Hello! my family 第1章

 休みの日でも義勇の起床時間は変わらない。禰豆子を空腹のまま待たせるわけにはいかないから、アラームなしでも六時前には目が覚めてしまうのが常だ。炭治郎が来たとはいえ、体に染みついた習慣はまだまだぬぐえそうになかった。
 傍らで健やかな寝息を立てている禰豆子をそっと撫でて、義勇は静かにベッドを出た。
 正式な契約は日を改めるが、基本的に勤務は平日のみ、義勇が家にいる休日は家事をしなくていい。炭治郎には、確かにそう伝えてある。
 だから義勇は、いつも通りに目覚めた日曜日の本日、炭治郎の分も含めて朝食は自分が作るつもりでいた。
 だというのに、すでに廊下にまでみそ汁や炊き立てのご飯の匂いがしているとは。炭治郎はいったい何時に起きたのかと、台所に向かった義勇は、コンロの前に立つ炭治郎の背中を見つめつつため息をついた。

「あ、義勇さん! おはようございます!」

 にこにこと笑う炭治郎は、今日も元気いっぱいだ。挨拶もそこそこに義勇がかすかに眉を寄せるのを、炭治郎はぱちりと目をしばたたかせ不思議そうに見たものの、食事の支度をする手は止めない。
「……炭治郎、土日祝日は休みだ」
 休日は家事をしなくていいと、何度言えばわかってくれるのか。金曜の夜に念押しておいたというのに、昨日も炭治郎は三食しっかり作っていた。そのたび休めと言い聞かせたのだが、今朝もこれか。
 食卓に並ぶ玉子焼きだの煮物は、見るからにおいしそうだけれども――実際、煮物は昨夜も食べた残りのようだが、大変美味だった――素直にうまそうだと笑ってやることは到底できない。
 勿論、ありがたいことは確かだ。正直言えば、上げ膳据え膳で出てくるこんな食事を毎食食べられるなら、是非ともお願いしたいところではある。
 苦手な調理をせずに済むというだけでなく、炭治郎が作ってくれる料理はとにかく美味なのだ。禰豆子の迎えを初めて頼んだ日に、夕食に出された鮭大根ときたら、元々好物であるのを差し引いても毎日食べても飽きないだろうとすら思った。
 けれど、雇用関係にある以上、勤務時間を厳守させるのは義勇の義務である。あのスーパーの店長と同類になる気など、義勇にはさらさらない。
 バツ悪げに視線をそらせる炭治郎をにらみつければ、炭治郎はしょんぼりと肩を落とし、上目遣いに義勇を見上げてきた。
「えっと、でも、ほとんど昨日の夜に作っておいたのをチンしただけなので……」
「昨日だって休みだ」
「でも、あのっ、まだ正式な契約はしてないですしっ!」
 言いながらチラリと壁に貼られたカレンダーに目を向けた炭治郎につられ、義勇も視線をそちらに向けた。
 予定を書き込めるタイプのカレンダーはシンプルで、写真もイラストもない。書かれているのは、ほとんどが禰豆子の保育園での予定だ。一番新しく書き込まれたメモの日付は、六月七日の日曜日。まさしく今日の日付である。

