『800文字で恋をする』で書いたお話のロングバージョンです。伊之助視点。最終決戦後。
子分その三と善八を守って、伊之助が山のなかの古い家で暮らすようになってから、季節がちょうどひと回りした。家に来たときと同じ花が咲いたから、間違いない。
暦を見ろよと善八はブチブチ言うけど、そんなものなくても暮らしは回る。馬鹿馬鹿しいと伊之助は思う。
最初の半年ほどは岩五郎も一緒に暮らしていた。その半年で、炭焼きのイロハを伊之助たちは仕込まれた。
七面倒くさいと言うなら、そっちのほうがよっぽど面倒ではある。山にいれば木の実やら山菜、狩った獣で腹は満たされるのだ。仕事なんてする必要はない。
けれども、岩五郎の家に住むということは、仕事を継ぐということだと善八があんまり口うるさく言うから、しぶしぶと伊之助も習った。じっと火を見張るのは、最初は退屈だと思ったけれど、火は生き物なんだと岩五郎に言われてから、少し面白くなってきたと思う。きちんと見守っていないと、火は暴れ出したり息絶えたりもする。
パチパチと燃える火をひとりで見ていると、いろんなことを思い出した。尊敬という感情を初めて抱いた煉獄や、気遣いや労りの言葉をくれたふさ。一緒に飯を食った仲間たち。しのぶと指切りしたことやおぼろな母の面影を思い出したときには、キュッと胸が痛くなりもしたけれど、悪い気分じゃない。火は不思議だ。
じっとしているのは苛々する。けれども、火を見張るのは今じゃ嫌いではない。毎日はごめんだけれど、交代でなら我慢できぬものでもなかった。
でも炭を売りに行くのは苦手だ。腰を低くして、客に買ってくれてありがとうなんて礼を言うのは、苛々する。だからそういうのは岩五郎や善八がやればいいと思う。だけどみんな一緒なら、少しぐらい我慢してやってもいい。そう思っていた。
みんなで笑って暮らした半年は、とんでもなく楽しかった。たびたび胸がホワホワしたりもする暮らしだった。ずっとこんなふうがいい。言わなかったけれど、そう思っていたのに。
なのに岩五郎は、伊之助と善八が炭焼きを覚えると、ひとりで山を下りてしまった。
「義勇さんと一緒にいたいんだ」
そう言って岩五郎は、手土産の栗やらキノコやらをたんまり持って、半半羽織のとこに行っちまった。栗もキノコも一番多く見つけてやったけれど、やっぱりムカつく。
岩五郎と半半羽織には痣がある。半半羽織の痣は見えなくなったけど、見えないからって命の刻限に変わりはないんだよと、岩五郎は静かに笑った。
善八は寂しいと泣いたし、子分その三は泣きだしそうな変な顔をした後でカラッと笑い
「義勇さんがふらっとどっかに行っちゃわないように頑張ってよ、お兄ちゃん」
と岩五郎の背中を叩いていた。
そうして岩五郎は山を下りた。郵便配達員がえっちらおっちら持ってくる文には、半半羽織に帰れって怒鳴られたことから、粘り勝って一緒に暮らしだしてからのアレコレが、いつも楽しそうに書かれている――らしい。
伊之助は文字が読めなかった。そんなもの読めなくていいと思っていた。
毎回、善八が読み上げてくれる手紙を子分その三と聞くのは、ワクワクするけど少し悔しい。子分その三だって文字は読める。伊之助と違って、善八に代筆させなくてもちゃんと自分で返事を書いているのだから確実だ。
自分だけ、岩五郎の手紙が読めない。返事も書けない。悔しくて、伊之助はこっそり字を覚えようとしている。善八たちには内緒だ。とくに善八に知られるとニヤニヤされるだろうし、俺が教えてやるよと偉そうにされるだろう。絶対そうに決まってる。だから伊之助は、ふもとに住んでいる三蔵とかいう爺さんに字を習っている。
「やい、ジジイ! 俺様に字を教えやがれ!」
初めてひとりでふもとに行ったとき、戸を開けるなり開口一番怒鳴った伊之助を、三蔵はぽかりと叩いた。しわだらけの拳は、ちっとも痛くなかった。
「まったく、口の利き方をきちんとせんか。村のもんに嫌われるぞ」
顔をしかめつつも筆と硯を取り出した三蔵に、ホワホワとさえした。
炭焼き仕事をしない日に伊之助は、雪を蹴散らしてふもとまで欠かさず通う。今ではもう、ひらがななら読めるし書けるようになってきた。ときどき間違えることはあるけれど。
よく頑張っているなと猪頭を撫でる爺さんには、毎度毎度、ホワホワさせんじゃねぇと怒鳴ってしまう。爺さんもそのたび、おまえは口の利き方がなっとらんと叱ってくるけれども、いつもふたり分の飯を用意しているから、怒ってはないんだろう。見ているだけで寒いと文句を言いつつ、無理やり伊之助の首に巻かれた襟巻は、真新しい匂いがした。
自分で返事を書く! と宣言して、年の瀬に初めて岩五郎に宛てた手紙は、紙いっぱいに書いた「げんき」の一言だ。いろいろ教えてやりたいことはあったし、文句もいっぱいある。でも、筆を執ったらそれしか書けなかった。
