。
 キツネは朽ちかけた桶もどうにか転がし、下をうかがったが、やはりなにも得るものはなかった。
 日が暮れ、また日が昇っても、キツネは眠りもしない。餌どころか、水すらろくに飲んではいないのだろう。ハァハァと苦しげにしながらも、キツネは休むことなくなにかを探していた。
 弱り切った体で、いったいなにをそんなに探し求めているのか。もしかしたら、キツネにもわかっていなかったかもしれない。

 母キツネの乳を吸い、ほかの子ギツネたちと転がりまわっていたころから、キツネは不意に虚空に目を向け、ふんふんと鼻を鳴らすことがあった。
 なにを探しているのかは、キツネ自身にもわからない。けれども、たしかにキツネはなにかを探していた。
 不可思議な欲求は、親離れを果たすころにはいよいよ大きく抑えがたくなり、キツネは生まれた地をあとにした。
 若いオスのことであるから、北海道を駆け抜けるうちは体力もみなぎっていたが、海をわたるのは困難を極めた。
 それでも、キツネはおそらく幸運だったのだろう。キツネがひたすら波をかき分け、人が津軽海峡と呼ぶ海域を泳ぎきったのは、そのあいだずっと海が凪いでいたゆえであるのは、間違いがない。
 サメやクラゲといった、危険な海洋生物にもおびやかされることなく泳ぎきったキツネは、目に見えぬなにかに守られてでもいるかのようだった。
 けれど、それも海をわたりきるまでのことである。
 体力をうばわれ、ハァハァと荒い息をもらしたキツネは、ようやっとたどり着いた陸に、ごろりと横になった。弱ったキツネを、海鳥やトンビが狙ったのは、致し方ない。自然とはそういうものだ。
 弱ったものから狙われる。弱い個体はほかの命の糧となり、命をつないでいく。それが自然の摂理だ。
 だがそのキツネは、つつかれ爪でえぐられて血を流した体で、それでも立ち上がった。
 まだ魂の希求は消えてはおらず、探し求めるなにかにたどり着いていないことを、キツネは悟っていた。
 生きるのだ。まだ死ねない。そんな明確な意思はそこにはない。動物の本能と言いきるには、キツネの瞳には決意があった。本能のうったえからの生存欲ではない『執着』がそこにはある。
 もしも魂に確固たる意志があるのならば、それは確実に、魂が追い求めよと命じているに違いなかった。
 生きろ。生きろ。探しだせ。言語化されることのない渇きに似た熱願だけが、キツネを突き動かす。
 キツネはよろける足で駆けだした。なにかに導かれるように、ただ駆ける。
 ときどき餌を求め狩りをするあいだも、熊や人に狙われ追われるあいだも、求めるものはひとつきりで、それがなんなのかすらわからないまま、キツネは駆けつづけた。

 そうしてたどり着いたのが、この桜の木であった。

 キツネは餌もとらず、三日三晩と一心に落ち葉をかき分けていたが、やがてキャウゥ、ウィルルルとか細く鳴き、なにかに呼びかけた。けれども呼び声に応えるものはない。
 悲鳴に似たその鳴き声は、細く高く、周囲にひびきわたった。
 鳴き声を恐れたか、小鳥が一斉に羽ばたき飛び去る。落ち葉がキツネに降りそそいだ。ただそれだけだった。キツネの呼びかけに応じてあらわれるものなど、なにもない。
 生きろと命じる声はもう聞こえない。深い渇望は生存本能を凌駕して、キツネを打ちのめす。
 キツネが求めるものはもはやここにはない。キツネもそれは理解していただろう。しかしキツネは動かなかった。理由はキツネにもわからない。キツネにそれほど複雑な思考はなかった。
 もしキツネが人のように言語化された思考を持ち得たのなら、きっと死期の近づいたこのキツネは、悲痛に叫んでいただろう。

