Hello! my family 第1章

 義勇たちの困惑など気づいてもいないのだろう。禰豆子はニコニコとたいそううれしげに笑って、言葉をつむいだ。
「パパね、禰豆子にお勉強教えてくれるの。禰豆子もうひらがなもカタカナも書けるんだよ。パパが教えてくれたから! だからお兄ちゃんも、パパにお願いしたらいいと思うの。絶対にお勉強教えてくれるよ。あとね、パパはね、寝るときにご本も読んでくれるんだよ。それからね、ご飯も作ってくれるし、一緒にお買い物したり、お掃除したりお洗濯もしてくれるの。禰豆子もお手伝いするんだよ。お兄ちゃんもパパと禰豆子と一緒に、ご飯作って食べればいいと思うの。玉子焼きとかちょっとこげてるけど……えっと、オムライスも玉子が破れちゃうんだけど、でもねっ、でも、パパが作ってくれたらおいしいの! ちょっとしょっぱかったり、あんまり味がしないこともあるけど……でもね、おやつだって食べていいんだよって言ってくれるの! んっと、お洗濯もたまに白いTシャツがピンクになったりするんだけど、でもちゃんと毎日お洗濯してくれるよ!」
 ますます義勇が動揺していくことなど、まったく禰豆子は気がついていない。動揺はすぐにいたたまれなさへと変わり、今すぐにも禰豆子の手を引き逃げ出したくなる。

 そんなこと、できるはずもないが。

 楽しげに話す禰豆子の言葉をさえぎるという選択肢など、義勇にはない。羞恥に身が焼かれるのをただ耐えるしかなかった。
 炭治郎は禰豆子の話に、なにを思っているだろう。炭治郎の顔が見られずに、義勇はわずかにうつむき、禰豆子の言葉を聞いていた。
 下世話な好奇心とは無縁の少年に思えるが、いかにも家事能力の劣る男やもめな内容に、あきれるのはしかたがないだろう。子煩悩な父親として好感を持たれていたようではあるが、それも今日でおしまいだろうなと、残念に思う自分が不思議だった。
 それでも禰豆子が楽しげに笑ってくれるならそれでいい。どれだけ恥をかこうと、かまわない。自尊心だのプライドなんて、紙くずほどにも役に立たぬものなど捨て去れる。たとえこの先、炭治郎が自分を見る瞳に、憐憫や軽蔑の色が宿っても、禰豆子の笑顔には代えられなかった。
 けれどそんな決意も、つづいた禰豆子の言葉に、一瞬薄れた。
「あとねっ、あとお風呂も一緒に入るの! 毎日入っていいんだよ、すごいでしょ! パパ、頭洗うの上手になったよ。いつも禰豆子の頭洗ってくれるんだぁ。パジャマもね、出してくれるの。優しいの。ねっ、お兄ちゃんもパパと一緒にお風呂に入ればいいよ!」

