名も知らぬ山の獣道を、義勇は歩く。
息が切れ、さすがに話しつづけることはできなくなった。だんだんと険しくなる山道を、黙々と歩いていた義勇の足は、山頂近くのとある一本の大木の前で止まった。
九〇尺(約二十八メートル)はあろうかという大樹である。箒状に広がった枝ぶりはケヤキに似ているが、赤く色づいた葉の形状を見るに、どうやら山桜のようだ。
威風堂々たる桜の大木の周りは、まだ暑さの残る初秋だというのにせっかちな落ち葉が敷きつめられ、まるで緋毛氈のように見えた。
これほどに育っているのなら、樹齢はとうに百年は過ぎているだろう。山桜の樹齢は、ともすれば千年を超えるものもあるというから、この木はこれから先もきっとここにあり、花を咲かせるものと思われた。
ここに来るまでの木々から判断するに、付近に人の手が入った様子はなかった。材木を切りだすにしても、もっと別の場所なのだろう。
ふぅっと深く息をはき、義勇は片腕で器用に背負子をおろした。
くくりつけていた桶のふたを開けたとたんに、悪臭がぶわりとわきあがる。一斉に出てきた無数のハエが、ブオオンとうなりをあげて飛びまわり、義勇はカっと脳髄を焼く憤懣にきつく眉根を寄せた。
あれだけ毎日丹念にウジを取りのぞいていたのに、しょうこりもなくハエがわく。こいつらは炭治郎の肉を食んでいたのだと思えば、憎悪が全身から立ち昇る。
だが、ようやく落ち着ける場所を見つけたというのに、怒りばかりをあらわにしていては、炭治郎に申しわけがない。
慣れたはずの刺激臭が目をつき、生理的な涙がぽろぽろと義勇の目から流れ落ちる。それでも義勇は、視界をふさぐ涙に頓着することなく、桶に腕を差し入れた。
なかにいる炭治郎を引き上げようとし、しばしの逡巡のあと、思い直しゆっくりと桶をたおす。
「すまない、炭治郎。苦しかっただろう? もう大丈夫だ。ここにしよう」
慈しみにあふれた声音と微笑みを受けとめ、炭治郎が幸せそうに笑い返すことはなかった。
ごろりと転がり出たのは、ほぼ白骨化した遺体であるのだから、当然であろう。
炭治郎が着ていた浴衣は、腐った脂肪や血液で汚れ、元の色合いなどとうにわからない。腐肉や血液は桶の底に溜まり、固まりかけていたが、多くはたおした桶からドロドロと、白くうごめくウジともども流れ落ちた。
もったいない。思わず義勇は流れ出るそれらを受けとめようと手を差し伸べた。しかし、人ひとり分の血肉を受けとめきれるものではない。考えなおし義勇は手を止めた。
なまじウジどもの餌にされるくらいなら、土に沁み込み同化するほうがよい。義勇もこの土に還るのだ。炭治郎を失うことにはならないだろう。
手にまとわりつく腐肉を気にすることもなく、がらりとくずれた骨のなかから炭治郎の頭蓋骨を取り上げると、義勇はそっと胸元にかかえた。
ふわふわとゆれていた赤みがかった髪は、見るも無残に抜け落ち、わずかに残る頭皮にまばらにこびりついている。
それを愛おしげに見つめてから、義勇は山桜の根元に、炭治郎の骨をひとつひとつ置いていった。
やせて骨ばった手で、義勇は炭治郎の骨を並べていく。炭治郎の心臓や肺を守っていた肋骨も、元気に駆け寄ってきた足も、ただ一度にぎりしめた手も、間違わぬよう慎重に。
そうしてすべての骨が桜の木の下に並んだ。
生前に失った左腕だけが足りない遺骨は、すっかり炭治郎が生きていたころそのままの位置に、綺麗におさまった。それを満足げにながめ、義勇は傍らにどかりと腰をおろした。
肉がこびりつき変色した血液に染まった骨は、誰の目にも痛ましかろう。けれども義勇の目には、変わらず愛おしいばかりである。
小野小町の九相図さながらに、炭治郎の体が腐敗していくさまも、義勇はつぶさに見てきた。垂れ流された汚物を、隻腕に苦心しつつ洗い流し清めてやりもした。
