別れの前日にも、炭治郎はやってきた。
本当ならば宇髄の提案で、盛大な別れの宴が開かれるはずだった夜のことである。
上げ膳据え膳で炭治郎と禰豆子をもてなし、若い兄妹の行く末を祝そうという宴は、けれども当のふたりの断固とした辞退により、果たされることはなかった。昼間にふらりとやってきた宇髄から、義勇は残念だとの愚痴を散々聞かされたものである。
義勇にしてみれば、さもありなんと苦笑するよりほかない。
あの子らはそういう子だ。自分たちばかりが心づくしを受けて送りだされるなど、納得するわけもない。どうあっても祝い礼を述べたいのなら、ふたりに対してではなくすべての隊士を対象にしなければ、あの子たちが了承するわけがなかろう。
だから宴会が流れたことは義勇も納得していたのだが、まさか今夜やってくるとは、さすがに思いもよらなかった。
驚く義勇に、してやったりと言いたげないたずらっぽい笑みを見せ、炭治郎は、最後ですからと翳りのない声で言った。
その日は繊月であった。
夜空には、針のように細い月が青白く輝き、星があまたきらめいていた。
もう九時ごろにはなっていただろうか。そんな夜更けに炭治郎がやってきたことは、今まで一度もない。
早朝にいきなりやってきて、おとないをあげるなり返事を待たずに上がりこんでくることはたびたびあったが、夜半の訪問は初めてだ。
夜更けであれば、義勇としても泊っていけと言わざるを得なくなる。だからだろうか。炭治郎はいつも遅くなる前には帰っていった。
義勇と炭治郎が夜をともに過ごしたのは、蝶屋敷の隣りあった寝台の上でだけだ。
夕餉をともにすることは多々あったけれど、外食ならば店先で別れるし、水屋敷で炭治郎が料理したなら、後始末は義勇がうけおった。
もう遅いから泊っていけ。そんな文言を義勇が口にせずともいいように、ふたりは注意を払っていたものである。
それなのに炭治郎は、こんな夜更けにやってきた。
あぁ、本当にこれでお別れなのか。もう、最後なのだな。
改めて別れを感じ、義勇の胸に言い知れぬ寂寥が満ちた。
だからといって、特別なにかをするわけでもない。想いを告げることもない。
いつもと同じように縁側に並んで腰かけ、他愛ない会話に興じる。ただそれだけのこと。
こんな夜には酒がつきものだと思いはするが、まだ十五の炭治郎では、酒をふるまうわけにもいかない。ましてや酔ってしまっては、うかつなことを口走らぬともかぎらない。並んで月を見上げるふたりの手にあったのは、番茶の入った湯飲みである。
なんとも風情のないことだが、自分らにはこれぐらいが似合いだろうと、義勇はわずかに口角をあげた。
かすかな微笑の気配を察してか、くふふと笑った炭治郎は、よかったと口にした。
小首をかしげることで問えば、炭治郎の笑みが深まる。
「義勇さんの機嫌がよさそうで、よかった。最後に見る顔が悲しそうだったり、怒ってたりしたら、俺、心配で帰れなくなっちゃいますから」
できれば笑顔だとなおいいですと、明るく言う。
義勇は得心しうなずいた。たしかに自分も、別れに見る炭治郎の顔は笑みがいい。悲しい泣き顔や怒りをたたえた顔では、心配で手放してやれなくなりそうだ。
稽古中や戦いのさなかの真剣な面持ちも、ぽろぽろと大粒の涙を落とす泣き顔も、義勇は知っている。それでもまっさきに思い浮かぶ炭治郎の顔は、いつだって明るく朗らかな温かい笑みだ。
「そうか」
答えたとたんに炭治郎の顔が、淡い月明りですらわかるほど、真っ赤に染まった。
「ズ、ズルいです! そんな顔するなんて……」
「どんな顔だ?」
さっぱりわからず、義勇は思わず眉を寄せた。
炭治郎は首筋まで赤く染まった顔をうつむけている。そうして、そんな優しく微笑んだ顔なんてめったに見せてくれなかったのにと、消え入りそうな声でつぶやいた。
そうだったろうか。自分がどんな顔をしていたのかなど義勇にはわからない。
「……困る」
「えっ⁉ すいません、あの、困らせるつもりはなかったんですけど」
