あなたの手が伝えてくれること(お題:61合図)

 帰りたい。そのとき、心に浮かんでいた願いは、それだけだった。
 疲れていた。もう、休みたかった。
 それでも、帰りたかった。どこへ? 禰豆子のもとへ。家族と暮らした家へ。そして……。

「具合はどうだ」
 病室に入るなり言う義勇に、炭治郎はわずかに眉を下げて笑った。
「毎日聞かなくても、大丈夫ですよ。もう心配しないでください」
 義勇こそ、利き腕をなくしているのだ。義勇のほうこそ、もっと安静にしていてほしいところである。それでもさすがは柱というべきか、傷はだいぶふさがっているらしい。とはいえ、慣れぬ隻腕での生活は、それだけでも疲れることだろう。着替え一つするにも、今までとは勝手が違うのだ。
 だというのに、義勇はまず炭治郎を案じる。炭治郎が目覚めて以来、ほぼ毎日炭治郎を見舞い、以前よりもやわらかく笑い、軽口をたたきもする。

 激闘の一夜を生き延び、今、義勇の胸にあるものはなんだろう。

 眉尻を下げたままそっと目を伏せた炭治郎を、今までの……二人で過ごした蜜月の義勇なら、やさしく頬や頭をなで、どうしたとささやいてくれたろう。けれども今、義勇は炭治郎に触れてはくれない。自分も少し困ったような顔をして、黙り込むだけだ。
 二人で暮らしてきた短い月日のなかでは、沈黙すら愛おしかった。だが、今この病室に満ちる沈黙は、胸を締めつける。
 炭治郎の口をつぐませるものは、抑えようもなくふくれ上がる罪悪感だ。鬼と化してみんなを傷つけたことは、誰もが謝るなと言う。しかたのないことだったと、戻ってくれてうれしいと、言ってくれる。誰も炭治郎を責めない。だから炭治郎も、少し困りながら、それでももう謝るのはやめた。
 けれど義勇に対しては、そもそも謝罪の言葉すらが見つからなかった。
 なんと言って詫びればよいのだ。炭治郎には思いつかない。
 義勇にも襲いかかり、怪我をさせたことも悔やんでいるが、体の傷よりもはるかに重く深い傷を、炭治郎は義勇の心に負わせたのだ。
 大切な人に守られ、自分だけが生き残ってしまった苦しさから、孤独の道をえらんだ義勇に、自分がしでかした仕打ちは、どれだけ残酷だったのか。やっと人と関わることを自身に許したというのに、誰よりも心を開いてくれていただろう炭治郎こそが、ふたたび義勇を悔恨と自責の念へと追い込みかけたのだ。
 しかも、炭治郎が人を襲ったときに、義勇だけが炭治郎を殺そうとしてくれたのだと聞いた。
 恋しいと、おまえが誰よりも愛いのだと、いくつもの夜のなかでささやき抱きしめてくれた義勇に、それはどれだけの苦しみを与えたのか。義勇にとっては手ひどい裏切りのようにも感じられただろう。
 思えば罪悪感はとめどなく、炭治郎は、身も世もなく泣いてごめんなさいと、嫌わないでとすがってしまいたくなる。けれど、そんなことはできやしないし、してはならないと思った。
 誰よりも恋しい人を、自分の身を引き裂くよりもつらい目にあわせた。その仕打ちを心の底から悔いている。それでも、もしも時が戻り、ふたたび無惨に二人で立ち向かったあの場面に際したら、きっと炭治郎はまた、義勇だけはと自分の身を犠牲にするだろう。何度繰り返しても、同じ結果しかえらべないはずだ。

 それが義勇にとっては、どんなに残酷な仕打ちだとしても。

 わかっているから、炭治郎の後悔には果てがない。怪我をさせたことは謝れても、義勇をおいて逝こうとした罪は、詫びることもできなかった。
「……そろそろ、雲取山に帰ると聞いた」
 不意に、沈黙を破り義勇が言った言葉が、炭治郎の体をビクリと震わせた。
「はい……次に検診してもらって、異常が見つからなければ」
 どくり、どくりと、心臓がいやな鼓動をきざむ。

