迷子のヒーロー

3 ◇炭治郎◇

 人殺し。なんて怖い言葉だろう。まさかそんな言葉を聞かされるとは思わなくって、炭治郎はぎゅっと手を握りしめた。
 とても怖い言葉だ。本当だったら、あの犬よりも、もっと、ずっと、怖い。
 でも、うかがい見る義勇の横顔はただ静かで、やっぱりきれいだった。

『怪我してる』
『きっとそいつ苦しかったと思う。ごめんなさい』

 人を襲おうとした犬さえあんなに案じられる人が、そんな怖いことをするなんて信じられない。
「でも、やっぱり義勇さんはやさしい人です」
 義勇から漂う淡い水のような匂い。その奥にひっそりと、悲しい悲しいと泣く子供のような匂いがしている。そして、まるで隠されているみたいにかすかにだけれど、とてもやさしい匂いも。
 なにを言っているのかとでもいうように、義勇が視線だけでちらりと見下ろしてきた。義勇のきれいな顔は無表情のままだけれど、それでもやさしい匂いが淡く香るから、炭治郎はにっこりと笑った。
 思い切ってぎゅっと抱きついてみれば、義勇の細い体がぴくりと揺れる。

 なにがそんなに悲しいの? なにがそんなにあなたを苦しめているの?

 聞かせてほしくて。小さな自分よりずっと大きいお兄ちゃんだけど、守ってあげたくて。
 帰り道で握りしめた手は冷たかったけれど、抱きついた義勇の体は温かい。義勇がどんなに否定しても、やさしい気持ちが詰まった体だからに違いなかった。
 戸惑いや困惑の匂いはしても、義勇から怒っている匂いはしてこない。隠し切れずにうっすら漂うやさしさのほうが、義勇の本当の匂いだからなんだろう。
 義勇から香るその匂いが、とても好きだと思う。悲しさがいつか消えたら、惹かれてやまないこのやさしい匂いは、もっともっと自分を包んでくれるだろうか。

 義勇さんも俺を好きになってくれたらいいな。

 炭治郎のヒーロー。強くてやさしいヒーロー。迷子なら自分が連れて行ってあげたい。いつも禰豆子の手を引いて行くのと同じように、義勇の大きくてひんやりでさらりとした手を握って。
 義勇が炭治郎を助けてくれたように、今度は炭治郎が義勇を助けてあげたかった。
 どうすればそれができますかと言葉にする代わりに、炭治郎は抱きつく腕に力を込めた。少しだけ困ったように眉を寄せている義勇の顔を、じっと見上げる。
 そして、義勇がようやく、ゆっくりと炭治郎に視線を向けたそのとき。

「お邪魔します!」

 突然のノックとともに開いたドアから、子供の声がした。
 その刹那、義勇の体からふわりと立ち上ったのは、少しの安堵と申し訳なさげな匂いだ。
「義勇! 大丈夫か?」
「迷子になっちゃったの? 怖くなかった?」
 口々に言いながら駆け寄ってきたのは、宍色の髪の男の子と浅葱色の瞳の女の子だ。
 義勇に抱きついたままの炭治郎を見る瞳が、こいつはなんだと責めているようで、炭治郎はあわてて義勇から離れた。
「なかなか帰ってこないから、爺ちゃんも真菰も心配してたんだぞ」
「錆兎だっておやつも食べないで心配してたよ」
 義勇よりずっと小さい子供たちだ。なのに、二人が義勇にかける言葉は、炭治郎が禰豆子たちに語りかけるのと同じひびきをしていた。
「ごめん……」
「義勇が大丈夫ならいいさ。でもあんまり心配かけるなよな」
「鱗滝さんがお家の人とお話してるから、終わったら一緒に帰ろ」
 にっと笑う男の子に髪をぐしゃぐしゃと撫でられても、義勇は咎めもせずされるがままだ。
 真菰という名らしい女の子と目があったのか、きょとんとしていた禰豆子がにっこり笑って手を上げた。

