※パンオショコラシリーズの番外編。出来上がってる義炭で、トスカーノよりは前のお話です。
「ヒーリング用の音叉?」
キョトンと目をしばたたかせて炭治郎が聞けば、義勇は手にしたリーフレットに視線を落としたまま、小さくうなずいた。コトリとちゃぶ台に置かれたのは、昨夜炭治郎が持ってきた手土産のイングリッシュマフィンと、コーヒーの入ったマグカップ。
時刻は午前十時。十時のおやつ……ではなく、これが本日初のふたりの食事だ。
少し手間をかけてエッグベネディクトにしようかなと思っていたのに、そんな余裕はなくて、クリームチーズやハムを挟んだだけの、炭治郎にしてみれば簡単すぎるメニューである。内心ちょっと不満ではあるが、ふたりそろって朝寝坊したのだからしかたがない。
居間というよりも、お茶の間というほうがしっくりくる和室に敷かれたフカフカのラグは、どことなく統一性を欠いている。そこに胡坐をかいて寛ぐ義勇の姿に、炭治郎はいまだにちょっとドキドキしてしまう。こんなお泊りはもう何度もしてるのに。
高一のクリスマスにおつきあいを初めて、今では炭治郎も大学一年生だ。この家に来るのもすっかり慣れたし、高校を卒業してからは、今日みたいにお泊りだって増えた。この冬から敷かれるようになったラグの意味を考えると、まだちょっと奇声をあげておたおたとしてしまうけれども。
以前はコタツ派だった義勇が、ホットカーペットにくら替えした理由は、炭治郎としてはちょっと口にはしたくない。ホットカーペット対応で家でも洗えるラグは、義勇が厳選に厳選を重ねてえらんだだけあって快適だし、クッションなしでも座り心地もいいからいいんだけれど。かたくなに『おまえが卒業するまでは』と繰り返してたのはなんだったのかと、ちょっと遠い目をしてしまいたくもなる。
肌触りの良いラグから連想ゲームのように浮かんだ汚れたこたつ布団の記憶を、炭治郎は頭から追い出した。朝ご飯がブランチになった原因である、昨夜のアレコレまで思い出してしまわないように。
なにしろ今はまだ昼前である。不埒な想像をするには不似合いな時間だ。
「この音叉が出す周波数を、奇跡の周波数だとか、愛の周波数とか言うらしい」
ソルフェジオ周波数とかいう聞き慣れない言葉を、少し言いにくそうに口にして
「五二八ヘルツを基本とした特定の音階をいうそうだ」
と文面を読み上げる義勇の顔は、いつもの無表情。けれども炭治郎の目には『眉唾』と書いてあるように映る。
思わず苦笑してしまうが、そのリーフレット付きの品物を渡してきた相手が相手だ。義勇の反応は、きっと相手も想定内だろう。
ちょっと早いですけどついでですからと、昨日仕事の打ち合わせで顔を合わせたときに渡されたという誕生日プレゼントは、ちゃぶ台に鎮座した柔らかな布地の上で銀色に煌めいている。
ひと月も先の誕生祝いを、年始の挨拶もそこそこに渡されて、それだけでもなにかの嫌がらせだろうかと義勇は身構えたらしいが、相手に悪意はないだろう。面白がってはいるだろうけれども。
しのぶさん、義勇さんをからかうのが趣味なんじゃないかってぐらいだからなぁ。
ウフフと笑う可憐な顔を思い浮かべ、炭治郎の苦笑が深まった。
真滝勇兎の名で恋愛小説を書いている義勇は、担当編集者の一人である胡蝶しのぶという女性を、少々苦手としているのだ。
しのぶは、炭治郎の高校時代の同級生で校内でも指折りの美少女として名高かったカナヲの姉だけあって、たいそう美しい人である。炭治郎にとって誤解と不安を呼ぶほどには、魅力的な女性なのだ。
けれども義勇から言わせると、編集者としては優秀だが、口に毒蛇かスズメバチでも飼ってる気がする、となるらしい。なんとも剣呑なことだ。
あの笑顔に騙されるな、あいつは笑ったまま毒を吐くと、義勇はげんなりと言うが、炭治郎に対してしのぶはそんな対応をしてきたことがないので――そこまで親しくないからかもしれないが――義勇の反応には苦笑するしかない。
ついでに言えば、義勇のそんな反応に、安堵もちょっぴり。なにしろ義勇としのぶが並ぶと、誰の目にもお似合いの美男美女カップルにしか見えないのだ。恋愛感情などお互いかけらもないのは、もう重々わかっているし、そもそも義勇はゲイなので、女性であるしのぶは恋愛対象にはならないのだけれども、炭治郎の心情的な問題である。
