2 ◇義勇◇
小さな手に引かれながら、義勇は茫洋とした目で前だけを見据えて歩く。
兄妹ともども人懐こいのだろう。二人はいろいろと話しかけてくるが、義勇は黙々と歩くだけだ。問われて名前は答えたものの、それ以上口を開く気にはなれない。
けれど小さな兄妹は、無愛想な態度にもちっともめげた様子はなかった。あの犬の怪我は大丈夫だろうかとか、遊歩道の先の大きな公園へ行った帰りだったとか。さらには、家にはもっと小さい弟や妹がいるなんてことまで、とりとめもなく義勇に話しかけてくる。
幼い二人のおしゃべりは、耳には入ってきても義勇の意識にはかけらもとどまることがない。
「あんなに大きくて怖い犬だったのに、全然怯えないなんて、義勇さんは凄いです!」
男の子も興奮した声も、どこか遠くから聞こえてくるかのようだ。思考は霞がかかったようにはっきりとしない。二人が犬に襲われそうになっていたのを見たときだってそうだ。無意識に体が動いただけで、とくになにかを考えたわけではなかった。
道がわからず困ってはいたが、それさえもどこか他人事だ。遅くなれば心配させるだろうと思う端から、感情はぽろぽろと義勇の心から零れ落ちて、思考はそこで止まってしまう。
なんの感情も表さず言葉もうまく返せない義勇に、人は気味悪げにするか苛立つかばかりだ。すぐに義勇を見限り離れていく。こんなふうに裏表なく懐く者なんて、義勇の事情をよく知る同居人たち以外にいるわけもなかった。
だというのに、幼子とはいえ初対面の者と手を繋いで歩いているとは。なんだか少しだけ不思議な気がする。
頭の片隅でかすかに考えたそのとき、子供の足が止まった。
「ここ、俺の家です! 入ってください!」
言われて男の子が指差す先にぼんやりと視線をやれば、竈門ベーカリーとの看板がかかげられたパン屋があった。
俺は学校への道を聞いたのであって、家まで送ってきたわけではないのだが。
うっすらと思いながら義勇は首を振った。
「……いい。道だけ教えろ」
「駄目です! 服だって汚れちゃってるし、ちゃんとお礼もしてません!」
言いつのりぐいぐいと手を引く子供に、義勇は思わず眉根を寄せた。
礼などいらないと子供たちを止めようとした矢先、店のドアが開き慌てた様子で人が飛び出してきた。
「炭治郎! 禰豆子! さっき犬を連れた人が来て、お前たちを自分の犬が襲ったみたいだって……大丈夫だったの!?」
「母さん! あのね、義勇さんが俺と禰豆子を助けてくれたんだ!」
子供たちに駆け寄ってきたのは、どうやら二人の母親らしい。これで自分はお役御免だろうと、義勇は踵を返しかけたが、子供の手はまだしっかりと義勇の手を握ったままだ。
「そう、あなたが……。うちの子たちを助けていただき、ありがとうございました」
中学生の義勇にも、大人に対するのと変わらぬ態度で礼を述べてくる。この人に育てられているのなら、子供たちが意固地なまでに礼にこだわるのもわかる気がした。
だが関心を寄せたのはそこまでだ。興味はすぐに薄れ去り、義勇は、もういいだろうと小さく会釈し立ち去ろうとした。けれども、男の子が元気よく言った言葉に、その足は思わず止まった。
「義勇さん迷子になっちゃったんだって! お家の人が迎えに来るまで家で待っててもいいよね?」
「あら、そうなの?」
……久し振りに、恥ずかしいという感情がよみがえった気がする。ありがたくはないが。
「……道だけ教えてもらえればいいです」
「そういうわけにはいきません。すぐにお家に連絡するから、さ、どうぞ」
どうにも押しの強い家族らしい。さあさあと、子供たちと母親の三人がかりで促され、義勇は半ば呆然と店内に足を踏み入れた。
厨房から出てきた父親からも丁寧な礼を言われ、またもや迷子になった云々を繰り返される。もう放っておいてほしいのに、誰も義勇の羞恥には気づいてくれそうにない。
「お迎えが来るまで、家のほうで待っててください」
両親に促された子供たちに手を引かれ、奥のドアから自宅へと連れ込まれたころには、もはや義勇は考えることを自ら放棄していた。
汚れを落とすからと制服を脱がされそうになったのを、どうにか断れたのだけが救いだ。それでも家への連絡は断り切れず、居間のソファに腰かけた義勇は小さくため息をついた。
心配をかけるのは避けたかったのだが、このぶんではそうもいかないだろう。