「こんにちは! 竈門禰豆子、六歳です! 四月になったら小学生です!」
「こんにちは、私は鱗滝真菰だよ。禰豆子ちゃんも小学生になるの? 一緒だぁ」
「俺は鱗滝錆兎だ。義勇が世話になったな。ありがとう」
 にこにこと笑いあう禰豆子と真菰は、初対面から打ち解けたみたいだ。ぺこりとお辞儀した錆兎という男の子に、ぽかんとしていた炭治郎もあわてて笑い返す。
「俺は竈門炭治郎。小学一年生。えっと、錆兎と真菰は義勇さんの弟と妹? あれ? でも名字が違うな」
「違う、俺が義勇の兄ちゃんだ」
「えぇっ!? え、でも、あれっ?」
 ぼんやりとしたままの義勇と、胸を張る錆兎を代わる代わる見て、炭治郎は混乱する頭で一所懸命考えてみた。
「義勇さんは、俺よりもお兄ちゃんに見えるけど、もしかして禰豆子と同じくらいなんですか? それとも、小さいけど義勇さんより錆兎のほうが年上なのかな」
「小さいは余計だ。俺も六歳だけど、炭治郎とあんまり背は変わらないだろ。そうじゃなくて、俺らは兄弟弟子なんだよ。爺ちゃんの道場で、俺のほうが先に稽古をつけてもらってたからな。義勇は弟弟子で、俺は義勇の兄弟子だ。だから俺は義勇の兄ちゃんなんだ」
 義勇の代わりに胸を張って答えた錆兎に、そうだよなと促され、義勇がこっくりとうなずく。その様子は、本当に義勇のほうが幼い弟めいて見えた。
 炭治郎も禰豆子のおままごとにつきあってやるときには、禰豆子の子供や弟の役をさせられることがある。正直言うと、あれはかなり恥ずかしい。お兄ちゃんなのに自分より小さい子にいい子いい子と褒められるのは、どうしていいかわからなくて困ってしまう。だけど義勇は平然として見えた。
 義勇は恥ずかしくないのだろうか。こっそりうかがい見るけれど、義勇の顔は相変わらず無表情のままだ。うれしいのか、困っているのかすら、さっぱりわからない。

 でも、嫌なわけではないんだろう。嫌がったり怒っている匂いはしないから。
 それよりも、そう、ほんのわずかに香るのは、やっぱりやさしい慈しみの匂い。
 きっと義勇さんと錆兎や真菰は、すごく仲良しなんだ。悲しそうなこの人に、安心できる誰かがいるのは、とてもうれしい。
「錆兎と真菰もパン食べるか? さっき義勇さんが食べたのはクロワッサンなんだけど、錆兎たちも食べるならもっと貰ってくるよ!」
 うれしい気持ちのまま笑って言えば、錆兎と真菰は、そろって目を見開き顔を見合わせた。
「義勇が、パンを食ったのか?」
「本当!? 本当に食べたの? 義勇」
 詰め寄るふたりに義勇が小さくうなずいた。二人の顔がパァッと輝き笑みが浮かんだ。
「凄いな、義勇! 俺たちがいなくても食えたんだな!」
「義勇、えらいねぇ」
 寄ってたかって凄いえらいと頭をなでまわされても、義勇はなにも言わない。その光景に、炭治郎はまたまたぽかんとしてしまう。さっきから驚かされることばかりだ。
「えっと、義勇さん、ご飯食べられなかったんですか? もしかして食べるの嫌でしたか?」
 たずねても義勇は答えない。代わりに答えてくれたのは真菰だ。
「義勇はね、すごく悲しいことがあったから、心が迷子になっちゃってるんだぁ。鱗滝さんが言ってたよ。うちに来たころはね、自分からご飯を食べたり眠ったりするのもできなかったの。でもね、最近やっと学校にも行けるようになったんだよ。凄く頑張ってるんだぁ」
「そうなのか……」
 心が迷子になって、食べることも眠ることもできなくなるほどの悲しさ。それは、一体どれだけつらいことなんだろう。炭治郎にはまったく想像がつかない。もしかしたら、義勇が自分のことを人殺しだなんて言ったのは、その悲しさのせいなんだろうか。
 だけど、そんなにつらくても悲しくても、やさしい心をなくさない義勇が、とても強い人だということはよくわかる。

