西の果てに沈む日が、空を茜色に染めていく。
盆をとうに過ぎ、木々の葉も夕焼けと変わらぬ色になろうかという時期だ。
薄明の街道を、義勇は、ゆっくりと歩む。一刻も早くと進みたがる意思とは裏腹に、義勇の足取りは遅々としていた。
以前ならば、飛ぶように駆けることができた。だが今では、刀を下げていたころのようには歩けない。
義勇は先だっての冬に、二十四になっていた。
過ぎる年月は義勇の体から生命力をうばいつつある。どれだけ気が急こうと、歩みは老人のようだった。
ざりっと足をするように歩むたび、土ぼこりが舞う。ざりっ、ざりっと音を立てて、義勇は歩いていく。
傍目には疲れきった者の足取りだが、それでも確固たる意思を持つ歩みだった。
義勇の髪も肌も垢じみて汚れ、もうずいぶんと水浴びひとつしていないことを、周囲に知らしめていた。辺りには数えきれないほどのハエが飛びまわり、うわんうわんと異様な羽音をひびかせている。
ハエは義勇が発する異臭にひかれ、集まってくるようだ。
いや、異臭などという生易しいものではない。
鼻の曲がりそうな強烈な刺激臭は、離れていてさえ目鼻を突き刺すほどだ。
往来の人々は咳き込み、自然とあふれる涙に苦しんでいる。バタバタと逃げだし、物陰でえずく者さえいた。
誰も彼もが異常な臭いにおののき、嫌悪をあらわにしている。
腐臭は義勇が背負う大きな桶が原因のようだ。しかしもはやそれは義勇自身にも染みつき、体臭と変わらぬありさまだった。
平生ならば人目をひくほどの秀麗さも、この異様な悪臭のなかでは、まじまじと見つめる者もいない。義勇が歩を進めるたび、周囲から人が逃げていく。
義勇は背負子の綱をギュッとにぎり直した。片腕で均衡をたもつのも、もう慣れた。グイッと揺すりあげれば、とたんにまとう腐臭がいや増した。
辺りにただよう強烈な腐臭に、人々は戦々恐々とした様子を隠しもしない。
そんな往来の人々を尻目に、義勇は恥じ入るでもなく顔をあげていた。恐れられ、嫌悪をあらわにされることなど、意に介した様子はない。
とはいえ、猜疑の視線は厄介ごとにつながることも知っている。茫とした表情ながら、瞳だけは爛と燃えたたせ、義勇は一刻も早く街道を抜けるべく、歩を進めた。
それでも足取りは、腰の曲がった老爺と大差ない。鬼殺隊の柱として、山野を駆けめぐっていたころの面影など、その姿には露と見られなかった。
官憲を呼ばれる前に人通りを抜けなければならぬというのに、このザマか。
生命力を失っていく体というのは、これほどまでに己が意のままにならぬのか。
いらだちが義勇の胸中に満ちる。人の通わぬ山道ばかりを行くわけにもいかず、時折こうして街道に出るたびに、義勇は腹立たしさをおぼえた。
けれどもその憤懣には、幾ばくかの優越感もひそんでいる。
「……大丈夫だ。おまえはなにも心配しなくていい。誰にもおまえはわたさない」
背負子にくくりつけた桶にむかって、小さく言い聞かせる声は、優しく穏やかだったが、しわがれて水気のないひびきをしていた。
その声で、炭治郎と、愛おしげに名を呼ぶ。応えはない。
だが、義勇は気にしなかった。しかたのないことだと、義勇は理解している。
背に負った炭治郎は、もはや言葉を持たない。けれども義勇ただひとりのものだった。
義勇にとっては、それだけでよかった。
もう炭治郎はほかの誰にも笑いかけることはないし、誰かの手をとることもない。誰も炭治郎を好意の目で見ることはなく、義勇以外には誰ひとりとして炭治郎を抱きしめたりはできないのだ。
なにより、義勇のそばから二度と離れない。炭治郎は常に義勇とともにある。
