4 ◇義勇◇
膝の上に突然またがるなり、しがみついてきた小さな体に、義勇は少し動揺している自分に気づいた。
錆兎や真菰は、幼くとも義勇の兄姉という自負があるのか、こんな子供っぽい真似はめったにしない。たまに義勇の布団に潜り込んで寝ていることもあるが、そういうときはいつだって、義勇がひどくうなされる夜ばかりだ。
悪夢に目を覚ましては、自分にしがみついて眠る幼子の体温に慰められ、義勇もまた浅い眠りにつく。そんな毎日だった。
小さな体で精一杯、義勇の兄姉であろうとする錆兎と真菰。その健気さに、心配をかけたら駄目だと思うようになったのは、いつだったか。記憶が曖昧でよく覚えていない。
ただ、初めて義勇が自分から食卓に着きいただきますと呟いたときに、二人が瞳をうるませて大喜びしたことだけは、よく覚えている。
小さい子に弟扱いされるのはべつにかまわなかった。それで錆兎と真菰が、自分を引き取ってくれた鱗滝が安心するのなら、末っ子扱いにも抵抗はない。
というよりも、抵抗するだけの反感を抱く余裕は、義勇の心にはなかった。
自分を常に案じてくれる三人を安心させるためだけに、今の義勇は生きている。だから、三人の目が届かぬところでは、食欲など一切湧かないし、眠りも浅くなる。
ほかの誰も寄せつけるつもりはないし、誰に対しても関心なんてない。けれどそれでいいと思っていた。他人は義勇から見返りを望めぬのを悟り、すぐにかまわぬようになる。だから、このままでいいのだと思っていた。
それなのに、この子は一体なんなのだろう。義勇の無関心などものともせずに、笑いながら話しかけ、パンを食べたぐらいで喜び、こうして小さな腕で義勇を抱きしめてくる。
構われるのは好きではないのに、この子供の声や体温は、戸惑いはしてもなぜだか嫌だとは思わない。
一体この子供は自分になにを求めているのだろう。動きの鈍い義勇の思考の片隅に、小さな疑問がぽつんと落ちた。
「大丈夫。俺が一緒にいるから、大丈夫ですよ」
やさしく慰めるような子供の声に、義勇はわれ知らず目を見開いた。しまい込まれた記憶がよみがえる。
お日さまみたいに温かくやさしい声が歌うように紡がれて、柔らかな腕が抱きしめてくれる。それは愛おしく悲しい、在りし日の記憶だ。
『大丈夫よ。姉さんが一緒にいるから。ね、義勇。大丈夫。だから……』
父と母が交通事故で亡くなった夜。錆兎たちよりも幼かった義勇が、わんわんと泣くのを抱き締めて、自分も泣きたいだろうに懸命に微笑んでくれた姉の声。やさしい温もり。
それからずっとふたりで暮らしてきた。寂しさも悲しさも、姉が慰めてくれればやがて薄れ、一緒にいられるだけで笑っていられた。
大好きだった姉さん。いつか大人になったら、絶対に自分が守るのだと思っていた。強くなって、必ず姉を幸せにするのだと。
それなのに。
苦しさが込み上げて、義勇は、すがるように膝の上の子供を抱きしめた。
腕に抱え込んだ温もりは、子供体温だ。姉よりもずっと熱い。だがその熱は、姉と変わらずやさしかった。
「俺が殺した……姉さんが死んだのは、俺のせいだ」
なぜ言葉になったのかはわからない。決して口にしてはならないと戒めてきた言葉だ。けれど、するりと口をついて出た言葉は、もうなかったことにはできない。
「お姉さん?」
「姉さんに、結婚するって言われた。本当にいい人なのよって……その人は、俺と一緒に暮らすのを喜んでくれて、身寄りがないのを馬鹿にしたりしない人なんだって、姉さんは幸せそうに笑ってた。初めて逢ったとき、あの人も笑ってくれた。一人っ子だから弟が欲しかったんだって言ってくれて、俺が弟になるのを本当に喜んでくれてたのに……」
人見知りするたちであることを除いても、どうしても素直に懐くことができなかった。姉を幸せにするのは自分だと思っていたのに、役目を横取りされたようで幼い子供みたいに拗ねていた。義兄を避ける自分に、姉が困っているのはわかっていたのに。
義兄はそれでもやさしかった。どうしても義兄さんと呼べない意固地な義勇に怒りもせず、いつだって笑いかけてくれた。
姉も義兄も、自分たちのことより義勇を優先する。結婚前の慌ただしさのなかで、義勇と接する時間を捻出するのは、大変だったろうに。
「仲良くしなきゃいけないと思ったんだ。ちゃんと祝ってあげなきゃいけないと。姉さんを困らせるのは嫌だったから」