炭治郎にとっては義勇が初恋だし、おつきあいしているのも義勇だ。紛うことなき男性である。炭治郎の恋心もいわゆる性欲も、義勇以外にはさっぱり反応しないのだから、カテゴライズするなら炭治郎もゲイとなるのだろう。けれども、はっきりと言いきるには、なにかが違う気がしてしまうのだ。炭治郎からすると自分がゲイというのは、違和感しかない。だからつい義勇も自分と同じじゃないかと考えてしまう。
炭治郎にとって、かわいいなと思ったり照れて慌ててしまうのは、異性である女の子だ。義勇以外の男の人の裸を見たところで、自分と変わらないんだからなんということもない。
だから、あえて自分の性的志向をカテゴリー分けするならば、俺は異性愛者であるゲイじゃなくて、Gセクだと思うと、義勇との関係を知る親友たちや家族には言っている。ギユウセクシュアルのGだ。それならピッタリだと、自画自賛していたりもする。それを言ったら友達にはさっぱりわからんと喚かれたし、家族は生温く笑っていたけれども。
だって、これまでも、これからも、義勇以外に恋愛感情も性欲も向かいやしないんだから、そうとしか言いようがないじゃないか。重ねて言えばますますげんなりされたり、はいはいと軽く流されたりするが、炭治郎が幸せならいいよと笑ってくれる人たちだ。ありがたいことである。
閑話休題。
ともかく、どうしたって女性相手でもヤキモチを妬いてしまう炭治郎にしてみれば、見るからにお似合いなしのぶに対する義勇の警戒心は、願ったりかなったりではあるのだ。
そんなしのぶからのプレゼントだ。そりゃ多少は焦るし、不安にもなる。けれども誕生日――まだひと月も先とはいえ――を祝うのに、とくに意味はないのもわかっている。義勇だけでなく担当している作家なら誰であろうと、しのぶは祝いの品を送っていることだろう。
『たまにはヒーリングでもして、その仏頂面を改善したらいかがですか? 炭治郎くんにふられちゃいますよ?』
渡されたときに言われたという、そんな文言を思い出したのだろう。義勇の顔がなんとも言えぬ虚無感をたたえている。その顔に安心する自分に、ちょっとだけしのぶに対して申し訳なさを覚えなくもないけれども、とりあえず。
「で、この音叉がその周波数を出すんですか?」
苦笑したまま義勇の隣に腰をおろせば、リーフレットを炭治郎に手渡してくれる。
「そう、らしいが……」
銀色に輝く音叉をひとつ手に取って、しげしげと眺めまわす姿は、いかにも疑りぶかい。
送られた音叉は九つ。それに音叉を叩くためのバチ――リーフレットによるとマレットというらしい――がついている。
「えーと……安定、促進、解放……へぇ、周波数によって効果が違うんですね」
なかなか面白いなと思っていると、義勇が手にした音叉をポンっとマレットで叩いた。途端に高く澄んだ雑味のない音がリーンと静かにひびき、炭治郎はついぽかんと口を開いてしまった。義勇も、おっ? とまばたきして、まじまじと手にした音叉を見つめている。
「きれいな音ですね……」
「あぁ。これは……」
なにも考えずに選んだらしく、まだ音の余韻を響かせている音叉を矯めつ眇めつしている義勇に答えるべく、炭治郎はリーフレットに視線を落とした。
「んー……それは八五二ヘルツかな。直感の周波数っていうらしいですよ。洞察力や直感力を高めるんですって」
なんだかちょっとワクワクとしてきて、音が止むと同時に炭治郎は次の音叉に手を伸ばした。義勇も同様なようで、なるべく美しく鳴らしたいとでも思っているのか、手渡された音叉にマレットを当てる手付きは先ほどよりも少し慎重に見えた。
軽くたたいた瞬間に、また澄み渡る音が静かに広がって、思わず炭治郎は目を閉じた。さっきの音より少し低いその音の周波数は、五二八ヘルツ――最初に義勇が口にした、奇跡や愛の周波数だ。
リーフレットによると、傷ついたDNAの修復や、自律神経のバランスを整えてくれたりする、癒しの周波数らしい。
音が鳴りやんだとき、同時にこぼれたのは静かで深いため息だ。
「いいもの貰っちゃいましたね」
「……そうだな」
ヒーリング用の音楽なら動画やCDでもあふれているけれど、単一な音だけのアナログな音叉は、余計な雑味がいっさいなく、深く心に沁み込んでくるようだ。
