真昼の月のように

「今日は学校休みだな! 薄曇りでちょうどいいし、ピクニックしよう!」
 最初の土日には月彦は寝込んでいたし、水曜の休みも、病み上がりなのに学校へ行って疲れただろうと、どこかへ出かけることはなかった。休日の家族らしい過ごし方をするのは、この土曜日が初めてとなる。
 言われ、月彦は無意識に窓へと視線を向けた。炭治郎の言うとおり空にはうっすらと雲がかかっていて、月彦にとっては過ごしやすい天候だ。雨の心配もなく、日射しも強くないとなれば、屋外で過ごすのも無理ではない。
「お弁当は日本式にするつもりだけど、全部手づかみで食べられるものにするから安心していいよ」
 笑って言う炭治郎には他意はないのだろうが、月彦は思わず顔をしかめた。初めて箸で食べた食事は、散々だった。義勇のことを笑うどころではない。うまく使えず、月彦は物心ついて以来初めて、頬に食べかすをつけまくるという経験をしてしまった。
 日本料理も浸透して久しいパリだが、児童養護施設や寮や学校での給食に、日本食が出たことはない。箸など一度も使ったことがないのだから、うまく使えなくても当然ではないかと思いはする。だが、月彦の強固な自尊心が傷つけられるには、じゅうぶんすぎる食事風景だったのだ。
 炭治郎も義勇も、慣れないのだから気にすることはないと言って、すぐにフォークを出してくれたが、月彦にとっては屈辱であったのに違いはない。

 そしてその晩、月彦は熱を出したわけである。

 風呂に一緒に入れられて、幼児のように髪やら体やらを洗われるだけでも、ごめんこうむる事態だったというのに、食事でさえまるで赤ん坊のような失態を見せた。精神的な苦痛に体がキャパシティーオーバーを起こしたのは想像にかたくない。我ながらこのプライドの高さは厄介だと思いはするが、性分はそう簡単に変えようがなかった。
「歴史的に見て、日本の弁当というのは手づかみで食べるものが主流だった。箸を使って食べるような弁当のほうが歴史は浅い。昔ながらの弁当というのもいいものだろう」
 月彦が機嫌を損ねたのを察したか、頭を撫でながら義勇が言う。変なところで大雑把だが、義勇は人をよく見ている。そんな義勇だが、無口で口下手なのがたたって、人に誤解されることも多いらしい。そういうときには炭治郎がフォローに回る。
 自分の足りないところを補いあえるパートナーとして、ふたりは最良の関係なのだろう。同性同士ではあっても、ふたりの愛情は異性同士の夫婦となんら遜色はなく、仲睦まじさは月彦があきれ返るほどだ。
 ともあれ、たかが箸ごときにふてくされるなどという、子供じみたところは見せたくない。うなずいた月彦に、ふたりはうれしそうに笑っていた。

 残るお試し期間は、今日を入れて二日。時間にすれば二十四時間もない。明日には縁組を正式に進めるかを決定しなければならなかった。
 炭治郎を陥れる材料など、なにひとつ得てはいない。いつも持っているICレコーダーの出番も、一度もなかった。
 今日もきっと、録音スイッチを押すことなく、過ぎていくんだろう。なんとなく、そんな気がした。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 車で向かったピクニックの行先は、エッフェル塔近くのシャン・ド・マルス公園だった。月彦を疲れさせないようにだろう、ふたりはゆっくりと歩く。疲れただろうとやたら抱きあげたがるのには閉口するが、気分は悪くなかった。
 休日の広大な公園は、塔から少し離れるだけで観光客の姿はぐんと減る。辺りに見えるのは持参したランチを楽しむフランス人ばかりだ。
 だが、月彦たちが注目を集めているのは、いかにもアジアンな三人連れだからというよりも、その容姿のせいだろう。
 自分の容貌の愛らしさを承知している月彦はもちろんのこと、義勇も日本人としては体格もよくエキゾチックな美しい顔立ちをしている。炭治郎だって、義勇のような人目を引く美貌こそないものの、十二分に整って愛くるしい顔立ちをしているのだ。こんな三人連れが家族然と歩いていれば、チラチラと眺め見る者がいてもおかしくはない。