硬直していた筋肉がゆるみ、きたえられ引きしまっていた体がふくらみ様相を変えても、義勇にとってみればそれが炭治郎であるかぎり、ただただ愛らしい。
かわいいと思う自分に義勇は満足していたし、どこかしら優越感もおぼえていた。
皮膚が壊死し、くずれた肌から脂肪や血が流れだし始めたころには、優越感はますます増していった。
こんな姿になった炭治郎を抱きかかえ、愛おしくなでてやれる者など、俺のほかには誰ひとりいないだろう。俺だからだ。心の底から炭治郎に恋いこがれ、炭治郎のすべてを愛する俺だからこその献身なのだ。
どんな姿になろうとも、深い恋慕を変わらずささげる俺だけが、こうして今も炭治郎と寄り添いあえるのだと、義勇は充足感のなかで、たとえようもなく幸せそうに笑う。
腐りだした炭治郎の大切な肉体にわくウジを、つまみとるのは腹立たしいばかりだったが、青黒く染まった肌を優しく慰撫するのは楽しかった。
触れる手が垢じみて汚れていても、炭治郎は文句など言わない。炭治郎の腐り落ちた血肉で汚れていく手は、義勇にとっては炭治郎からの恋情の証のように思えた。
夏場ゆえとはいえ、腐敗が思うより早かったのは残念としか言いようがない。抱きしめようにも、白骨化が進んだ炭治郎はくずれてしまって、触れるのすらおそるおそるだった。
とくに眼球が腐敗しとけ落ちたのは、義勇にとっては悔しくすらあった。
イキイキと輝く炭治郎の瞳は、義勇のお気に入りのひとつだ。戦いのさなかに片方は失われたとはいえ、宝石のようなきらめきにはなにも変わりはない。ひとつきり残ったその目玉は、命が消える寸前まで義勇を映していた。
炭治郎の義勇への想いを、言葉にはせずとも伝えてくれる、とびきり綺麗な赫灼の瞳。いっそ腐り落ちる前に、くり抜き食べてしまえばよかった。
終焉の場所を探して歩きまわるあいだも、不意に義勇は思っては、ため息をついたものだ。
きっと炭治郎の瞳は、透きとおる上等の飴玉のように甘かったことだろう。とろりと舌の上でとろけて、いつまでも舐めしゃぶっていたくなったに違いない。至極残念なことである。
残念と言えば、性器もまた腐るのは早かった。
柔らかな部位だ。骨すらない箇所なのだからしかたのないことではあるが、腐り落ちるのは思いのほか早く、義勇を心底落胆させた。
旅に出てすぐに、汚物にまみれ悪臭を放っていた炭治郎がかわいそうで、夜中に川で清めてやったことがある。
柱稽古の最中には、水浴びしたり汗をぬぐう炭治郎の素肌を見ても、不埒な想像など露と浮かばなかった。だというのに、初めて己の手で着衣を脱がせて目にした裸体は、義勇をひどく動揺させた。
死した生き物の常で排出された汚物は、そう多くはなかった。ずっと食が進まずにいたのだろう。胃の腑に残る消化しきれぬままの内容物も、少ないに違いない。
炭治郎の不調の長きに思いいたり、泣きそうにはなったが、汚いと嫌悪する気持ちは欠片もわかない。
それどころか、炭治郎がたしかに生きていた証なのだとすら義勇は思った。感動すらしていた。
生きていれば食わねばならない。食えば排泄するのは道理である。炭治郎は愛玩のための人形などではないのだから、汚物が出るのも当然のことだ。
だから義勇は、なんのためらいもなく、汚れた炭治郎に触れ、優しく洗い清めた。
くたりと垂れた性器にも、初めて触れた。それはやわやわとして義勇の手によくなじみ、思わず詠嘆のため息がこぼれる。
反応を返すことはない、炭治郎の性器。一度も他人の手が触れたことなどないであろうそれに触れながら、義勇はわき上がる愛おしさを抑えるのに苦労した。
ゆるんで排泄物で汚れたそこにも、義勇は触れた。やせて肉のそげた尻は、義勇の手のひらにすっぽりとおさまるほどに小ぶりで、なんだか胸がつまる。
