迷子のヒーロー

6 ◇炭治郎◇

 義勇さんが泣いちゃった! 俺が泣かせちゃったのかな。どうしよう、どうしたら泣きやんでくれるんだろう。

 オロオロとする炭治郎を腕に閉じ込めたまま、義勇は静かに涙を流し続けている。
 どうしたらいいのかわからずに炭治郎はすっかり困ってしまったけれども、錆兎と真菰には頼れない。傍らでじっと炭治郎と義勇を見守っていた錆兎と真菰は、義勇が泣いた途端にぽかんと口を開いて、すぐさま店のほうに駆けていってしまった。禰豆子も炭治郎以上にオロオロと困っているばかりだ。
 助っ人も望めぬまま、大丈夫ですよ泣かないでと繰り返しながら、炭治郎は内心困り果てていた。
 悲しんでほしくないから言ったのに、俺が義勇さんを泣かせちゃうなんて。嫌われちゃったらどうしよう。不安になった炭治郎の耳に、小さな声が聞こえた。

「迎えに、来てくれるのか……お前が」

 小さく呟かれた声は、義勇のものだ。間違いない。炭治郎はパチンとひとつまばたきした。やっと反応を返してくれた義勇にホッとして、炭治郎は元気な声で返事した。
「はい!」
 絶対に迎えに行きますと誓って、義勇に笑いかける。
 涙の流れる瞳でじっと見つめられて、炭治郎の顔がちょっと熱くなった。
 義勇の瞳はとてもきれいだ。どこかでこんな青を見たことがある。あの青はたしか……そうだ、ビー玉。
 炭治郎は竹雄の宝物だと思い出した。そうだ、三郎爺ちゃんがみんなにくれたビー玉だ。母さんが瑠璃色というのよと教えてくれた。
 指で弾いてしまうのがもったいないぐらいきれいな、瑠璃色のガラス玉。竹雄がすごく気に入って、花子が欲しがっても嫌だこれは俺のと泣いて譲らず、宝箱にこっそりとしまい込んでしまったビー玉だ。炭治郎だってひと目で気に入って夢中で見惚れたけれど、炭治郎はお兄ちゃんだ。どんなに欲しくったってしかたない。だから忘れたふりをしていた、でも本当はとても欲しかった、澄んできらめく瑠璃色。
 そんな特別なビー玉に似た瞳が、涙に濡れてきらめいている。そこに映る炭治郎の顔は、ゆらゆらと揺らめいていた。

 宝箱にしまっちゃえたらこいいのにな。このきれいな目を、自分だけの内緒の宝箱にしまって、いつでも見つめられたらいいのに。俺だけの宝物にできたらいいのに。
 思うけれど、でも、それじゃ悲しい。見つめ返してくれなきゃ、きっと寂しくてたまらなくなるだろう。だって、義勇の目に自分が映っているのが、とてもうれしい。自分の目に映る義勇の顔だって、義勇にも見てほしいと思うから。

 なんでそんなことを思ったのかは、よくわからない。それでも義勇に見つめられるのはたまらなく幸せな心地がする。でもでもやっぱり、泣きやんでほしくて不安にもなった。どうしたらいいのかわからなくて、困ってしまった炭治郎は、少しだけ身じろいだ。

「……炭治郎」

 初めて名を呼んでくれた声音は、囁くように小さい。けれども、たとえようもなくやさしくて、思わず炭治郎は動きを止めた。
 大きく目を見開き、はい! と元気な声で返事して笑う。
 うれしい、大好きと、体中に温かい気持ちがこみ上げて、あふれてくる。これ以上にうれしいことなんてあるんだろうかと思ったのに。

 笑う炭治郎の目の前で、はらはらと涙をこぼす義勇の目がゆるりと細まり――そして、唇がかすかな弧を描いた。

 ……笑った? 義勇さんが、笑ってくれた!!

 ようやく見られた義勇の微笑みに、炭治郎の胸がドキドキと破裂しそうに高鳴る。
 誰のどんな笑みよりもそれは儚くて、でも、とてもやさしくてきれいだ。炭治郎の頬は知らず真っ赤に染まった。
 義勇は炭治郎のヒーローだ。迷子になってた悲しげな目のヒーロー。強くてやさしいお兄ちゃんだけれど、弟のように守ってあげたくもなる、不思議なヒーロー。
 なにか話したいのに、言葉が見つからない。ドキドキと苦しいくらいに胸が鳴って、クラクラするほど顔が熱くなってくる。濡れたきれいな瞳に見つめられ、炭治郎は少し恥ずかしくなった。

「義勇……」

 俯きかけたのと同時に聞こえてきたのは、義勇の名を呼ぶ男の人の声だ。誰だろうと赤くなった顔を向けたら、錆兎と真菰に挟まれて、やさしそうなお爺さんが立っていた。
「……先生」
「先生? 義勇さんの先生ですか?」
 こくりと義勇がうなずいた瞬間、さっきまでよりも強く抱きしめられた。お爺さんの腕が、炭治郎ごと義勇を抱きかかえている。お爺さんなのに力がずいぶんと強くて、炭治郎は思わず小さな声で叫んだ。
 びっくりして顔を上げてみれば、ぽたりと額に落ちてきたのは温かい雫。義勇の先生だというお爺さんは「よかった、義勇、よかった」と、小さく繰り返し呟きながらポロポロと泣いていた。