 言わないで。わがままだとわかっている。でも、お願い、どうかその先は、言わないで。

 願いながら、炭治郎はギュッと目を閉じた。どれだけ強く願っても、そんなことは言えるはずもない。だから目を閉じ、せめてそのときの義勇の顔は見まいと思った。

 もう、鬼は出ない。鬼におそわれることは二度とない。だが、命の危険に見舞われるのは、鬼の存在ばかりではないだろう。
 ともにいれば、また義勇を一人残し罪悪感を植えつけるような死に方を、炭治郎はするのではないのか。そんな危惧を、義勇が抱いていてもしかたがない。いや、不安だけならばまだいい。炭治郎にとって自分は、生へと繋ぎとめるよすがにすらなれなかったのだと、おまえにとって俺はその程度の存在でしかなかったかと、怒りを覚えてもしょうがないだろう。

 どれだけ慈しんでも自分から離れて行こうとする炭治郎を、義勇が見限ったとしても、炭治郎にはもう、引きとめる資格などなかった。

 義勇の恋が冷めても、自分には責める資格も、泣いてすがる権利も、もはやありはしない。けれど、聞きたくない。義勇の口から別れの言葉を告げられるのは、身を切り刻まれるよりも痛い。
 褥の上でむつみあっているときに、相反する想いに揺れ動くのはあんなにも幸せだったのに。ずっと一緒にいたい。あなただけは生きていてほしい。同じ想いから生まれる、異なった二つの切なる願いは、並び立つことを許されなかった。
 命を捨てる覚悟はできていた。けれども、あなたを傷つける覚悟は、していなかった。義勇に病から生まれた花を食させた凶行よりも、それはよほど罪深い。
 いや、そうじゃない。炭治郎は震えながらも、続けられるはずの義勇の言葉に耳をふさぎたくなるのを、必死にこらえた。

 生き延びて、傷ついた義勇と対面する覚悟を……自分の選択によって傷つけられた義勇に嫌われる覚悟を、していなかった。
 そのとき自分はきっともう死んでいて、義勇に責めなじられることなどできようはずもないと、心のどこかで思っていたから。

 だが、自分はこうして生きている。
 肉体と精神の完全な死を目前にして、身のうちで起こったことは、実はよく覚えてはいない。けれども、みんなが助けてくれたことはなんとなく覚えている。死の淵から押し上げてくれる腕。そして、差し伸べられ引きあげてくれる腕。そのなかに、義勇もいた。
 同時に、トンッとやさしく胸に触れる温もりを、感じた。それが、炭治郎を生き返らせた。
 鮭大根をとねだり、額をあわせてそっと軽く胸に触れる、二人だけの秘密の合図。愛おしい、そのしぐさ。
 あのとき、義勇にそんな意図はどこにもなかっただろう。炭治郎の鼓動を確かめていただけだ。けれども、その合図が、炭治郎を目覚めさせた。

 義勇は、なにも責めない。禰豆子の次に多く病室を訪れてくれるたび、穏やかに軽口をたたき、よく生き延びたと褒めてくれさえする。
 けれど、思うところがないとは、楽観がすぎるだろう。覚悟を、決めなければならない。
 やさしい人だ。誰ともなじもうとせず、深くかかわるのを自ら禁じるそぶりをしていても、炭治郎が任務に出る前には顔を見せてくれた。ひとたび心を開けば、限りなく思い遣ってくれる、情の厚い人なのだ。手ひどくなじるような別れの言葉など、義勇は決して口にはしないだろう。
 触れてくれないその手が答えだと暗に示しながら、ありきたりの、ただの知人へと告げる別れのあいさつで、すべてを終わらせる。なかったことにしようとでもいうように。そんな気がした。
 けれど。