あぁ、幸せだな。なぁ、炭治郎。
胸のうちだけでつぶやいた義勇の口元に、うっすらと笑みが刻まれた。
義勇は足を止めることなく歩む。うつろに見える群青の瞳には、だかしかし、強い決意の光が隠れている。
街道を行き交う人々は、一様に鼻を押さえ顔を覆い、去っていく義勇から空恐ろしげに目をそむけていた。
初秋の黄昏に、ヒグラシの鳴き声がひびいていた。
無惨が塵となって消えたあと、残された者たちにとって失った命を嘆き悼む時間は、あまりにも少なかった。
市井の人々に知られぬうちにおとずれ終わった未曾有の危機が、鬼殺隊からうばったものは多い。しかしそれを嘆き、立ち止まってばかりもいられなかった。
無惨がもたらした被害は甚大であり、齢わずか八歳のお館様が指示するなか、妹君たちをはじめ運良く生き残った者たちはみな一様に、目のまわるような事後処理に追われることになった。
事実をうそ偽りなく述べたところで、あのおぞましいねじれた生命のことなど、誰が信じようか。
仲間を多く失い、命をかけて守ったはずの人々から、疑いをあらわに非難の目を向けられる。そんな理不尽な仕打ちのなかでも、生き残った者たちはよくやったと言わねばなるまい。
どれだけ苦境に立たされようとも、生者は生き抜かねばならないのだ。亡くなった者たちの意志をつなぎ、託された者は生きてゆかねばならない。
義勇や炭治郎も、それは変わらなかった。
重篤な状態だったのは、なにも義勇と炭治郎だけではない。
蝶屋敷は収容人数をはるかに超える傷病者をかかえ、ともすれば、事後処理にたずさわった者たちよりも過酷な日々を過ごした。
看護の手はいくらあっても足りず、あの悪夢のような激戦の一夜を生き延びながら、蝶屋敷で息絶えた者も少なくはない。
敬愛する主を失い、それでも懸命に傷病者の看護につくした少女たちが、心に負った悲しみはいかばかりだったろうか。まだ年若いというのに、蝶屋敷の者たちはみな、ぐっと唇を噛みしめ患者の前では涙を見せず、必死に治療をつづけた。
そんな少女たちにとってもっとも気がかりだったのは、一度も目を覚ますことなく眠りつづける炭治郎の容体だったろう。
死闘の末に炭治郎が流した血液は、おそらくは生存者のなかで一番多かった。ひとり、またひとりと意識を取り戻す隊士たちのなかで、炭治郎だけは目を覚まさず、焦燥が募る日々だったに違いない。
応急処置すらほどこすいとまがなかったことを、誰も彼もが悔やんでいる。少女たちもそれを知っているから、炭治郎の生命力が死の顎門に打ち勝つのを、ただひたすらに祈るよりほかなかった。
なにより少女たちが、そして多くの隊士たちが、心を痛め見ていられないと目をそらせたくなったのは、炭治郎の傍らの寝台に横たわる義勇の姿だっただろう。
義勇も炭治郎同様に重篤だったが、それでもさすがは柱だと、周囲が感嘆する早さで目を覚ました。
それに気づいたのは、ふたりにつきっきりだった禰豆子である。
意識を取り戻したそのとき、朦朧とした義勇が、自分の名を呼んでいるのが禰豆子だと認識できていたかは、定かではない。
ほかの誰かであっても、義勇の問いかけは同じだっただろう。
炭治郎は無事か。
声を出すだけでもつらいだろうに、ただそれだけを口にした義勇に、禰豆子の顔に泣きだしそうな笑みが浮かんだ。
生きています。そうしぼり出すように言った禰豆子に、義勇の瞳に一瞬輝きが戻り、そして、禰豆子は見た。
安堵の光がたちまちかき消えて、恐慌に見開かれた義勇の瞳を。