 家族然ではなくなるのかもしれないのか。ふと思い、月彦は戸惑いを押し隠した。

 真似事ではなく、実質的にも法的にも、家族になることは可能なのだ。月彦がそれを望みさえすれば。
 もう炭治郎を陥れようという気は失せている。面憎い太陽のような男だけれど、炭治郎に打算などないことだけは、もはや疑いようがない。裏切られたくないというのは、信じたい気持ちの裏返しだ。好きだなどと思ってはやらないが、嫌いだと腹を立てるのも馬鹿馬鹿しいほどに、炭治郎の愛情には微塵も嘘を見つけられなかった。
 義勇にいたっては、はなからそれなりに気に入っている。特に気に入りの瞳は、やはり見ていると気分がいい。義勇からの愛情もまた、炭治郎同様に、疑うべきものなどなにもなかった。
 けれど、きっと自分は明日、迎えにきた教師に向かって言うだろう。

 ごめんなさい、あの人たちとは暮らせません。と。

 なぜふたりと暮らしたくないのか、その明確な理由を、月彦は言語化できずにいる。ふたりを見ていると胸の奥底から苛立ちとも焦燥とも言いがたいなにかがせり上がってきて、子供のように駄々をこねてしまいたくなった。
 ふたりが月彦を見つめているときはいい。わけのわからない不安感は鳴りをひそめている。けれども、幸せそうに互いを見つめて微笑みあっている様を見ると、駄目だ。火がついたように癇性な喚き声をあげたくなる。
 その感情にあえて名をつけるなら、それはきっと、悋気というのだろう。
 嫉妬の感情の向く先は、義勇と炭治郎、どちらとも言えなかった。ふたりがそろって月彦をかまっているときには、決して襲ってはこないのに、ふたりの目に月彦が入っていないことを感じると、とたんにカッと導火線に火がつく。
 もちろん、感情のままにわめいたりはしない。そんな子供じみた態度をとることは、月彦の矜持が許さなかった。
 当然、自分でも理由のわからないそんな感情が、縁組を断る理由だなどと言えるわけもない。通りのいい、みなが納得する理由を考えねばならなかった。

 芝生の上に座り込んで、炭治郎のお手製の弁当を広げる。
 これはオニギリ、これはタマゴヤキと、炭治郎が一つひとつ説明する料理は、冷めきっているがどれもおいしそうに見えた。日々の食事をおいしそうだなどと思うことも、ふたりと暮らすまで、月彦はほとんど感じたことがなかった。月彦にとって食事とは、体を維持するための栄養補給でしかない。なのに炭治郎が作り、義勇と三人で食べる食事は、少しだけ楽しいような気がする。
 おいしいかと笑いかけられ、いっぱい食べろよと微笑まれる。今までにも何度か経験しているやり取りだ。そのいずれも、善意の押し付け、自己満足と、小馬鹿にしてきたというのに、ふたりの眼差しの温かさの前では、そんな言葉は浮かんでこなくなった。
 今日もそうだ。そしてまた、義勇の顔についた食べかすを取る炭治郎の姿や、炭治郎にうまいなと微笑みかける義勇の顔に、わめきだしそうになる。

「あれ? もういらないのか?」
「……今日は気分がいいから、少し歩いてくる」

 おいしいと思っていたオニギリも、カラアゲも、なんだか砂を噛むような心地がしてきて、月彦は手を拭うと立ち上がった。
 アパルトマンに来てから、ひとりになる時間は少なかった。考えをまとめるためにも少しふたりから離れたい。体調という意味でなら、気分がいいというのも嘘ではなかった。
 最初こそ熱を出して寝込んだが、今はいつになく体調はよい。言霊とやらが効いているとは思わないが、一昨日よりも昨日のほうが、昨日よりも今日のほうが、わずかだけれども元気になってきているような気がする。
 温泉の素だとかヘルシーな日本食だとかの効果など、微々たるものとさえ言えないだろう。特に役立っているはずもない。この厄介な体が、それしきのことで健康になるとは思えなかった。
 一緒に行くよと立ちあがろうとする炭治郎をねめつけ、赤ん坊じゃないと吐き捨てるように言えば、炭治郎は少し悲しそうな顔をした。義勇の眉もかすかに寄っている。チッと舌打ちしたいのをこらえて、月彦はサクサクと芝生を踏みしめて歩き出した。
 あまり遠くまで行くわけにはいかない。さすがに炭治郎か義勇がすっ飛んでくるだろう。それでも、ふたりの近くにいたくはなかった。