常日頃から自分を案じてくれている人たちは、義勇が迷子になったと聞いたら心配して慌てふためくに決まっている。
迷惑をかけたいわけではないのに、なんで自分は今日にかぎって別の道を歩いてしまったんだろう。いつもと違う行動をとること自体、義勇を知る人から見れば信じられないと驚くはずだ。義勇自身も、なぜこんなことをしているのか理解できない。
「義勇さん、お腹空いてませんか? うちのパンすっごくおいしいんです! 義勇さんはなんのパンが好きですか? もらってきますから食べていってください!」
「……いらない」
「大丈夫です! お礼ですから!」
話がかみあわないと、他人を苛つかせることが多い義勇だが、この子供も相当なものだとうっすら思う。いくら助けられたとはいえ、なんでこれほどまでに自分にかまうんだろう。義勇にはさっぱりわからない。
とはいえ、どうせ今日だけのことだ。迎えが来ればそれきりもう二度と逢うこともないだろう。
黙ったままでいると、子供は笑いながら待っててくださいねと言うなり、妹の手を取り店へと駆けて行ってしまった。
われ知らずまたため息をつき、義勇はゆっくりと室内を見回した。
壁に貼られた子供の絵。棚に置かれた家族写真。仲睦まじく笑いあう家族の光景が見えるような、温かみに満ちた部屋だった。
自分の家もそうだった。ぼんやりと義勇は思う。
父や母の顔は、うっすらとしか記憶にない。二人が亡くなったとき、義勇はあまりにも小さすぎた。義勇が思い浮かべる両親の顔は、飾られた家族写真のなかの笑顔だ。赤ん坊の義勇を抱く母も、それを守るように傍らに立つ父も、やさしく笑っていた。ずっと幼いころには寂しいと泣いたこともあったが、つらいと思ったことはない。親はなくとも義勇はちゃんと幸せだった。
姉がいてくれたからだ。両親の代わりに、やさしく義勇を労り、守ってくれた人。大好きな姉がいるだけで、義勇にとって家は、どこよりも温かくて安心できる場所だった。
考えるなと、頭の奥で警鐘が鳴る。
黒い靄が脳裏に立ち込めてまた動けなくなる前に、義勇は考えることをやめた。動けなくなれば心配させてしまう。こんな自分を案じてくれる人たちを心配させるのは嫌だった。
それだけが、今の義勇が抱く唯一の願いだ。
心配させない程度には、普通の暮らしを送れるようになった。けれどもときおり今日のように、心がふわりと迷子になる。まともな思考はなにひとつ働かず、自分の意志とは関係なく夢遊病者のように望まぬ行動をしてしまう。
――いや、本当は望んでいるのかもしれない。消えてしまうことを。
義勇はわずかにまつ毛を伏せた。
自分と言う存在すべてが掠れて、消えて、なにもなくなってしまうことを。自分は心の底では、望んでいるんじゃないだろうか。疑問は確信めいていて、魅惑の笑みで手招きする悪魔のようだ。義勇がどんなに否定しようとしても、ふとした瞬間に浮かび上がっては、認めてしまえとささやいてくる。
ギュッと目をつぶり、義勇は浮かんでは消える言葉を頭から締めだした。
もうなにも考えまい。なにも思い出すまい。
しょせん自分は、ふわふわと漂い生きるしかないのだ。それ以外の生き方などできそうにない。もう、できない。
「お待たせしました!」
「おまたてしました! あれ?」
「お待たせだよ、禰豆子」
「間違えちゃった」
元気よくドアが開くのと同時に聞こえてきた兄妹の会話は、ほのぼのと温かい。ほかの者が目にしたのなら、自然と笑みを誘われるに違いなかった。
けれど、義勇の心には遠くひびく。見知らぬどこかから、かすかに聞こえてくるだけの声だ。
自分をやたらとかまいたがる幼い子供はほかにもいるが、彼らの言葉ならば義勇の心にも届く。義勇を案じる老爺と幼子たちが願うから、義勇はどうにか息をして食事をし、学校にだって通っている。
けれどこれ以上は無理だ。彼ら以外の誰かを心に入れる余裕など、義勇にはない。
無反応の義勇にがっかりするでもなく、子供らは手にした盆を運ぶことだけに集中しているようだ。よいしょという声とともに義勇の目の前に置かれた盆には、幾種類ものパンが乗った皿と、湯気を立てるマグカップがあった。
「義勇さん、好きなの食べてくださいね! 全部食べちゃってもいいですよ!」
「あのね、お母さんがミルクティーどうぞって。おいしいの。ぎゆさんも飲んでね」