それだけかよと言いながらも善八はなんだかうれしそうだったし、すごいね親分と笑う禰豆子と一緒になって、伊之助の頭をぐしゃぐしゃとなでた。やっぱり胸がホワホワして、うるせぇと怒鳴りながらも、伊之助も得意満面で笑った。
そうして、小さな山の家で暮らしだしてから季節をひとまわり。また訪れた春のとある日に、岩五郎の好物だっていうタラの芽やらなんやらをたんまり持って、みんなで山を下りた。桜が舞うなかをワイワイと騒がしくしながら山道を歩き、汽車にも乗った。
岩五郎と半半羽織が暮らしている家に、初めてみんなで遊びに行くのだ。
ふたりが住む町は、善八が言うには新宿とかいうらしい。雲取山の村とくらべたらすげぇデカい町で、洋風な建物も多い。朝早くについた駅舎は、雌どもがぞろぞろ歩いていた。
「煙草の専売局の女工員さんたちかな。きれいな人がいっぱいだぁ」
善八が言った。鼻の下が伸びてやがる。子分その三にバチンと音がするぐらい背中を叩かれて、痛いって喚きながらも、やきもち? え、禰豆子ちゃんやきもち焼いてくれたの? と、くねくね喜ぶのが、気持ちワリィ。
プンスカしてる子分その三と、くねくね脂下がった善八に、うんざり苛々しながら向かった岩五郎たちの家は、古びた小さな長屋だった。岩五郎の手紙で知ってたけど、善八は、元柱が本当にこんな汚い長屋に住んでんの? って疑ってた。子分その三にまたぶたれて謝り倒してたけども。
どの家だろうとみんなでキョロキョロ見まわしてたら、玄関先に木札をぶら下げてる家を見つけた。木札には黒々と墨でなにやら書いてあるけれども、伊之助には読めなかった。伊之助はまだ漢字は読めない。けれど岩五郎の手紙に、半半羽織は家で仕事をしていると書いてあったから、もしかしたらこれが看板なのかもしれない。
「おい、これじゃねぇか?」
「あ、本当だ。代書屋って書いてある。ここだよ」
木札の文字を読んで、子分その三が明るく言う。俺様の読みどおりだぜと、ちょっぴり伊之助は得意になった。
代書屋というのは、字が書けない奴らの代わりに手紙やらを書く仕事だと、岩五郎の手紙には書いてあった。半半羽織が? と、みんなで顔を見あわせたその手紙には、義勇さんはすごく頑張って字を練習したんだ、本当にすごいんだと、何枚もの紙に書き連ねてあった。
あの強くて、強くて、すっげぇ強い半半羽織も、俺と一緒なんだと思ったら、次の日から文字の練習にも力が入った。俺だってやってやらぁと張り切る伊之助に、三蔵爺さんはなんだか知らないが笑っていた。胸がホワホワとする笑い方だった。
岩五郎の手紙にはいつも、みんなが元気でいるか心配する言葉と、自分は元気でやってることが書いてある。それから、必ず半半羽織のこと。何枚も書いてくるときは、大概が、半分以上は半半羽織のことばかりだ。
義勇さんには内緒だけれどとの前置きで、きれいな女の人がやたらと代筆を頼みにきてちょっぴり胸が焼けると、岩五郎には珍しく愚痴っぽい手紙が届いたことがある。一番よく来る雌は違う長屋に住んでる後家さんとやらで、三日と空けずにやってくるらしい。こないだは叔父に、今日は曾祖母にと、毎日のように違う奴に宛てて手紙を頼むそうだ。
『もう五十人分くらいは書いてるんじゃないかな、親戚が多くて大変なのはわかるけど、自分でも文字を覚えればいいのにって、ちょっと苛立っちゃう日もあるんだ。仕事だから断らないけど、あの人がくると義勇さんもちょっと不機嫌になるから、多分、俺と同じことを思ってるんじゃないかな。それに義勇さんにやたらとベタベタ触ろうとするから、俺もあの人はちょっと苦手なんだ』
そんなことが書いてある手紙を読みながら、善八は
「うっわ、未亡人に言い寄られてんのかよ! 冨岡さん色男だもんなぁ、くっそぉモテモテなくせに不機嫌になるとかムカつく!」
とわめいて、やっぱり子分その三に叩かれてた。
善八が文句を言うのはわけがわからないが、毎度のことだから、まぁどうでもいい。でも、岩五郎の手紙はちょっと気がかりだ。
半半羽織も自分も、一所懸命字を練習してるのに、その雌は怠けてやがるだけじゃなく、岩五郎を困らせている。なんて腹の立つ雌だろう。手紙のつづきを聞きながら、もしもその雌に逢ったら文句を言ってやろうと、伊之助は決めた。離れて暮らしていても岩五郎は子分その一だし、半半羽織には恩がある。
まったく世話が焼けるぜ。俺様がついててやんねぇとてんで駄目じゃねぇか。岩五郎も半半羽織も、一緒に山で暮らせばいいのに。そしたら俺様がずっと面倒みてやるのによ。
思って伊之助は少し苛々して、ほんのちょっぴりしんみりとした。みんな一緒でいいじゃねぇか。なんでふたりで別に暮らすんだよと、唇を尖らせる。
でも、今日は逢える。岩五郎には秋から逢ってないし、半半羽織は前の春に逢ったのが最後だ。ふたりとも前と違っていたらどうしよう。ふと思ったら、背中になんだかヒヤリとしたものを感じた。
岩五郎が、前みたいに笑ってなかったら。半半羽織が弱みそになってたら。胸がドキドキとして落ち着かない。