「禰豆子っ!!」

 さすがにギョッとして、大きな声で禰豆子を止めた瞬間に、ビクッと禰豆子の薄い肩が跳ねた。
 しまったと思ったときには、すでに禰豆子の顔は青ざめていた。小さく頼りない体を小刻みに震わせて、義勇の顔を見上げることもせずに、ギュッと目を閉じ体を縮こまらせている。肩にかけた通園バックのストラップをにぎるモミジのような手も、あわれなほどに震えていた。
 焦燥のなか、泣きだしたくなる気持ちをこらえ、義勇は禰豆子の前にしゃがみ込んだ。
 二度とこんな顔をさせないと誓ったはずなのに。何者からも守ると、それだけが自分の生きる意味だと心に誓ったというのに、このザマか。
 すぐそばにいる炭治郎のことすら脳裏から消えていた。恥などという言葉すら浮かばない。義勇は震える腕で、禰豆子をそっと抱いた。
「禰豆子……大きな声を出して悪かった」
「おしゃべりしてごめんなさい。もうしません、ごめんなさい。いい子にします」
「違う。禰豆子は悪くない。なにも悪くないんだ」
 目を閉じたまま、うわ言のように謝罪を繰り返す禰豆子が、どうしようもなく悲しい。こんなこと二度と言わせたくはなかったのに。
 後悔と自責の念が義勇を責め立てる。どうか笑ってくれと願った。優しく、禰豆子をかけらもおびえさせないように優しくと自分に念じる。不安や焦りを表に出せば、禰豆子をますますおびえさせてしまう。冷静に、優しくと、自分に言い聞かせながら、禰豆子がおびえないことをひたすら願って、義勇はゆっくりと言葉をつむいだ。
「全部俺が悪い。禰豆子はなにも悪くない。禰豆子はいい子だ。おしゃべりしていい。いっぱいおしゃべりしてくれ」
「……お部屋、行かなくてもいいの?」
「いい。二度と禰豆子を閉じ込めたりしない。一人ぼっちにはさせないから……ごめん、禰豆子」
「……いいよ」
 頼りなく幼い体から、こわばりがゆっくりと解けて、細い腕が義勇の背にまわされた。ギュッとしがみつく手は、まだ少し震えている。傷ついたのは禰豆子のほうなのに、いいよと義勇を許す禰豆子の心根の優しさが、胸に痛かった。

「パパ、大好き」
「うん。俺も禰豆子が大好きだ」

 こんな未熟な自分を慕い、大好きとすがりついてくれる禰豆子が、ただただ愛おしかった。

「お客様、なにかございましたか?」
 不意にかけられた声に、腕のなかで禰豆子がまた体を固くする。大丈夫だと伝わるように頭をなでてやり、義勇は声の主へと視線を向けた。
「店長さん」
「竈門くんか……お客様、こちらの店員がなにかしましたか?」
 戸惑いをあらわに炭治郎が口にした呼びかけが、義勇の視線を険しくしたのはしかたがないだろう。初老の男が炭治郎の名を呼んだときの、どこか蔑んだようなひびきに気づいてしまえば、なおさらだ。
「いや、こちらが悪い。この子はなにもしていない」
「そうですか? 新人なもんですから、いたらないところも多くて……竈門くん、本当にご迷惑をおかけしてないね?」

「お兄ちゃんはなんにも悪いことしてない!」

 叫ぶ禰豆子を抱き上げて、義勇は、ギョッと目をむき怪訝な顔をする店長に、冷めた視線をすえた。
 目が据わっているだろうことは自覚しているが、炭治郎への仕打ちを思えばこれぐらいは許されるだろう。禰豆子にしでかしてしまった失敗に対する自己嫌悪の、八つ当たりも多分に含まれているが、大した問題ではないと思った。
「あ、あの義勇さん。さっきの本当に……」
「禰豆子を頼む」
 息をつめ義勇と禰豆子の様子を見守っていた炭治郎は、店長に対峙した途端に、義勇が怒りの気配をにじませたことに気づいたらしい。義勇を止める様子をみせたが、禰豆子に腕を伸ばされては断るという選択肢はなかったようだ。
 しっかりと禰豆子を抱きかかえる仕草は、義勇よりよっぽど子供の扱いに慣れているそれだ。
 炭治郎と禰豆子の不安げな顔をチラリと横目で見て、義勇は店長に向き直った。険悪なシーンを禰豆子には見せるわけにはいかない。炭治郎を不安がらせ、困らせるのも本意ではないのだからと、務めて冷静に義勇は口を開いた。
「勤務中の竈門くんに声をかけ、仕事の邪魔をしていたのはこちらのほうです。申し訳ありません」
「あ、あぁ……いえ、それなら別に……」
「ただ、さきほど気になることを聞きまして、二、三あなたにお聞きしたいことがあるのですが。竈門くんの勤務状況について」
 意味はわかるだろう? と言外に込めてじっと店長を見据えれば、初老の店長は滑稽なほどにうろたえた。根は小心者なのだろう。言い訳が頭のなかを猛スピードで巡っているが、うまい言葉が出てこない。そんなふうに見えた。
「早急な改善を求めます。こちらも穏便に済ませるに越したことはないので」
「……労働監督署に訴えると?」
「違法行為を通報するのは市民の義務ですから」
 今ならば目をつむると、ひそめた声で義勇が言うより早く、店長が震えながら大声をあげた。

