桜が謳うサンサーラ【完全版】

 そんな会話をしたのが、小学校の卒業式より少し前のこと。
 最寄駅から乗った電車の、終着駅に降り立った今日は、中学の入学式の三日前である。
 どこへ行こうかと相談した際に、真菰からなんでもいいから浮かぶイメージはある? と聞かれて、義勇が答えたのは『大きな桜の木』だった。
 医師から同じようなことを聞かれ、素直に答えたのを思い出す。けれど、義勇の答えはどれも関係性が見えなかったのか、医師にとってはあまり役には立たなかったようだ。
 だから義勇も、あまり役には立たないだろうけどと、少し申し訳なく答えたのだけれど、真菰の反応にがっかりした様子はない。
 大きな桜の木。海。お日様。小鳥の声。星。キラキラしたカード。お守り袋。
 そんな取り留めもない言葉をふんふんと聞いた真菰は、今義勇が一番行ってみたいのはどこ? と聞いてきた。
 そうしてしばらく考えた義勇が口にしたのが、桜の木だった。
 不思議と桜の木を見ると泣きたくなる。行かなきゃ。そんな言葉が頭に浮かぶ。
 けれども、どんな桜でもいいというわけではない。違う。違う。ここじゃない。桜を見上げては落胆し、泣きたくなった。
 うながされるままにぽつぽつと、そんなことを話した義勇に、真菰と錆兎はにっこりと笑って、じゃあ桜の木を探そうと事も無げに言ってくれた。
 義勇が思い浮かべるイメージに似た桜を探して、真菰のタブレットを三人してのぞき込んでいるときに、その桜の木は義勇の目に飛び込んできた。
 小さな写真だ。メジャーな桜の名所などではない。簡潔すぎて素っ気ないほどの説明文は、登山客でにぎわうような山ではないからだろう。
 それでも、山頂にあるという山桜の小さな写真に、義勇の心はなぜだかひどくざわめいた。
 見慣れた染井吉野とは違う、紅紫色をした桜の花は、義勇に来いと誘いかけているようだった。

 ここがいいと指差した義勇に、錆兎と真菰も了承し、今、義勇は急く心を持てあましながら、一心に山道を登っている。

「おいっ、義勇! ペース早すぎだ。そんなに急ぐとバテるぞ!!」
 錆兎が背後でいさめる声は聞えていたけれど、義勇の足は止まらなかった。
 大丈夫とだけ大きな声で返して、義勇はどんどんと進んでいく。人が歩きやすいようにそれなりに整備されているとはいえ、登山に慣れぬ足には厳しい道のりではある。錆兎の忠告はもっともだ。
 けれども、義勇の心は逸るばかりで、早く早くとうったえるのだ。
 息が切れる。苦しいほどに動悸どうきが激しい。額を流れる汗が目にしみるたび、義勇は服の袖で乱暴に汗をぬぐった。
 足は止まらない。つらい苦しいと音をあげそうに疲れているのに、歩みは速まるばかりだ。早く。逢いたい。早く。行かなくちゃ。そんな言葉に急かされるまま進むうち、見上げる視線の先に、桜の花がわずかに見えた。
 ドクンと大きく鼓動が鳴る。義勇は一瞬息をするのも忘れた。
 歩く足はますます速まり、しだいに小走りになり、いつの間にか必死に山道を駆け上っていた。
 そうして気がつけば義勇は、錆兎や真菰を置き去りに、息を切らして山頂へとたどり着いていた。

 ひらけた視界に飛び込んできたのは、ずっと目印として見上げてきた桜の木だった。

 ビルほどにも大きな木だ。満開の桜が、淡い紅紫色の花弁を降らせている。
 あぁ、この木だ。この木に間違いない。
 酸欠状態になっているのだろうか。ドクンドクンとこめかみで脈打つ血流の音が、大音量で体内にダイレクトにひびくようで、義勇は思わず耳をふさぎたくなった。
 くらくらと視界がゆれる。息が苦しい。それでも義勇のまなざしは、桜の木から離れることはなかった。
 お愛想ていどにならされ、広場のようになった桜の周囲には、人の気配はない。
 染井吉野と違って短期間で散る花ではないからか、それとも花見と言えば染井吉野で、こんな山桜は選択肢に上がらないのか。いずれにしても、騒がしい花見客がいないのはありがたい。ああいった喧騒は、義勇は好きではない。
 とはいえ、人がいないのであれば目的が果たされることもないのはたしかだ。義勇はどうしようもなく心にわきおこる落胆に、肩を落としてうつむいた。