善八も子分その三も、そんなのまるで考えてないように見えるのに、自分だけ不安になるのは、岩五郎の手紙を自分で読んでないからだろうか。
「ごめんくださーい!」
伊之助が落ち着かない気分でいるのにはちっとも気づいていないのか、子分その三が、大きな声で言った。家のなかからバタバタと足音が聞こえる。
「禰豆子っ!?」
ガラリと乱暴に戸が開いた。子分その三の声だってすぐにわかって、あわてて飛び出してきたんだろう。目をまん丸にした岩五郎のポカンとした顔が、見る間にとびきり明るい笑顔に変わる。前とちっとも変わらない。やさしくって胸がホワホワとする笑顔だ。
「お兄ちゃん! 久しぶり!」
「善逸に伊之助も……うわぁ、久しぶりだな! みんなでどうしたんだ?」
「どうしたじゃないよ。手紙ばかりで、おまえ全然里帰りしないじゃんか。様子を見に来てやったの!」
「そうか、ごめんな。冬場は年賀状やらで義勇さんの仕事が忙しかったんだ。こないだまで役所やらに出す書類の代筆1代書人は現在の司法書士の前身でもありますで大わらわだったし……あ、年賀状届いたか?」
言われて伊之助は、思い出した一枚の葉書に、グッと唇を噛んだ。そうしないと、勝手に顔がニンマリと笑ってしまう。
そうだ。心配することなんてなかった。正月に一人ひとりに宛てて届いた絵葉書。きっと伊之助からの手紙で、ひらがななら読めるとわかったんだろう。岩五郎も半半羽織も、「かぜをひかないように」とか「つぎのてがみもたのしみにしてる」とか、伊之助へのものは全部ひらがなで書かれていた。
仲良く並んだ名前だけは漢字だったけれど、子分その三が、こっちがお兄ちゃんでこっちが義勇さんと教えてくれたから、「竈門炭治郎」と「冨岡義勇」だけは、伊之助も読める。
こっそりと三蔵爺さんに頼んで買ってきてもらった文箱に、大切にしまい込んでいる、伊之助の宝物だ。
「炭治郎、玄関先で話してないで上がってもらえ」
ひょこりと顔を出した半半羽織は、もうあの羽織は着ていない。でもそれ以外なんて呼んだらいいのか伊之助にはわからないし、きっとこいつは怒ったりしないだろう。
前はキンと冷えた雪解け水みたいだった半半羽織は、日向で温もった水みたいになってた。やわらかくて、あったかい。前とは変わったけれど、嫌な変わりかたじゃない。ふうわりと笑う顔は、爺さんに頭を撫でられたときみたいにホワホワとする。
お邪魔しますと声をそろえて言って上がりこんだ家は、前に半半羽織が住んでた屋敷と違って、とんでもなく狭い。どこにいたって相手の姿がすぐ目に入る。山の家と同じだ。
「書類とかも代筆するの?」
「うん。弁護士さんからの依頼も多いんだ。だから義勇さん、法律も勉強してるんだぞ。すごいだろ! 俺もその弁護士さんのとこでお遣い仕事させてもらってるんだけど、先生は義勇さんのこと本当に信頼してくれてるんだ。あ、弁護士っていっても、杉村先生はすごくいい人だよ! 立派な先生なんだ。裁判で勝てばいいなんていうほかの弁護士とは違う2明治期にははっきりとした資格制度がなく、悪徳な者のほうが目立ったため「代言」「三百」などと蔑称で呼ばれることも多かったから! 杉村先生は隠だったんだよ。義勇さんのことを尊敬してるって言ってくれたんだ! 義勇さん、柱だったときの給金のほとんどを孤児院に寄付しちゃったんだけど、杉村先生は、そういうところも立派だって褒めてくれてさ、俺にも仕事をいっぱい回してくれるんだ」
自分のことのように誇らしげに言う岩五郎に、半半羽織は苦笑している。感心するみんなの視線に、どことなく照れているようにも見えた。
半半羽織と岩五郎は、隣りあって座ってる。ぴったりと肩を寄せあって。前にしのぶのところで食べたさくらんぼみたいだ。ふたり仲良く並んでいる。
「いきなり来て、忙しいとこ邪魔しちゃった?」
「大丈夫だ。急ぎの仕事は済んでいる」
心配する子分その三に笑いかける半半羽織の声はやさしい。
「看板も外しておいたから、今日はもう仕事はこない」
「気にしないでいいぞ、禰豆子。それよりせっかく来たんだ、なにかうまいものでも食べに行こうか」
あいにく今、家にはなんにもないからと岩五郎が言ったとたんに、善八が顔を輝かせて手を挙げた。
「はいはいはいっ! 行くなら絶対に銀座! 銀座にしようぜ!」
「ちょっと、善逸さんったら! お兄ちゃん、気を遣わないでいいよ。連絡もしないで来た私たちが悪いんだから」
「えーっ、だって滅多に出てこられないんだよぉ? 資生堂のソーダファウンテンとか、千疋屋の果実食堂3大正2年に社屋を新築した際に二階部分で果実食堂フルーツパーラーの営業を開始したとかさ、禰豆子ちゃんだって行ってみたいなぁって言ってたじゃんか。炭治郎の言う通り、せっかく来たんだからさぁ。三郎爺ちゃんへのお土産だって買おうよ」
「あ? なんだ、そのソーラン本店ってのは」