義勇の群青色の瞳には、隣の寝台で眠る炭治郎の、土気色した横顔だけが映っていた。
それからあとの義勇が見せた一連の行動を、悲痛な姿を、禰豆子や蝶屋敷の少女たちは、長く忘れることができなかった。
乾ききった唇で炭治郎の名だけをつぶやきつづけ、駆けつけた人たちの手を振り払い起き上がった義勇は、大きな音を立て寝台から転び落ちた。
当然のことながら、怪我は治ってなどいない。相当な激痛が走ったであろうに、義勇はかまわず隣の寝台で眠る炭治郎に腕を伸ばそうとした。
そこに自分の右腕がないことに気づき、刹那目をすがめる。だが、すぐさま力の入らぬ体で這いずり、義勇は残された左腕で炭治郎に触れようとした。
安静にと叫ぶ声など、義勇の耳には入っていなかっただろう。血の気のない炭治郎の横顔だけを一心に見すえ、義勇は必死に炭治郎を求め呼ぶ。それを押しとどめることは誰にもかなわず、義勇の左手が炭治郎の残された右手をとった。
冷えた手をにぎりしめ、義勇は、はらはらと大粒の涙をこぼす。
炭治郎、炭治郎と、その一言しか知らぬげに、炭治郎の名だけを呼びつづける。
どれほどの人々が言葉を尽くし言い含めても、義勇は寝台に戻るどころか、けっしてその場を動こうとはしなかった。
誰にも止められない。それをみなが悟るのは早かった。
ふたりの寝台をピタリと寄せ、義勇が横たわったまま炭治郎の手をにぎれるようにするまで、義勇はその場で炭治郎の名を呼びつづけていた。
目覚めて以来、幾日経っても、常に義勇の瞳はなんの反応も見せぬ炭治郎に向けられている。
乾きひび割れた唇からは、炭治郎の名しか出てくることがない。うつろな目からは絶えず涙がこぼれ落ちていた。
一瞬たりとも炭治郎から目を離すまいと、義勇は炭治郎を見つめつづける。
まるで自身の命数を削るかのように、食事すらろくにとらない。意識を失うように眠っては、半刻(一時間)と経たずに目を覚ます。
すまない、ごめんと泣きながら炭治郎に詫びて、そうしてまた、炭治郎の名を繰り返し呼ぶのだ。
誰もがみな、炭治郎より先に義勇が逝くことを危惧していただろう。もしも炭治郎がこのまま目を覚ますことなく亡くなったのなら、その瞬間に義勇も息絶えると、誰もが疑わなかった。
禰豆子の泣きながらの叱咤も、蝶屋敷の少女たちの懇願も、お館様の命であってさえ、義勇の耳には届かない。
あのときの義勇は、まるでそれしかできぬからくり人形のようであったと、思い返すたび誰もが言う。
義勇がただ泣きながら炭治郎に呼びかけつづけるのを、見ていることしかできぬ、誰にとってもあまりにもつらい日々だった。
そんな苦しいばかりの日々が終わったのは、月が丸く輝く真夜中のことであった。
静かな夜だった。
蝶屋敷にいるほとんどの者は寝静まり、室内には昏々と眠りつづけている炭治郎と、義勇のほかには誰もいない。
しんと静まりかえった室内で、義勇はまんじりともせず炭治郎を見つめていた。
目を離せば炭治郎が消えてしまう。そんな恐れが義勇に目を閉じることを拒ませた。
不意に、炭治郎のまぶたが小さく震えた。
それに気づいた義勇は、息を止め、炭治郎をいっそう凝視した。
体を固くし見守る義勇のまなざしの先で、ゆっくりと炭治郎の目が開かれていく。
そうしてうっすらと開かれた炭治郎の目に、義勇が見たものは、やつれきり生気を失った瞳をした自分の姿だった。
声にならぬ声が、義勇さん、とつづる。
義勇の目が見開かれ、唇がわなないた。
炭治郎の手をにぎったまま、義勇は衰えた体をどうにか起き上がらせ、炭治郎の額に己の額を押し当てた。
炭治郎、義勇さんと、かすれた声で呼びあうふたりを見た者は誰もいない。
