真昼の月のように

 本当にいいのかと寮監は少しばかり心配していたようだが、義勇と炭治郎というカップルとのお試し期間は、とんとん拍子に決まった。
 驚いたのは炭治郎の年齢だ。二五だと? 十は若く見えるじゃないか。義勇も二十代後半に見えていたが、実際は炭治郎と十歳差の三五だというから、日本人はとんでもない。自分の血も日本人のものだということを棚に上げ、月彦は呆れ返った。
 ICレコーダーは、今回もちゃんと肌身離さず持っている。告発材料になりそうな発言を、一言たりとのがす気はない。
 彼らの家で過ごす期間は九泊十日。金曜の授業が終わったら、その足でふたりの家に寮監たちと向かい、日曜の午前中までを過ごす。その間に一切の問題がなく、互いに家族として暮らすことを望めば、縁組は認められる。月彦がそんなものを望むわけもないが、大人しく善良な子どもを演じるつもりではいる。

 彼らの家は、築八十年になる石造りのアパルトマンだった。
「いらっしゃい!」
 呼び鈴を鳴らしたとほぼ同時にドアが開いたところを見ると、どうやら炭治郎は玄関で待ち構えていたものらしい。同行した教師や役人のほうが面食らっていた。
 満面の笑みの炭治郎は興奮してはしゃぐ子どものようで、いよいよ月彦はげんなりとため息をつきたくなる。偽善者面を崩してやると決めたのは自分だが、この鬱陶しさは早まった気がしないでもない。
 これと十日間もつきあわねばならないのか。うんざりするが、しかたがない。期間の最中にも役所からの面談はある。なにも期間いっぱい我慢する必要はないだろう。早いうちにこいつらの化けの皮をはがせばいいだけのことだ。
「お世話になります」
 殊勝に頭を下げた月彦に、炭治郎と義勇が相好をくずす。他愛もないと月彦は内心嘲笑った。
 先日の発言には多少動揺したが、所詮はこいつらもほかの奴らと変わらない。少しいい顔を見せてやればコロリと騙される。
 誰も月彦の苛立ちや鬱屈になど、気づかない。それでかまわなかった。憐みなどいらない。

「この部屋使ってよ。あのね、カーテンと壁紙は俺がえらんだんだよ。ベッドカバーやクッションは義勇さん!」
 案内された部屋は、青かった。
「空……と、海?」
 水色の地に白い雲と虹が描かれた壁紙。カーテンは目の覚めるようなブルー。義勇の目の色に似ている。ベッドカバーにはイルカが跳んでいた。クッションもお揃いだ。
「うん! 義勇さんの目の色だからさ、俺、青が一番好きなんだ。義勇さんはね、学生時代水泳の選手だったんだよ。泳いでる義勇さんってすっごくきれいで格好いいんだ! いつか一緒に海で見せてもらおうな! ね、月彦くんは青は好き?」
「……嫌いじゃありません」
「素直じゃないなぁ! そこは好きでいいだろぉ?」
 ギュッと抱きついてくるのが、本当に鬱陶しい。
「空も海も、青いものはあまり縁がないので」
「……日光、弱いんだっけ?」
 さりげなく炭治郎の胸を押しやりながら、月彦はうっそりと笑った。
「はい。アレルギーとまではいかないんですが、日射しにあたりすぎると体調を崩します」
 だから、こんな青空の下を歩くことは、滅多にできない。海など言語道断だ。潮風は月彦の柔い肌を荒れさせるし、日光の照り返しに眩暈がする。
 海も、空も、望んだところで手に入らない。憎い日光が月彦から空と海を奪う。

 そういえば、こいつは少し太陽を思わせるな。

 炭治郎のどこか消沈した顔に、月彦はふむと内心でうなずいた。やたらと炭治郎が気に障るのは、炭治郎の笑顔が太陽のように明るすぎるせいかもしれない。月である自分とは相性が最悪なのだろう。
「少しずつ丈夫になっていけばいい。いつか一緒に海にでも山にでも行こう」
 ポンと頭に手を置いて言う義勇は、まだマシだ。月彦は美しいものが好きだ。義勇の容姿は十分に月彦の審美眼に堪えるものだった。なによりも瞳がいい。炭治郎の言葉に共感するものがあるとしたら、青は義勇の瞳の色というところだろうか。月彦にとっては逆ではあるが。