「ソーダファウンテン! ハイカラなお茶場だよ。ソーダ水とかアイスクリームとかを店のなかで食えるの。伊之助食ったことないだろ。冷たくってうまいんだぜぇ。銀座ってのは、インテリゲンチャでハイカラな人がいっぱいな、垢抜けた街なんだ。デパートメントストアもあってさぁ、そこらの座売りの店と違って、勧工場4百貨店、スーパーマーケットの前身。多くは民営。正札定価販売の先駆けとなったみたいに色んな品物がいっぺんに売ってるんだぞ。カフェーもさぁ、銀座ともなったら女給さんとか絶対に美人ばっかりなんだろうなぁ。パウリスタにライオン、プランタン! 憧れちゃうよなぁ。あ、もちろん禰豆子ちゃんが一番きれいだけどねぇ~! とにかく洗練された大人の街なんだよ! こういう機会に一度は行っとかないと! 山で暮らしてたら滅多に行けないんだから!」
「わかったわかった。義勇さん、いいですか?」
苦笑しながらたずねた岩五郎に、半半羽織も笑ってうなずいた。
落ち着きがないんだからとむくれる子分その三も、まぁまぁとなだめられて、小さく舌を出して笑う。
「私もいっぺん行ってみたかったの。ありがとうお兄ちゃん、義勇さん」
「そっか。じゃあみんなで行こうなっ。俺も銀座は行ったことないや。義勇さんはありますか?」
「何度か……だが、店はよく知らない」
「よし、決まりぃ! じゃ、炭治郎、伊之助に服貸してやって」
「はぁ? なんで服なんか借りなきゃいけねぇんだよっ。絶対に着ねぇからな!」
べつにどこかに出かけるのはいい。でも、なんで服なんか着なきゃなんねぇんだ。
プイッとそっぽを向いたとたんに、ガシリと肩をつかまれた。地味に痛い。
なにしやがるとの怒鳴り声は、口から出る前に生唾と一緒に飲み込まれた。ズイッと迫ってくる善八の顔が、怖い。
「おまえなぁ、銀座だぞ、銀座。精養軒5築地精養軒。明治42年オープンやデパートメントストアがある、ぎ、ん、ざ! いいか? 銀座で裸なんてありえねぇんだよ。ふざけんな。垢抜けた街だって言っただろうが。猪頭も禁止だからな。せっかくの銀座で官憲に追い回されるなんて、ごめんなんだよ。もしそのままで行くなら友達やめるぞ、テメェ」
「お、おぅ……」
たまに善八はスゲェ怖ぇ。ギョロリと目をかっぴらいて睨む顔は、鬼よりよっぽど鬼だ。
岩五郎たちも苦笑するばっかりで、味方してくれやしない。銀座ってのはそんなに面倒くさい場所なのか?
半半羽織も岩五郎も、もう隊服は着ていない。どこでも見る普通の格好だ。刀ももう持ち歩かない。善八だって同じことだ。
でも、伊之助はまだ刀を手放せない。鬼は出なくても、山には獣がいる。熊などに襲われたときに、守ってやれるのは自分だけだ。ツキノワグマは臆病で、滅多に里に下りたりはしないが、絶対にないとは限らない。三蔵爺さんだって俺が守ってやんなきゃ簡単に食われちまうと、伊之助はいまだ刀をぶら下げている。
みんなちょっとずつ変わっていく。自分だけが同じままだ。前と同じがいい。でも、まったく同じではいられないことも、伊之助はちゃんとわかっている。
半半羽織の腕は片方なくなった。岩五郎の腕だって、片方はしわくちゃで動かないし、目玉もひとつは見えていない。
それでもふたりは笑っている。穏やかに、幸せそうに。善八に無理やり服を着せられる伊之助を見ながら、ふたりはずっと並んでニコニコとしていた。
鬼殺隊に入ったばかりのころなら、今のふたりを見て、だらしない弱みそどもめと馬鹿にしただろう。でも今は、そんなことちっとも思わない。馬鹿にする奴がいたら、俺が怒ってやると思っている。
「ごめんください」
さて、出かけようかと思った矢先に聞えた訪いに、半半羽織が少し眉を寄せた。見れば岩五郎の顔も固まっている。ヒクリと頬が引きつっているのを見てしまえば、声の主はすぐにピンときた。きっとあの腹の立つ雌だ。
俺が文句を言ってやらぁと、腕まくりした伊之助を静かに制して、半半羽織が玄関の戸を開けた。
「おはようございます。今日もお頼みしたい文がございまして」
にっこりと真っ赤な口で笑う雌に、むかっ腹が立つ。
「うぉっ、すっごい美人……いひゃいっ! ね、ねうこひゃん、いひゃいよっ」
「善逸さんは黙ってて!」
頬をつねられて涙目になってる善八はいい気味だ。あんな雌に鼻の下伸ばしやがってと、伊之助も子分その三に加勢してやりたくなる。
「申しわけないが今日は出かけるので、仕事はお引き受けできない。看板をしまっていたはずだが」
「あら、かわいいお客様がいらっしゃってたんですねぇ。みんなでどこにお出かけですの? ご迷惑でなければ私もご一緒したいわ」
ぶっきらぼうな半半羽織の声にもめげずに、なよなよした雌は細っこい手を半半羽織の左腕に絡めた。ちろっとこちらをねめつけて、にまりと笑う顔に頭の芯が燃え立つような怒りがわく。
「ね、僕たち。私も一緒でいいかしら?」