「ち、違う。その、どんな顔をすればいいのか……おまえが望む顔を見せてやりたいが、自分がどんな顔をしていたのか、俺にはわからん。だからその、困る、と……」
笑顔が曇ったのが嫌で、思わずつめ寄ってしまったが、義勇の声は尻すぼみに小さくなった。我ながらなにを言っているのだかと、なんだか情けなくすらなった。
義勇の落ち込みになど気づく様子もなく、炭治郎はきょとんとして、すぐに小さく忍び笑った。
「本当にズルいなぁ、義勇さんは。そんなかわいいこと言われたら、俺、図々しくなっちゃうじゃないですか」
微笑む炭治郎の顔は、常日頃の快活さとは異なり、婀娜めいたと言っていいほどに密やかで、得も言われぬ艶を浮かべていた。
ズルいと言うなら、おまえこそだろう。
なぜ今そんな笑みを浮かべてみせるのかと、義勇はくらりと酩酊したような心持で、湯飲みの茶をあおった。
心の底の底から――それこそ、魂の奥底からと言っていいほどにおまえに惚れている男に、うかうかと見せる顔ではないぞと、舌打ちすらしそうになる。
幸せだけを祈っていることに変わりはないが、欲をおぼえぬわけではないのだ。
義勇とてれっきとした成人男性だ。ときに触れたいと思い、その身をすべて暴きたいと、凶悪なまでの欲求が身のうちを暴れまわることだってある。
最後だからと言い訳して、ただ一度の交合にふけってしまうのはたやすい。けれど、男と目合うなどという経験が、炭治郎の将来に落とす影を思えば、不埒な衝動などおさえ込むよりほかに、義勇に選択肢はなかった。
「……月、綺麗ですね。義勇さんは月みたいだって、禰豆子が言ってました」
「月? 俺がか?」
見慣れぬ大人びた笑みが消え、いつもの温かい笑顔になると、炭治郎はこくりとうなずいた。
「はい。絶望っていう暗闇を照らしてくれたお月様みたいだって。でも俺は、なんとなく違う気がしたんです」
「おまえは……日輪だな。お日様だ」
ならば、対となるのはやはり月だと、義勇は思った。
炭治郎にとって自分は、月にはなり得ないのだと。
「そうですか? そうかぁ……義勇さんをぽかぽか温めてあげられるなら、お日様なのはうれしいな」
弾んだ声で炭治郎は言う。ニコニコと笑う顔を見ていられずに、義勇はわずかに目を伏せると、空になった湯飲みを手持ちぶさたに握りしめた。
そんな義勇の様子に気づかないのか、炭治郎はどこか陶然とした声でつづけた。
「俺にとって義勇さんは、星です。ほら、あれ。北極様!」
「北極星……?」
「はい! 小さいころに父さんに教わりました。もしも道に迷って困ったら、北極様を探すようにって。
あの星は、いつでも同じ場所でおまえを導いてくれるって、父さんが言ってました。だから俺にとって義勇さんはあの星です。俺を導いてくれる、ただひとつの星です」
その瞬間に、胸に込み上げた深く大きな感情を、なんと名付ければいいのか、義勇にはわからなかった。
悔恨でもあり、わずかないらだちでもある。けれども途方もなく優しい思いでもあったし、どうしようもなく悲しいと思いもした。
なにものにも代えがたい喜びや、どん欲なまでの渇望も、すべてがないまぜになって、義勇の胸に渦巻く。
無粋を承知で名付けるならば、それこそが、ちまたで言われる恋だの愛だのと呼ぶものだったのだろう。
こぼれ落ちそうな涙をこらえ、義勇はようよう笑ってみせた。
「北極星は、妙見とも北辰とも呼ばれている。どちらも菩薩だ」
「へぇ、菩薩様かぁ。たしかに義勇さんは菩薩様みたいに優しくて綺麗だけど、菩薩様だとなんとなく女の人みたいですよねぇ」
うーんとうなり首をひねった炭治郎に、かすかに苦笑した義勇は、妙見は軍神でもあると言いながら、また天を見上げた。
「軍神! 義勇さんはとても強いから、そっちのほうがピッタリですね! 妙見菩薩ってどういう菩薩様なんですか?」
教えてくださいと、きらきらと瞳を輝かせる炭治郎は、義勇には答えられないことなどないとでも思っているのかもしれない。とんだ買いかぶりである。