間近で見交わした瞳に、ふたりがいったいなにを見たのかを知る者もない。
呼びあう声やにぎりあう手、見つめる瞳に、こめた想いなど誰も知らない。
互いだけがふたりの胸のうちを知り、そして、それだけでいいと微笑んだ。
深い想いは密やかにふたりの胸に秘められたまま、近い別れを知っていた。
多くの人に見送られ、炭治郎が禰豆子とともに雲取山に帰ったのは、それから三カ月後のことだった。
梢にはばまれ月明りさえろくに差さぬ山道を、義勇は背に負った炭治郎とともに一歩一歩登っていく。
背にした桶からただよう腐臭は多くの虫を呼び寄せ、義勇はそれらを払いのけながら、一心に名も知らぬ山を登っていた。
たびたび義勇は炭治郎に話しかけた。
逢えなかったあいだのことや、柱稽古の思い出話など、話はつきることがない。以前とはまるで逆だ。
ともに過ごした記憶のなかでの会話といえば、炭治郎が絶え間なくしゃべり、義勇はときどき相づちを打つのが常だった。口下手で言葉足らずな義勇の意も、炭治郎ならば、自慢の鼻で酌んでくれたものだ。
今の炭治郎は、明るく笑いながら義勇に話しかけたりはしないし、相づちすら打つことはない。
けれども義勇は気にしなかった。言葉足らずで誤解される心配もないのだから、それでいい。
義勇は息を乱しながらも、炭治郎に語りつづけた。
なにしろ義勇が炭治郎と再会したのは、ほんの一週間ほど前のことだ。炭治郎が雲取山に帰ってからの三年間、義勇は一度も炭治郎と逢ってはいない。てんで代わり映えのない日々を過ごした三年とはいえ、話題ならばたんとある。
追手や官憲の目をのがれようと、あわただしく先を進むばかりの短い旅のなかでは、ゆっくりと話すこともかなわなかった。
義勇はつらい息すら忘れ、訥々と話しつづけた。
亡くなった鎹鴉のことや、左腕で自炊した失敗談。
さすがに食事に困るようになり、しかたなし買い求めた野菜を丸かじりしているところを、近隣の農家の人の好い女房に見られ、あきれられたこと。
その女房が菜を分けてくれることになったのはいいが、旦那が、他人に飯をくれてやるような余裕があるのかと文句を言いだし、自分の目の前で夫婦げんかが始まってしまって往生したと、義勇は苦笑した。
無表情のままオロオロと困惑する義勇を、通りすがりの老爺がゲラゲラと笑い、いつものこった気にしなさんなと、代わりに仲裁に入ってくれたこと。
そのときばかりは心底ホッとしたと、義勇は物言わぬ炭治郎へと語る。
田畑を荒らすイノシシを追い払う手伝いをしたこともあった。それ以来、不愛想な自分にも親しく声をかけてくれる者がいくらかいたと語る義勇の声は、少しばかり自慢げだったかもしれない。
親しくなったなかには、強いね、すごいねとはしゃぎ、手放しでなついてくれた子どもらもいたんだぞと、義勇は微笑む。
そんな子らに字を教えてくれと乞われ、了承したのはいいが左手で書いた文字は我ながら下手くそだった。尋常小学校に通っていたころよりも、よっぽど一所懸命に書き取りしたおかげで、今では以前と変わらぬ字が書ける。それを語る義勇のまなざしは、わずかに和んだ。
先の老爺などは、野良仕事の合間に義勇を見かけるたび、一休みと言いながら義勇を招いてくれるから、しょちゅう畔に並んで腰かけ話をした。
答えを返さぬ口下手な義勇を相手に、老爺は気を悪くした様子もなく、ひとり楽しげにしゃべりつづけていたものだ。
その会話はなんとはなし炭治郎を思い起こさせ、どことなしうれしく、たまに散策するおりには自然と老爺の畑の近くを歩むようになったことなどを、義勇は問わず語りに興じつづける。