せせらぎで洗い流した小さなすぼまりに、指を差し入れていいものかと、激しく葛藤したりもした。
肉体のなかに残る異物は、できるかぎり取りのぞいたほうがいい。腐敗速度が遅くなる。わかっているけれど、胃の腑の内容物を取りのぞくために炭治郎の腹を裂くなど、言語道断だ。そんなことをするぐらいなら己の首を掻き切るほうがマシだった。
ならばせめて腸に残るものをすっかりかきだそうと思いはするのだが、どうにも邪心がぬぐえず、ゆるんだそこをなで洗うばかりとなった。
いっそ抱いてしまいたい。
そんな衝動は幾度となく義勇をおそった。
このつつましやかなすぼまりに包まれて果てたい。願い、ふくらむ欲望を持て余しても、炭治郎の答えを得られぬままに抱くことなど、義勇にはできなかった。
合意のない行為など、ただの暴力でしかない。たとえ死して肉体だけになったとしても、炭治郎に無体を働くことなぞ、義勇にできようはずもない。
だから義勇は懸命に自制し、それ以上炭治郎の素肌に触れぬよう自分を戒めた。
洗った桶へと戻された炭治郎は、やはりなにも語ることなく、閉じたまぶたの下の瞳も、義勇を映し出すことはなかった。
そうして、日に日に腐り、今ではもう、とけた腐肉にまみれる骨だけの姿となっている。
物言わぬ炭治郎との道行きは、死期が近づきつつある義勇にとっては、それなりに厳しいものであった。
異様な出で立ちと腐臭のせいで、官憲に追われたのも数えきれない。そのつど逃げるのは体力を削るばかりであったし、万が一道半ばで義勇が倒れでもしたら、炭治郎と引き離されるのは確実である。
そのため義勇は、おおむね人の通わぬ山道などをえらんで歩いた。
しかし、ときには街道に出ねばならないこともある。
そんなときには、手や顔だけはどうにか洗わねばならない。
浮浪者のごとき姿はまだしも、血肉の汚れは人に恐怖心を与えるものだ。商店で食べ物を買うことすらままならなくなる。
飲み食いする欲求はほとんど感じることがなかったが、食わねば体が動かない。だからしかたなしに、せめてもと義勇は手を洗った。
炭治郎を抱きしめたあとで手を洗うのは、まるで炭治郎を穢れだとでも言っているかのようで、どうにもつらかったがしかたがない。
だが、そんな旅ももうおしまいだ。
並ぶ遺骨をしみじみと見下ろして、義勇は微笑みながら、炭治郎の頭蓋骨をふたたび抱きかかえた。
胸にすっぽりとおさまる炭治郎の頭が、狂おしいほどに愛おしい。
「これぐらいは許してくれ」
ささやいて、炭治郎のきちんと並んだ歯にそっと口づける。吸う舌がないのは残念だが、こんなささいな触れあいだけでも、義勇は満たされていた。
朝がまたおとずれた。
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。炭治郎の頭をかかえたまま目を覚ました義勇は、あわてて飛び起き、炭治郎の骨を数えた。
なんてうかつなことをしてしまったのか。獣に大切な炭治郎の骨を持ち去られてはかなわない。ひとかけらたりと炭治郎を失うのはごめんだ。
丹念に数えた骨は、とうになくした左腕以外は無事そろっていて、義勇はホッと胸をなでおろした。
ふたたび地面に横になり、炭治郎の頭蓋をとくとながめて義勇は微笑んだ。
「春になったらきっと満開の花が咲く。これだけの大樹だ、見事だろうな。なぁ、炭治郎?」
炭治郎との思い出の多くは、血と涙と悲鳴に彩られている。
鬼殺隊に入って以来、鬼を狩って、狩って、狩りつづけるばかりの日々は、炭治郎と出逢ってのちも変わりはなかった。
しかしながら、その目に映る世界は、炭治郎が義勇の傍らに駆け寄ってくるようになって、劇的なまでに色合いを変えた。