返事をしない義勇に、兄妹が顔を見合わせた。
「どうしよう、禰豆子。もしかしたら義勇さんはパンが嫌いなのかもしれないぞ」
「どうしよう、お兄ちゃん。でも禰豆子はパン好きだよ?」
「俺も好きだけど、朝ご飯はパンよりご飯のほうがいいなぁ」
「禰豆子はパンのほうがいいな。でもご飯も好き」
「義勇さんは朝ご飯はパンですか? ご飯ですか?」
「あのね、禰豆子はパンもご飯も、おかずは目玉焼きがいいの。ぎゆさんは目玉焼き好き?」
「俺は玉子焼きも好きです! 母さんが作ってくれるのは甘いんです。義勇さんちの玉子焼きは甘いのですか? しょっぱいのですか?」
いつの間にやら義勇の両隣を陣取って、義勇を挟んで会話し始めた兄妹に、さすがに義勇も少しだけ狼狽する。
なにか答えなければこの兄妹はいつまでも話しかけてくるのだろうか。
よく知る幼子たちも怖いもの知らずなことこのうえないが、ここまで傍若無人ではない気がすると、義勇は遠い目をしてぼんやりと考えた。思わず諦めのため息をつく。
「……嫌いじゃない」
ようやく口を開いた義勇に、パッと子供の顔が輝いた。それはもうまぶしいほどに明るい笑顔だ。
「パンがですか? 目玉焼きがですか? あれ、ご飯のことかな」
「パン……嫌いじゃない。けど、好きでもない」
どうでもいいのだ。昔は食事も楽しいものだったように思うけれど、今は心配させないため口に入れる物でしかない。
「うちのパンはすっごくおいしいって評判だから、義勇さんもきっとパンが好きになりますよ!」
どうあっても食べないことには解放してもらえないらしい。しかたなく義勇は、一番手前にあった小さなクロワッサンを手に取った。
まじまじと見つめてくる兄妹に戸惑いながら、手にしたパンにかじりつく。
クロワッサンはさっくりとしていて、口のなかでほろりとほどけた。鼻に抜けるバターの香りは豊かだ。きっと子供が自慢するとおり、とてもおいしいのだろう。けれどその味わいも、義勇の心にさしたる感慨を呼び起こしはしない。
ただ黙々と噛みしめ、飲み込む。その繰り返しで解放してくれるなら、パンのひとつやふたつ、食べることに否やはない。
黙ったまま小さなパンをもそもそと食べる義勇の顔は、きっと不機嫌そうに見えたろう。それでも子供は、それはそれはうれしそうに笑ってなおも話しかけてくる。
「義勇さんはどうしてあんなに強いんですか?」
「……強くない」
「強いです! それに、凄くやさしいです」
興奮しているのか頬を赤く染め、子供はきらきらとした瞳で義勇を見上げて笑っている。
「やさしくなんてない」
「どうしてですか? だって義勇さんは、俺と禰豆子を助けてくれました! 犬が怪我してたのにも気がついたし、苦しくさせてごめんなさいって謝ってたじゃないですか」
義勇さんはとても強くてやさしい人です。俺のヒーローです。少しだけ照れてるような顔をして、それでも子供は揺るぎない信頼を乗せた声で言う。
義勇にとっては、胸を突き刺すものでしかない言葉を。
「俺は強くない。やさしくもない。俺は……」
強かったのなら、きっと守れた。
やさしかったのなら、きっと……。
「俺は、人殺しだ」
そうだ、俺が殺した。
大切だったのに。大好きだったのに。
いつまでも一緒にいられると思っていたのに……殺してしまった。
あのときに自分の心も動きを止めたのだ。今の自分はただの抜け殻だ。本当にやさしい人たちを悲しませないように生きているだけの、心を無くしてただ生きているだけの抜け殻。
「え……?」
大きな目を見開いた子供から視線をそらせたまま、義勇は、黒い靄の立ち込めだした心のなかにうずくまる。
なにも見ない。なにも聞かない。見えないし、聞こえない。動けない。
子供の戸惑いが、見上げてくる視線から伝わってくる。
「もう俺にかまうな」
いつか朽ちるまで漂い生きるだけでいいのだ。それしか自分は望んでいない。
こんなふうにキラキラとまばゆい子供は、自分のような者には眩しすぎて痛い。蔑みよりも、下世話な好奇心に満ちた哀れみよりも、裏表のない尊敬と憧憬の視線こそが、義勇に痛みを伝えてくる。
悲しむ資格なんてないのに、子供のまばゆい瞳は、義勇の胸に悲しみを呼び起こす。
この曇りのない目が怯えに歪むのは見たくないな。そんな言葉が、ほんのかすかに浮かんで消えたのはなぜなのか。義勇にはもう、わからなかった。