だから、自分の貯金で新幹線のチケットを買ったのだ。緊張したけど、ホテルだって一人で予約した。新婚旅行には行かないと聞いていたから、一泊旅行をプレゼントしようと思って。
俺はもうひとりでも大丈夫だから。素直にはまだなれないけれど、それでもちゃんと祝ってるよと伝えたくて。
『義勇くん、やっぱり一緒に行こうよ。三人のほうが楽しいよ。義勇くんのぶんのチケットや宿代は僕が出すし』
『いくら一泊だけって言っても、ひとりで留守番じゃ危ないわ。ねぇ義勇、一緒に行きましょう?』
義勇が照れてしまうぐらい喜んでくれた二人にホッとした。でも、一緒にと言いつのられるのには、素直にうなずけなかった。子供扱いされてる。大人と同じに予約だって一人で全部できたのに。そんなことを考えて、少し不貞腐れていた。
どうして、素直にうなずかなかったんだろう。剣道の稽古を休みたくない。どうしてそんな言い訳をして、かたくなに断ってしまったんだろう。馬鹿だ。俺は、本当に馬鹿で、馬鹿で、どうしようもない。
今さら後悔したって、時は戻らない。
出発する日にも、心配げな二人に笑ってやることができず、早く行きなよとぶっきらぼうに言ったきり、いってらっしゃいさえ言わなかった。
心配そうな二人の顔。それが義勇が最後に見た、姉と義兄になる人の顔だった。
「新幹線の時間に間にあうようにって急いでたんだ。俺が意地を張って、稽古があるから一緒には行かないって、二人が出る前にもごねたから。急いでたから、だから……っ!」
最初は、誰かのたちの悪い悪戯だと思った。
その電話が鳴ったのは、かまわれたがる錆兎と真菰にちょっぴり閉口しながらの稽古中。鱗滝が険しい顔つきで戻ってきたとき、言われた言葉に義勇が最初に浮かべたのは、苦笑だった。
だって、誰かにからかわれてるとしか思えなかった。固い声で告げられた場所は、いつもだったら姉が通ることはない道だったから。
駅に向かう近道だけれど、狭いうえに見通しの悪いカーブがあって危ないからと、姉がいつも避けている道だった。繁華街が近いせいか、飲酒運転する者も多い。危ないから義勇もあの道は避けなさいねと、いつも姉が口を酸っぱくして言っていた道なのだ。
父と母の死因が交通事故だったからだろう。姉は人一倍そういうことにこだわっていた。
なのに、あの午後にかぎってその道をふたりが選んだ理由など、考えなくてもわかり切っている。自分の、せいだ。
だからあの日――姉と義兄の死亡報告が事実だと理解した瞬間に、義勇の心は動きを止めた。
自宅にいなかった義勇に連絡が取れたのは、二人の死亡が確認されてからだった。義勇が直接その報告を聞かずにいられたのは、几帳面な姉が、手帳に鱗滝の道場の電話番号を書いていたからだ。もしも自宅でその報告を受けていたなら、義勇はその場に立ち尽くしたまま、なにもできず呆然としていたことだろう。
身元確認は、剣道の師匠である鱗滝がしてくれた。葬儀の手配もすべて鱗滝だ。義勇はただぼんやりと、泣き喚きもせず言われるがままに従っていただけだった。
身寄りのない姉弟だったから、義勇を施設に入れるのは、周りの大人たちからすれば自然な流れだったろう。それに反対し、鱗滝は、義勇を引き取ってくれもした。なにを言っても反応することがなくなった義勇を、心の底から案じてくれたのだと思う。
錆兎たちだって同じことだ。
それまでとはまったく様子の違ってしまった義勇に、怯えもしただろうに。けれど錆兎と真菰は、小さな体で懸命にあれこれ世話を焼いてくれた。
「俺が素直になっていれば……そもそも俺が余計なことをしなければ、姉さんもあの人も死ななかった。俺が殺した。俺がいなければ……俺さえいなきゃよかったのにっ。俺が姉さんの弟だったから、二人共死んだんだ! 俺が殺したんだ!」
押し殺した悲鳴のような告解に、素早く反応したのは錆兎と真菰だ。
「違うだろ! 悪いのは昼間から飲んだくれて飲酒運転した馬鹿だけだ! 義勇が悪いんじゃない!」
「そうだよ! 義勇はなんにも悪くないじゃない!」
錆兎と真菰の必死な声音を、どこか遠い場所で義勇は聞く。心配させたくないのに、心に立ち込める黒い靄が心を押し包んで、義勇を現実から遠ざける。
自分には泣く資格などないから。人殺しの自分に、悲しがる権利などないから。
それなのに、現実は義勇の心に悲しみを湧きあがらせる。苦しいつらいと、涙を零させようとする。
だから義勇の心は迷子になった。現実から遠ざかって、動けなくなった。動きたくなかった。
『迷子になったときは動いちゃ駄目よ? 姉さんが迎えに行くまで、じっとしてるのよ?』