『炭治郎、正式契約予定。来客あり』

 そんな文言を書き込んだのは、義勇自身だ。自分の書いた文字を恨めしげににらみ、思わず小さくため息をついた義勇だが、対する炭治郎はといえば、ほんのちょっぴり申し訳なさげに眉尻を下げたものの、すぐにあっけらかんと笑いかけてくる。
「それに俺、掃除や料理好きですし、趣味ならかまわないですよねっ」
「しかし……」
 まだ勤務内容はざっと伝えただけではあるが、すでに炭治郎は、義勇が決めたそれら以上に働いている気がする。
 炭治郎には平日の食事の用意――昼は弁当になるが――と、禰豆子の迎え、義勇が帰るまでの子守りを頼みはした。だが、掃除や洗濯まで依頼する気はない。そこまで甘えるつもりは義勇にはなかった。
 それを伝えたときにも炭治郎はかなり不満げではあったけれども、家政夫として雇うとはいえ炭治郎は高校生だ。通信制であろうと、まずは学業に時間は使うべきだろう。
 なのに炭治郎は、義勇と禰豆子がいない日中、せっせと家中の掃除に精を出しているようだった。どんよりとくすんでいた窓ガラスがピカピカに磨かれ、水回りのステンレスが本来の銀色の輝きを取り戻しているのを見れば、いかに鈍感だと同期に言われがちな義勇だって気づく。
 よくよく注意して家のなかを見てみれば、乱雑に積まれていた禰豆子の絵本はきちんと本棚に並んでいるし、禰豆子の洋服ダンスのなかも一目でなにがどこに入っているかわかるようになっていた。廊下の隅や障子の桟にたまっていた埃も、いつのまにやら見かけない。
 洗濯だって義勇がしようとすると、すでに洗濯機が回っている。色物と白い物をわけるぐらいは義勇だってするようになったが、炭治郎はさらに分別して洗濯しているらしく、義勇が買ったことのないオシャレ着洗い用とかいう洗剤やら柔軟剤まで置いてあった。義勇のワイシャツも、クリーニングしたようにパリッとしている始末である。アイロンがけは苦手だから、買い物のついでにすべてクリーニングに出してくれと、言っておいたにもかかわらずである。
 ありがたい。確かに、ありがたいことこの上ないのは事実なのだけれども。
 
 おまえはいったい、日中どれだけ働いているんだ……。

 義勇からすれば、勉強そっちのけでこまねずみのように働き続ける炭治郎を想像し、ため息だって出ようものだ。
 おまえはマグロの親戚かなにかなのか。動いていないと死ぬのかと、思わず本気で問い詰めたくもなる。
 掃除は趣味なんです、広い家だからやりがいがあってすごく楽しかったと、炭治郎はこともなげに笑うが、義勇にしてみれば、炭治郎の好意に甘え、法定以上の勤務をさせている気分である。これではあの店長のしていたことと変わらないではないか。待遇は比べものにならないようにするつもりだけれども、そんなもの、義勇の罪悪感を晴らすにはまったく役に立ちやしなかった。

 どうすれば炭治郎は素直に休んでくれるんだろう。あまり強く言うのは、禰豆子の手前控えたいのだが。

 悩んでもすぐに言葉は出てこない。こういう時は、自分の口下手が本当に嫌になる。けれども、このままなぁなぁで済ませるのは、義勇の心情的にも避けたいところだ。
 どうにか炭治郎を納得させようと、言葉を探して義勇は無意識に視線をさまよわせた。その視線が、再びカレンダーを映して止まる。そっけない義勇の文字ばかりが書き込まれたカレンダーのなかで、ひときわ目立つ赤い花丸は、今週の水曜日に、禰豆子にせがまれて義勇が書いたものだ。花丸と一緒に書かれた、禰豆子の手によるつたない『おにいちゃんがきたひ』の文字に、義勇はゆっくりとまばたきした。
 花丸の日付は六月三日の水曜日。今日は日曜。まだたったの四日目だ。炭治郎が来たのは夜半だったから、炭治郎が立ち働いていたのは都合三日しかない。だというのに、家のなかはピカピカである。
 料理だって手を抜いていないことが一目でわかる。約束通りに出された鮭大根は勿論、手作りのハンバーグやら煮物やらだけでなく、副菜のいんげんの胡麻和えだのサラダだのと、一汁三菜をきっちりと出してくる。弁当だって前日の残り物だけなんてことはなかった。残り物にもひと手間かけたアレンジをしてあるのには、心底感心してしまう。
 有能な家政夫だと、義勇だって認めているのだ。だが、それでも。