それまでの義勇の目に映る世界をたとえるならば、活動写真のごときものだった。色はちゃんとわかるのだが、思い返そうとしても活動写真のフィルムのように、白黒でしか思い出せない。目の前の世界はスクリーンに映し出された映像のように、義勇だけが違う場所で見ているような気さえした。
晴れ渡った空の下ですら薄暗く、どこか灰色がかって見える。自分だけがみなが笑いさざめく世界の外で、それを見ている。喪失感と自責の底にいた義勇にとって、目に映るのはそんなものでしかなかった。
いつでも灰色の紗がかかったように、おぼろに見えていた風景。そんな義勇の世界に、いつしか鮮やかな色と光があふれた。
木々の緑や花の色が、義勇の目を慰撫するようになったのは、言うまでもなく炭治郎の笑みとともにあったからだ。
耳に入る音もそうだ。それまでは、鳥のさえずりも、川のせせらぎや風にゆれる梢の葉擦れも、状況判断の材料以外の意図を持つことはなかった。
炭治郎が笑いながら教えてくれたから、義勇も様々な音を慈しめるようになったのだ。
義勇さん、キビタキが鳴いてますよ。いい声ですね。あぁ、ほら、あそこにいた! かわいいなぁ。
竹林の葉擦れって、海の音に似ているって本当ですか? ほら、このザザザァって音。へぇ、潮騒っていうんですか。義勇さんは博識ですね! 俺は海を見たことがないんです。義勇さんと見られたらいいなぁ。一緒に潮騒を聞いてみたいです。
そうやって、ささいな音のひとつひとつを炭治郎がさも楽しげに話すから、義勇もそれらを感慨深く聞くようになったのだ。
ピーリピッピリリと鳴く小鳥のさえずりに、道ばたに咲くありふれた花に、季節の移り変わりを感じる。そんな当たり前の生活を、闘いの日々のなかでさえ、炭治郎は思い出させてくれた。
炭治郎は、それをちゃんと知っていてくれただろうか。
山奥の桜の大樹は、葉の半ばを紅葉させている。風が冷たい。人の来ない山奥に、秋は里よりも早くおとずれていた。
この木が真っ赤に色づくさまは、きっと見事なことだろう。
冬になれば真白い雪がすべてをおおいつくして、辺りを純白に染める。春には枝いっぱいに満開の花を咲かせ、蜜を求める鳥や虫がやってくるに違いない。
夏には濃い緑に包まれて、生を謳歌する生き物の音で満ちみちる。もしかしたら木陰に涼を求めて獣たちもくるかもしれない。
すべてふたりで見るのだ。炭治郎とともに、季節の移ろいを肉体を失った身で、ながめつづける。
幸せだと、義勇は静かに微笑んだ。
もう歩きまわり終の居場所を探す必要はない。
ならば、砂を噛むような思いをしてまで、飲み食いせずともよい。肉体が命を失い果てるまで、ここで炭治郎とともにあるだけでよいのだ。
わんわんと飛びまわるハエだけがうっとうしいが、いずれ義勇の体も朽ち果てれば、一匹残らず飛び去るだろう。
そうすれば炭治郎とふたり、美しい光景だけを見つめて、安らかな永いときを過ごせる。
それだけを望んで、義勇は、炭治郎の頭蓋骨に頬ずりするように顔を寄せた。
「炭治郎……もうすぐだ。もうすぐ俺も逝く」
たとえようもなくうれしげにささやいて、義勇は満ち足りた心持で炭治郎に口づけた。
炭治郎が以前語った通りの、理想の場所を見つけられたのは、僥倖としか言いようがない。その点でも義勇はたいそう満足していた。
もしも鬼舞辻をたおしたあとまで生き延びることができたなら、死に場所は桜の木の下がいい。
そう炭治郎が笑ったのはいつだっただろうか。桜の季節にはまだ早いころだったように思う。
柱稽古のあとで、今日は外食ですませようかと、ふたりで川沿いの道を歩いていたときだったのはおぼえている。
あぁ、そうだ。あの日は月が綺麗だった。義勇は思い出した光景に、ゆるりと笑んだ。