「みなしごを雇ってやってるんだ! 部屋だって格安で住まわせてやってるんだぞ! ちょっとぐらいただ働きしたって釣りがくるぐらいだろうが!!」

 背後で炭治郎が息を飲んだのがわかった。背中に伝わるのは、禰豆子がおびえる気配。

 もういいだろう? こいつは駄目だ。保身と責任転嫁で身勝手な理論を振りかざす男に、反吐が出そうだ。叩きのめしたらスッキリするぞ。

 頭の片隅で誰かがささやいた気がしたが、義勇はそれでも激昂を抑えつけた。義勇まで声を荒げれば、禰豆子が不安がる。おびえてしまう。暴力などもってのほかだ。
「……あなたが所有する物件に、竈門くんは住んでいるということでしょうか? 寮という扱いになるかと思いますが、超過勤務分の給与に見合うだけの寮費ともなると、相当な額になるのでは? 差別的な言葉で貶める割には、ずいぶんと豪勢な部屋を提供しているようだ。――炭治郎。部屋の間取りは?」
「え? あの……」
 おいっ、と声をあげて店長が炭治郎の返答を制止しようとするのを、睨みつける視線で制して、義勇は早く言えと炭治郎をうながした。
「……四畳半の和室、です」
「風呂、トイレ、台所」
「ありま、せん……」
 炭治郎の消え入りそうな返答に眩暈をおぼえて、義勇は、思わず出そうになったため息をどうにかこらえた。部屋数と広さは案の定としか言いようがないが、さすがにトイレすらないのは予想外だ。
 おそらくは、社員の仮眠用の部屋にでも住まわせているのだろう。それとも自宅の物置に畳を敷いた程度の代物か。
 いずれにしても、劣悪すぎる環境であることに違いはない。
「……今までの未払い分の時間外手当だけは出せ。今日で炭治郎は退職だ。それで通報されずに済むなら安いものだろう」
「義勇さんっ!?」
 きっと炭治郎の顔は青ざめていることだろう。職を失うよう仕向けたのだから、当然だ。だが、このままでいいわけがない。
 義勇はひとつ大きく息を吸い込むと、決心した。
 今から自分が告げる決断は、おそらくははたから見れば正気の沙汰ではないのだろう。それぐらい世情に疎い義勇にも推測できる。わかっていながら決断をくつがえす気にはならない理由は、禰豆子が慕っているから。理由はそれだけで十分だ。

「うちには部屋が余っている。今夜からうちに住め。住み込みの家政夫として俺が雇う。詳細な労働条件はうちに着いてからだ。荷物はどれぐらいある?」

 炭治郎の顔を見て告げる勇気は、まだ少し足りない。振り返ることなく言った義勇の背に、炭治郎の視線が突き刺さる。
「へ? え、あの……」
「……お兄ちゃん、禰豆子のおうちに住むの?」
 状況が飲みこめないのかうろたえる炭治郎の声にまじり、禰豆子のあどけない声が聞こえて、義勇はようやくゆっくりと振り向いた。