「義勇!」

 わぁっと泣き声を上げて義勇の名前を呼びながら、錆兎と真菰もしがみつくように抱きついてくる。
 泣きながらよかったと口々に言う人たちにぎゅうぎゅうと抱きしめられて、炭治郎は目を白黒させた。
 自分が義勇を泣かせてしまったから、みんな心配しているのだろうかと不安になる。でも、感じる匂いはうれしそうだし、みんな喜んでるみたいだ。
 泣かせてしまったのに、なんでよかったんだろう。それとも、笑ってくれたことを喜んでるのかな。それなら俺も同じくらいうれしいけどと、炭治郎が困惑していたら、義勇の腕が少しだけ緩んだ。
「……炭治郎が、苦しそうだから」
 呟く声はやっぱり淡々としてる。表情もかわらない。けれども、炭治郎のことを案じてくれる言葉はやさしかった。それがとってもうれしくて、炭治郎の胸がほわりとあったかくなる。
 義勇の呟きに、潰されそうになっている炭治郎にみんなもようやく気づいたんだろう。すまんすまんと謝りながら、お爺さんが少し離れてくれた。錆兎と真菰も一度は手を放したものの、義勇から離れるのは嫌だったらしい。ぴったりと義勇に寄り添って、炭治郎を腕に抱いたままの義勇の頭をなでまわしている。
 されるがままの義勇は、もう笑ってこそないけれど、それでもずっと、炭治郎を見つめてくれていた。その瞳から涙はまだ流れ続けている。けれども悲しい匂いのなかには、温かな大好きの匂いもしていた。

 俺のことを大好きだと思ってくれているのならうれしいけども、きっと違うんだろうな。炭治郎はひっそりと思う。

 義勇の心に今あふれてる大好きは、お姉さんへの大好きだ。ずっと思い出さないようにしてきたはずの大好きなお姉さんを、きっと義勇は思い出している。
 悲しい寂しいと香る、義勇の匂い。流れる涙。大好きだから悲しくて、大好きだから笑ってほしい。そんな心が涙とともにあふれてる。

 義勇が笑ってくれて、炭治郎がうれしくてたまらなくなったように、お星さまになったお姉さんもきっと今、うれしいと笑ってくれているだろう。義勇が笑っているのがうれしいと。だから、もっともっと義勇が笑えるようになればいい。お姉さんが幸せなのが、義勇は一番うれしいんだから。そのためには、義勇こそが笑ってなくちゃ駄目だ。
 それに、義勇が笑うのは、炭治郎だってすごくうれしい。もっともっと笑ってもらえるなら、炭治郎は、絶対にがんばれる。

 義勇の心が迷子になっても、どんなに大変な場所にいても、がんばって絶対に迎えに行くから。
 だから、いっぱい笑ってほしいと、炭治郎も義勇を見つめたまま、ふわりと笑った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 暇を告げる鱗滝に倣うように、そろって頭を下げる義勇や錆兎たちに、禰豆子が笑いながらバイバイと手を振る。義勇に用意したパンは、さらに数を増やして袋に詰められ、今は錆兎の手にあった。
 鱗滝の家は、竈門ベーカリーから見て、キメツ学園を真ん中にしたちょうど反対側らしい。学校から家に帰る道は真逆なのだから、義勇が来てくれることはないだろう。炭治郎が逢いに行くにしても、小学一年生の足では、キメツ学園までだってなかなかに遠い。

 次はいつ逢えるんだろう。しょんぼりしたくなるけれど、みんながうれしそうにしているのに炭治郎だけが落ち込んだ顔を見せるわけにもいかない。なぜだかズキズキする胸をこらえて、炭治郎は「サヨナラ」と義勇に言うと、ぎこちなく笑ってみせた。

 義勇の目は少し赤くなっていたけれど、もう涙はない。笑ってくれたのも一度きりで、泣きやんでからはまた、無表情のままだ。
 と、突然義勇の手が伸びてきて、炭治郎の頬を摘まんだ。
「いひゃいっ、義勇さん?」
「……なんで笑わない?」
 ぷにぷにと炭治郎の柔らかい頬を摘まみ、小首をかしげて言う義勇から、どこか不満そうな匂いがする。
「笑いました……」
「笑ってない」
 うぅっ、と炭治郎は言葉に詰まる。サヨナラと笑ってみせたものの、たしかに作り笑いだ。
 だって次の約束もなしにサヨナラなんて、笑って言えない。もしかしたらもう逢えないかもと思ったら、なんだか泣きたくすらなってしまう。
 義勇の突然の行動に、鱗滝や錆兎たちはぽかんとしている。炭治郎の父や母も、おやまぁという顔で目をパチクリとさせていた。
 なにか言わなければいけないのはわかるのだけれど、でも、どうしたらいいんだろう。
 だって、炭治郎はわがままを言ったことがほとんどない。物心ついたころにはもう『お兄ちゃん』だったから、わがままを言われたり甘えられたりするのには慣れている。けれども、自分が甘えるのはとても下手だ。父さんや母さんを困らせてしまうから、わがままなんか言っちゃ駄目だとも思っている。
 わがままなのは、義勇だって困るだろう。でも。