三年という月日は、人づきあいのうまくない義勇にも、それなりに実りを与えてくれた。鬼殺隊で刀をふるっていたころからすれば、思いもよらぬほどに、平穏でのどやかな暮らしだ。
「おまえは心配していたが、俺だってひとりでもそれなりに暮らせていた。安心したか? 炭治郎」
少し自慢げに笑って、義勇は歩いていく。炭治郎の答えはない。
鳥や獣の鳴き声と、梢をわたる風が鳴らす葉擦れの音だけが、義勇の声に相槌を打つようであった。
三年前、なにごともなかったかのように笑いあい、別れを告げる義勇と炭治郎に、多くの者が困惑したに違いない。このまま離れ離れになっていいのかと、思慮もしただろう。
けれども当のふたりに憂いはなく、別れも至極穏やかだった。
炭治郎が去り、己の身辺を整理しだしたときにも、義勇は泰然としていた。
おそらくは義勇自身よりも、宇髄をはじめとする知己のほうが、炭治郎たちの帰郷までの日々を、よっぽどヤキモキと過ごしたことだろう。
炭治郎を追わなくていいのか。離れ離れでつらくはないのか。心配したり発破をかけたり、なぜそこまで気にかけるのかと、義勇が少々あきれてしまうほどに、みなふたりの仲を案じてくれたものだ。
とくに宇髄は、誰よりも義勇に親身だったように思う。炭治郎たちが去る前からやけに義勇を心配しては、本当にいいのかと何度となく問いかけてきたものだ。
もう義勇がしでかした不道徳な逃避行は、宇髄らの耳にも届いていることだろう。
元同僚の見目好い顔が、苦々しくしかめられる様を思い描き、義勇は小さく嘆息した。
「おい、冨岡。本当にいいのか、炭治郎を行かせちまってよ」
炭治郎と禰豆子の旅立ちにそなえあわただしくなった蝶屋敷の片隅で、そう義勇に問いかけた宇髄の顔は、いかにも不満げであった。
義勇と宇髄の視線の先では、炭治郎と禰豆子が困り顔で笑っている。
蝶屋敷の娘たちが差しだす衣類やらを、ふたりは笑いながら、けれども頑として固辞しているようだ。
あの兄妹は人の好意に対して素直な質だが、物品や金銭がからむとどうにも頑固だ。
いかにもなその様子に微笑ましさを感じつつも、炭治郎たちと仲のよかった少女たちの心情を思うと、少しばかりハラハラと心配にもなる。
しかしながら、そんな心配にも義勇の表情がくずれることはなく、傍目には常の無表情であっただろう。
まるきり宇髄の言葉を無視しているように見えたのか、ちゃんと聞けとばかりに、宇髄の声にトゲが含まれた。
「今ならひきとめられるんだぞ? これきり逢えなくなってもかまわないってのか!?」
「当然だ」
「なにが当然だってんだ。おまえら惚れあってんじゃねぇのかよ」
腹立たしそうな声に、ちらりと視線を向けてみれば、宇髄の瞳には義勇への懸念がありありと浮かんでいた。
心配されているのだと悟り、義勇はほんの少しうつむいた。胸によぎったのは感謝である。
あの死闘以前は、こんなふうに親しく話しかけられることも少なかった。自分が周囲となじむ努力をしなかったからではあるが、もったいないことをしたのかもしれない。義勇は内心でそっと苦笑した。
宇髄は派手な出で立ちとは裏腹に、存外面倒見がいいらしい。もっと胸襟を開いてつきあっていれば、口下手ゆえに人が周りにいつかぬ義勇とも、親しくしてくれたのだろう。
仲間だというのに、ずいぶんと申し訳ないことばかりしてきたものだ。
炭治郎がいなければ、こんな後悔すら生まれることはなかったのだろう。
思いつつ、義勇は静かに口を開いた。
「惚れていればこそだ」