義勇の稽古を受けるのは炭治郎だけで、その日もふたりきり、炭治郎がへとへとになるまで稽古をつけてやったのだった。
日は沈み、宵闇に月が清かに輝いていた。
飲食店のある往来へは、土手を行くのが最も早い。月明りをあびて流れる川の音を聞きながら、そぞろ歩く土手には染井吉野がずらりと植わっていた。
春になったらさぞや見事なことだろうと、まだつぼみもつけぬ桜の枝を見上げ、炭治郎は笑った。
こんな月夜に咲く桜は、きっと綺麗でしょうね。義勇さんと見られたらいいなぁと、とびきりの笑みで幸せそうに。
面映ゆさをごまかすように、義勇も天をあおぎ桜の枝越しの月を見た。
朧月夜に、まだ花の咲かぬ桜の枝を見上げて、ふたり歩く。
提灯など持ち歩くのも、どこか無粋な気がする夜だった。
そうだ。たしかそのときだ。
死に場所ならば桜の木の下がいいと、炭治郎がひそやかに笑ったのは。
まだ若い炭治郎が死に場所を語るのは、なにも知らぬ者が聞けば、さも滑稽に思えただろう。けれど義勇は、その言葉の重みをよくよく知っていた。
「……西行法師だな」
「誰ですか?」
「平安末期から鎌倉時代にかけての歌人で、僧侶だ。西行が詠んだ歌に、桜の木の下で死にたいというのがある」
「へぇ! やっぱり義勇さんは物知りですね! 俺は尋常小学校もちゃんと通いきれなかったから、そういったことはさっぱりで……どんな歌なんですか?」
笑いながら請われ、義勇は、炭治郎を見つめてそっと口を開いた。
願わくば 花の下にて春死なん
その如月の 望月のころ
「西行は実際に如月に亡くなったという。満月だったかは知らん。自死ではないらしいが」
「そうなんですか……その人がちょっとうらやましいです。死に場所や、ましていつ死ぬかなんて、望みどおりになるとは思えないから」
抱きしめたい。ひっそりとした笑みに、そう思った。
せめて、睦まじく手をつなぎたい。そう願った。
胸をつらぬいた衝動的な恋しさは、炭治郎に触れることを切望したが、義勇は我を抑えこんだ。
抱きしめ唇をうばうことも、義勇ならばたやすい。炭治郎もきっと拒みはしないだろう。
けれども刹那の衝動で、炭治郎の未来までうばうことなど、できるはずもなかった。
炭治郎の胸によぎったものも、おそらくは義勇と変わらないだろう。そして炭治郎もまた、己の欲をさらけ出すことはなかった。
互いに望むのは、相手の幸せだけだ。
恋は生涯ただ一度。実らせることなく胸の奥に眠らせて、ただひたすらに幸せであれと願う愛だけを、そっとささげあう。
だから義勇は――義勇と炭治郎は、それきりもう、その話はしなかった。愛しさのかぎりに抱きしめあうことも、仲睦まじく手をつなぐこともなかった。
ただの一度も。
ずっと心の片隅には、そのときの会話が残っていたのだろう。義勇が互いの人生の終焉として探し求めたのは、桜の木だった。
炭治郎の骨を抱きしめ見上げた大樹は、きっと炭治郎の望みにかなうだろう。
死んだそのとき、その場所は、桜の木の下とはいかなかったが、炭治郎は許してくれるだろうと思った。
これほどまでに見事な桜の木ならば、ここでずっと一緒に眠れるのなら、炭治郎はあのときのように幸せそうに、密やかな笑みを見せてくれるはずだ。
義勇はそう信じた。
義勇がこの木をおとずれてから、三日目の晩のことだった。
渇きをいやすことすらせず、獣を追い払う以外にはその場を動きもせずに炭治郎の骨だけを見つめていた義勇は、ようやっと自分の命にも終わりがきたことを悟った。
もう手足に力が入らない。目もかすんできた。あぁ、死ぬのだなと喜びすら感じて、義勇はひとつまばたきし、首に下げたふたつの守り袋に震える手で触れた。
そして。
唐突にそれはおそってきた。
違う。
違う、違うっ、違う!!
これは炭治郎じゃない――炭治郎の骨でしかない!!