猫撫で声が気持ちワリィ。しかも、こっそりと子分その三を睨みつけやがった。
ふざけんなと怒鳴るより早く、半半羽織がするりと雌の腕から抜け出した。
「悪いが連れ合いの家族と水入らずで過ごすので。炭治郎、行くぞ」
そう言って、半半羽織は岩五郎の右手を取った。
「は? え、連れ合いって、あの、その子……見習いの小僧さんじゃ……」
「俺の伴侶だ。急ぐので御免」
呆気にとられてた雌の顔が真っ赤に染まった。怒りだか恥ずかしさだか知らないが、プルプルと震えてるのが小気味いい。ざまぁみろだ。
「この男色野郎! オカマ掘られちまえ!」
眉をギリリとつり上げて怒鳴るなり、雌は鼻息荒く去って行く。伊之助たちは思わずポカンと口を開いてしまったが、半半羽織はすまし顔だ。どこか清々としても見える。
「ちょっとちょっと、冨岡さん! 炭治郎ちゃんも! 今のってあの尻軽女だろ? なにがあったのさっ」
ガラリと隣の窓が開き、血相を変えた年増の雌が顔を出した。
「あ、チヨさん、おはようございます。お騒がせしてすみません」
あわててペコリと頭を下げる岩五郎の頬も、さっきの雌と変わらず赤い。耳もうなじも、秋の楓みたいに真っ赤だ。
「迷惑な大声出したのは炭治郎ちゃんじゃなくて、あの後家さんだろ。謝んなくていいよ。かなり冨岡さんに入れあげてたのに、えらい剣幕だったじゃないか。まったく、炭治郎ちゃんがいるのにやたら冨岡さんにベタベタしてさ。冨岡さん、あんたもいい加減そんな格好およしよ。書生みたいな格好してるから6書生=貧乏な学生、下積みの若者として生活に困窮していると思われがち、あんな女をつけあがらせるんだよ。金に困ってんだろうから仕事をくれてやるぐらいに思ってたに違いないんだ。仕事なら断れないだろうと思ってさ。本当に胸くそ悪い女だよ。大体さぁ、一目見りゃ冨岡さんと炭治郎ちゃんが好い仲なことぐらい、誰だってわかるってのにねぇ。あの女の目ん玉は色目使うのにしか使ってないから、炭治郎ちゃんと冨岡さんの仲睦まじさも見えちゃいなかったんだろうよ。さっきの剣幕からすると、袖にしてやったんだろ? いい気味さ。うちらのことも小馬鹿にしくさってたからね、あの女。あんな高慢ちきで尻の軽い女が、炭治郎ちゃんにかなうもんかい。身のほどを知れってんだよ」
フンと鼻を鳴らす隣の雌に、岩五郎は困ったように笑って頬を掻いてる。半半羽織はスンッと表情が消えた。ずいぶんとおしゃべりな雌だ。雌と見れば鼻の下を伸ばす善八まで呆気にとられてやがる。子分その三だけが、アハハと楽しそうに笑ってた。
キンキン声でまくし立てる雌は嫌いだけれど、岩五郎たちの味方なら、許してやろう。
事の次第を聞きたがる雌にぺこぺこと頭を下げてどうにか出発し、銀座とやらに着いたときには、もうお天道様は空のてっぺん近かった。
熊も山犬も出ないからと刀さえ取り上げられて、市電に乗っているあいだはずっと不機嫌だった伊之助も、銀座に降り立ったときには、思わず目を輝かせた。
銀座とやらは、ピカピカでキラキラだ。めずらしいもんで溢れてる。
柳が揺れる通りにはアーク灯が並び、道の両側は洋風の大きな建物ばかりだ。固い煉瓦の道には背の高い丸太がにょっきりと立っていて、何本もの黒い縄で丸太同士繋がっている。電線だから触ったら感電するぞ、登るなよと、半半羽織に釘を刺されなければ勇んで登ったのに、残念だ。善八にまで絶対にやるなよとにらまれ、伊之助はまた頬をふくらませた。
善八は、あきれ返るほどずっと大興奮だ。建物を指差しては『せーよーけん』だ『てんかどー』7天下堂。明治42年開業。デパートメントストアを名乗り、安売りをうたっていた店。3階建て(5階建ての説もあり)の大型店舗。大正7年閉店。だと、うるさいぐらいにはしゃいでいる。
子分その三は「善逸さんたら、子供みたいにはしゃがないの!」と叱るけれども、自分もウキウキとしてるのがはた目にもわかる。目がキラキラしてるし、頬がちょっぴり赤らんでた。
「先に飯にするか」
「そうですね。なに食べましょうか。蕎麦かうどんでも……」
「えぇーっ! 銀座まできて!? 洋食にしようぜっ!」
「善逸さん! 図々しいこと言わないの。第一そんなお金はありません!」
プンッと頬をふくらませ、腰に拳を当てて叱る子分その三は、善八を完全に尻に敷いてる。しょんぼりと眉を下げて、それでも「だってぇ、せっかく来たのにぃ」と泣きべそをかいてる善八に、半半羽織が、フハッと声をあげて笑った。静かに小さく笑う顔は見たことあるけど、こいつのこんな笑い方は初めて見た。
こんなところも前とは少しずつ違う。でもやっぱり、嫌じゃない。こいつと岩五郎の変わり方は、嫌いじゃない。
「今日は俺がおごろう」
「えっ、駄目ですよ! 義勇さんが一所懸命働いて稼いだお金なんですから、禰豆子たちの分は俺が出します!」
「わざわざ出向いてくれた連れ合いの家族におごることもできないような、甲斐性なしにさせないでくれ」