「この音、本当に癒されるかも。俺も欲しくなっちゃいました」
「……いくつか持っていくか?」
こともなげに言われて、炭治郎はあわてて首を振った。
「そんな、義勇さんへのプレゼントじゃないですかっ。ダメですよ!」
「これだけあるんだ。べつにかまわないだろう」
「そういうことじゃないですってば! お邪魔したときに聞かせてもらえればじゅうぶんです。それに、俺が持って帰っちゃったら、義勇さんの癒しがなくなっちゃうじゃないですか」
いっぱいあるからって、リンゴやらみかんやらじゃあるまいし、お裾分けするようなもんじゃないだろう。思わずあきれた炭治郎に、義勇はといえば、かけらも動じた様子はない。
「胡蝶は気にしないだろう。おまえと一緒に使うと思っているだろうし」
ケロリとした顔で言うけれど、それじゃお言葉に甘えてというわけにもいかないじゃないか。プレゼントの値段を調べるような真似はできっこないけれども、担当する作家に送るものなら、それなりに値が張る代物なんだろうし……と、ちょっと責める気持ちが伝わったのだろう。義勇はかすかに眉を寄せたが、すぐにそれはほどけて、少しだけ唇が笑みを作った。
「たしかにきれいな音だが、俺はもっと癒される音を知っているからな。気にすることはない」
「これより? どんな音ですか?」
聞いたのと同時に伸ばされた手が、耳に触れた。チャリっと小さく音をたてて揺らされたピアスに、知らず首をすくめる。
見つめる群青色の瞳にこもる熱を、見間違えるわけもない。それぐらいには慣らされている。
「だ、ダメですよ……まだお昼にもなってないのに」
第一、ご飯がこんな時間になった原因を、なんだと思っているのか。昨夜もたっぷりとじゃれあい愛しあったじゃないかと、楽しげにうなじに触れてきた手から逃れるように、炭治郎は身をよじった。
「昼前だからいいんだろう? 夜とは違った楽しみがある」
「そんな……そういうのは夜にするもんでしょっ!?」
拒む言葉を口にしつつも、立ちあがって逃げ出さないことについては、指摘しないでほしい。だって期待は炭治郎のなかにもあるのだ。義勇に触れられれば、体の奥に欲の火がつく。小さな火種は、義勇の指や吐息や、視線ひとつにすらたやすく煽られて、見る間に燃え上がってしまうから。
だから、ぐっと迫ってきた義勇に気圧されるように体が倒れていっても、突っぱねることなんてできないし、フカフカなラグに背中を受けとめられても、少し顔を逸らすのが精いっぱいだ。
「ソルフェジオは、フランス語のソルフェージュを意味しているらしい」
「へ? そうなんですか?」
唐突な台詞に、パチリとまばたきしてのしかかってくる義勇を見上げれば、秀麗な顔が至近距離にあって、知らず頬が赤く染まる。顔が熱くてしかたがない。
「ソルフェージュは音階という意味だが、広く知られているのは、聴音や楽譜どおりに歌う訓練のほうだな」
いたずらな手が、トレーナーの裾から入り込んで、ヘソの辺りをさわさわとなでる。
昨夜も愛された体が、教えられた欲に燃え上がるのは早い。すがるように炭治郎は毛足の長いラグを握りしめた。
まだ、先を教えてと逞しい背にすがることはできなかった。だって、こんなにも明るい。
「ヒーリングの音より、おまえの声のほうが俺にとっては癒しだ。なのに、おまえはすぐに声を抑えようとするからな」
不満を述べているような台詞だというのに、声はすこぶる甘い。近づいてくる瞳が笑っている。
「ちゃんと声を出せるように……訓練、しようか。なぁ、炭治郎」
ズルい、と、炭治郎は震えながら、薄く唇を開いた。
この瞳に、この声に、逆らえるはずもないから。
それでも、一言ぐらいは物申したい。
「マフィン、せっかく温めたのに……」
「冷めてもうまいんだから、問題ない」
そういうことじゃないとの反論は、重ねあわされた唇に飲み込まれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やわらかなラグは、どんなにゆすぶられても痛みを伝えることがない。
畳の上でことにおよぶと、擦れて結構な傷をつくると知ったのも、義勇との行為でだった。あのときは、義勇もかなり落ち込んでいたように思う。すまんと謝る声は焦ってもいたし、悄然としていた。