「……炭治郎がよければ」

 茫然と義勇を見ている炭治郎の顔に、義勇は、ふと気づいたその事実に小さく笑った。
 目を丸くして驚いている炭治郎の顔は、どことなく禰豆子に似ている。

 ――あぁ、そうか。禰豆子が懐いているだけでなく、人に関心を持てない自分まで不思議にすんなりと炭治郎を受け入れていたのは、禰豆子に少し似ていたからか。

 気がついてしまえば、咄嗟の思いつきに近い提案も、浮かぶべくして浮かんだものだという気がした。
「お兄ちゃん、禰豆子のおうちは嫌? 禰豆子とパパとお兄ちゃん、みんな一緒がいいよ。ダメ……?」
 期待のこもった、けれども少しおびえた禰豆子の声に、炭治郎が困惑している。目まぐるしい状況の変化についていけないのだろう。気持ちはわかると少しだけ苦笑して、義勇は、禰豆子をしっかりと腕に抱いたままの炭治郎に向き直った。
 まっすぐに炭治郎を見つめ言う。どうか断らないでくれと願いながら。
「できるだけ待遇は優遇するようにする。禰豆子を悲しませたくない。頼む」
「あ、頭なんて下げないでくださいっ!! あの、俺……よ、よろしくお願いします!!」
 ぺこりと勢いよく頭を下げた炭治郎に、腕のなかの禰豆子がきゃあっと楽しげな悲鳴をあげた。
 あわてて身を起こせば、また楽しくてたまらないというように禰豆子は笑う。その笑みにつられたか、炭治郎もわずかに眉尻を下げつつも、面白いか? と笑った。

 和やかな光景に、泣きそうになるのはなぜだろう。どこか懐かしく、同時に悲しくもあるのは、自分にとってこんな温かさはもはや縁のないものだと、禰豆子とともにあってさえ諦めていたからなのかもしれない。

「お兄ちゃん、一緒に帰るの? 禰豆子のおうちで、パパと禰豆子と一緒に住んでくれるの?」
「うん……お世話になるよ」
 笑いあうふたりは、優しさに満ちあふれた絵本のなかにいるようだった。義勇と炭治郎たちのあいだは、ほんの二歩程度しか離れていないのに、なぜだかふたりが遠い。自分は違う世界に立ち、ふたりをうらやましげに見ている。そんな気がした。

 炭治郎の荷物は、すべて詰め込んでも大きな紙袋三つで足りた。学校の教材のほかには、いくらかの衣類しか炭治郎の持ち物はなく、靴など一足きりだ。娯楽品などなにも持っておらず、せいぜいスマホだけが財産と言える。
 通報という言葉が効いたのか、恨めしげな顔はしたものの店長が炭治郎の退職を認めたのは、ありがたい。以前いた施設や高校への連絡、住民票の移動など、やるべきことは色々とあるが、すべては明日以降の話だ。炭治郎自身でやれることはやってもらわねばならないが、通信制高校に在籍している炭治郎は、それなりに時間の融通も利くだろう。
 ともあれ、義勇がやるべきことは決まっている。炭治郎に安心して暮らせる住居と、安定した収入を約束し、反故にしないことが肝要だ。はしゃぐ禰豆子をはさんで三人で帰途につく義勇の頭のなかでは、数字と文言が飛び交い、自宅に着いたときにはあらかたのビジョンはできていた。
 炭治郎の生活を支えるぐらいの気持ちで練り上げた契約書は、もちろん、炭治郎の意見も取り入れ微調整しなければならないが、スーパーの劣悪な労働条件など比べものにならないはずだ。家も四畳半風呂トイレなしよりはるかにマシだろうし、きっと炭治郎も喜んでくれるだろう。
 そう義勇は思っていたのだ。炭治郎の無理ですという叫び声を聞くまでは。

 帰り道、禰豆子と炭治郎の会話を聞いてはいたが、義勇の頭のなかには炭治郎の給与だとか、福利厚生はいかにすべきかだとかで埋めつくされていて、炭治郎がだんだんうろたえていくのに気がつかなかった。
 長く続く生垣の横を歩きながら、ここが禰豆子のおうちだよと、禰豆子がうれしげに炭治郎に教えた声はおぼえている。それに対して炭治郎が「ここって……この生垣、禰豆子の家のなの?」と驚いた声をあげたのも。
 とはいえそれらは、義勇の意識に長くとどまることはなかったのだ。
 なにしろ、義勇にしてみれば、広いばかりで古いことこの上ない日本家屋だ。固定資産税はそれなりにとられるが、都心から離れた地方都市でもあるし、いばれるようなものじゃない。禰豆子にしたところで、物心ついたころから住む家だ。炭治郎が驚くなど思いもよらなかっただろう。
 別れた妻には、なんでこんな古臭い家に住まねばならないのかと文句ばかり言われていたが、炭治郎の感想はだいぶ異なるらしい。