 自分でなくとも、炭治郎には誰だって少しは休めと言いたくなるはずだと、義勇は眩暈すらしそうになった。

 昨日は義勇が休みだったこともあり、掃除や洗濯をしようとするたびにらみを利かせられた。おかげで炭治郎も、食事の支度以外は働くことを諦めたようだったけれど、それでも食事の支度は押し切られて頼む羽目になった。
 禰豆子が炭治郎の料理をすこぶる喜んだこともある。お兄ちゃんと一緒に作ったんだよと、鮭大根を義勇の前に置きうれしげに笑った顔は、憂いなどかけらもなく、いつになく言葉数も多かった。
 禰豆子が大根の皮をむいてくれました、上手にむけてるでしょ? と、炭治郎に褒められて照れくさそうにはにかむ禰豆子は、親の贔屓目抜きに可愛い。義勇にしても、自分のつたない料理よりも、炭治郎が作った美味しい食事のほうが、食が進むのは確かだし、禰豆子も炭治郎の手伝いをするのが楽しくてたまらないようではある。
 義勇が一緒に料理するときは、禰豆子の安全を見守るだけで手一杯になってしまって、ちっとも作業が進まないものだから、手伝いといっても皿を出すとかテーブルを拭くぐらいしかさせてはやれない。けれども、炭治郎は子供用のピーラー――皮むき器のことをそう呼ぶのだということすら、義勇は初めて知った――を買ってきて、禰豆子ができることを任せてやっているようなのだ。禰豆子が興奮しきりに、今日は人参の皮をむいたのだとか、いんげんの筋を取っただとか、誇らしげに義勇に報告するのを聞いていると、炭治郎が料理するのを止めるのはどうにもためらわれた。
 とはいえ、あくまでも炭治郎は『家政夫』として冨岡家の家事をしているのだ。しかも十八にもならぬ年少者である。仕事ばかりさせるのは申し訳ないじゃないか。
 高校生として勉学にも励まなければいけないし、友達とだって遊びたいだろう。だというのに、炭治郎はそんな様子はおくびにも出さず、楽しそうに笑っている。

 たったの三日。されど三日。

 それだけの時間が経ったなかで、義勇が炭治郎と交わした会話はそう多くはない。帰宅が遅くならざるを得ない繁忙期中なのが、どうにも悔やまれる。義勇が帰るまで起きて待っていた禰豆子を風呂に入れたら、慌ただしく食事をとるだけで終わってしまった。会話するどころではない。
 それでも、昨日は休みだ。会話する時間ならあった。
 義勇としては、食事と禰豆子の世話はともかく、ほかのことはしなくていいと念を押すべきところであったが、どう切り出したものか悩むだけで終わってしまった。なんとも不甲斐ないかぎりだ。
 考え込んでいた義勇が不機嫌そうにでも見えたのだろう。炭治郎は勉強してきますと客間にこもってしまって、やはり、ほとんど会話はできていない。正式な契約は日曜に、法務に詳しい同僚の立会いのもとでと伝えてしまっていたから、勉強の手を止めさせてまで勤務について話をするのもためらわれた。
 不機嫌というよりも、炭治郎が働こうとするのをどう止めたらいいのかわからず困っていたというのが義勇の本音だけれど、そんな心情を誤解なく伝える術を義勇は持ち合わせていない。喋るのは苦手だ。
 苦手とはいえ、仕事でならば特に問題があるわけではない。と、義勇は思っている。ところが、普段の会話になるととたんに駄目だ。義勇が話すと、なぜだか相手は苛立ちや困惑の顔を見せる。まだ結論に至らぬうちに、もういいと話を打ち切られたり、結局何が言いたいんだと憮然とされたりするものだから、ますます義勇の苦手意識は高まるばかりだ。
 長話がいけないのだろうかと努めて簡潔に話せば、今度は相手が怒りだす始末である。理由はいつまで経ってもわからぬままで、三十近くになっても改善される見込みはない。

 不死川と伊黒も最初はほかの者たち同様の反応だったけれども――甘露寺は、最初から今とさほど変わらなかったように思うが――いつのまにやら不思議と会話できるようになっていた。改めて思えば、実に稀有な存在だ。三人がいてくれたから、嫌厭されがちな自分でもどうにか社内でも孤立せずにすんでいる。ありがたいことこの上ない。

 だが、炭治郎はそうはいかないだろう。義勇の眉が知らず知らずのうちに寄せられた。
 同居して以来、少しは会話もしているけれども、まだぎこちなさは拭えない。いや、炭治郎は気負った様子などまったく見せず、いかにも人なつこく話しかけてくるのだが、義勇のほうがどう会話をつづければいいのかわからないのだ。頼んだ仕事以外はしなくていいと伝えることすらままならずにいるのに、そんな細かな自身の胸の内など、どう伝えたらいいのか義勇にはさっぱりわからない。