ポンポンと岩五郎の頭を軽く叩いて言う半半羽織に、また岩五郎の顔が赤くなった。
「連れ合い……」
「違うのか?」
「ち、違いません!」
ブンブンと首を振る岩五郎に、善八と子分その三が顔を見あわせて、へらりと笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えます、お義兄さん!」
やたらと出てくる連れ合いという言葉は、伊之助にはよくわからない。でもきっと番ってことだろう。半半羽織と岩五郎は、さくらんぼみたいにずっとくっついてる、仲のいい番だ。雄同士で番うのはよくわからないけれども、それを伊之助は疑わない。
笑いあうふたりを見ていると、なんとなく胸の奥がこそばゆくなるような心地がした。
西洋料理は気になるけれど精養軒では敷居が高すぎると、いざとなったら尻込みする善八に苦笑して、違う店でポークカツレツとかいう肉を食べた。天ぷらとは違うけど、これもべらぼうにうまい。
「手づかみで食うなよっ。ほら、ちゃんとナイフとフォーク持てって」
「あぁん? めんどくせぇ」
「俺たちみたいに、スプーンで食べられるのにしとけばよかったな」
笑う岩五郎はヲムライスとやらを、その隣で半半羽織はハッシュドライスとかいうのを、匙で食べている。ふたりはナイフとフォークを使えない。片手しか使えないから。でもふたりはちっとも苦にした様子はない。
「おいしいですねっ」
「うん。一口食うか?」
「じゃあ、俺のも一口どうぞ」
互いに匙で自分の頼んだものを相手の口に運ぶ姿は、ヒナに餌をやる親鳥みたいだ。そうしてふたりはまた、にっこりと笑いあう。善八が同じことやろうとして、子分その三に頭をはたかれてた。
うまいけれど食い足りない。そう言えば、また善八が
「そんなら千疋屋の果実食堂に行こうぜ。水菓子や西洋菓子を店のなかで食えるんだって! フルーツパーラーって言うんだってさ!」
と騒ぎだした。俺になんだかんだ言ってやがったくせに、テメェのほうがよっぽどみっともねぇじゃねぇか。伊之助はつい唇を尖らせる。
とはいえ、流行りものにうるさいだけあって、善八が行きたがる店はどれもうまいのは確かだ。『あいすくりん』とやらは甘くてひんやり冷たい。『ますくめろめろ』8千疋屋のマスクメロンの自社栽培は大正3年からとかいう瓜も、丸ごと食いたくなるぐらい甘かった。
銀座ってうめぇ! これならまた遊びに来てやってもいいな。
ここでも半半羽織と岩五郎はずっと並んで、うまい、甘いと騒ぐ俺らを見て笑ってた。そうしてまたお互いの食いもんを食わせあって、にっこり笑いあう。
「お土産もいっぱい買えてよかったね」
デカい店屋をいくつか回って、ソーラン本店とかにも入った。パチパチする水は口に合わないけど、『あいすくりん』はやっぱりうまい。だけど、加平とかいうとこの泥汁コーヒーなんていうやたらと苦い飲みもんは、二度とごめんだ。
「ソーダファウンテンにカフェーのブラジルコーヒーだって言ってんだろ!」
善八は本当に口うるさい。ビール頼めば女給さんが席に着いてくれるのに9当時のカフェーでは、瓶ビールを注文すると女給さんが席に着き会話してくれましたってぼやいて、子分その三に思い切りつねられたくせに。
腹もいっぱいだし、土産もたんまりと買った。半半羽織は、俺らにも好きなものを買えって言って、子分その三が遠慮するたびしょんぼりしやがる。おかげで菓子だの服だので大荷物だ。こんなにいっぱいと困り顔する子分その三に、半半羽織は「なに、それなりに蓄えはある」と笑っていた。岩五郎も「俺も働いてるから大丈夫だよ」とニコニコしている。
そろそろ帰るかとブラブラ歩いていたら、レンガ造りの煙突が見えた。馬鹿でかい建物ばかり見てきたけど、ひょろっとした煙突は、十分高くそびえて見える。モクモクと吐き出されている煙は、汽車の煙に似てた。
「なんだあれ! なんか燃やしてんのか!?」
「金春湯10江戸時代創業の銭湯。現在も営業中。現在はビル銭湯になってますの煙突だな。銭湯だ」
「戦闘!? 戦うのか!」
「バカ! 銭湯だよ、風呂屋!」
風呂なら山の家にもある。しのぶの屋敷や藤の家でも入った。家でも入れるもんに金を払うなんて、街の奴らは馬鹿なことをするものだ。
「もう営業してるみたいだな」
店の前にかけられた『わ』と書かれた木札を見て、半半羽織が言った。
「なんでわかんだよ。『わ』しか書いてねぇじゃねぇか」
「伊之助、ちゃんと読めるんだな! いっぱい勉強したんだろ? えらいなぁ」
頭を撫でてくる岩五郎に、これぐらい楽勝だぜと胸を張れば、うんうんと岩五郎はうれしそうに笑う。ガキみたいに頭を撫でられるのは癪に障らないでもないが、それでもほわりと胸が温かくなった気がした。
「言葉遊びのようなものだが『わ』なら湯が沸いた、『ぬ』なら湯を抜いたと示しているそうだ」