 逢えない。また逢えない。まだ、逢えないのか。

 言いようのない悲傷ひしょうは、涙になって義勇の目に浮かび上がった。
 桜の木を目にして、義勇ははっきりと悟っていた。
 なぜなのかは、理由も理屈もわからない。けれど、わかる。きっと自分は、ずっとこの木の下で誰かを探していたのだと。
 繰り返し、繰り返し、探し求めては果たされずにいたのだと、義勇は理解した。
 叫びたかった。天を仰いで声のかぎりに叫んでしまいたかった。

 逢いたい、触れたい――恋しいと叫び、呼びたかった。

 誰を? わからない。顔も名も知らない誰か。
 性別もわからない。年も知らない。記憶のどこを探っても、求めてやまぬ誰かの顔も、名前も、思い出せはしなかった。
 もしかしたら、人ですらないのかもしれない。
 連綿とつづく命のつらなりのなかで、いつか出逢った名も知らぬ誰か。その誰かが、もしも今生では人ではなかったとしたら。
 ――それでもいい。人でなくてもかまわない。
 野の獣でも、鳥でも、たとえば虫であったとしても、自分は恋し愛をそそぐだろう。
 今ここに義勇がいること。この世界、この時代に、生まれ落ちたこと。そのすべてはきっと、求める命に……己の魂の片割れに出逢うためだ。
 姿かたちなどどうでもいい。義勇の魂が求めるのは、もうひとつの魂そのものに違いないのだ。
 寄り添いあえと、出逢い、そして『今度こそ』放すなと、魂が叫んでいる。

 だからもう、逢わせてくれ。触れさせてくれ。
 守りたいんだ。幸せにしたいんだ。
 今度こそ間違えない。離れない。放さない。絶対に。
 誓うから。自分のすべてを賭けて誓うから。どうか。

 なぜそんな言葉が浮かぶのかすらわからないまま、義勇はわきあがる慟哭を抑えこんだ。
 じきに錆兎と真菰もやってくる。ふたりを心配させるわけにはいかない。
 海のものとも山のものともつかぬ義勇の直感だけで、こんなところまでつきあわせた。これ以上ふたりに迷惑をかけるのは、義勇の性分が許せなかった。
 ふたりは迷惑だなどと思わないだろう。けれど心配させてしまうのは間違いがない。