「あの……義勇さん」

 自己嫌悪におちいりかけた義勇は、不意にかけられた声に我に返り、内心少しあわてつつ炭治郎を見やった。炭治郎はなぜだか困ったような顔で義勇を見つめていた。
 炭治郎の視線はいつでもまっすぐだ。じっと目を見て話しかけてくる。赤みがかった瞳には曇りがない。
「ホームの先生に連絡して、転職の報告をしました。驚いてたけど、頑張れって言ってもらえました。それで、後見人の同意書も書いてくれるそうです」
「そうか……」
「あと、言われてた必要書類も用意しましたけど……あの、俺……」
 言いよどみ、炭治郎はもじもじと少しうつむいた。
 炭治郎がこんな風にためらう様子を見せるのは、同居の初日以来だ。不死川が用意してくれた必要書類などの一覧表を渡したときには、少し驚いた表情を見せたものの、準備しておきますと笑顔で言っていたのに。いったいどうしたというのだろう。

 お気遣いありがとうございます、ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いしますと、同僚さんにも伝えてくれと言った炭治郎に、自分よりよっぽどしっかりしていると内心思ったことは、炭治郎や禰豆子には内緒だ。

 不死川たちにもそんなことは言ってはいないが、炭治郎の言伝を聞いた三人の感想は、義勇とまったく変わりがなかったようだ。
 高校生よりも世話が焼けると思われているらしいのは、心外なことこの上ないが、反論するだけの根拠もない。木曜にくらべれば、炭治郎のことを聞くときの不死川と伊黒の態度がいくぶん軟化したのだから、それでよしとすべきだろう。
 炭治郎の様子を心配しながらも、金曜の昼食時の同期たちを思い返し、義勇は胸の内で小さく苦笑した。

 木曜の昼食に引き続き、金曜も食事を不死川たちとともにすることになった理由は、義勇にもなんとなく察しがつく。三人とも炭治郎のことが……というよりも、禰豆子を炭治郎に任せることが心配だったのだろう。
 義勇がどれだけ炭治郎なら大丈夫だと言ったところで、三人にしてみれば、はいそうですかというわけにはいかないらしい。
 離婚当時に頼ったことで、三人は自分たちもまた禰豆子の保護者だと思っているようなふしがある。そんな三人にしてみれば、どこの馬の骨とも変わらぬ男に、大事な禰豆子を任せる義勇が信じられんというところであるらしかった。いや、甘露寺だけは、炭治郎の手作り弁当に感心しきっている分、それなりに炭治郎を信用しているようではあるのだが。
 それでもやっぱり、もろ手をあげて賛成とは、甘露寺でさえも言えそうにないようだ。
 親身になってくれること自体はありがたいが、義勇では頼りないと思ってもいるようなのは、少々憮然としなくもない。実際のところ、当時の義勇はろくに家事もできない有り様だったから、反論はしづらいのだけれども。

 ともあれ、根掘り葉掘り炭治郎について聞いてきた三人に、義勇なりに言をつくして炭治郎がいかにいい子なのか伝えたつもりだ。口下手なうえに食事中はろくにしゃべれない義勇の言葉では、あまり効果はなかったようだが。
 それでも少なくとも、炭治郎の料理の腕前に関しては、嫌味が通常運転な伊黒でさえ認めざるを得ないようではあった。今のところはそれだけだ。二日続けて甘露寺に歓声をあげさせた炭治郎の弁当に、義勇もなんとはなし誇らしくなったりもしたが、炭治郎の良さは料理の腕前だけではないのだとうまく伝えられなかったのは、残念ではある。
 とはいえ、義勇としてはあまり心配はしていなかった。炭治郎の真面目さや思い遣り深さは、会って話しさえすれば三人だってすぐに理解するだろう。炭治郎になら禰豆子を安心して任せられると、三人とも信じてくれるに違いない。それを義勇は疑わなかった。
 禰豆子があれだけ懐いている様を見れば、疑り深い伊黒や怒りっぽい不死川だって、きっと太鼓判を押してくれるはずだ。人のいい甘露寺に至っては言うまでもない。
 そこまで考えて、義勇は、あぁ、そうかと納得した。

 どんなにしっかりしているとはいえ、炭治郎はまだ高校生だ。いきなり法律に詳しい同僚が契約について助言するために来ると言われれば、身構えもするだろう。聞いたときにはピンとこなかったかもしれないが、時間が経つうちに不安になってきたに違いない。