「……ったく、鬼殺隊の柱ともあろうもんが、弱きなこった。てめぇも男なら、黙って俺についてこいって派手にぶちかましてやれや」
「炭治郎も男だ」
「そういう問題じゃねぇよっ!!」
ごまかしやがってもう知らんと、元忍びとは思えぬほどに足音高く立ち去る宇髄に、義勇はほんのわずかに口元をゆがめた。
ごまかすつもりはなかったのだが、やはり自分は人とのつきあいかたが下手だと自嘲する。
わかってもらえず残念だと思いもした。
義勇が望むものは炭治郎の幸せだけだ。炭治郎の望みも、義勇の幸せだろう。それを義勇は重々承知していた。
同時に、互いに思い描く相手にとっての最上の幸せには、己の姿はないこともまた、義勇は知っている。
宇髄をはじめ、周囲の人々は勘違いしているようだが、炭治郎と義勇は恋仲ではない。
たしかに胸に抱く想いは恋慕と呼んでよかったが、それを口に出して告げたことは、お互い一度もないのだ。
言葉なく目があった刹那に、まなざしで心を交わしあい、生涯口にしてはならぬ秘め事として、ふたりそろって思いにふたをする。義勇と炭治郎の恋とは、そんな恋だった。
江戸時代の武士ならば、衆道の契りも交わせよう。だが、大正デモクラシーだなんだと世間の目が世界に向けて開けていくなかで、男ふたりが得られる未来とはいかほどのものであろう。
明治に発布された鶏姦条例は短期間でなし崩しに消えたというが、男色を法で禁じる時代が到来していることに違いはない。
諸外国との関係も、じわじわときな臭くなってきているようだ。他国との戦争ともなれば、兵士として戦うことのできなくなった男ふたりの暮らしは、どれだけ嘲笑と非難をあびることだろう。
世間をはばかる関係を、相手に背負わせることなどできない。
その決意はまがうことない義勇と炭治郎の本心である。
残された時間が少ないのならなおのこと、妻を娶り子をなすのが、相手にとっての最上の幸せだと、ふたりは疑わなかった。
傷の舐めあいをしたいわけではないのだ。完全な形の幸せを、義勇は炭治郎に与えたかった。炭治郎もまた、義勇に同じことを望んでいるだろう。
互いに口には出さずとも、炭治郎が目を覚ました夜に見交わした瞳が、ふたりの想いのすべてをあまさず伝えあっていたと、義勇は確信していた。
ほかの誰の共感を得られずともよい。互いに納得し、互いの幸せを祈り生きる。それが自分たちにとって一番よいのだと、義勇は信じていた。
炭治郎との思い出も色濃い慣れ親しんだ水屋敷をあとにして、義勇が移り住んだのは、雲取山を望む鄙びた農村の、小さな家だった。
義勇がその家をえらんだのは、炭治郎との出逢いの際に見た炭治郎の生家と、少しばかり似ているように思えたからだ。
ひとり暮らしにはいくらか広いが、なに、荷物も同居人も増える予定のない暮らしである。多少不精な生活をしても汚す心配もないだろうと、そこに決めた。
鬼殺隊士全員にお館様が支給した慰労金は、辞退した。
お館様と妹君たちはまだ幼い。これからいくらでも金がいるはずである。決戦時に崩壊した建物の再建や、障害を負った隊士たちへの先々の保障にかかる費用も、莫大なものになるはずだ。国政が戦争にむかう気配のある今、それらを工面するには、いかに潤沢な資産を誇る産屋敷家であっても苦心するだろう。
浪費する質ではない義勇は、それまでの給金にもろくに手をつけていなかったから、貯蓄だけでも人生の終焉まで暮らすにはこと足りる。辞退するのに躊躇は一切なかった。
その決断をしたのは、なにも義勇だけではない。