 気もそぞろに歩いていると、なにかが勢いよく肩にぶつかってきた。
 衝撃をこらえることもできずに尻もちをついた月彦と、ガシャンという音がしたのは、同時だった。
「おいっ、どうしてくれんだ!」
 大柄な男が月彦を見下ろし怒鳴りつけてくる。月彦の傍らには、赤く染まっていく紙袋が落ちていた。初めて会った日に、炭治郎がよこした蒸しパンが入っていた袋のような、どこにでもある紙袋だ。
「ワイン……?」
「プレミアムがついてる高級品だ。おまえがぶつかってきたせいで割れちまったじゃねぇか」
 とっさに思い浮かんだのは、芸のない詐欺行為だ。演技力も頭脳も必要としない当たり屋めいた手口である。
「すみません、弁償するにしてもワインを確かめさせていただいてもよろしいですか?」
「あぁ? ガキにわかるわけないだろっ。いいから親を呼んでこい!」
 本当に馬鹿というのは嫌になる。どうせ安物のワインだ。おそらくは偽造ラベルすら貼っていないに違いない。
 男の服装は清潔感もなく、まともな職に就いているとは思えなかった。とりあえず怒鳴りたてれば押し切れると踏んでの、杜撰な詐欺だ。こんなガラの悪い知性のかけらもない男に、高級なプレミアム付きのワインなど買えるとは思えない。袋だって店のロゴもなく、蚤の市辺りで商品を入れていたものだろうとすぐわかる。

「オラッ、さっさと立て!」
「月彦に触るなっ!」

 猫の子のように襟首を勢いよく持ち上げられた瞬間に、聞こえてきた声の主は、間違いようがなかった。
「タン、ジ、ロ」
 喉に食い込む襟が息をせき止める。苦しい。ようよう口に出せた声はかすれていた。
「月彦っ!」
 悲愴な声で叫んで伸ばしてきた炭治郎の手を避けるように、男が月彦を持ち上げている腕をブンと振る。息が、できない。チカチカと目の前に火花が散る。ヒュウッとか細い息が笛のような音を立てた。
「放せっ!」
「こいつが先に俺にぶつかってきたんだぜ? このガキ返してほしいんなら、そこのワイン弁償しな」
 金で済むならそれが一番いい。それぐらいさっさと出せ。以前の月彦ならすぐさまそう思っただろう。
「だ、め」
 だって、こいつは詐欺師だ。炭治郎と義勇は困窮しているわけではないけれど、特別裕福なわけでもない。ふたりとも働いているとはいえ、贅沢なんてしていない。スーパーで買い物するときだって、一所懸命吟味しているのを知っている。見ている。

 なんで、こんなに必死になっているのか。月彦だって、自分でも自分がわからない。だけど。

 矜持の問題だ。かすむ思考で月彦はそう思おうとした。自分が炭治郎たちに損失を与えるような真似は、プライドが許さない。自身の策略でならばともかく、こんな凡ミスでなんて、そんなの許せるものか。
 弱みを見せるなどごめんだ。弱点を握られるなど耐えられない。
 たしかにそう思ってもいる。けれど、それでも。

「俺の息子から薄汚い手を放せって言ってるんだ!」

 違うだろ。まだ。
 そんな言葉がちらりと浮かぶ。自身よりもはるかに大柄な男に殴りかかる炭治郎の姿を、視界の端に映して、月彦は、生理的な涙がにじむ目をギュッとつぶった。
 その瞬間に、体が空に放り出されたのを感じた。
「月彦っ!!」
 絶叫を耳に、空に浮いたコンマ数秒ほどの間、月彦は受け身を取れるだろうかと考えていた。落ちる先は芝生の上だ。固い地面よりはまだ衝撃は少ないだろうが、この脆弱な体にはきっと大打撃に違いない。

 骨折は、まだ経験したことがなかったな。 

 場違いにもそんな言葉が浮かんだのと、芝生ではありえない温かいなにかに、締めつけられるように包まれたのは、同時だった。
「いて……っ」
 耳元で聞こえた声に、目を開ける。恐る恐る顔をあげれば、炭治郎の顔があった。月彦を強く胸元に抱え込んで、ともに芝生に転がる炭治郎の頬には、大きな擦り傷ができていた。必死に飛びついたのだろう。月彦だけは傷つけまいと、受け身を取ることなどかけらも考えずに。
「なにが息子だ。このくそガキどもがっ」
 振り上げられた男の足が見えた。
「タンジロ!」
 蹴られる。炭治郎が。自分を抱きかかえているから、逃げられない。立ち上がるどころか、炭治郎はなおさら強く月彦を抱え込む。月彦だけはと言うように。