 炭治郎の逡巡を、義勇はそう決定づけた。
 そんな炭治郎の反応は、義勇にしてみれば少し微笑ましくもある。しっかりしていてもやっぱり子どもなんだなと、わずかに安心もする。
 みんないい奴だから心配することはないと義勇が口にする前に、「おはよう」とあどけない声が聞え、禰豆子が目をこすりこすりあらわれた。

「おはよう、禰豆子」
「おはよう! よく眠れたか?」

 出鼻をくじかれたようなものだが、しかたがない。炭治郎も禰豆子の姿を見た瞬間に、憂いの晴れた顔で笑ったので、まぁいいかと、義勇はそれ以上炭治郎に話しかけるのをやめた。
 口下手な自分がうまく炭治郎を安心させてやれる確証はないし、どうせ三人がくればいらぬ心配だったことはわかるのだ。論より証拠。無理に言い聞かせるまでもない。

 禰豆子が起きてきたことで、炭治郎もあわただしく朝食の準備を再開した。
 おまえの仕事は休みだと、また義勇は顔をしかめかけたが、今朝はもうしかたがない。禰豆子の前だ。みそ汁をよそいだす炭治郎をとがめるよりは、禰豆子に食事をさせてやるほうが先決だ。
 まずは禰豆子の顔を洗ってくるかと、義勇は禰豆子に近づいた。
 週末は自発的に起きるまで寝かせておいてやるのだが、今日の禰豆子はずいぶんと早起きだ。

「パパ、あのね、みっちゃんもうすぐくる?」

 まだ少し寝ぼけているような声で言いながら、禰豆子は義勇の足にキュッと抱きついた。なるほど、それが楽しみで目が覚めてしまったのか。
 甘えをあらわにする禰豆子に、義勇の頬が知らずゆるむ。はたから見れば相も変らぬ能面のような顔だろうけれども、禰豆子は義勇の表情が和らいだことをちゃんと理解したようだ。安心しきったあどけない笑みを浮かべている。
「まだだ。十時半ごろだって言っただろう?」
「しーちゃんといっちゃんもくるんだよね? 禰豆子とあそんでくれる?」
 小さな体を抱き上げながら言えば、さらに問うてくる。ワクワクとした期待がにじむ声だ。
「不死川は俺と炭治郎の話し合いに同席するから、遊べるとしたらその後だ。その間、禰豆子は甘露寺と伊黒と一緒に遊んでいてくれ」
「いいよ! 公園に行ってもいい?」
「雨が降らなければ」
「お日様出てたらいい?」
「あぁ」
 その前に顔を洗ってご飯にしようと促す義勇に、禰豆子がうれしげにうなずいた。

「同僚さんたちと禰豆子、すごく仲良しなんですね」

 こちらもどこかうれしげな炭治郎の声に、義勇が振り返ると、炭治郎は穏やかな笑みを浮かべていた。不安が晴れたのならなによりだ。
「あのね、みっちゃんたち、とってもやさしいの。禰豆子といっぱいあそんでくれるんだよ」
「そっかぁ。俺とも仲良くしてくれるかなぁ」
「してくれるよ! みっちゃんも、しーちゃんといっちゃんも、とってもやさしいもん!」
 どれだけ甘露寺たちがやさしいかを、炭治郎に語りたいのだろう。おやつにホットケーキを焼いてくれただの、飛行機ブーンしてくれたりご本読んでくれるのだのと、勢い込んで話しだす禰豆子に苦笑して、義勇は、ひょいと禰豆子を抱きあげた。
「禰豆子、先に顔を洗おう。ご飯が冷めるぞ」
 言ってやれば、禰豆子は素直にうなずいた。けれども、ちょっとしょんぼりとしても見える。
 話したいことがいっぱいあるのだろう。かわいそうだが、このまま話し込むのを聞いているわけにもいかない。
 炭治郎の作った食事が冷めるのも申し訳ないが、なにより、今日は不死川の立会いのもと、炭治郎と正式に契約を交わすのだ。かまってやれる時間が少なくなる分も、今日はいつも以上に世話を焼いてやりたかった。
 一緒にいたところで、たぶん問題はない。禰豆子はおとなしくしているだろう。けれども、それでもやっぱり、真面目な話をしている時に相席させるのは躊躇われる。場合によっては少しばかり強い語調になることもあるだろうし、諍いに似た場面を禰豆子に見られるのは是が非でも避けたい。甘露寺と伊黒が遊んでやってくれれば、退屈させることもないだろう。