「落ち着いたら……迎えに行く」

 静かな声に、炭治郎は思わず顔を上げた。
 まさかと、思った。都合のいい空耳だろうか。あんまり強く願うから、幻聴まで聞こえたか。
 自分の耳が信じられなくて、とまどいながら見つめれば、義勇はやわらかく笑っていた。
「互いに、片手では日々の暮らしに慣れるのにも、時間がかかるだろう。ましてやおまえには禰豆子もいる。我妻や嘴平も、おまえたちとともに行くんだろう? 暮らしを安定させるまでどれだけかかるかわからないが……禰豆子たちが安心して暮らせるようになったら、そのときは、俺とまた暮らしてほしい」
 穏やかな声音には、責めるどころか皮肉の響きすらなく、ただひたすらに愛おしさだけがあった。
「俺の命は、おまえよりもずっと短い。ともに暮らしたとしても、それがひと月なのか、一週間も経たずに終わるのか、俺にも想像がつかん。それでも……おまえを一人残して逝くことになっても、少しでもいい、お前とともに過ごしたい。駄目だろうか」
 ひくりと、喉が震えた。涙が知らずぽたりと落ちて、握りしめた寝具をぬらす。しゃくり上げてしまえば、止めようなく涙は流れて落ちた。
「さ、触って、くれな、からっ。も、嫌われた、って、おも、った。お、俺が、勝手、したから、ぎゆ、さ、怒って、るって」
 ひっく、ひっくと、子供のように泣いてしゃくり上げるから、うまく言葉にならない。こつりと義勇の額が炭治郎の額にあわせられた。
 密やかな、あの合図のように。
「なにひとつ怒っていないとは言わないが……先に死ぬのがわかっていながら、おまえに看取らせようとしている俺に、怒る資格はないだろう。おまえはまだ安静にしていなければならんのに、触れたら歯止めが利かなくなるぐらいには、俺も自分勝手な男だぞ」
 だが不安にさせて悪かったと、ささやく声はやさしい。

 温かい。あぁ、生きてる。それを今、心の底から実感した。

 帰りたい。あのときそう願った心の奥底に、この温もりを教えてくれた、義勇との愛おしい日々がなかったら。いや、あの雪の日の出逢いがもしもなければ。自分は絶望のままに諦めていたかもしれない。うずくまり、ただ泣いて、なにもかもを諦めていたかもしれない。
 もう疲れた、休みたい。諦めてしまえば……楽になれる。そんな誘惑にとらわれて、眠ることをえらんでしまわなかったのは、雪の日の出逢いがあったから。なにも知らず、なにもできなかった自分に、道を示してくれたあなたがいたから、ここまできた。
 そして、どれだけ後悔しようとも、もう一度、あなたに逢いたかったから。生きたいと、強く願った。

「……答えは?」
 わかっているくせに、意地が悪い。小さく微笑んだまま聞くその顔に、意地悪とすねてみせたら、閨でのように、でも好きだろうとうれしそうに言うのだろうか。
「すぐ……すぐに、みんなが、ちゃんと暮らせる、よう、しますっ。だからっ」
「うん……迎えに行く。だが、あまり無理はするな。俺にも準備がいる」
 準備? と小さく首をかしげたら、左手がそっと胸に触れた。
「左手でも、ちゃんとおまえを喜ばせてやれるようにならなきゃならんだろう」
 密やかな声は忍び笑いまじり。一瞬呆気にとられた炭治郎に、義勇はなおも笑って言った。
 額をあわせ、そっと胸に手を置いた、秘め事の合図で。
 炭治郎を生き返らせた、あの温もりと、しぐさで。

「迎えに行ったその日は、鮭大根にしてくれ。楽しみにしている」

 きっとその日は、遠くないうち果たされる。あの朱色の金蒔絵の文箱が、炭治郎の脳裏でぴかりと光った。