「イテェッ!」

 かまえて待った衝撃は、やってこなかった。
 ドスンと音がして、地面がかすかに揺れる。
「俺のパートナーと息子に、なにをしようとした?」
 聞いているだけで凍りつきそうな声がして、炭治郎が顔をあげた。月彦も炭治郎の肩口に首を伸ばし見る。尻もちをついた男を睥睨していたのは、やっぱり義勇だった。けれどもとっさには、信じがたいような気がしてしまう。だって義勇のこんな冷たい声を、月彦は聞いたことがない。男を見下ろす眼差しも、凍てつくように冷ややかだ。
「義勇さん……」
「こ、こいつらが俺のワインを……」
「ワイン?」
 義勇の迫力に押されたか、男の声はだらしなく震えていた。男から視線を外すことなく無造作に身をかがめた義勇が、紙袋から覗く瓶をつかみ上げた。割れた瓶のラベルにさっと目を向け、冷えた声で言う。
「うちで煮込み料理に使ってる一番安いワインだな」
「だ、だからなんだってんだ! このガキがぶつかったせいで割れたのも、こいつが先に殴りかかろうとしたのも事実だぞ!」
 なにを勝手なことをと、カッと脳髄が焼けた。月彦が口を開くより早く、嘘よ! と女の怒鳴り声がひびく。
「見てたわ! その男がわざと坊やにぶつかったのよ!」
「そうだよっ、高級ワインだなんて嘘もついてたんだ!」
 男の剣幕に口をはさむことができなかったのだろう。目撃者はかなりいたらしい。ただでさえ月彦は衆目を集めやすい。怒鳴りつけたりしなければ、詐欺だと疑われることもなかっただろうに、男の杜撰さはこんなところにも表れている。つくづく、馬鹿は嫌だと言わざるを得ない。
「……だ、そうだが? 弁償するにしても、まずは警察を呼んでからにしようか」
 義勇の抑揚のない声は、男の怒鳴り声よりもよっぽど肝が冷える気がする。庇護される立場であるから安堵のほうが深いけれども、睨みつけられながら言われる男はたまったものではないだろう。
 慌てて立ちあがった男は、駆けだす前にふたたび地面に転がった。今度は、顔面から。
「おい、逃げるな」
 見れば炭治郎の手が男のデニムの裾をつかんでいる。
 月彦を抱きかかえたまま、いててと顔をしかめながら身を起こした炭治郎に、義勇の顔からようやく怒りの色が消えた。代わりに浮かぶのは明らかな危惧だ。
 誰かが通報したのだろう。警官が駆け寄ってくるのが見えた。安堵より先に月彦の胸を占めたのは、こんな場であっても胸にわき上がる、理由の知れない嫉妬だった。
 炭治郎を案じる義勇を見て、炭治郎に嫉妬しているのか。義勇の名を呼んだ炭治郎の声の甘さに、義勇に嫉妬しているのか。わからない。嫌だと思うのは確かなのに、どちらに向けての嫉妬なのかは、月彦にもわからなかった。

 事情聴取を終え警官に男が連行されていく間も、月彦は炭治郎に抱かれていた。いつものように、赤ん坊じゃないと胸を押しやることもなく、黙り込んだまま大人しく抱きあげられたままでいる。
 口を開けばわめきだしそうで、文句を言うこともできない。礼や詫びなどなおさらだ。
「助けに入るのが遅くなってすまなかった」
「そんな、俺が探してくるから待っててって言ったんじゃないですか」

 なぜ、苛立つのだろう。なぜ……悲しいなど、自分は思っているのだろう。

 客観的に見て、悪かったのはふたりではなく自分だ。そもそも、ひとり歩きなどろくにできない自分が、ふたりから離れたことが元凶であるのは間違いない。けれども、謝るほど素直にはなれなかった。
 炭治郎の顔は、月彦を抱きとめたときの擦り傷で、血が滲み汚れている。炭治郎を溺愛している義勇は、きっと月彦を許さないだろう。炭治郎もまた、勝手なことをして危険な目に遭う羽目にさせた月彦を、見限ったに違いない。そう思った。
 この腕が、自分をおろしたら終わりだ。家族ごっこは終了。明日、迎えがきたら、もう二度と逢うことはない。