幼いころ、姉と出かけるたびに言われた言葉。もしかしたら今の自分は、自ら望んで迷子になっているのかもしれない。迷子になって動かずにいれば、姉が迎えに来てくれる。そんな馬鹿な妄想に囚われているのかもしれない。
黒い靄に包まれる思考の片隅で、そんなことを漠然と思ったとき。
「義勇さんのお姉さんは、とってもやさしい人なんですね。それでもって、義勇さんのことが大好きだったんだってわかります!」
腕のなかから柔らかな声が聞こえ、義勇はそろりと顔を上げた。
「だって義勇さんも、とってもやさしいから。きっとお姉さんがやさしいから、義勇さんもやさしくなれたんですよね。俺もね、大人が俺のこと褒めてくれるときに、父さんと母さんがきちんとしてるからだって言われるんです。父さんと母さんがいい人だから、いい子になったんだねって」
義勇の腕のなかで、子供はにこにこと笑っている。義勇を責めるでも、慰めるでもなく、ただにこにこと。
「俺、自分が褒められるより、そっちのほうがうれしいんです。父さんと母さんが褒められるほうが、俺が褒められるよりずっとうれしい。禰豆子や竹雄たちが褒められるのもうれしいです。お兄ちゃんに似ていい子ねって禰豆子たちが褒められるのは、ちょっと恥ずかしいけど。でもね、本当に一番うれしいのは、俺が褒められて父さんや母さんがすごくうれしそうにしてくれることです。大好きな禰豆子たちを褒められて、俺がうれしくなっちゃうのと同じかなって、照れちゃうんですけど」
言って、子供は言葉通りに照れ笑う。はにかんだ頬がちょっと赤い。
「義勇さんはどうですか? 俺とおんなじで、お姉さんが褒められるほうがうれしいですか? お姉さんがうれしそうにしてるのが、一番うれしいですか?」
朗らかな子供の声はするりと義勇の心に入り込んで、小さな明かりをふわりと灯した。
黒い靄のなかで、ゆらゆらと温かな明かりが揺れる。まだそれは、とても小さいけれど。
「……うれしい。俺も、姉さんが褒められるとうれしかった。姉さんが笑ってくれるのが、一番、うれしい……」
「やっぱり! じゃあきっと、お姉さんも義勇さんが褒められるほうがうれしいです。義勇さんが笑ってるのが、一番うれしいって思ってくれてますよ! だって義勇さんとお姉さんは、やさしいとこがそっくりなはずだから」
それでも悲しくて迷子になっちゃうときは、俺が義勇さんを迎えに行きますね! 俺が手を繋いであげます。ずっと一緒にいるから大丈夫ですよ。義勇さん、もう寂しくないですよ。
朗らかな声が心に染み込むにつれ、少しずつ、少しずつ、小さな灯りは明るさを増していく。黒い靄が薄れ、義勇は視界を取り戻す。腕のなかで義勇を見上げて笑う子は、明るくやさしい目をしていた。
柔らかそうなまろい頬。赤味がかった大きな目もくりりと丸い。意志の強そうな眉。秀でた額に痛々しい痣があるのに義勇は初めて気づいた。どこかぼんやりとして見えていた子供の顔が、今ははっきり見える。
子供の肌は少し汗ばんでいる。ちょっと汗の匂いがした。膝に感じる重み。うれしげに笑みを浮かべる、自分よりずっと幼い男の子。
とても、とても温かい、その熱。
子供の笑顔が不意にぼやけた。もっとはっきり見たいのになぜだろうと、小さく首をかしげたら、頬を濡れた感触が伝った。
「義勇さん!?」
子供の声があわてている。小さくて温かい手が頬に触れた。
「悲しいですか? 大丈夫ですよ、俺、ずっと一緒にいます! 義勇さんがどこに行っても、絶対に俺が迎えに行ってあげますから!」
だから泣かないでと言う子供の声に、自分が泣いていることを知る。
姉たちが亡くなってから初めて義勇が流した涙は、小さな子供の手をも濡らして、こぼれ続けた。
『大丈夫よ。姉さんが一緒にいるから。ね、義勇。大丈夫。だから……』
『だから、泣きやんだら、笑って? 義勇の笑顔が、姉さんは一番好きだから……笑って?』
よみがえる、その言葉。なぜ忘れていたんだろう。大切な言葉だったのに。
この子が……思い出させてくれた。大事な、大事な、やさしい愛の言葉。
「迎えに、来てくれるのか……お前が」
この子供の名はなんといっただろう。たしか……。
「はい! 絶対に迎えに行きます!」
――そうだ、たしか。
「……炭治郎」
そっと呟いた名前に、炭治郎は大きな目をますます大きく見開いて、すぐに満面の笑みをみせてくれた。
「はい!」
明るく元気な声に、義勇は泣きながら小さく笑った。