少々とまどいつつ、義勇は請われるままに北極星を指差し言った。
「北極星──北辰は古代中国では天帝と同一視されていた。そこに仏教思想が加わって、妙見菩薩と言われるようになったという。毘沙門天などと同じく天部の軍神だ。
妙見とは、優れた視力を示す言葉だ。善悪や真理を見通す者という意味になる。俺には似合わんだろう」
北の大星、北の明神。子の星、北辰、目当て星。
北極星の呼び名は数あれど、変わることなく真北にありつづけ、人を導く星であることに違いはない。妙見の異名にはふさわしかろうが、自分がそれに見合うとは義勇には思えなかった。
「似合いますよ。やっぱり義勇さんは、俺にとってはあの星だって改めて思いました。
……これから先も、北極様はあそこにあって、俺を導いてくれる。迷ったら、いつでも道を教えてくれる。
俺、夜空を見上げたら、いつだってあの星を探します。義勇さんを思い出します」
微笑む顔がずいぶんと大人びて見えて、義勇は少しまぶしげに目を細めた。
「義勇さんも、思い出してくださいね。たまにでいいですから、俺のこと……思い出してください」
「あぁ……」
諾と答えつつ、義勇の胸中にあったのは、馬鹿だなという一言だ。
思い出すには、忘れていなければならないだろうに。
炭治郎を忘れて過ごすことなどありはしないのに、思い出せとは酷なことを言う。
けれどもそんな言葉はけっして口にはできない。黙りこんだ義勇の隣で、炭治郎も口をつぐむ。
しばらく無言でふたり、夜空を見上げていた。
月は細く、青白く輝き、星は優しくまたたいている。ひときわきらめく北極星が、凛とした光を放っていた。
優しく穏やかな夜だった。
思い出すたび幸せだったと、心満たすであろう夜だった。
「触れられる思い出をもらってもいいですか? 義勇さんの髪を少しだけ……俺にくれませんか?」
不意に炭治郎が口にした、ためらいがちな一言に、義勇は一瞬とまどい、けれども静かにうなずいた。
「わがまま言ってごめんなさい」
「かまわない。俺にもおまえの髪をくれるか?」
こんな些細なことですら、わがままととらえる炭治郎が、義勇には無性に悲しく、抑えがたいほど愛おしく思えた。
たかが髪の一房で、幸せそうに笑ってくれるなら、いくらだって差しだそう。おまえが望むなら、この手も足も、供物のようにささげたってかまわない。けれど炭治郎はそんなものを喜びはしないから、義勇は黙って立ちあがった。
床の間にあった日輪刀を手にとり、鞘から抜き放つ。折れたままの日輪刀は、屋敷を引き払う日に鱗滝へと送るつもりであった。
おそらくは、寿命が先につきるのは自分だろう。あまたの鬼を斬ってきた刀の最後の仕事が、まさか髪切りだとは思わなかったが、それを知ったら鱗滝はきっと喜んでくれる気がした。
互いに切った髪を懐紙に包み、炭治郎は、いかにも大事そうにふところへとしまった。
「大事にします……ずっと、大切にします」
「あぁ……俺も、大切にする」
ほのかに微笑みあい、見つめあったのはほんの数瞬。あとはもう、兄弟弟子の顔をして、他愛ない言葉を交わすばかり。強く抱きしめあうことも、優しく手をつなぐこともない。
ましてや、恋しいとか愛しいなんて睦言など、一語もなく、けれどたしかに逢瀬と呼べるただ一度の夜は、ゆるりと更けていった。
別れから三年。
野に戻らず義勇との暮らしを望んだ寛三郎との暮らしは、一年で終わりを迎えた。以来、義勇の守り袋には鴉の小さな体羽も入れられている。
炭治郎はきっと怒りはしないだろう。寛三郎もおそらくは、炭治郎の思い出とともにあることを安心してくれるだろうと思った。
同居相手が亡くなって以降、義勇は、無言で過ごすことも少なくはない日々を、二年つづけた。
それなりに知己も増えたが、義勇の口下手や不愛想は、以前とさして変わりがない。ゆっくりと、けれど確実に衰えていく体力も、しだいに義勇が家にこもる理由になった。
