迷子のヒーロー

5 ◇鱗滝◇

 お宅の義勇くんが迷子になってしまったようで、うちでお預かりしています。
 そんな電話に泡を食って、一緒に行くと言ってきかない孫たちを伴い駆けつけてみれば、詫びる鱗滝にパン屋の若夫婦は、恐縮しきりに礼を言ってきた。
 ちょうどお客さんも途切れましたから。穏やかに促され、店内に設えられたイートイン席で事の次第を聞いた鱗滝は、驚きに目を見張った。
 いつでも真っ直ぐ帰宅するのに、義勇はなぜ、鱗滝の家とは逆方向に向かったのだろう。それはわからないが、小さな子供を助けたという話は、鱗滝の胸に深い感慨を与えずにはいられなかった。
 涙ぐんだ鱗滝に善良そうな夫婦があわてる様は申し訳なくもなるが、勝手に瞳はうるむ。誤魔化すことはためらわれ、義勇の現状を語れば、夫婦は揃って痛ましげに眉をひそめた。
「そうですか……義勇くんのお姉さんが……」
「鱗滝さんがいてくれて良かったです。そんな状態で施設になんて……」
 まるで我が事のように義勇を思いやる夫婦に、鱗滝は胸の内で安堵した。二人の表情や声には、下卑た好奇心やら義勇の境遇に対する自己満足の哀れみなど、一切感じられない。

 これも縁だろう。それも、義勇にとってはいい方向に向かうかもしれない縁だ。

 何事にも関心を抱かなくなった義勇が、自ら関わっていった、人との縁。それは、なにかが変わる予兆のように鱗滝には感じられた。
「事故からそろそろ半年ほどになりますが、定期的に通っているカウンセラーの言葉も届いてはいないようです。私や孫たちの言葉ならば聞けるようにはなりましたが、まだまだ先は長いでしょう。今はまだ、以前のような快活な子供らしさも見せてはくれません。だが、焦ってもあの子を追い詰めるだけですから。我が家でゆっくりと傷が癒えるのを待とうと思っております」
 初めて道場を訪れたときの義勇を、鱗滝はよく覚えている。
 たった一人の家族である蔦子という姉とともに、門下生もほとんどいない鱗滝の剣道場の門を叩いた少年。冨岡義勇という名のその子がやってきたのは、中学一年の秋口だ。入門には中途半端な時期だった。少し人見知りなきらいはあったが、気遣いのできるやさしい子だった。
 孫の錆兎や真菰が興味津々にまとわりつき、俺たちのほうが先に習っているのだから兄弟子、姉弟子だと宣言するのに、困った顔をしたのは鱗滝だけだ。幼子が馬鹿なことをと無下に扱うこともなく義勇は、二人を咎めた鱗滝を錆兎たちの言うとおりですからと制しさえした。腹を立てた様子など微塵もない。
 言葉だけへりくだってみせたわけでもなく、義勇は実際に、錆兎たちに対して生真面目に礼を尽くしていた。やさしく思いやりにあふれた子であるのはすぐに知れた。
 身内の贔屓目を除いても、錆兎や真菰はかなり剣の才能があると鱗滝は確信している。義勇の才は、そんなふたりと比べても、ちっとも劣るものではなかった。
 試合での義勇は最初のうち誰の目にも劣勢に見える試合運びをする。それでも最後には勝つ。試合を決める一撃は鋭く、義勇の実力を対戦相手はそこで初めて知る。
 警告をもらわぬ程度に相手の剣を受け流し続け、自ら打ち込む手数を減らそうとするかのような義勇に、一度だけ鱗滝は、なぜそんな戦い方を? と、たずねたことがある。たしなめられたと思ったんだろう。義勇は困ったように眉尻を下げ、できれば人を打つのは少なくしたいと答えた。

 強くなりたいけれど、他人を打ち負かしたいわけではない。いたぶるような真似はしたくないのだ。できるかぎり痛い思いをさせずに、決めるなら一撃で終わらせられるようになりたい。

 言葉を選び選びつたなく伝える義勇に、鱗滝は心密かに感心したものだ。
 侮られたと相手はとるかもしれないぞと問えば、全力で相手の剣を受け切って隙を狙うのは、侮りとは違うと思うと、義勇はサッと顔つきを改め見つめ返してきた。

『敬意を払える相手に無謀に打ち込むことこそ、弱くて怯えている証拠に思えます。少なくとも俺はそうです。相手がどう出るのか、見定められる目がほしいんです。先生みたいに。それに、打ち込むときには遠慮はしません』

 そう言って、少しだけ強く鱗滝を見つめた瞳。それが鱗滝を感嘆させた。
 鱗滝の流派は、水の如き剣を旨としている。器の形に従う水のように、相手の出方で姿を変える、柔の剣。義勇に言葉で伝えたことはない。
 だが、義勇はそれを己の目で、鱗滝の剣から学びとったのだ。
 心技体揃った一流の剣士になれる器を、鱗滝はその日の義勇に見た。将来がじつに楽しみだと、師としてその成長を見守り導けることを誇りと思える少年。冨岡義勇とは、そういう子だった。

