なんでもないよくある一日

 炭治郎が家出した。

 なんて言ったら、たぶん誰もが慌てふためいて、なんでそんな悠長にしてるんだと責められるのだろうな。思って義勇はちょっぴり苦笑した。
 以前だったら自分も我を忘れて駆けまわり、人目もはばからず大声で名を呼び炭治郎を探したことだろう。けれども今となっては、またかと苦笑し、少しだけ安堵もする。
 炭治郎は我を抑えて我慢することに慣れすぎていて、わがままも言わない。以前は、そうだった。
 義勇さんなんて知りませんっ、とプンプン頬をふくらませ、イーッだ! なんて歯をむいて飛び出していくなんてこと、あり得ないことだったのだ。
 けれど今、炭治郎は、義勇に向かっておねだりしたり、それが受け入れられないと「わからずや! もう知らない!」なんてふてくされて家出したりする。まぁ、今日は逆だったけれども。

 ともあれ、炭治郎が家出するのがうれしいなんて、自分たちを知らない者が聞けば首をひねるのだろうと、苦笑を深めつつ義勇は立ちあがった。
 火の始末はちゃんとしてある。空き巣が入ったところで盗られて困るようなものはほとんどないが、戸締りもしっかりと確認した。でないと帰ってきたときに炭治郎に叱られる。
「冨岡さん、炭治郎ちゃん駅のほうに行ったよ」
 義勇が戸締りするなりすぐに顔を出した隣の住人に、義勇の苦笑がちょっぴり困り顔になった。汽車に乗るつもりなら、探す範囲も広げざるを得ない。今日はちょっと骨が折れそうだ。
「早く仲直りしなね」
 カラカラと笑うお隣さんにぺこりと頭を下げて、義勇も駅に向かって歩き出した。

 命のやりとりをせず生きるようになって移り住んだ長屋は、意外なことに居心地がいい。自分でも意外だと思うぐらいだから、宇髄や不死川が、おまえが長屋? とあからさまに眉をひそめたのも致し方あるまい。鬼殺隊にいたころの義勇を知っている者からすれば、近所づきあいなどできると思えないのは当然のことだろうと義勇も思う。
 自覚はなかったがどうやら自分は口下手で、交流下手なのらしい。義勇は楽しく会話したつもりでも、相手は辟易したり怒ったりするのが常だった。まったく気にせず笑ってくれていた者など限られる。
 幼少のころから割合そんな具合だったけれども、錆兎を失ってからはよりひどくなった。そこら辺は義勇も自覚している。自業自得と思いもする。ただでさえ敬遠されがちなところへもってきて、義勇自ら人を遠ざける振る舞いをしていたのだから、相手の反応も当然だろう。
 臆せずグイグイと義勇にかかわろうとしてきた者は、鬼殺隊時代はふたりきりだ。

 ひとりは、もういない。太陽のように笑い、獅子のように戦う、ひとつ下の男だった。

 今ひとりはといえば、いつのまにやら義勇の隣にいるのが当たり前になり、ともに暮らしてもいる。不思議な縁だ。雪のなかで出逢ったその子は、今や義勇の伴侶だ。男同士ではあるが、そうとしか言えない。
 一方的に叱責し、妹の命を奪おうとすらした義勇を、いつのまにやら慕ってくれていた男の子。

 さて、炭治郎は今日はどこへ行ったやら。

 今朝の口論は、まぁ、義勇のほうに非がある……と、認めるのはやぶさかではない。素直に認めて頭を下げるのは少しばかり癪だけれど。
 てちてちと道を行く義勇に、炭治郎の目撃情報はあちらこちらからもたらされる。炭治郎は人気者だ。近所では知らぬ者などいない。
 ちょっと誇らしく、また怒らせたのかいとのからかいに少しバツ悪さも覚えつつ、義勇は先を急ぐ。だが以前のように泡を食って走ることはない。