「……よくやった、炭治郎。よく、月彦を守り抜いた」

 義勇の声がした。声は少し震えて、先ほどの冷ややかさなどどこにもない。ひたすらに温かい声だった。抱え込まれた月彦ごと炭治郎を抱きしめる腕も、やさしく温かく、やっぱりちょっと震えていた。
「俺たちの大切な息子ですから」
 笑う炭治郎の声もまた、怒りなどかけらも見当たらず、いかにも誇らしげだ。
 抱きあう自分たちの姿は、どう見えるのだろう。ぼんやりと考えた月彦への答えは、すぐに周囲から返ってきた。仲良しねだの、今度は気をつけなよだのと、次々にかけられる声は微笑ましさを隠さない。

「いいお父さんたちね、坊や」

 笑って手を振り去って行く女の目には、自分たちは家族に見えているのか。男同士のカップルと、ふたりにまったく似ていない子供でも。誰ひとり血など繋がらない、他人同士でも。

 恐る恐る上げた月彦の顔を、ふたりが微笑みながらのぞき込んでくる。青い瞳と赤い瞳に映る自分の顔に、ようやく月彦は知った。とうとう理解してしまった。
 夫婦であるふたりにとっての大切な存在は、お互いだ。月彦は、添え物にすぎない。ほかの夫婦のように虚栄心や優越感を満たすためでなくとも、月彦はふたりの一番にはなれないのだ。

 なんてことだ。これではまるで、父や母の関心が自分にだけそそがれていなければ気の済まない、駄々をこねる幼児ではないか。

 熱く身を焼いたのは羞恥だ。怒りは自分の幼稚さにこそ向けられる。ふるふると震える月彦に、どうした? どこか痛いのか? とあわてるふたりは今、月彦のことしか考えていないだろう。それがうれしいなんて、どうかしている。
 なんでもないと言うように小さく首を振る月彦を抱きかかえたまま、おろおろと、月彦? 大丈夫か月彦? と案じるふたりの声が、静かに月彦の胸に沁み込んでいった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「明日の昼前にはお試しも終了かぁ。十日間なんてあっという間だ」
 夕食を終えて、リビングでの団らん。いつもなら、早々に部屋に戻ってしまうところだけど、離れがたい気がして、月彦は誘われるままにリビングに残っていた。
 最後だからといってご馳走が並ぶこともなかった夕食の理由は、問わなくてもなんとなくわかる。炭治郎も義勇も、最後だなんて思っていないのだ。ふたりから断ることはきっとない。だからいつもどおりなのだ。今日も明日も変わらずに、三人で過ごす毎日が待っていると、疑っていないから。

「……なんで、僕を選んだんですか?」

 そんなこと、今までの夫婦には一度だって聞いたことがなかった。けれど、聞いてみたいと思った。炭治郎と義勇にだけは。
 静かにたずねた月彦に、義勇と炭治郎が顔を見あわせる。
「うーん……最初はさ、俺らは男同士だし、子供なんていないのが当然と思ってたんだよ。だから、たまに手伝いに行く難民支援の協会で、養子を迎えてみないかって言われたときも断ったんだけどね」
「児童養護施設の子が通っている学校に、候補にあがっていた子供たちを見に行ったのも、半分はつきあいだ。男同士の俺たちじゃ、子供のほうから拒まれる確率も高いだろうと思ったしな」
「でも、月彦がいた」
 笑ったふたりの笑顔は、温かい。どこまでも澄んだやさしい青と赤の瞳が、月彦を映している。
「炭治郎が、おまえを指差してあの子がいいって言ったんだ」
「なんかさ、いっぱいいた子供たちのなかで月彦だけが、泣いてる赤ちゃんみたいに見えたんだ」
「は? 赤ん坊?」
 イラッと眉根を寄せた月彦に、炭治郎がごめんごめんと頭をかいて笑う。炭治郎の手はすぐに伸ばされて、やさしく月彦の手を取り撫でた。
「赤ん坊ってさ、無垢なんだよ。善悪も知らなくて、ただ必死に生きようとする生存欲の塊みたいなもんでさ。月彦は、ほかの子と違って、ただ生きよう、生きよう、生きたいって叫んでる、赤ちゃんみたいに見えた」

 生きよう。生きよう。生きたい――!