「こんなすごいお屋敷で家政夫さんなんて、俺に務まると思えません!」

 絶望的な悲鳴をあげて門をくぐろうとしない炭治郎に、義勇も面食らったが、禰豆子の動揺は義勇の比ではなかったようだ。みるみるうちに大きな桃色の瞳に涙が浮かび上がり、悲しげにしゃくり上げるまで、一分とかからなかった。
「お兄ちゃん……禰豆子のおうち、嫌い?」
「いやっ、嫌いとかじゃなくて! 禰豆子の家が嫌なんじゃなくてさ、こんな広いお屋敷じゃ、ほかにもお手伝いさんとか……」
「家に他人をあげるのは嫌いだ」
 狼狽しつつも禰豆子を泣きやませようと必死になっていた炭治郎の目が、大きく見開き義勇を映した。
「え……? あの、それじゃなんで、俺を……」
「……おまえは、禰豆子に懐かれてる。この子が初対面であんなに懐くのはめずらしいんだ。禰豆子から聞いただろう? 俺は満足に飯も作ってやれないし、洗濯も失敗する。保育園の迎えも遅れがちで、寂しい思いをさせている」
 だから。

「必要なんだ、おまえが」

 そうだ。禰豆子が健やかに『普通』に育つには、こんな不完全な自分では不十分だ。『普通』を知らない自分だけでは駄目なのだ。

 義勇の表情は変わらなかっただろう。大概の者から鉄面皮だの仏頂面だのと嫌厭される、常の無表情だったに違いない。
 けれど炭治郎は、ひるむことも、不快げな顔をすることもなかった。
 目をそらすことなく義勇の瞳をじっと見つめて、炭治郎は、やがて真剣な面持ちでこくりとうなずいた。
「俺にどれだけのことができるかわかりませんけど……精一杯務めさせてもらいます。雇ってくれてありがとうございます!」
「……声が大きい」
 辺りにひびいた炭治郎の声に、思わず言えば、あわてて口をふさぐ。先程までの真剣な顔つきなどどこへやら、きょろきょろと辺りを見回して、へにゃりと眉をさげ申し訳なさげにすみませんと首をすくめる様は、なんだか小動物めいていた。
「一緒に住んでくれるの?」
 おずおずと聞く禰豆子に笑い返した顔は、春のお日様のように温かい。
「うん。よろしくな、禰豆子」
「うん!」
「ぎ……じゃなかった、冨岡さんも、よろしくお願いします」
 また少し感じた疎外感が、炭治郎の呼びかけにいや増して、義勇はわずかに眉根を寄せた。
「なぜ変えた?」
「へ? なにをですか?」
「名前」
 別にかまわないはずだ。呼び名など、どうでもいいはずだった。けれど、炭治郎に義勇さんと呼びかけられるのを、存外自分は気に入っていたらしい。
「雇い主さんを名前で呼ぶのはマズいかと思ったんですけど……えっと、それじゃ、ご主人様? ですかね」
 少し不機嫌になった義勇は、困ったように頭をかき炭治郎が言った台詞に、どっと脱力するのを感じ、疲れたため息をついた。
「……義勇でいい。いや、義勇にしてくれ」
 そんな時代錯誤な呼ばれ方をしてたまるか。場合によっては契約書に呼び方も明記しなければならないだろうかと、遠い目をしかけたが、炭治郎はごねることなくうれしげにうなずき、「はい、義勇さん」と笑ってくれた。

「へへっ、よかった。せっかく教えてもらったのに、もう義勇さんって呼べないの残念だなって思ってたんです」

 名前一つだ。たかが名前一つ呼べるだけで、炭治郎は幸せそうに笑う。なんだかその笑みを見ていると、妙にどぎまぎとしてしまって、義勇は炭治郎の言葉に返す言葉が浮かばぬまま、ごまかすように行くぞと言い置き門をくぐった。
「はい、義勇さん!」
 笑って後をついてくる炭治郎と禰豆子の気配を背に、義勇は無言のまま歩く。
 耳の奥で優しくこだまする自身の名に、知らず微笑みそうになる顔に手を焼きながら。