 炭治郎の家出は、もう何回目だろう。

 最初の諍いも、今回も、きっかけなんて他愛ない。犬も食わないと周りには揶揄される類のものだ。笑ってその文言を言われるたび、夫婦扱いされていることが、なんだか面映ゆかった。
 初めてのそれはずいぶんと堪えたが、それでもやっぱり心のどこかでうれしいと思っている自分がいたことを、義勇はしみじみと感謝する。
 ただ後悔し反省し、我を抑えつけて我慢するようでは、立場が逆転しただけだ。お互いに言いたいことを言い合い、思い遣りあい、不満はため込まず、日々を寄り添いあって過ごす。兄弟弟子や柱と隊士ではなく、ともに人生を生きる伴侶ならば、そうでなくてはいけないだろう。立場が同等でなければ、伴侶だ夫婦だなど口では言っても主従と変わらないではないか。
 そう思える自分でよかった。炭治郎も同じであることが、幸せだと思う。

 だが、やっぱり今朝のことは義勇にも言い分がある。無駄遣いと炭治郎は叱ってきたが、大半は照れ隠しであるくせに、飛び出していくとはけしからん。
 まぁ、朝の会話としては不適当だったのは認めるけれども。
 クフクフと笑いたくなるのをこらえて、義勇は足を進める。いつまで経っても初心な炭治郎がかわいい。ついからかってしまうなんて、自分もかなり以前とは違ってきたなと、ほんのちょっぴり寂寥に似た感慨もあった。

 今はもういない同僚たちやお館様にも、こんな自分を見て欲しかった。そして、自分を誰よりも慈しんでくれた姉や、今も一番の親友と言える錆兎にも。

 だが時は戻らない。彼らを失った末の今なのだ。なにかが違えば、今こんなふうに犬も食わぬ喧嘩をして飛び出した伴侶を追うなんてことも、なかったかもしれない。
 ならば悔いるのは違うだろう。
 彼岸で再会したときの土産話が増えるのは、きっといいことなのだと、義勇は胸中で密やかに笑った。

 真っ先に向かうかと思われた宇髄の家には、炭治郎はいなかった。不死川の家にも、村田の家にも。お館様のところにもおらず、心安い仕事先にすらいない。
 これはもう雲取山か狭霧山か? と、義勇は深いため息をついた。さすがにそこまでとは思わなかった。

 今日は夕餉は外食かな。もしくは先生か禰豆子の説教を聞きながらかもしれない。

 肩を落としつつ再び汽車に乗ろうとした義勇の視界の端に、ちらりと過った赤みがかった髪。こっそりとこちらを覗き見ている顔に、しまったと書いてある。

「炭治郎っ!」

 ぴゃ! と飛び上がり、駆けだした炭治郎にすぐさま追いついて、腕を取る。
「おまえ……どこからつけてた?」
「えっと……新宿駅から、です」
 アハハと眉を下げて笑う炭治郎に、義勇はストンと肩を落とした。
「最初も最初じゃないか」
「駅で隠れてました。ごめんなさい」
 ぺろりと舌を出して、炭治郎は申しわけなさげに、けれどもどこか幸せそうに笑った。もう怒ってはいないらしい。
「義勇さんが追いかけてきてくれるのを見るの、なんかうれしくって」
「……まぁいい。帰るぞ。右手がいなくなるのは不自由だ」
 言って義勇は炭治郎の手を握った。
 左の手で、炭治郎の右手を。
「……俺も、左手がいないのはちょっと面倒でした」

 義勇と炭治郎の手は、ふたりで一揃い。今ではそれがもう自然だ。

「買い物して帰りましょうか」
「……四ツ目屋?」
「それはなしって言ったでしょ! もうっ、義勇さんって意外と助平ですよね」
 小声で恥ずかしげに頬を染め言うが、上目遣いには怒りは見えない。
「それはおまえが一番よく知ってるだろうが」
「……ほかの人が知ってたら怒りますよ」
「それは一生ない。安心しろ」

 握った手を離すことなく、ふたりは歩く。夕飯の買い物をして、歩調を合わせて散歩がてら。そうしてふたり同じ家に帰りつき、家出はおしまい。
 そんな具合に日々は過ぎる。笑いあって、寄り添いあって、ときどき犬も食わない喧嘩をしながら、最後まで、ふたりで生きる。