 やっぱり義勇さんは、ヒーローみたいに強いんだ。それでもって、とってもやさしいんだ。
 ただ悲しすぎて、笑うことができなくなっちゃったんだろう。

 炭治郎は思って納得した。それは炭治郎にとっても悲しいことだ。
 逢ったばかりの炭治郎でさえ、こんなに心配だし悲しいと思うぐらいなのだ。仲良しの錆兎や真菰は、もっとずっと、義勇のことが心配なんだろう。

 義勇さんの悲しさはいったいどこからくるんだろう。知りたいけど、聞いても大丈夫なのかな。

 悩む炭治郎をよそに、すっかり真菰たちを気に入ったらしい禰豆子が、二人にならって義勇の頭をなで始めた。
「ぎゆさん、いい子いい子」
「わぁぁっ!! ね、禰豆子、なにやってるんだ!? 義勇さんごめんなさい!」
「あのね、禰豆子は迷子になったらお兄ちゃんを待つの。そしたらね、お兄ちゃんが迎えに来て、ちゃんとお家に連れて帰ってくれるんだぁ。お兄ちゃんと手を繋げば怖くないんだよ」
 だから義勇も炭治郎に連れて帰ってもらえばいいと、あわてふためく炭治郎を気にすることなく、禰豆子が笑う。
「……なるほど。炭治郎は義勇にパンを食べさせられたぐらいだからな。もしかしたら本当に義勇の心を連れて帰ってくれるかもしれない」
 錆兎もそんなことを言ってうなずくし、真菰もにこにことして
「私たちだって、義勇にご飯を食べてもらうまで何日もかかったもん。炭治郎は凄いね」
 なんて言うものだから、炭治郎は、目を白黒させてしまう。ドキドキとしながらそっと義勇の顔を見つめてみても、義勇は無表情のままだ。

 でも。義勇はなんにも言わないけれど、怒っている匂いもしないから。
 もしも。もしも本当に、自分が義勇をちょっとでも助けられるなら。迷子の心を連れ帰ってあげられるのなら。

 うん、と強くうなずいて、炭治郎は拳を握った。
「えーっと、義勇さんごめんなさい!」
 ぺこりと頭を下げた炭治郎は、思い切って義勇の膝に乗ってみた。だってそうしないと、禰豆子たちより義勇はずっと大きいので、抱っこするのは無理そうだから。
 怒られるかなとちょっと不安になったけれど、義勇からはやっぱり怒った匂いはしない。それどころか、ぱちくりとまばたきしながらも炭治郎を見つめてくれて、炭治郎はうれしくなる。義勇の驚いた顔は、なんだかかわいかった。
「重くないですか?」
 少し困ったように眉を寄せているけれど、それでも義勇は、こくりとうなずいてくれたから。炭治郎は、自分よりずっと大きい義勇の体を、ぎゅっと抱きしめた。

 なにがそんなに義勇を悲しませているのかはわからないけれど。
 なんで自分のことを人殺しだなんて言うのかは知らないけれど。

「大丈夫。俺が一緒にいるから、大丈夫ですよ」

 届け。届け。義勇さんの心に届けと願いながら、炭治郎はぎゅうっと義勇を抱きしめる。禰豆子やほかの弟妹たちが泣くたびするように。兄ちゃんが一緒にいてやるから、大丈夫。そう言うように、強く抱きしめる。
 義勇の肩に顔を埋めた炭治郎こそ、義勇に抱っこされてるみたいだけれども。きっと気持ちが大事だろう。
 びくりと揺れた義勇の体。それでも、大丈夫大丈夫と炭治郎が繰り返すうちに、こわばりが解けていく。

 そして。

 炭治郎の背が温かいなにかに包まれた。ぐっと力が加わって、義勇に抱き返されたのだと悟る。
 義勇の腕は少し震えている。それに力が強くてちょっと苦しい。でも、義勇の腕も胸も、やさしくて温かいと思った。それに、なによりうれしい。義勇が初めて自分の意志で動いてくれたことが、とてもうれしい。

「義勇さん、大丈夫ですよ。迷子になっても大丈夫。俺が一緒にいるから」

 義勇の鼓動を聞きながら、炭治郎は繰り返した。届け、届け、もっと、もっと。義勇さんに届けと、願いながら。