 必死に涙をこらえて、ぐっと目を閉じた義勇の耳に、突然それは聞えてきた。

「あのっ、誰かいますかぁ!」
 まだ幼さが残る男の子の声だ。声はきゅうしたひびきをしている。
 耳を澄ませよくよく聞けば、義勇が登ってきた山道とは離れた場所から、その声は聞えてくるようだ。
 なにか困っているのならば、手を貸さなければと、義勇はひとつ大きく深呼吸した。涙をぬぐい、心を落ち着かせると、声のしたほうに向かって足を進める。
「どうした! どこにいる?」
 とりあえず人がいることを知らせようとあげた声に、まだ姿の見えない相手は、喜びと安堵を隠さぬ声で答えた。
「よかった! あのっ、道に迷っちゃって、ここからじゃ斜面が登れないんです!」
 こんな山で迷って、あげくに斜面が登れない?
 それは遭難しかけているというんじゃないのか。義勇は少しあきれ、おおいにあわてた。
 急いで駆けつけ斜面をのぞき込めば、木々の合間に男の子がひとりで立っている。足場が悪いせいか、少年は木にしがみつき、上を見上げていた。
 背格好からすると義勇と同い年ぐらいだろうか。深くかぶったキャップや木々の枝で、顔はよく見えなかった。
「怪我は? ロープがあればひとりで登れるか?」
「大丈夫だと思う!」
 答えによしとうなずいて、義勇は背負っていたデイバッグをおろすと、ナイロンロープを取りだした。
 標高の高い本格的な登山じゃあるまいし、それはどうなんだと錆兎たちにはあきれられたが、念のためと持ってきておいてよかった。
 目測からすると長さはたぶん足りるはずだが、さて、問題はあの子がひとりでロープを伝い登ることができるかだ。
 とにかくやってみるしかないかと、義勇は斜面にせり出した木の幹に、ロープをしっかりと結んだ。
 念には念を入れよと、すべり止めつきの軍手をロープの端にくくりつけ、斜面の先にいる少年へと投げる。
「その手袋をはめてから来い! 直接ロープをにぎると手の皮がむけるかもしれないから!」
「わかった! ありがとう!」
 義勇に言われたとおりに軍手をはめた少年は、ぐっぐっと二、三度ロープを引いてたしかめると、ゆっくり斜面を登り始めた。
 斜面は日が差しにくいのか、苔やぬれた落ち葉ですべりやすいようで、少年の進みは遅い。何度か足をすべらせかけては、そのたびに、わっと声を上げるから、義勇も気が気ではない。
 軍手はひとつしか持ってきていないが、しかたない。
 次に山に登る機会があるなら、今度は予備も持ってこようと胸に誓いつつ、義勇はロープを強くにぎりしめるとぐいっと引いた。
「こっちでも引っ張るから、根性で登れ!」
「う、うん。がんばるっ! ありがとうございます!」
 ロープをたぐり寄せるたび、手のひらに食い込んだロープが痛みを与えてくるが、かまっている場合ではない。額に汗をにじませて、義勇は懸命にロープを引いた。
 錆兎が来てくれれば少しは楽になるだろうが、かなり引き離してしまった気がする。真菰と一緒の錆兎が山頂に着くには、きっともうしばらくかかるだろう。
 まったく、こんな山で遭難しかけるなんて、あきれるほどドジなやつだ。登ってきたらじっくり間抜け面をおがんでやるからなと、義勇は必死にロープを引きつづけた。
 絶望に似た悲嘆は消えていた。それだけは少年に感謝してもいい。こらえようとしてもわき上がってくる涙を、とめてくれたのだから。
 やるべきことがあるなら、義勇は動ける。どんなに傷心にくれても、自分がなすべきことはなす。それが義勇の本質だ。
 今、義勇がしなければならないことは、あの少年を山頂まで引き上げることにほかならない。それだけに集中して、義勇は悲しみを心から追い出した。
 少年の重みを受けたロープは、義勇の手のひらを容赦なく削っていく。こすれた皮膚はそろそろ血がにじみだしているかもしれなかった。だがそれをたしかめている余裕はない。
 ただひたすらに義勇はロープを引き、少年も懸命に斜面を登る。どれぐらい時間が経っただろう。シャカリキになって足を踏ん張りロープをたぐっていた義勇は、不意に消えた重みの反動で、盛大に尻もちをついた。
「うわっ!!」
 ロープをにぎりしめていた少年は、登りきった瞬間に引っ張られ、バランスをくずしたらしい。ロープをつかんだままつんのめり、地べたに座り込んだ義勇へと飛び込んできた。
 義勇に伸しかかるように転んだ少年の頭から、被っていたキャップが飛ばされた。
 あらわになった赤みがかった髪は汗でしめりつつも、風にふわりと揺れている。そのときになって義勇は初めて、少年の耳にゆれる大振りのピアスに気づいた。
 そして、義勇はようやく少年の顔を見た。

 一陣の風が、強く吹き抜けた。風は桜の花びらをふたりのもとへ運んでくる。
 淡く色づいた雪のような花びらは、たわむれるようにふたりの周りで舞った。
 義勇の群青の瞳と、少年の赫灼の瞳が出逢うのを、祝福でもするかのように。