義勇が炭治郎を見送ってからの三年間。それは義勇にとって、炭治郎の笑顔を思い浮かべぬ日など一日たりとない月日であった。
炭治郎が望んだように時折思い出すなど、到底不可能な毎日である。いつでも忘れようなく炭治郎が胸に棲まっている、そんな日々だった。
穏やかに過ぎていく月日のなかで、満二十四歳を迎えた義勇は、いよいよ差し迫った命の刻限を感じていた。
しんと降る雪の夜は、弱っていく身にはことさらこたえた。ホッと一息つく春を越え、夏ともなれば暑気がまたこたえる。
けれどもまだ、終わりにはいくらか間があることも、義勇は感じとっていた。
十中八九、いや、確実に自分は独り身のまま生を終えるだろう。それを義勇は確信している。
炭治郎の望みは義勇が妻を娶り、義勇の血をつなぐ子をなすことだと理解しているが、どうにもかなえてやれそうにない。なにせ義勇の心にはたったひとりがどっしりと腰をすえているのだ。そんな男に惚れるおなごがどこにいる。
まして、幼いうちに父を亡くすことを余儀なくされる子どもなど、論外である。
それでなくとも、鬼狩りしかしてこなかった義勇に、できる仕事などそうそうなく、己の死後に妻子が先の憂慮なく暮らせるだけの蓄えも、持ちあわせてはいない。
天涯孤独の身の上でもあるし、働き先もなければ隻腕ともなった甲斐性なしのもとへ、嫁にこようなどというもの好きがいるとは思えなかった。
だから義勇はひとり得心し、炭治郎には諦めてもらうしかないなと、開き直っている。
とはいえ、義勇はまだ若い。れっきとした成人男性であるからには、人肌が恋しい夜もままある。だが義勇は、他者にそれを求めることなく、ひとり夜を過ごした。
情を交わす気もないのに共寝の相手を探す気になどなれず、そんな夜には思い浮かぶ炭治郎の顔を無理やり頭から追いやり、無心に自ら刺激を与えて果てるのが常だ。
炭治郎が妻を得て、平凡で安穏とした暮らしを送ることを望んでおきながら、下世話な欲の対象にするなど、義勇にしてみれば炭治郎に対する手ひどい裏切りでしかない。
筆まめだった炭治郎からの便りは、一度もなかった。当然だ。義勇は自分の住居を教えていない。炭治郎だけでなく、義勇は鱗滝にすら終の棲家を教えてはいなかった。
寛三郎が生きていたころは、手紙を届けるぞとときどき思い出したように騒いだが、結局、義勇が文をしたためることは一度もなかった。
――義勇や、あの坊主に手紙を届けるぞ――
寛三郎が今わの際に発したその一言に、年老いた相棒はずっと自分を心配していたのだと悟り、忸怩とする。だがもはや遅い。
長くともに生きてくれた老鴉への、感謝と後悔は数えきれないほど胸にある。それでも義勇は、炭治郎の幸せな暮らしを想像するだけでいいのだ。
悲鳴嶼の言によれば、痣が発現した者のなかには、二十五を越えても生きていた者がいるらしい。確約できぬ希望ではあるが、もしも命の刻限を超えるとしたら、それはきっと炭治郎に違いないと、義勇のみならず誰もが考えていたようだ。
よしんばみなと同じように二十五に満たぬ命であれど、炭治郎はまだ若い。この夏に十九になったばかりだ。六年の猶予は長い。
炭治郎が気立てのよい娘と出逢い、穏やかな愛情を育み結ばれることを義勇は願う。そして、炭治郎の血を引く元気な子をなす様を、たびたび想像した。
想像のなかの娘の顔は、いつでも不思議と禰豆子に似てしまって、そのたび思わず苦笑する。炭治郎の傍らで微笑む娘として、もっとも似合いだと思うのは、義勇にとってはどうしても禰豆子だ。
人に戻った禰豆子はきっと引く手あまたであろうし、もしかしたらもう嫁にいっているかもしれない。だがあの娘は、けっして炭治郎をないがしろになどしないだろう。義勇の望む最上の形でなくとも、炭治郎は義勇といるよりもずっと幸せに暮らしているはずである。
義勇はそれを疑ったことはなかった。
そのまま一人静かに人生の終焉を迎える予定だった義勇が、雲取山へと息せき切って駆けることになったのは、盆の送り火が焚かれる夜のことであった。