最中は経験値の違いを見せつけるように余裕たっぷりに思えるのに、存外義勇も切羽詰まっているのだなと、うれしくもなった。
コタツに入ったままじゃれあったときには、汗も相まってコタツ布団をドロドロにしてしまって、ふたりして顔を見あわせ肩を落とした。すぐに、ホットカーペットとラグを買うぞと買い物へ連れ出されたのは、かなり恥ずかしかったけれども、それもまたうれしいと思ったっけ。
炭治郎にとって、恋に付随するアレコレは、すべて義勇からもたらされる。乏しい経験は全部義勇に教えられてのものばかりだ。
「こら」
緩やかに動かしていた腰を止め、義勇が咎める声をあげた。
「唇を噛むな。傷がつく」
「だって、声……聞こえちゃう」
なにしろまだ昼日中だ。通りを歩く人がいたら困る。広い家だし隣近所にはそうそう聞こえないとは思うが、ためらいは拭いようがない。
だというのに、義勇は薄く笑って宣った。
「声を出す訓練だって言っただろう?」
大丈夫、俺しか聞いていない。そう囁いて、つっと指先で唇に触れてくる。
うながすように優しく唇をなぞる指先に、炭治郎はそっと唇を開いた。すかさず入り込んでくる指先は、少し汗の味がする。舌をなでられて、ぞくりと背筋が震えた。
肩に担ぎあげられていた足を、右足だけ降ろされて、仰向けだった体を横向きにさせられた途端に、知らず高い声があがった。奥深くに咥えこんだままの熱棒で、なかをグリッとひねられたような衝撃は、突き上げられるのとはまた違った快感をもたらして、目の前がチカチカとする。
明るい陽射しが差し込むなかでの行為だからか、さっきまでは義勇も、いつもよりも緩やかな抽挿だったのに。そのせいもあってか、前触れのない衝撃に身構える暇もない絶頂を迎えた体が、ビクビクと震えた。
こんなふうに、前を触られないでも達することができるのだということも、教えてくれたのは義勇だった。全部、全部、義勇が教えてくれる。かすむ思考の片隅で、それがうれしいと喜ぶ自分がいた。
左足だけを高く担ぎ上げられたまま、いつもとは違う角度で抽挿が再開される。
絶頂感が消えないままに穿たれて、知らずあげた嬌声は、咥えさせられている指のせいで不明瞭だ。口を閉じて歯を噛みしめることもできやしない。
「あっ、あっ、やら……あぁっ!」
「かわいいな、炭治郎……いい声だ。もっと聞かせてくれ」
口に指を入れているから、義勇も動きが制限されているのだろう。腰の動きは小刻みで、快楽を貪るというよりも、炭治郎の快感を優先させているのがわかる。
閉じることがかなわぬ口から、意味をなさない声をあげてしまう。それが恥ずかしくて、炭治郎の目からポロポロと涙が落ちた。
我ながらみっともない声だと思うのに、義勇は、それこそが聞きたいのだと指をどかしてはくれない。ズルい、卑怯だと、泣きぬれた目で見上げたけれど、義勇には逆効果だったようだ。不意に掻き混ぜるように腰を回されて、また迎えた絶頂に、いっそう高い嬌声をあげさせられた。
噛みつく? とんでもない。そんなことができるなら、とっくにやっている。
義勇にとっては指は商売ものだ。キーボードを叩けなくなったら仕事にならない。恋人である義勇だけでなく、作家としての真滝勇兎も炭治郎は大好きで、大ファンなのだ。そんな義勇の指を噛むなんて、とんでもない話だ。
だから炭治郎は、マレットで叩かれる音叉のように、義勇の腰が動くたび、声をあげるしかない。やがてその声からは、不満も、嫉妬も、消えてゆき、純化したたった一つの感情だけが音になる。
好き、大好き、あなたが好きと、たった一つの恋心だけをひびかせる声。
それは、愛の周波数をしていたかもしれない。
冬の陽射しが降りそそぐ。庭にきたモズの鳴き声は、愛の音だけ聞いている二人の耳には届かない。昨夜の天気予報はしばらく晴れ続きだと言っていた。コタツ布団と違って家で洗えるラグは、汚れてしまっても問題ない。
冷めてしまったイングリッシュマフィンが、回る洗濯機の音を聞きながら二人の胃袋におさめられるのは、もうちょっとだけ、先の出来事。
ふたりでいれば、洗濯機の音さえ心地好い癒しの音だと、笑いあうまで、もう少し。