「ご飯を食べたら、話の続きを聞かせてくれよな」
「うん! いっぱい教えてあげるねっ」

 炭治郎にも笑いながら言われ、禰豆子も再び笑みを浮かべた。
 こんなふうにずっと笑っていてほしい。そのためにも、炭治郎には十分な待遇をしなくては。
 思いながら義勇は、ご機嫌に甘露寺たちと遊ぶ予定について話しつづける禰豆子にあいづちを打ちつつ、洗面所に向かった。

 昨夜の天気予報では、午前中は梅雨の晴れ間となるらしい。午後から崩れる可能性はあるようだが、この時間なら乗りたいと言っているブランコにもきっと乗れるだろう。
 話し合いが終われば、今日は甘露寺たちにつきあってもらって買い物に行く予定である。昼は外食するから、炭治郎を休ませてやることもできる。夕飯のおかずになりそうなものも買ってくれば、炭治郎だって仕事をせずに済んで喜ぶのではないだろうか。

 そんなことを考えて、義勇も小さく微笑んだ。
 契約を終えた後の予定までは、まだ炭治郎には伝えていなかったことなど、そのときの義勇の脳裏にはちっとも浮かび上がってはこなかった。義勇にしてみれば考える必要もないほどに、些細なことであったので。

 自室で契約書の最終確認をしつつ、義勇は、昨夜の会話をふと思い出し我知らずため息をついた。脳裏に浮かんだため息の原因は、昼は外食すると伝えたときの炭治郎の顔だ。
 禰豆子は久し振りに甘露寺たちと買い物に行けると聞いて喜んでいたが、炭治郎は、明らかに絶句していたように思う。
 すぐに笑顔に戻り、禰豆子においしいもの食べておいでという声にも、不満は感じとれなかった。いくら取り繕うとも、ショックを受けたのだろうということぐらい、義勇にだってわかる。けれども、その理由は今もって思いつかない。
 禰豆子が炭治郎は一緒じゃないのかと残念がったのは、想定内だ。大好きな人たちと一緒に過ごすというのに、炭治郎だけがいないというのは寂しいのだろうし、留守番する炭治郎を気遣ってもいるのだろう。
 義勇だって、炭治郎も一緒にと考えなかったわけじゃない。炭治郎は衣服だって少ないし、買い物の際には炭治郎の服や靴も見繕おうと思ってもいる。だが一緒に行けば炭治郎は遠慮するに決まっているし、炭治郎にだって自由に過ごす時間は必要だ。まだ高校一年生なのだから、遊ぶ時間はいくらでも欲しいに違いない。自身の昔を振り返ってみても、教室で聞こえてくる声は遊びの予定に弾んでいたから、それがきっと『普通』なのだ。
 禰豆子にそう告げれば、まだしょんぼりとしつつも禰豆子は素直にうなずいてくれたのだけれど……。

 思い出した炭治郎の瞳に、義勇の胸は罪悪感にさいなまれ、チリッとした痛みを覚える。

 一瞬だけだったけれど、炭治郎の赫い瞳は泣きだしそうに揺れていた。気のせいだと切り捨てるには、揺らめくその瞳は義勇の脳裏に焼きついて、どうにも消えそうにない。
 禰豆子を悲しませるのが嫌だったのだろうか。炭治郎は優しい子だから、禰豆子がせがめばきっと一緒に出かけるのを拒んだりはしなかっただろう。
 だが、休みの日にまでこちらの予定につきあわせるのは、雇用主の傲慢というものだ。パワハラと言われても反論できない。義勇だって、炭治郎には気分よく働いてもらいたいし、無理などさせたくはないのだ。
 禰豆子と二人でならばともかく、雇用主である義勇ばかりか、初めて会う義勇の同僚たちとまで一緒だなんて、高校生の炭治郎が喜ぶわけもない。
 ただでさえ契約のための話し合いなんていう、堅苦しい時間を過ごさなければならないのだ。さらに自由な時間を削って、大人たちに囲まれて過ごせなど、義勇には到底言えなかった。