野方の生家や狭霧山ではないのだから、迎え火を焚いたところで、姉や錆兎がおとずれてくれるものかわからない。それに錆兎は、義勇に逢うなり懇々と説教しそうである。
説教もなつかしい語らいも、自分が三途の川をわたってからでもよかろうと、とくになにをするでもない盆を、毎年義勇は過ごしていた。
その日も、義勇はなじみの農家からの帰り道を、分けてもらった夕餉の菜を片手に歩いていた。
送り火の煙が、そこここから細く立ち昇り、宵闇へと消えていく。それをぼんやりと見つつ、義勇はまだ青い稲穂がゆれる田んぼの合間の道を、のんびりと歩く。
思い浮かぶのはやはり炭治郎のことだ。
炭治郎と禰豆子も、雲取山のあの家で、送り火を焚いているだろうか。家族の思い出を優しい顔で語らいながら、義勇と同じように昇る煙をながめているだろうか。
もしかしたら、もう炭治郎の隣にいるのは、禰豆子ではないかもしれない。愛らしい嫁が炭治郎の傍らで、ニコニコと微笑みかけている可能性もあった。
細く高く立ち昇る煙をながめ、虫の音を聞きながら笑いあう若夫婦。それはなんとも和やかで、幸せな光景だ。
仲睦まじい若夫婦の邪魔をするつもりはない。それでもいつか自分の命がつきたとき、自分の魂は炭治郎の焚く迎え火にひかれ、ふらふらと炭治郎のもとへとたずねていってしまいそうだ。
そんな埒もないことを考えて苦笑した義勇の左手から、突然、菜を入れた器が音をたてて落ちた。
「炭治郎……?」
己の唇がつづったその名前に、義勇の背筋が震える。
義勇さん……かすかに聞こえたのは、なつかしい声。
優しく、柔らかく、ありったけの愛がこもる呼び声。
まさか、まさかと、わきあがる不安を必死に打ち消す。
けれども不吉な胸騒ぎはどうにも消えようがなく、気がつけば義勇は走りだしていた。
それきり、義勇の姿を見た者は、農村にはいない。
落ちて割れた器と、鳥やら獣に食い散らかされた菜の残骸だけが、残っているばかりであった。
それをみつけたのは、農家のお人好しな女房である。
菜を分けた翌朝に、義勇は毎回律儀に器を返しに来る。だというのに、その日にかぎって昼になっても義勇がやってこないことをいぶかしみ、家をたずねようとした女房は、割れた器にたいそう気をもみ、しきりに心配した。
家はもぬけの殻。わずかな家財も衣類もそのままで、義勇の姿だけがどこにもない。
「冨岡さん、いったいどこに行っちまったんだろうねぇ」
心配げに夫に話した女房は、菜と引き換えに義勇がよこす幾らかの金が、今後手に入らないことを残念がる夫に、おおいにまなじりをつり上げ怒ったものだ。
そのときばかりは気のいい老爺も、仲裁するどころか女房と一緒になって、旦那に口角泡を飛ばし説教する始末だった。
農家の女房はその後も、冨岡さんはきっとなにかに魅入られて連れ去られちまったに違いないよと、時折語り、それは晩年まで変わらなかったという。
人の好い農家の女房や気のいい老爺が、そんなふうに自分を案じつづけることなど、神ならざる身である義勇にはわかりようもない。
義勇は身ひとつで、脇目もふらず雲取山へと駆けていた。
いてもたってもいられぬ危惧の念に胸を占められ、憑かれたように義勇はただ駆けた。
雲取山へは、衰えだした義勇の足でも真夜中までには着くだろう。
なにごともあるわけがない。虫の知らせなど気のせいに決まっている。
何度も繰り返し自分に言い聞かせても、恐れは義勇の心から消えず、足を止めることはできなかった。
月夜の山道を義勇はひた走る。昔駆け抜けた道を、今再び駆け登る義勇の足は、以前のようには動かない。呼吸はまだかろうじて使えるが、柱としての全盛期にはおよぶべくもなかった。
だが、それでも義勇は、月が空のてっぺんにあるうちに、山間にある炭治郎の生家へとたどり着いた。
戸口からもれる細い灯りは、炭治郎なり禰豆子なりが起きている証左だろう。こんな夜更けにと思えば、不穏な想像が頭をよぎる。