義勇さんは物知りだと笑う岩五郎に、俺も人から聞いただけだと、半半羽織は少し照れくさそうに視線をそらせた。一文字だけでいろんな意味があるものだ。帰ったら三蔵爺さんに聞いてみよう、もっと知って次の手紙に書けば、きっと岩五郎はまたうれしそうに笑うに違いない。
「記念に入っていくか」
煙突を見上げて半半羽織が言った。
「銭湯にですか?」
「うん。どうせ夜には行くんだ。ここで入っても同じだろう。それに、みんなで風呂に入るなんてもうないかもしれない。これも記念と思ってつきあってくれ」
半半羽織に頼まれれば、嫌だと意地を張るのも難しい。半半羽織には恩がある。伊之助たちを庇ったから、半半羽織の右腕は千切られたのだ。
素直にわかったと言うのは、それでもできず、伊之助はしかたねぇなぁと胸を張った。
「記念だってんなら俺様も入ってやらぁ」
「うっわ、偉そう。おまえ、なに様のつもりだよ」
「伊之助様に決まってんだろうが!」
やいのやいのと言いあう伊之助たちに、苦笑じみた笑みを浮かべた半半羽織たちは、それでもなんだかうれしそうだ。
大きな神棚のある番台とやらで金を払ったら、子分その三とは別々になった。雌とは一緒に入れないらしい。
銭湯は泳げるぐらい湯槽が広く、藤の家やしのぶの屋敷と違って天井が高い。やたらと声が響いた。奥の壁には富士山が大きく描かれていた11銭湯でお馴染みのペンキ絵は大正2年が初めて。絵が描いてある風呂なんて面白い。一番乗りで足を踏み入れた板張りの床12銭湯の床や湯槽がタイルになったのは大正10年ごろから。カランの設置は昭和2年は濡れていて、つるつると滑って伊之助は目を輝かせた。
「ワハハッ! おい、氷の上みたいに滑れるぞ!」
「こらっ、伊之助! ほかのお客さんの迷惑になるだろ、はしゃぐんじゃない!」
「伊之助さん、お兄ちゃんや義勇さんを困らせちゃダメよ!」
板壁の向こうから子分その三の声がした。その声もいつもより大きくひびく。客なんてまだひとりふたりしかいねぇんだから困りゃしねぇよと、言い返そうとしたら、善八が鼻の下を伸ばしきって呟いた。
「禰豆子ちゃんも今、裸なんだよなぁ……痛っ!」
ゴンッと音がひびくほどに岩五郎と半半羽織の拳が、善八の脳天に落とされた。あれは痛そうだ。
「変な想像をするなっ」
「しょうがないじゃんかっ。ていうか、なんで冨岡さんまで叩くんだよぉ」
「禰豆子はもう妹だ」
「へいへい、連れ合いの炭治郎の妹ですもんね」
そんなら禰豆子ちゃんの連れ合いになる俺も弟と思ってやさしくしてほしいと、ブツブツ言う善八に、岩五郎と半半羽織は顔を見あわせて苦笑していた。
半半羽織はひょろりと痩せて見えるくせに、服を脱いだらガッシリとしてた。日がな一日字ばかり書いてるようには見えない。鍛え上げられた鋼の刀みたいな体をしている。右腕は、肘よりも上までしかなかった。
心臓がギュッと握りつぶされてるみたいに痛くて、伊之助は知らず目をそらせた。岩五郎の左腕も、爺さんみたいにしわくちゃだ。動かすこともできない。だけど目の当たりにしても、これほど胸が痛くなったことはなかった。
使えなくても岩五郎の腕はそこにある。半半羽織の腕は、もうない。生えてくることだってあり得ない。もう元には戻らないのだ。伊之助たちを庇ったから。
「春とはいえ夜はまだ冷える。しっかり温まれ」
ポンポンと、半半羽織の左手が伊之助や善逸の頭を軽く叩く。伊之助には、父も兄もいない。そんなものは知らない。
けれど、父や兄というのはこういう感じなんだろうかと、胸の奥がそわりとこそばゆくなった。痛みよりも強く、ホワホワと胸が温かくなる。善八も同じなんだろう。うひっと変な声を出したきり、赤い顔をうつむき隠してクフクフと笑っている。
岩五郎は、俺たちはもう兄弟みたいなもんだからと言っていたけれど、半半羽織も同じだろうか。半半羽織が自分たちのことを弟だと思ってたらいいなと、なんとはなし思って、伊之助はハッと目を見開いた。ブンブンと首を振る。
恩義はあるけど、兄弟なんかじゃねぇよ。いや、べつにそれはいいけど……だとしても俺様が兄貴だ。半半羽織や岩五郎だって、今度は俺様が守ってやんねぇといけねぇんだから。
湯につかってワイワイ話してたら、だんだん人が増えてきた。勤め帰りの人らかなと善八が言った。
半半羽織のぶった切れた腕や、岩五郎のしわくちゃな腕を、ほかの奴らがジロジロ見る。ギョッと目をむく奴もいる。岩五郎と肩が触れたとたんに、流行病の患者に触れたみたいに、あわてて避ける奴までいた。
ムカつく。腹が立つ。こいつらはそんな扱い受けていい奴らじゃねぇんだぞ。半半羽織も、岩五郎も、強くて、強くて、とんでもなく強くて、おまえらがそうやって呑気にしてられるのも、こいつらが必死に鬼と戦ったからなんだからな。腕をなくすぐらいに、目が見えなくなるぐらいに、戦って、戦って、必死に戦って! そうやってテメェらを守ってやったんだ! 馬鹿にされる筋合いなんかねぇ!!