 だがあの日。
 あの日道場に聞こえてきた、電話のベルの音。あれが義勇から感情を、義勇の大切なものを、奪い去ってしまった。

 カーブを曲がり切れなかった車が、歩道に突っ込んだ。ありふれたとは言いたくないが、めずらしくない事故であるのに違いはない。相当スピードも出ていたようだ。運転手はかなり酔っていてブレーキ痕は残っていなかった。
 お気の毒ですが即死でした。そう、受話器の向こうから伝えられたあの日。道場を訪れた義勇は、どこかそわそわとしていた。
 聞けば姉と婚約者に旅行をプレゼントしたのだと、気恥ずかしげに言う。楽しんできてくれるだろうか。笑ってくれているだろうか。ほんの少しの不安を滲ませ言うから、もちろんだと笑ってやれば、義勇もうれしそうに安堵の笑みを浮かべた。
 二人が帰ってきたら、今度こそ姉の婚約者を義兄さんと呼んであげたいのだと、義勇は面映ゆそうに小さく笑っていた。
 じゃあ今日は義勇は家に一人か。寂しいだろうから、俺と真菰が泊ってやってもいいぞ! などと、錆兎と真菰がまとわりついても邪険にすることなく、少し困った顔で、俺じゃカップ麺しか食べさせてやれないぞと笑っていた。

 そう、笑っていたのだ。まだ子供らしいまろさの残る顔を、はにかむように綻ばせて。

 事故のことを告げたとき、義勇はきょとんとしていた。なにを言っているのかわからないと、瑠璃色の目をまばたたかせて、苦笑すらした。
 鱗滝が言い聞かせるようにゆっくりと語った言葉を理解していくうちに、義勇の顔から血の気とともに一切の感情の色が抜け――それきり、病院に向かう車中でも義勇は一言も言葉を発することはなかった。
 錆兎と真菰が両隣を陣取り、ぎゅっとその手を握って気遣わしく見上げても、義勇はそれに気づいた様子もなかった。いつもの義勇なら、二人が不安げな様子をみせればすぐに気づき、たとえ自身も不安に怯えていようと大丈夫だと笑ってやるだろうに。

 鱗滝が身元確認した蔦子の体は無残な有り様だったそうだが、顔だけは不思議にきれいなままで、静かに眠っているように見えた。

 姉の婚約者の家族が号泣する声がひびくなか、義勇は涙ひとつ見せなかった。泣きもせず、喚きもせず、すべての感情を失った顔でただ立ち尽くしていた。
 互いに思いやり慈しみ合っている姉弟だった。誰の目にも微笑ましく映る姉弟だったのだ。儚げな風貌に似合わぬ気丈さで、幼かった義勇を守り続けてきたまだ若い姉。どれだけ苦労があっただろう。そんな苦労をちっとも表に見せぬ人だった。温かな笑みを思い出せば、今も鱗滝の胸は悲しみで満ちる。
 彼女の葬儀一切を取り計らったのも、鱗滝だ。
 義勇は一度も声を発することがなく、どれだけ鱗滝や錆兎たちが促しても、自ら食事をとり眠ることすらしなかった。
 三日もすれば立っていることすらできなくなり、しかたなしに病院の世話になることになったが、それらの手続きをおこなったのも鱗滝だ。
 放っておくことなどできようはずもない。義勇を慕う孫たちも、毎日義勇を見舞っては、こっそりと泣いていた。
 義勇が自分たちを見てくれないと。目は開いているのに自分たちを見ていないと。齢五歳の子供らが声を殺して泣くのだ。
 俺らは義勇のお兄ちゃんとお姉ちゃんだから、絶対に義勇を守ってやるのだと泣く孫たちの頭を、なでてやることしか鱗滝にはできなかった。
 身寄りのない義勇を引き取ると決めたのは、成り行きなどではない。孫たちの切望もあった。だが、なによりも鱗滝自身が、義勇に笑顔を取り戻させてやりたくてしょうがなかった。

 悲しみを表すことすらできなくなった義勇に、涙を流させてやりたかった。
 泣いて喚いて、胸に満ちて薄れぬ悲しみを吐き出してくれと、願っていた。

 だが、鱗滝たちが義勇を救うより早く、救われたのは鱗滝たちのほうだ。不安と焦燥から三人を救ってくれたのは、誰より傷ついていた義勇である。

 その日も義勇は、病院のベッドに横たわり、枯れ枝のようにやせ細ってしまった腕に点滴を繋がれ、かろうじて生かされているといった有り様だった。姉の葬儀からひと月近く経っていただろうか。いつものように錆兎と真菰が、泣きそうな声で水だけでも飲んでと懇願していたときだ。
 今までどれだけ声をかけてもなんの反応も見せず、浅く息をするだけで、瞳を虚空に向けるばかりだった義勇が、初めてぴくりとまぶたを震わせた。
 ゆるゆると錆兎たちに顔を向けた義勇の乾ききった唇が、うっすらと開かれる。真菰が慌てて吸い飲みの口を差し込むと、やがて喉が小さく動いた。
 そのときの孫たちの喜びようは激しかった。鱗滝も歓喜が胸に満ちて、人目をはばからず涙を流したくらいだ。
 だが、義勇が水を飲んだと飛び跳ねて喜ぶ孫たちとは裏腹に、鱗滝は、気づいてしまった。錆兎と真菰に向けられた義勇の瞳に浮かぶ、気遣う色に。