声をかけるのももどかしく、義勇はダンッと戸をたたいた。なかで人が動く気配がする。
「炭治郎……っ」
焦燥にかすれた声でようよう呼べば、きしんだ音をたてて戸が開いた。いかにも恐る恐るのぞいたのは、義勇が知るよりもいくらか大人びた禰豆子だった。
「冨岡さん……」
驚きをあらわに目を見開く禰豆子に、義勇は知らずつめ寄った。
「禰豆子、炭治郎は……息災か」
問うた声は震えていた。おそらく顔も青ざめていたであろうし、手足の震えも義勇のおびえを如実に禰豆子に伝えたに違いない。
なにを突然と笑ってくれ。あれ、義勇さんじゃないですかと、ビックリした顔をしながらも、炭治郎もお久しぶりですと笑って義勇を迎え入れてくれるはずだ。
どうか……どうか、そうあってくれ。
義勇の切願はけれどもかなわず、禰豆子はくしゃりと顔をゆがめ、大粒の涙をぽろりと落とした。
「きっと、お兄ちゃんが呼んだんですね……どうぞ、逢ってやってください」
どうにか笑みを浮かべているものの、かすかに震える唇から出た声はいかにも苦しげだ。
すっと身を引きうながす禰豆子に、義勇の心臓がひときわ高くドクリと鳴った。
おびえわななく足を叱咤し、義勇は土間に足を踏み入れた。
電灯も瓦斯ランプもない家で、ゆらゆらゆれる心許ない光源は、古びた行灯だけであった。
冷える山中の家だからだろうか、炭治郎は、夏だというのにかいまきをかけて眠っている。
よろめきつつ近づき、義勇はぎこちない仕草で布団の傍らに腰をおろした。
「炭治郎……?」
おずおずと声をかけても、炭治郎は目を覚まさない。ピクリとも動かぬまぶたに、在りし日の恐怖が義勇の胸によみがえる。
身を乗り出し、おぼつかない手を敷布団の端に乗せれば、ザクリと小さな音がした。
あぁ、綿布団は買えぬのかと、頭の片隅でちらりと思う。
藁をつめた粗末な布団は、まずしい農村部などではめずらしくもない。義勇も狭霧山にいたころには、冬場は鱗滝が藁をつめてくれた布団で錆兎とふたり、寒い寒いと寄り添い眠ったものだ。
蝶屋敷や藤の家での、快適な綿布団に慣れた身に、藁の布団は寝苦しくはなかったか? おまえは質素を苦にする質ではないから、そんなことは考えたこともないだろうか。
不安からのがれるように、場違いな疑問が思考を占める。
それでも、たしかめなければこの叫びだしたいほどの恐怖は、到底ぬぐえぬこともわかっている。
義勇はこわごわと、身をかがめた。
そっと炭治郎の顔に己の顔を近づけて、かすかな吐息を鼻先に感じた瞬間、瞳に浮かんだのは大粒の涙だ。
息がある。生きている。
安堵に胸がつまるが、それも禰豆子の声にすぐさまかき消えた。
「……春先から急に弱りはじめて……お盆に入る前に、一気に体調が悪くなりました。医者に診せたところで意味はないって笑って、今日も仕事をしてたんです。倒れたのは、送り火を焚こうと表に出ようとしたときでした。そのまま……目を覚まして、くれないの」
禰豆子の声は静かだけれど、あまりにも悲しいひびきをしていた。
「まだ……早い。俺より炭治郎はずっと若い。死ぬなら俺のほうが先だろうっ」
「私には……わかりません。なんでお兄ちゃんがこんなに早く逝こうとしているのかなんて……。
でも、でもね、冨岡さん。お兄ちゃんはきっと今、すごく喜んでると思うの。だって……だってお兄ちゃん、いっつも冨岡さんのこと、ばっかり、言ってたからっ。ぎ、義勇さんは、元気かなって、幸せかな、笑って、る、かなってっ。ずっと、冨岡さんの、こと、ばっかり……」
尻すぼみに消えた言葉に振り向き見えれば、禰豆子はうつむきしゃくり上げている。ぐっと唇を噛みしめ、泣きわめくのを懸命にこらえているようだ。
炭治郎と禰豆子は、感情表現豊かだ。開けっぴろげに笑い、眉をつり上げ怒り、頬ふくらませてすねる。大粒の涙をぽろぽろとこぼし泣く。泣かれるたび内心うろたえつつ、まるで蓮の葉の上でコロコロと転がる朝露のようだと、その涙に見惚れたことは多々あった。
けれど今、禰豆子は必死に泣くのをこらえている。