 まだ足りないか。まだ罪はぬぐえぬのか。己が片割れと出逢うことは、まだ許されないのかと……キツネは、泣きながら、叫んでいた。

 その身はそろそろ命数がつきる。若い肉体は酷使に次ぐ酷使に耐えきれず、もはや座っているだけの力すら失っていた。餌をとる間も惜しみ、生存本能に逆らいつづけたツケがまわってきていた。
 キツネはどうっと地面にたおれた。
 だらりと舌を垂らして、ハァハァと荒い息をつく。動けと本能と魂の意思がそろってキツネをうながすが、命の火が消える瞬間は目前に迫っていた。
 されどキツネの瞳には、いまだ切願の光がある。
 あきらめてしまえば楽だろう。安らかな眠りにつき、生まれ変わり、その生に見合った生き方をすれば、いつかは魂も安らぎ、すべて忘れていくのだろう。
 だがそんな日は、けしておとずれはしないことを、キツネの魂は知っていた。
 探し求めるたったひとつの魂が、己の魂の片割れが、いったいどのようなものなのかは、とうに記憶も薄れ忘れ果て、かけらもおぼえてはいない。
 それでもなおキツネの魂は求めるのだ。
 求め、探し、あがくのだ。

 そばに。ただそばに。二度とけして離れぬようにと。

 そのゆるぎないうったえだけが、魂のよりどころであると言わんばかりに、ただそれだけを追い求め、生まれては死んでいく。
 繰り返し、繰り返し、魂は片割れを求めて生まれ落ちては、渇望のなかで探し求め、果たされぬまま死んでいく。
 そうしてまたひとつ、魂は生を終えた。
 ピクリとも動かなくなったキツネの姿を、ひらり、はらりと落ちる桜の葉が、赤く染めていった。

 その桜の木は、ずぅっと昔からそこにあった。
 樹齢はそろそろ二百年を超える。そのあいだ、様々なことが起きた。江戸と呼ばれていた街はすっかりと姿を変え、今では 東京と呼ばれているらしい。
 人の世は有為転変をつづけ、大地震や空さえも焼く大きな戦は、帝都を焼きつくしたという。
 けれども人はしぶとく立ち直り、数を続々と増やしていった。今や桜の木が立つこの山も人の手が入り、桜の木の周囲はならされ、時折人がおとずれては、桜の木を見上げて感嘆の声をあげる。
 人の数に反比例するかのように、獣は数を減らしていった。今では野ウサギやイタチなどは、とんと見かけることがない。
 それを悲しいと思う感情は、桜にはなかった。
 桜は大樹であり年を重ねてはいるが、しょせんはただの樹木である。明確な意思も感情も持ちあわせない。
 けれども不明瞭なイメージとしてならば、記憶と呼ばれるものは持っていた。
 それはもしかしたら、桜の木自身の記憶ではないかもしれない。その地で繰り返された邂逅を果たせぬ命の――あわれな魂たちの残した足跡が、桜の木に染みついているだけかもしれなかった。

 桜は見てきた。数え切れぬほど繰り返された、命のすれ違いを。
 ときには獣に、ときには鳥に、またあるときには虫となって、輪廻を巡りこの地をおとずれては、果てる命がある。触れあうことなくすれ違い、それでもまた繰り返す命の終焉を、物言わぬ桜はただ見てきた。
 大地がゆれても、戦火が空を赤く染めても、ふたつの魂は決まって桜のもとをおとずれ、この場で果てる。
 そうして四季は巡り、この十数年ばかりは新たにあの魂たちがやってくることはなかった。
 桜の木がもしも考察するだけの知能や感情を持っていたのなら、こんなふうに考えたかもしれない。
 あのあわれな魂たちも、ようやく諦めたのだろう、と。
 巡り逢うことをあきらめ、それぞれの生を謳歌しているのなら、それはそれで喜ばしいことだと、老爺のようにしんみりと感慨にふけることもあったかもしれない。
 だが、魂たちはよっぽどあきらめが悪かったに違いない。
 桜の木がそれを見たのは、淡い紅紫色の花を繚乱と咲かせる春のことだった。