 あぁ、この子はやさしすぎる。

 心配する三人を思いやったのだと、鱗滝にはわかってしまった。傷つき絶望に沈んだ心で、それでも自分を案じる気配を感じ取り、戻りたくなどなかっただろう現実へと義勇は戻ってきてくれたのだと、悟らずにはいられなかった。
 義勇にとっては、心を閉ざしすべてから目を背けているほうが、楽だっただろう。なにも考えず、なにも感じず、ただ病室に横たわっているだけなら、わずらわしい好奇や哀れみの視線にも晒されまい。
 そしてきっと、義勇が一番に望んでいたものは、自分自身の死だ。心だけでなく生命としての死を、義勇はおそらく望んでいた。
 まだ中学生だ。齢十四にもならぬ子供だ。
 そんな子供である義勇が、誰よりもつらいはずの義勇が、自分たちを気遣い思いやり、一番楽な道から戻ってきてくれた。鱗滝は、歓喜とともに遣る瀬なさをおぼえずにはいられなかった。

 せめて、せめて泣いてくれ。泣いて泣いて泣き喚いて、悲しいと叫んでほしい。どうか、義勇自身のつらさや苦しさを、優先させてくれと、どれだけ願ったろう。
 心を占める絶望を、涙とともに吐き出せたのなら、いつかは立ち直れると強く信じることもできただろうに。なのに義勇は泣くことすら己に禁じているように見えた。

 鱗滝や、錆兎と真菰では、もう駄目だ。泣かせてやれない。どんなに苦しくとも義勇はまず、鱗滝だちを気遣ってしまう。義勇のなかで優先順位は決まってしまった。自身のことよりも、義勇は鱗滝たちを気遣い、思いやる。自身の悲しみには蓋をして、一切薄れさせることのないまま抱え込んで。
 実際、少しずつ日常を取り戻しだしてはいるが、義勇は今もなお、泣くことも笑うこともできない。

 そんな義勇が、大型犬から子供を救ったという。そのこと自体は驚くに値しない。どんな状態であれ、窮地にある者を見捨てることなどできぬ子だ。
 だが、道に迷ったとはいえ、そのまま子供の家に厄介になるというのは、義勇の現状を思えば信じきれぬところはあった。
 今の義勇は人と関わりあうのを拒む。その子がなにを言おうと、かまうことなく一人で歩き回る姿しか想像できない。
 なのに今、義勇はその子供と一緒にいるという。
 炭治郎と禰豆子という名の、七歳と六歳の幼い兄妹だ。もしかしたら、錆兎や真菰と重ね合わせたのかもしれない。思いはするが、慣れ親しんだ孫たちならばともかく、末っ子の義勇は小さい子の扱いに不慣れだ。そんな義勇が、幼子と手を繋ぎ訪れたというのは、青天の霹靂とも言うべき出来事である。

 目の前に座る善良を絵に描いたような若夫婦を、鱗滝はそっと見つめた。
 この夫婦の子供だ。きっと明るくやさしい子供たちなのだろう。けれど、それでも幼い子供であるには違いない。義勇の感情の読めぬ目や言動は、幼子には十分、嫌厭対象になり得る。いぶかしみ怯えたとしても、しかたのないことだろう。
 義勇と同年代の子であってもそうなのだ。いや、あの年頃だからこそ、異質な存在になった義勇を、同級生たちは許容できなかったに違いない。
 義勇の教科書に書きなぐられた、明らかに複数人の手による下卑て残酷な言葉を、鱗滝は苦々しく思い出す。上履きも同じ有り様だった。惨状に気づき、鱗滝が校務員を務めるキメツ学園へと義勇を転校させたのは、ほんのひと月ほど前のことだ。快く受け入れてくれた理事長には感謝しかない。
 義勇はなにも言わなかった。苛められていることにすら、なにも感じていないようにすら見えた。漂うようにただふわりとそこにいるだけで、自身の望みも反感も義勇は口にしない。そもそもそういった一切を感じることができないように思われた。
 まだ幼い子供が、そんな今の義勇に懐く様など、鱗滝の想像の範疇を超えている。

 一体どんな子供なのだろう。

 話をしてみたいものだと思ったそのとき。
「爺ちゃん!」
「鱗滝さん!」
 大声で自分を呼ばわりながら駆け込んできた孫たちに、鱗滝はつい眉をひそめた。
「おい、よそのお宅でそんな大声を出して走るな」
「それどころじゃないんだって! 義勇が!」

 義勇が泣いた!!

 声をそろえて言った二人に、鱗滝は目を見開き立ち上がった。
 きょとんとする若夫婦に声をかけるのももどかしく、鱗滝は「こっち! 早く!」と促し走る二人に続き、奥の部屋に駆け込んだ。

 そこに見た光景を、鱗滝は生涯忘れないだろうと思った。