「……ぁ」
「……っ」

 言葉にはならなかった。
 全身を駆け抜けた衝撃を、なんと名づけたらいいのだろう。
 ぽろりと涙が落ちたのは、同時だった。
 わななく唇は呼ぶ名を持たない。初めて見る少年だ。なのに義勇は、この子を知っていた。
 少年もまた、義勇を一心に見つめ、ほろほろと涙を流している。 義勇の震える腕が、自然と少年の背にまわされた。湿ったシャツの背に触れたと同時に、ビリッと手のひらに走った痛みが、夢ではないことを義勇に知らせる。
 地面に転がる義勇の頬に、少年の指が触れた。けれどその手はすぐにあわてたように引っ込められる。
 凝視する義勇の視線の先で、少年は手にはめていた軍手を、心急くのを隠さぬ顔で外している。
 そのくせ、貸した軍手をきちんとそろえて地面に置く少年の律義さは、じれったいようでもあり、無性にうれしくもあった。
 一連の行動を無言のままじっと見つめている義勇の上で、ほっと息をついた少年は、改めてそっと義勇に触れてくる。
 汗ばんだ手のひらが触れた瞬間に、義勇はきつく少年の背をかき抱いていた。少年の手が行き場をなくしさまようのに応えるように、腹筋に力を入れて身を起こす。
 義勇の膝の上に座り込む形になった少年は、迷わず義勇の背に腕をまわしてきた。力いっぱい抱きしめてくる腕が、泣きたいほどにうれしい。
 腕のなかの体は温かかった。汗の匂いがする。少年の息づかいが耳元で聞こえた。重なった胸から、鼓動が伝わる。

 ――生きてる。
 生きている。
 生きているっ!!

 あぁ、今度こそ、生きて出逢えた!!

 義勇は疑わない。この少年こそが探し求めた片割れであることを。
 それは少年も同じであったろう。少年が義勇を探していたかは知らない。けれど出逢った瞬間にわかったはずだ。
 今抱きしめあっているお互いは、誰よりも特別な存在なのだと、魂の片割れなのだと、きっとこの子も気がついた。
 言葉なく泣きじゃくりながら、ふたりは腕のなかの温もりをたしかめるように、ぎゅうぎゅうと抱きしめあった。
 どれだけ抱きしめても足りない。もっと近づきたいという渇望にあらがうことなく、義勇は、少年の首に埋めていた顔をそろりと上げた。
 そのまま背を抱いていた右腕を、そっと少年の後頭部へとまわす。おずおずとなでた髪は、汗でしめっていた。
 うながされていることを悟ったのだろう。少年の顔も上げられて、義勇の瞳をまっすぐに見つめ……そして、静かにまぶたがふせられていった。
 義勇は少年の額に自分の額を寄せると、慈しむようにすりあわせ、そっと少年の唇に唇で触れた。
 柔らかい。浮かんだのはそんな当たり前な一言だ。少年の唇は、涙でぬれていた。きっと少年も、義勇の唇をぬらす涙の味を感じていることだろう。
 キスのしかたなんて、義勇は知らない。この少年もそんなものは知らないに違いない。
 けれどふたりとも、このはちきれんばかりの渇望は、唇を触れあわせるだけでは満たされないことを知っていた。
 少し離した唇が、互いに薄く開かれた。
 唇のあわいからふたりの舌先が小さくのぞく。義勇はうかがいをたてるように、ちょんと少年の舌先に舌で触れた。
 ぴくりと震えて、少年の舌が口のなかに逃げていく。その動きはまるで誘っているように思えて、義勇は深く唇をあわせた。迷うことなく自分の舌を少年の口にすべり込ませる。
 くちゅりと音をたてて舌が絡みあう。あふれる唾液をどうしたらいいかわからずに、義勇はこくりと飲みこんだ。
 他人の唾液なんて、気持ち悪いばかりのはずなのに、どうしてだか少年のそれは、ひどく甘く感じる。
 キスの最中の、息継ぎのしかたなんてわからない。だからすぐに苦しくなって唇を離してしまう。
 それが我慢ならなくて、義勇も少年も、唇が離れた瞬間に大きく息を吸うと、先を競って唇を重ねあわせた。
 絡めて、吸って、舐めあげて、互いに互いの舌にじゃれついていくキスは、官能を高めるためのものではなかったが、それでも体に熱をこもらせた。
 少年の喉が動いて、義勇の唾液を飲みこむのを感じるたび、義勇の腰が重くなっていく。
 自分のも少年にとって甘ければいい。もっと欲しいと思ってくれたらいいのに。
 義勇はそう願った。願って、与えたくて、どうしようもなく興奮していた。
 けれど、この先を義勇は知らない。少年も知らないだろう。
 もっとと心は命じている。こんなものでは足りないと、心の奥底で命じる声がある。