突如として立ちあらわれた認識は、死にかけた義勇を恐慌状態へとおとしいれた。
炭治郎をかわいいと思っていた。愛らしいと見ほれることもあった。けれどもそれは、肉体や容貌が主ではない。
義勇が思慕し、どうか幸せにと切願したのは、炭治郎の存在そのものだ。炭治郎の心であり、命であり、魂の有りようそのものだった。
だが、それはもはやここにはない。炭治郎はもう、ここにはいない。それを義勇は突然理解した。
命が果てる間際になって、義勇は己の行動のあやまちに気がついてしまった。
自分はいったいなにをした? 炭治郎の亡骸を、あれだけ慈しみあっていた大切な妹からうばい、弔いさえさせてやらなかった。
そうして炭治郎をいたずらに腐らせ、人々の嫌悪の視線を浴びせかけた。炭治郎の明るさや 誠実さは、温かな好意を持たれるべきものだ。あんなあからさまな嫌忌を一心に受けるなど、けっしてあってはならなかったというのに。
炭治郎の心は、魂は、もうとうにここにはない。義勇をおいて逝ってしまった。義勇の手の届かない場所へ。
認めたくなかったのだ。耐えられなかったのだ。また自分は守れなかったのだと、突きつけられるのが怖かった。
生きて幸せだと笑ってくれていると思えば、二目と逢わぬことすら心から喜べた。けれど、炭治郎がもうどこにもいないなど、到底耐えられるものではない。
ここにいると思いたかった。欺瞞だ。己の未熟さが、弱さが、炭治郎の尊厳をはずかしめた。
泣きたかった。泣きわめき、狂ってしまいたかった。けれども死に直面した義勇の意識は、絶望のなかでも悲しいほどに明瞭で、罪を義勇へと突きつける。
義勇の罪は、炭治郎への愚行だけにとどまらない。
禰豆子は兄の亡骸をうばわれ、どれだけ悲しんだことだろう。それでもあの心優しい娘は、義勇を許したのだ。
でなければ弱った自分がここまでこられるわけがない。産屋敷家を頼れば、官憲なぞより優秀な追手はいくらでもいるのだから。
あぁ、農家の女房にも、気のいい老爺にも、なにも告げずに来てしまった。きっと気をもみ義勇をたいそう案じてくれているだろうに。自分なぞを慕ってくれた子どもたちは、どうしているだろう。財産などろくにないが、子どもらには筆やら将棋盤やらを、形見としてもらってもらう心づもりでいたというのに、これではなにも残してやれない。
不愛想で口下手な自分に、優しく接してくれた善良な人々を、どれだけ心配させ、悲しませたのか。
鬼殺隊の者たちだって、みな心配してくれていた。義勇と炭治郎の行く末を、心から案じてくれていた。
祝福ならば、彼らだけで十分だっただろう? たとえ短い月日だろうと、炭治郎とともに生きると告げれば、誰もみなおめでとうと笑ってくれると、わかっていたはずだ。
離れたことは間違いだった。気がついたというのに、また義勇は間違えた。
慈しみ寄り添ってやれなかった時間を悔やむあまりに、今からでも間にあうと、己を騙しただけではないか。
義勇の胸にあふれんばかりの後悔が降り積もる。
なぜこんなにも、自分は愚かで未熟なのだろう。どうしてこれほどまでに間違いを繰り返す。
悔やんでももう遅い。ときは戻ってはくれない。いたずらに齢を重ねるだけの三年間だったとは思いたくはないが、終わりがこれでは言い訳ひとつできやしなかった。
すまないと、わびることすらもうかなわない。乾ききり力を失った喉は、声を発することすらできなかった。
自分は間違えてばかりだ。命を賭して守りたかった者すら、守るどころかはずかしめてしまうような愚か者だ。優しい人たちに心配ばかりかけて、なにも返せなかった大馬鹿者だ。
けれど、それでも。
炭治郎、お前が許してくれるのならば、次こそは。
もしも生まれ変わることができたなら、必ずおまえを探しだし、今度こそともにありたい。残された力で義勇はふたつの守り袋を強くにぎりしめた。
きっとこれから自分は罪のつぐないをするのだろう。耐えがたい苦痛を味わうことにもなるのだろう。
それでもいつか。いつか必ずおまえの手をとろう。そうして二度と間違えず、おまえのそばで、いつまでもおまえと笑いあうのだ。
今度は桜の木の下で死を願うのではなく、手をつないで桜を見上げて明日の話をしよう。
並んで夜空をあおぎ、北の一つ星を探そう。ふたりそろってきらめく星を指差して、あの日のようにふたりで笑おう。
繰り返し、繰り返し、何度でも。何年でも。ずっと。
二度と離れることなく、毎年ふたりで桜を見るのだ。毎日、同じ星を並んで見るのだ。
いつか再び出逢ったのなら、きっと。
いや、必ずや出逢い、その手を取ってみせると、義勇は強く誓う。
だから。だから炭治郎、どうか。どうか今度こそ、ずっとともに。二度と離れぬように。
今度こそ、あの変わらぬ星のように、ずっと……。
ただそれだけを願い、はらはらと涙をこぼす義勇の群青色の瞳が、光を失っていく。
ひゅっとひとつ大きく息を吸い込み、やせ細った身体がガクガクと痙攣しこわばった。
そうして震えがやんだとき、義勇の命は消え失せ、互いの想いの証をにぎったままこと切れた、物言わぬ死体だけが、そこにはあった。