その姿が、長男だからと我を抑えてしまう炭治郎と重なって見えて、義勇はきゅっと眉根を寄せた。
「……泣いていい。泣け、禰豆子。我慢をするな。炭治郎はおまえが我慢することなど望まん」
ひっくと、大きくしゃくり上げる声がして、とうとう禰豆子はわっと泣きだした。
うずくまり禰豆子は泣く。頑是ない子どものように。嫌だ、やだよお兄ちゃん、こんなに早く逝かないで。私をひとりにしないで。駄々をこねる幼子のように、禰豆子は泣く。
「馬鹿だ、馬鹿だよお兄ちゃんは! どうしていつも我慢するのって、私、怒ったじゃない。なのにいっつも困った顔するばかりで、どうして自分のしたいこと、もっと素直に言ってくれないの! 逢いたかったくせに! 一緒にいたかったくせに!!」
大好きなくせにと、禰豆子は泣く。泣き怒り、そうしてまた、嫌だ、嫌だと、悲しく叫ぶ。
胸を刺し貫かれるような痛みをおぼえ、義勇は小さく息をのんだ。言葉は出なかった。なにを言えるというのか。わからなかった。わかっていると思っていたのに、わかっていなかった。
妻を娶り、家を、血を継ぐ子どもをもうける。それが当たり前の、そして最上の幸せだと、そうすれば炭治郎は誰よりも幸せになれるのだと、思っていた。
違うのか。間違っていたのだろうか。炭治郎の幸せには、そんなものは必要なかったのだろうかと、義勇はなかば呆然と、泣く禰豆子を見つめていた。
やがてぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔をあげた禰豆子が、取り乱してごめんなさいと謝るのにも、義勇は答えることができなかった。
幸せになってほしかった。誰よりも幸せに。離れることが、誰からも祝福される相手と結ばれ、誰の目にも微笑ましく映る家庭を築くことが、炭治郎にとって最上の幸せだと思っていたのに。
そうすれば、誰も彼もが幸せになれるのだと、信じていたのに。
なのに今、炭治郎は残酷なほど急いで命を削り、禰豆子は身も世もなく泣き叫んでいる。
恋をしている。生涯ただひとつの恋を。けれど恋心だけでは幸せにはなれぬと思っていた。愛している。誰よりも愛しているから、幸せになってほしかった。
えらんだ決断は、炭治郎とて同じこと。幸せになってと感情豊かな大きな瞳が、雄弁に義勇に語りかけていたから、笑って別れた。
互いにたったひとつの恋を胸にかかえたまま、実らせることなく。
呆然としたまま黙りこんだ義勇は、手の下に小さなゆれを感じびくりと肩を震わせた。
慌てて視線を炭治郎に投じると、閉じたまぶたがピクピクとかすかに痙攣している。
「炭治郎っ!!」
「お兄ちゃん!! お兄ちゃん、冨岡さんだよっ! 冨岡さんがきてくれたんだよ!! お願い、目を開けて……っ」
ふたりが見守る先で、炭治郎の目がゆるゆると開かれていく。
薄暗い室内で、のしかからんばかりにのぞき込んでいる義勇の顔を、炭治郎は認識していただろうか。
もしかしたら、もう目は見えていなかったかもしれない。けれどそれでも、炭治郎はほのかに笑った。笑ったように見えた。
きっと、義勇の願望がそう見せたわけではない。その証拠に、細く頼りない吐息がもれる唇が、たしかに「義勇さん」とつづっていた。
「あぁ、ここにいる。炭治郎、俺はここにいるっ」
かいまきの下でもぞりと体を動かす気配がして、義勇は、炭治郎にかけられていたかいまきを乱暴に払いのけた。
力など入らないだろうに、炭治郎は右手を持ち上げようとしている。義勇は迷わずその手をとり、ギュッとにぎりしめた。
冷えた手が悲しい。痩せて薄くなった胸が、だぶついた夜着からのぞいている。
禰豆子は声を殺して泣いていた。ふたりの邪魔をせぬようにとうつむき、ふたりの姿を見まいとでもしているかのように。
炭治郎の鎖骨がくっきりと浮かんでいる。首筋も細くなった。日輪刀をふるっていたころの力強さなど、みじんも感じさせぬ頼りない体だ。