 足りない。足りない。もっと欲しい。もっと与えたい。もっと近くに。もっと。もっと。ずっと。

 そんな声はきっとふたり同様に聞こえていただろう。
 けれども離れてしまったのは、どうにも息苦しさが勝ったからだ。
 はぁはぁと息を乱しつつ、泣きながら見交わした瞳は、ふたりとも歓喜とこもる熱をたたえている。
 もう一度と肉体は切望するが、義勇はそれを懸命に抑えつけた。
 出逢って終りではないのだ。知りたいことはいくらでもある。
「名前……」
「……え?」
「名前、教えて」
 額を寄せあってささやけば、少年の目がぱちりとまばたいた。
「……炭治郎。竈門炭治郎だよ」
「炭治郎……」
 うれしげにささやかれた名前をつぶやき返せば、その名は義勇の心にストンと落ちてきた。
 あぁ、間違いない。この子が、炭治郎こそが、探し求めてきた誰かだと、疑うことなく信じられた。
「君は? 君の名前はなんていうの?」
「義勇。冨岡義勇」
「義勇、さん?」
 少しとまどいをにじませた声に、義勇は思わずくふっと笑い声をもらした。
「なんで、さんづけ?」
「え? あれ? なんでだろ。なんとなく?」
 クスクスと笑う炭治郎の鼻に、自分の鼻先をすりあわせて義勇も笑う。抱きしめあう腕は放したくなくて、離れたくなくて、そのままふたりは小さな声でささやきあった。
「なぁ、義勇……は、ここら辺に住んでるのか?」
「いや、結構離れてる。炭治郎は?」
「俺も、この春から少し遠くに行くんだ。父さんが脱サラしてパン屋を始めるから」
 今は電車で一駅のこの山にも、引っ越したらそうそう来られなくなる。その前にもう一度歩きたくて、ひとりで散策していたのだと炭治郎は言う。
「初めてこの山に登ったとき、ずっとあの桜の木の下で誰かを待ってたって気がしたんだ。だから何度か来たんだけど、いつも逢えなかった。もしかしたら木の下じゃないのかもって思って、桜が見える場所を歩きまわってたら道を外れちゃって」
「それで遭難しかけたのか」
「遭難!! そんな大げさなもんじゃないよ!」
「……声が大きい」
「あ、ごめん」
 あわてて黙り込んだ炭治郎に、義勇はいかにもおかしいと笑った。こんなふうに浮かれた気分で笑うのは、もしかしたら初めてかもしれない。少なくとも義勇の記憶には残ってはいない。
 炭治郎も楽しいと笑ってくれるかと思ったのに、黙り込んだまま、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。サクランボみたいに赤く染まったのは、顔だけではなく、耳や首筋まで真っ赤だ。
「どうした? 熱でも出たか?」
 義勇も不安をおぼえ、あわてて言うと、たしかめるようにまた額を寄せた。
「熱はないみたいだけど……」
「そ、そうじゃなくてっ。笑った顔……見たから」
「……そんなに変な顔してたか?」
 ためらいがちに視線をそらせて言う炭治郎に、いくぶんショックを受けつつ言えば、炭治郎はブンブンと首を振った。
「かわいいし綺麗だし格好いいし! どうしたらいいかわかんなかったんだってばっ!!」
「……そうか」
 そんなことを言われてどう答えればいいというのだ。困ってしまって義勇もちょっとだけそっぽを向いた。赤面しにくいたちだが、耳はきっと赤くなっているだろう。照れているのに気づかれなければいいと思ったのに、炭治郎は目ざとく気づいてしまったようだ。
 くふんと笑った炭治郎は、義勇が憮然とする間もなく、突然ぱくりと耳たぶに噛みついてきた。
「っ!? た、炭治郎?」
「なんか美味しそうだったから。義勇、耳真っ赤だ。かわいい」
 くふくふと笑う炭治郎にちょっぴりムッとして、義勇はお返しとばかりに炭治郎の首筋に歯を立てた。
「ひゃうっ!! ぎ、義勇なにしてんだよ!!」
「美味しそうだったから? かわいいな、炭治郎」
 あむあむと甘噛みする義勇に、炭治郎はあわあわとあわてて、いっそう赤味を増していく。してやったりとニヤリと笑う義勇に、真っ赤な頬がぷっくりとふくらんだ。
 むぅっと唇を尖らせる炭治郎に、やりすぎたかとちょっぴりヒヤリとした義勇だったが、すぐにその顔はニコニコとほころんで、炭治郎はギュッと義勇に抱きついてくる。
「ずっと探してたの、義勇だったんだ。すごく逢いたかったんだ。ずっと、ずっと、逢いたかったんだ……」
「うん……うん、炭治郎。俺も探してた。ずっと探してた。逢いたかった……」