 それは……それこそが、月彦を蘇生させた意思だろう。生まれ落ちたそのときも、両親とともに事故に遭ったときも、自我などない赤ん坊のころでさえ、いや、だからこそ、月彦はきっとそれだけを願っていたに違いなかった。
 そして、それは今もつづいている。いつ壊れるかわからないか弱すぎる肉体のなかで、強い意志で願う純粋な叫びは、きっとそればかりだ。

「守ってやりたいと思ったんだよ。必死に生きてる月彦が好きだと思った! それだけ!」
「……炭治郎の瞳と、月彦の瞳は同じ赤だ。好きだと思う理由なんて、それだけでじゅうぶんだ」

「タンジロの目は、僕とは違う。タンジロは朝焼けみたいだけど、僕のはきっと夕焼けだ。似てない」
 希望の朝を迎える朝日と、闇の訪れを告げる夕日。同じ赤でも真逆の色だろうに。
「タンジロは太陽でも、僕は月だ。青空みたいな目のギユウと一緒にいられるのは、太陽みたいなタンジロ。月の僕じゃない。太陽と月じゃ、一緒にいるなんて不可能だ」
 並び立てないのなら、義勇が選ぶのは炭治郎だし、炭治郎が選ぶのは義勇だ。義勇の青空みたいな瞳だって、炭治郎がいるから、太陽があるから、澄んで青くきらめくのだ。炭治郎の太陽のような笑顔も、夜の闇のなかでは輝くことなどない。

「そんなことはない」

 そっと頬に触れてきた義勇の手は、炭治郎の手より少し冷たい。でも、同じぐらいやさしい。
「昼間の月を見たことはないか? 青空に浮かぶ、白い月だ。太陽と、青空と、月。ちゃんと一緒にいるだろう?」

「……青い空なんて、ほとんど、見たことない」

 だって太陽が身を焼くから。月彦を拒むから。

「なら今度一緒に見よう! もっと元気になって、もっと健康になって、みんなで昼間の月を見上げような!」
 ギュッと月彦の手を握って炭治郎は笑う。義勇の手も重なった。
「明日は、もっと元気になれる。明後日は、もっと健康になれる。いつかちゃんと、青空も、青い海も、みんなで見られる日がくる」

 神なんて月彦は信じない。言霊なんて子どもだましの夜迷いごとだと、嘲笑ったってよかった。
 でも。

 こくりとうなずいた月彦を、ふたりのやさしい腕が抱きしめる。
 日本語を覚えようと思った。ふたりと同じ言葉で話したいから。いつか、日本にも行ってみたい。三人で。その前に、行くのなら海だろうか。義勇が泳ぐ姿に、きっと炭治郎は大興奮で月彦に胸を張るのだ。な、義勇さん格好いいだろ、と。
 ピクニックにも、きっとまた行くに違いない。墓地へ行きたいと言ったら、ふたりはどんな顔をするだろうか。両親の墓参りを月彦はしたことがない。顔すら写真でしか知らぬ記憶にない人たちを悼む心は、今まではどこにもなかった。けれど、彼らがいなければ、炭治郎と義勇に逢うこともなかったのだ。感謝と言うには、まだ淡すぎる。それでも月彦の胸には、温かなものが少しずつ溜まって、闇のような心の奥にほのかな明かりが灯りだしていた。
 したいことは、いくらでもある。将来など夢見ることさえ虚しかった月彦の、ほとんどベッドで過ごしたこれまでの人生では、望みもしなかったことばかりが、頭に浮かぶ。
 けれどそれも、いつかの話。まずは明日を乗り切らねばならない。脆弱なこの肉体のなかで、強い意志が叫ぶ。

 生きよう。生きよう。生きたい。――義勇と、炭治郎と、自分の、家族三人で。

 縁組が正式に済んだら、最初の挨拶はどうすべきだろう。どちらも父になるのだ。ふたりともパパでは混乱するに違いない。パパとペール? それとも、日本語で呼びかけてみようか。
 あぁ、だけどその前に。あの日、捨ててしまったたまご蒸しパンを、明日の昼ご飯にねだってみよう。義勇には足りないだろうから、炭治郎はちょっぴり困り顔をするかもしれない。そうしたら、なんと言って作らせよう。

 それは、月彦の長くもない人生で初めての、幸せな悩みだった。