炭治郎の死が目前に迫っていることを、如実に知らせるその細さに、義勇の唇が悲しくおののく。じわりと浮かんだ涙が炭治郎の顔をぼやけさせた。
ふと、炭治郎の首にかけられた紐に気づきよく見れば、ふところに小さな袋があった。それは、義勇の守り袋と同じ生地で作られていた。
いつのまにと思う義勇の隣で、禰豆子が言う。
「お兄ちゃん、肌身離さずそのお守り袋を持ってたの。いつもそれをにぎりしめて、夜になると北極様を見上げてた。そうして、義勇さんはあの星なんだって、笑うの。義勇さんは俺の北極様。ずっとあそこにいてくれる。俺を見守って、導いてくれる、たったひとつのお星様。一番綺麗で強い星って。
北極様を見ているだけで、義勇さんと一緒にいるみたいで幸せだって、お兄ちゃん、笑ってた。お兄ちゃんは、一日だって冨岡さんのこと忘れたことなかった」
押し殺した禰豆子の声に背を押され、義勇は炭治郎の額に、自分の額をあわせた。
同じだ。炭治郎、俺も同じだった。
鬼はもういないのに、毎日夜明けを待ちわびた。まばゆい太陽を見上げれば、いつでもおまえと一緒にいるようで、幸せな心地になれたから。
夜には北極星を探して、おまえの幸せを願ったのだ。どうか炭治郎を幸福へと導いてくれと。
うっすらと開かれた炭治郎の瞳の赫灼に、以前のような快活なきらめきはない。表情もうつろだ。だが、たしかに炭治郎は微笑んでいた。たとえようもなく幸せそうに。
そして義勇は、決断はあやまちだったと理解した。
間違えたのだ。自分と炭治郎の選択は間違いだった。
互いの幸せを望むなら、けして離れてはいけなかった。
世間に後ろ指を指されても、そばにいるべきだった。
誰かが定めた幸せなど、互いの幸せには関係ない。
愛おしいと、恋しいと、微笑みあうだけでよかったのだ。
あふれる想いを伝えあい、寄り添い生きるだけでよかったのに。
光を失っていく炭治郎の瞳は、それでも、泣かないでと義勇に伝えてくる。
幸せだと。逢えただけでうれしい、恋しい――誰よりも、なによりも、愛おしいと。うつろな瞳が雄弁に語る。
最後に見るなら笑顔がいい。そう言ったあの日のように、炭治郎の瞳は義勇に語りかけてくる。
泣くな。義勇は自分に命じつづけた。
涙が邪魔をして、炭治郎の顔が見えなくなる。己の瞳から伝わる、全身からほとばしりそうな炭治郎への想いすら、伝わることをはばんでしまう。
震える声で義勇は炭治郎の名を呼んだ。
愛おしさをこめて、何度も、何度も。
大丈夫だ、きっとよくなる。そうしたら一緒に暮らそう。
禰豆子と三人で暮らして、ふたりで禰豆子を嫁に出してやるんだ。禰豆子の花嫁姿が見たいだろう? きっと綺麗だ。
子どもだって生まれるぞ。男の子だったらふたりで剣を教えてやろうか。おまえのように強くて健康な子にしてやろう。
女の子なら、イヌタデの赤まんまで、ままごとにつきあってやるんだ。禰豆子のままごとにつきあってやってたって言ってただろう? 俺はままごとなぞしたことがないから、うまくやれないかもしれんが笑ってくれるなよ?
海を見に行こう。まだ見に行ったことがないと、俺と一緒に見られたらいいと、言っていたものな。一緒に行こう。おまえは人混みは人酔いしてつらいと言っていたから、浅草なぞより海のほうが気に入るはずだ。
おまえのよく利く鼻には、潮風の匂いはきついかもしれない。でも絶対におまえは海を好きになると思う。
鳥の名前も教えてくれ。おまえが教えてくれたキビタキしか、俺は知らん。
おまえは俺を博識だと誉めそやしたが、俺からすれば、おまえに教えられたことのほうが多いんだ。知っていたか?
なぁ、炭治郎。もっとずっと一緒にいよう。
春も、秋も、夏も、冬も、ずっと一緒に過ごそう。
なぁ、炭治郎。炭治郎。炭治郎。
義勇はおとずれることのない先の話をしつづけた。
そうして、何度も何度も、炭治郎の名を繰り返し呼んだ。すすり泣く禰豆子の声が小さくひびくなか、何度も。
ひかれてやまない恋しい赫灼から、かすかな光がすべて消え去るまで、何度も。