 強く抱きしめあったふたりの周りに風が吹く。桜の花びらを運ぶ風が。
 鳥のさえずりが、たえまなく聞こえる。番を求めて恋の歌を歌う声が。
 世界は歌う。巡りあった命へ、あきらめなかった魂へ、祝福の賛歌を。

 遠くで声がした。義勇の名を呼ぶ声だ。
「錆兎と真菰だ」
「友達?」
「うん。きっと炭治郎も友達になれる。すごくいいやつらなんだ」
「うん! そんな気がする!」
 笑いあって立ち上がり、自然にふたりは手を差し伸べあった。
 義勇の左手が、炭治郎の右手に触れる。指を絡めてつなぎあった手は、まるでずっと前からこうしていたかのように、互いの手のひらにたやすくなじんだ。

 もう離さない。二度と離れない。もう、間違えない。

 そんな誓いが、言葉になることなく互いの胸に刻まれたことを、ふたりは見交わす眼差しで確信していた。
 手をつなぎあい立ちつくしているふたりに、錆兎と真菰が駆け寄ってくる。驚きや祝福の声が、桜の木のもとへも届いてきた。

 桜の木は知らない。炭治郎の引っ越し先が、義勇の家の最寄り駅に近いのだなんてことも、これから同じ中学に通うのだということも。人の言葉を理解しえない桜の大樹には、すべてあずかり知らぬところである。
 子どもらはそろって桜のもとへと歩み寄ってくる。ワイワイとにぎやかな声は、どこまでも明るい。
 そんな大事なことを聞いてないって、おまえなにしてたんだよと、あきれて言う錆兎を。話をする余裕もないぐらいうれしくて、泣いちゃってたんでしょと、笑う真菰を。そして、義勇と炭治郎が無言のまま見あわせた顔を赤く染めたのを、桜の木はただ静かに見下ろしていただけだった。

 にぎやかに笑いながら、桜の木の下で弁当を食べだす子どもたちを、桜の木はただ見ていた。ただの樹木である桜に視覚はないが、それでも桜は見ていた。あますところなく。
 傷つきボロボロになっていく魂が、それでもあきらめることなく互いを探し求めてきたその様を、この木だけが、ずっと見ていた。
 大地がゆれ、戦火が空を赤く染めても、桜の木はずっと見守ってきた。言葉もなく、ただ、静かに。

 かつて、桜の木の根元に転がっていたいくつもの骨は、もうここにはない。長い年月のあいだに、どこかへ行ってしまった。
 獣や鳥の骨は、ほかの動物に持ち去られたのかもしれないし、人の髑髏は、山に人の手が入ったおりに、人の手によって弔われたのかもしれなかった。
 腐臭が染みついた桶はとうに朽ちて、衣類や小さなふたつの袋も、なかにあった髪の毛や羽根も、ひとつ残らず土に還っている。そうして桜の木の糧となり、この地で起きた諸々の出来事は、もう痕跡すら残ってはいない。いくらか桜の花の色味が増しただけのこと。
 いずれにしてもそんなことは、桜にとってはどうでもいいことである。朽ちて骨だけになった肉体は、物でしかない。そこに愛だけを抱いたふたつの魂は存在しないのだ。
 桜の木はひらひらと花を降らせつづけた。幸いあれと笑うように。
 桜は言語化された思考を持たないし、感情だって持ちあわせてはいない。
 それでもきっと桜の木は祝福していた。
 そして、もしもこの桜が人語を解し、己が見てきた光景を、今この場に起こった奇跡を、誰かに伝えようとするのなら、きっとこんな言葉にするのだろう。

 桜の木の下には、あまたの命でつむがれた、たったひとつの愛の軌跡が眠っている。
 それは、誓って本当のことなんだ。