 次はいつ逢えますか。いっぱい逢いたいです。今度は剣道してるとこを見せてもらってもいいですか。どうやってあんなに怖い犬をねじ伏せられたのか、俺にも教えてほしいです。義勇さんにギュッてしてもらえて、うれしかった。俺もまた義勇さんのことギュッてしてもいいですか。
 もっと。もっともっと、義勇さんと一緒にいたいです。

 そんな言葉を言っていいのだろうか。義勇は学校にさえ最近ようやく行けるようになったばかりだと聞いた。それなのに、逢いたいなんてわがままを言ってもいいんだろうか。
 困ってしまってもじもじと、頬を摘ままれたまま上目遣いに義勇を見る。義勇は感情の読めぬ目で炭治郎を見つめていた。じっと見据える眼差しの意味がわからなくて、炭治郎はますます困ってしまう。
「……あの」
「自転車」
「え?」
「乗れるか?」
 聞かれてこくりとうなずけば、やっと炭治郎の頬から指が離れた。
「今度の日曜日に迎えに来る。姉さんと……義兄さんに、逢いに行く」
「義勇さんのお姉さんとお兄さんに?」
 こくりとする義勇に鱗滝がぎょっと目をむくのが見えた。
「義勇、お前……」
「先生、墓参りに行ってもいいですか?」

 炭治郎と一緒に。

 義勇が言った言葉に、炭治郎はぱぁっと顔を輝かせた。
「お墓参り行きます、俺! 義勇さんと一緒に! 母さんいいでしょ!?」
 うんうんとうなずく鱗滝の目は、また涙が滲んでいる。きっと涙もろい人なんだろう。うれしそうな鱗滝とは反対に、錆兎と真菰はずるいと声を上げ頬をふくらませていた。それを見て、禰豆子も私も行くと手を上げるしで、なんだか一気に騒がしい。義勇が少し困ったように眉を寄せるのを、炭治郎もどうしようと見上げる。
 錆兎や真菰とも仲良くなれたし、禰豆子を置いてひとりで出かけるのは気も咎める。でも、本当は。
「あら、それじゃみんなで行ったらどうかしら。ねぇ、お父さん。たまには臨時休業して、子供たちを連れてうちもお墓参りしましょうよ」
「いや、奥さん、それは申し訳ない。私が連れていきますから」
「いやいや、たまにはうちも、子供たちと出かけてやらなきゃなと思ってましたから」
 父までが母と一緒になってそんなことを言い出したものだから、禰豆子や錆兎たちはやったと万歳している。
 あれよという間にまとまった、二家族そろっての墓参り。大人たちの話を聞いていると、どうやら竈門家のお墓と義勇のお義兄さんのお墓は、偶然にも同じ霊園にあるようだ。義勇の姉の眠る霊園だけ別の場所だが、それほど離れているわけでもない。なんならみんなでお参りして、その後は一緒に食事でも。大人たちの会話に錆兎たちや禰豆子も大盛りあがりで、すっかり誰もがその気になっていた。

 本当は、義勇さんと二人っきりがよかったんだけどな。義勇さんを独り占めしてみたかったんだけど……。

 ちょっぴり残念だけれどしかたない。義勇さんとお出かけできるだけでもうれしいんだから、そんなわがままは言ったらいけない。
 うん、禰豆子だけじゃなくて竹雄や花子も一緒に行けるんだから、きっとこのこうがいいんだ。そう思って笑った炭治郎の耳に、不意に屈み込んだ義勇が顔を寄せてきた。
「あの犬の家を聞いておいてくれ。二人で逢いに行こう」
 小さい声で言われて、顔を離す義勇を茫然と見上げたら、無表情のまま義勇が人差し指を唇に当てた。
 内緒、と、言うように。
 義勇の瑠璃色の目が、ちょっとだけ悪戯っぽく輝いた。

 はいっ! と、思わず大きく返事しそうになって、炭治郎は慌てて自分の口を手で塞いだ。
 だって内緒なのだ。内緒でふたりでお出かけするのだ。
 炭治郎のヒーローはやっぱりすごい。炭治郎が残念に思ってるのをちゃんとわかってくれた。

 きっと、墓参りの日は晴れるだろう。みんなでお墓の掃除をして、お姉さんにもお義兄さんにも約束するのだ。義勇さんがいっぱい笑ってくれるようにがんばりますと。あの犬とも、次にあったらきっと仲良くなれるはずだ。
 義勇さんと一緒に、散歩させてもらえるといいな。炭治郎は、ほわほわとあったかな義勇との約束を、胸の奥で抱きしめる。

 うれしくてえへへと笑ったら、義勇の唇がほんの少し笑みの形を作った。