 ふぅっと小さくため息をついて、義勇は手にした書類から視線をあげた。不死川のアドバイスにしたがって作った契約書類は、不死川にも一応合格をもらっている。これ以上チェックは必要ないだろう。
 時刻は十時。そろそろ三人もやってくるはずだ。今、禰豆子は炭治郎と一緒に居間で遊んでいる。ときおり楽しげな声が義勇の書斎にも聞こえてきていた。結局子守りだ。
 みっちゃんたちがくるまでお兄ちゃんとお絵かきするのと笑った禰豆子に、義勇が逆らえるわけもない。休みの日に働くなと言った手前気まずい思いもしたのだが、炭治郎は不快な様子など微塵も見せなかった。それどころか、うれしそうに禰豆子と遊んでいていいですかと義勇に聞いてくるありさまだ。こちらが頼まなければいけない立場だというのにである。
 まだ同居したばかりだというのに、すでに炭治郎の厚意に甘えすぎている。このままでは、なし崩しに超過勤務を強いる羽目になりかねない。どうにかしないとと焦燥に駆られるが、いい手も思いつかず、義勇は再びため息をついた。

 と、ため息と重なって馴染みのある音が聞こえた。玄関のチャイムだ。
 反射的に見た時計は十時十五分を示している。少しばかり約束には早いが、不死川たちが着いたのだろう。
 義勇が立ち上がったのと同時に、はーいと答える炭治郎の声が聞えてきた。
 玄関に向かうと、ちょうど炭治郎と禰豆子が甘露寺と伊黒を迎え入れているところだった。
「あ、冨岡さん、お邪魔します」
「外で不死川が待ってる。車でくることぐらい、貴様でもわかっていただろう。門の鍵ぐらい開けておけ」
 伊黒の嫌味な口調に内心あわてながら、義勇は、居間に通してやってくれと炭治郎に言い置くと、不死川を出迎えるために表へ出た。人の出入りする潜り戸は鍵をかけていないのだが、正門はいちいち開け閉めするのが面倒で、常日頃は締めっきりだ。十時前には開けておこうと思っていたのに、物思いにふけってすっかり忘れていた。
 あわてて門を開ければ、少し手前に不死川のミニバンが止まっている。
 一時間ほどもかかってきてくれた上に、段取り悪く待たされてさぞや不機嫌になっているだろうと思いきや、不死川の様子は存外穏やかだった。

「テメェが抜けてんのは先刻承知の上だからなァ。いちいち怒ってたら禰豆子が怯えるだろうがァ」
「……すまない」

 あきれを多分に含んだ声音に、思わず詫びれば、素っ気ないながらも気にするなと返ってくる。禰豆子に不機嫌な顔を見せまいとしてくれているだけでなく、なんとなくだが今日の不死川はいつもよりも少し緊張して見えた。
 物言いたげな義勇の視線に気づいたのだろう。車をガレージに止めた不死川は、降りてくるなり訝しげに「なんだよ」と聞いてきた。
「いや……緊張してるか?」
「はぁ? なんで俺が緊張するってんだ」
 逆に問われて、思わず義勇はコテリと小首をかしげた。
「……なんでだ?」
「知るかっ!」

 あぁ、結局怒られた。

 どうにも不死川を怒らせてしまうのは免れないらしい。けれども、毎度毎度怒りつつ、義勇との付き合いをやめようとはせずにいてくれるのだから、不死川は本当に面倒見がいいと、義勇の口元に知らず笑みが浮かんだ。
 そのささやかな笑みをどう思ったのか。不死川もニヤリと笑い「さぁて、面接といくかァ」とまるで喧嘩でもするかのように指を鳴らしだした。
「雇用はもう決定しているが?」
「テメェの大丈夫だけじゃ、こっちが大丈夫じゃねぇんだよっ。おらっ、いいから行くぞ」
 先を立って玄関に向かう不死川に続きながら、義勇は、もしかしたら緊張しているのは自分のほうかもしれないと、小さく喉を鳴らした。

 炭治郎なら大丈夫。そう、炭治郎ならば。

 でも、と、義勇は胸中で冷や汗をかく。気づいてしまえば緊張し不安も覚えた。
 不死川たちから見れば、雇用主として義勇が失格と判断される可能性だってあるのだ。炭治郎が不興を買うより、そちらのほうがよっぽどありえる。
 禰豆子や炭治郎の手前、あまり不死川や伊黒に叱られたくはないなと、ちょっぴり不安になりつつ、しっかりしないとと心密かに誓う義勇を、どこかあきれたような目で不死川が見ていた。