ザバリと湯を揺らせて立ち上がり、伊之助は大きく息を吸い込んだ。見るんじゃねぇ! 怒鳴ろうとした声は、けれども出なかった。岩五郎の右手が、そっと伊之助の腕をつかんだから。いいよって笑いながら。
半半羽織も笑ってる。笑うな。怒れよ。善八も泣きそうな顔してんだろ。なのにふたりはただ笑う。
喉の奥になにかデカい塊を押し込まれたようだ。息が詰まって苦しい。ググッとこらえて、伊之助は拳を握った。
「おいっ! もう出るぞ!」
大きな声で子分その三に言って、伊之助は風呂から出た。それしかできなかった。
「待てよっ」
あわてた様子で善八も一緒についてくる。あんな目で見られる場所にこれ以上いたくないのは、善八も同じなのかもしれない。
半半羽織と岩五郎も、すぐについてきた。ふたりは集まる視線のなかでも堂々としている。憂いも羞恥も感じさせることなく、笑いあって悠々と歩いてくる。手を繋ぎあって。
「はい、義勇さん」
「おまえも」
岩五郎と半半羽織は向き合って、お互いの髪を拭いてる。ひとつきりの腕で、笑いながら。
向き合って笑うふたりは幸せそうだ。
なんでだろう。胸がギュッと痛む。だけど、さっきみたいな苦しい痛みじゃない。痛いのに、それは不思議と温かく、涙が出そうになった。
一緒に山に帰ろうぜ。そう言うつもりだった。あんなふうに見る奴らや、朝のムカつく雌みたいなのがいる場所で、縮こまって暮らす必要なんてねぇじゃねぇか。山でみんなで笑って暮らせばいい。俺様が守ってやるから。
そう言ってやって、遠慮するなら無理にでも引っ張っていこう。そう思っていたのだけれど。
変な目で見る奴らがいても、これからもこいつらは笑うんだ。ふたりでいれば幸せだって。
世間の片隅で肩寄せあって、ふたりきり縮こまって生きてるんじゃない。隣の家の年増やら、弁護士先生とやら、いろんな奴らと一緒に生きてる。ふたり笑って、手を繋ぎあって。片腕や片目でも、男同士でも、だからどうした俺らは番で、ふたり一緒だから幸せだと、胸を張って生きているのだ。
それならもう、連れて行くことなんてできない。いろいろと変わったことがあっても、ふたりの強さはちっとも変わっていなかった。逃げろなんて、言えるわけがないじゃないか。
帰りがけ損料屋13今でいうレンタル屋。長屋は収納スペースが少ないため、近くに損料屋があるのが常で布団や茶わん、箸なんかも借りて家に戻った。遅い夕食はみんなで作った。土産のタラの芽やら山菜で作ったてんぷらは、銀座の土産と一緒に隣の家にもお裾分けした。銀座の飯もうまかったけど、こっちのほうがはるかにうめぇと伊之助が言ったら、みんながどっと沸いた。善八でさえも、そうだなと笑う。
みんなずっと笑っていた。
風呂では別々だった子分その三も、伊之助や善八の様子でなにがしか悟ったんだろう。銭湯から出た善逸たちの顔に、一瞬だけ泣きそうに目を揺らして岩五郎たちを見たけれど、泣かなかった。大きいお風呂は気持ちがいいねぇ、また来ようねと笑っていた。
それからずっと、笑ってる。善八も馬鹿みたいに滑稽な話ばかりしてる。岩五郎と半半羽織も、それを聞いて楽しそうに笑っていた。
狭い部屋に布団を敷きつめて、みんなで眠った。寄り添いあって。山の家も、狭い長屋も、笑って過ごすなら同じだ。
眠りに落ちる前に、ふと、山を下りる前に岩五郎が言った言葉を思い出した。
『命の刻限に変わりはないんだよ』
半半羽織と岩五郎には、痣が出た。長くは生きられない。
あぁ、そうか。だから記念なのか。
悔しいと思う前に眠ってしまったのは、たぶん良かったんだろう。飛び起きて、真夜中だってのに半半羽織に怒鳴り散らさないで済んだから。
次の朝、朝飯を食べたらすぐに帰ることにした。今から出ても雲取山の家に着くのは夜になるだろう。駅まで送ると言った岩五郎たちと一緒に、昨日歩いた道をぞろぞろと行く。昨日の帰りと同じく、損料屋の大八車を引いて。借りた布団なんかを返すのに、片手同士のふたりじゃ骨が折れる。借りたときと同じく、大八車は伊之助と善八で引いた。
これからみんな仕事に向かうんだろう、駅はやっぱり人が多い。人の流れに逆らって、駅舎に入った。
全員分の切符代を出そうとした半半羽織を、子分その三が止める。さすがにそれは自分らで払うと苦笑いした子分その三に、半半羽織は残念そうだ。岩五郎が苦笑して、ポンポンと背を叩いてやってた。
汽車がやってきた。これに乗ったら、また離ればなれだ。だけど。
座席に着いたらすぐに窓を開けた。発車までそれほど時間はない。またしばらく逢えない。だけど、それでも。
「それじゃ、お世話になりました」
「お土産いっぱいありがとうね、お兄ちゃん、義勇さん」
「気をつけて帰れ」
「元気でなっ。なにかあったらすぐ連絡するんだぞ?」
俺らに土産をいっぱい持たせたふたりは、やっぱり笑ってる。変わらぬ笑顔と、少し変わった笑顔で。仲良く並んで笑っている。だから。
「おいっ、次に来るときまでに俺らの茶わんや箸、買っておけよ! すぐに来てやっから! いいなっ、炭治郎! 義勇!」
大きな声で言った伊之助に、一瞬ぽかんとしたふたりの顔が、すぐにくしゃりと笑み崩れた。
「うん、いつでも来ていいように、みんなの分を用意しておくよ」
「次に行きたいところも考えておけ。みんなで行こう」
甲高い汽笛が鳴り響いた。汽車が動きだす。窓から身を乗り出し手を振れば、半半羽織と岩五郎も笑って手を振り返した。
ずっと、ずっと、笑ってろ。さくらんぼみたいにふたり並んで、いつまでだって。何度だって遊びに来てやっから。俺は親分だからな。ちゃんと見ててやらねぇと。
終わりが近いとか、関係ねぇだろ。もうないなんて、二度と言うんじゃねぇよ。暦なんて見なくても、季節はわかる。それだけでいいんだ。花が咲いて、お日様がカンカンに照って。山の食い物がうまくなって、雪が降る。そうして季節は変わらず巡ってくるものだ。毎日、毎年、そうやって笑って過ごしゃそれでいい。
記念とかいらねぇ。楽しいことも面白いことも、記念じゃなくて、いつもの日々になるように。