五体満足に生き延びられた隊士や隠はほぼ全員が、義勇と同じく慰労金の受け取りを断ったと、宇髄から伝え聞いた。もちろん、お館様のもとに残ることとなった不死川や、炭治郎と同期の少年少女も同様である。
幼いお館様がほろほろと涙をこぼし、そんなことを言わずに受けとっておくれと泣くのを、みな一様に笑って断ったのだという。その涙と今までの恩寵だけで十分だと、義勇と同じく誰もが言ったらしい。
そうして田舎の小さな家を買いとった義勇のもとに残ったものは、つつましやかに暮らせば三、四年は暮らせるはずの金銭と、隊士となったときからずっとそばにいた年老いた鴉だけであった。
姉と錆兎の形見である羽織は、もはや修繕もかなわなかった。捨て去ることはそれでもできず、わずかばかりを切りとり、守り袋へと姿を変えて義勇のふところに常にある。
小さな守り袋のなかには、炭治郎の髪が少しと、一枚の羽。たった一度だけふたりきり、夜空を見上げて語りあい、思い出として切りあった互いの髪が、義勇のなにより大事な財産である。
そう、たった一度。ただ一度きり、義勇は炭治郎と逢瀬と呼べる時間を持った。
それは、冬支度のことを思えば、雲取山に帰るにはギリギリだろうという、秋の初めのことだった。
床払いしても炭治郎たちは蝶屋敷で世話になっていたが、義勇はそうもいかず、水屋敷へと戻っていた。
慣れぬ隻腕での暮らしを蝶屋敷の娘たちは案じてくれたが、炭治郎や禰豆子はともかく、義勇にはちゃんと自分の屋敷があるのだ。
それにこれからは、この体でひとり暮らしていかねばならない。身のまわりのことに早く慣れる必要もあった。
とはいえ、義勇が一人きりでいた時間は、存外少なかった。
なんとなれば、代わる代わる誰かしらがたずねてきては、義勇の暮らし向きになにかと心くだいてくれたのだ。
怪我の経過を心配する蝶屋敷の者らが様子を見にくるのは、義勇とて想定内である。だが、宇髄の嫁たちやら村田やら、隠などまでがなにくれとなく屋敷をおとずれては、食事の支度や洗濯など、義勇の固辞に耳を貸すことなく世話を焼いたのは、いったいどういうことなのか。
もちろん、感謝はしている。だけれど、そんなにも頼りなく思われているのかと、少々心外な思いをしたのも事実だ。
これでは片腕の暮らしに慣れるどころではないと、ため息をついた義勇に、炭治郎はアハハと楽しそうに笑っていた。
義勇さんってなんとなくほうっておけないんですよねと、クスクス笑う炭治郎に、義勇は憮然と顔をしかめた。
おまえたちは俺を子どもだとでも思っているのか。少しばかりふてくされた気分で言えば、そういうわけじゃないんですけどと苦笑する。
「義勇さんもしばらくしたら水屋敷を出るつもりなんでしょう? 別れを惜しんでくれてるんですよ」
世話を焼かれるのも柱の務めだと思って諦めてください。
そう言って笑う炭治郎に、さらにため息をつきたくなった。けれども本音を言えば、炭治郎も別れが寂しく惜しいと思ってくれていることが、うれしかった。
屋敷をもっとも多くおとずれ、義勇の世話を誰よりもかいがいしく焼いたのは、誰であろう炭治郎だ。
ときには禰豆子や同期の少年たちをともなうこともあったが、炭治郎はたいがいひとりでやってきた。
自分だって隻腕であり、片目も視力を失ったというのに、炭治郎はこと家事においては、義勇よりよっぽど有能だった。とはいうものの、やはり隻腕の不自由さにかわりはなく、義勇とふたり、炊事や洗濯の方法などを試行錯誤しつつこなしていく。
残された日々をできうるかぎり義勇と過ごしたい。そんな想いがあったのだろうか。炭治郎はいつでもうれしそうに笑っていた。