 義勇の瞳は、手に入らぬ空や海を思わせる。それがいい。

 炭治郎と暮らすのはごめんこうむるが、義勇とだけなら、いいかもしれない。だが、炭治郎を追い出すとして、その後に義勇とふたりで暮らすというのは少々難しいだろう。月彦は即座に自分の思いつきを却下した。
 もしそれを実行するのなら、十日程度では不可能だ。何年もかけて家族として暮らし、周囲に義勇の息子であると認めさせてからでなければ、同性のパートナーを持つ義勇が月彦をひとりで引き取るのは難しいだろう。児童に対する性犯罪ほど、世間や司法に忌避される犯罪はない。
 少々残念だが、しかたがない。ともかく期間中は、炭治郎を告発する材料を集めることだけに専念すべきだろう。
 不穏な思惑になど気づかないのか、炭治郎はニコニコと笑いながら、月彦の手を引いてこっちがバスルーム、ここがトイレと家のなかを案内して回った。

「夕飯は日本食にするつもりなんだ。月彦は箸は使える? パリに来たばかりのころは、材料が手に入るか不安だったけど、日本食の材料って結構売ってるんだよなぁ。このアパルトマンを選んだのは、バスルームに浴槽があったからなんだけど、一階がスーパーマーケットだったのも大きいんだよね。買い物がすっごく楽ちん! 今度月彦も一緒に買い物に行こうな!」
「箸は使ったことがありません。バスもいつもはシャワーだけなので……」
 児童養護施設も学校の寮も、シャワーブースが並んでいるだけだ。浴槽につかるという習慣は月彦にはない。日本人は入浴好きだと聞くが、事実なのだろう。そんな馬鹿げたことを部屋選びの基準にするとは呆れるなと、月彦は心中だけでつぶやいた。
「そっかぁ。じゃあ今日はみんなで一緒に入ろっか! バスルームは改装してあるから、うちは日本式なんだよね。入り方教えてあげるよ。月彦は小さいから、三人で入っても大丈夫! あのさ、温泉の素って知ってる? すっごく体にいい温泉が日本にはいっぱいあってさ、それをお手軽に自宅のお風呂で楽しめちゃうんだ! たまに義勇さんの同僚だった人が送ってくれるから助かるよ。月彦も気に入るといいなぁ」
「……は? 一緒?」
「うん! 絶対に楽しいぞぉ。義勇さんもいいですよね!」
 控えめについてきていた義勇を炭治郎が振り返り見るのにあわせ、月彦もわずかに狼狽しつつ義勇を見た。断れとの願いもむなしく、義勇も事も無げにうなずき、あろうことか月彦の頭を撫でて「髪を洗ってやろう」なんて言い出すから、嫌になる。
エコール・マテルネル幼稚園の幼児じゃあるまいし……髪ぐらい自分で洗えるに決まっているだろうっ」
 つい口調が荒くなったが、炭治郎も義勇も気にした様子はない。それどころか、ますます笑みを深めてうれしげにするのだから、まったくもって意味がわからない。
「うん、そんな感じに素直にしてるほうがかわいい」
 しゃがみ込み、チュッと頬にキスしてくる炭治郎に、月彦の眉尻がつり上がった。本当に、まるで幼児扱いだ。年齢こそ七歳ではあるが、知能的には月彦がすでにコレージュ以上であることは、こいつらとて承知しているはずだろう。なのに、なんたる屈辱。
 やめろと、思わず炭治郎の顔を押しやり、袖口で頬を拭えば、ひどいっ! と炭治郎は泣きまねをしてみせる。くだらない。心底くだらない。なんて馬鹿馬鹿しいやり取りだ。
「大人同士でも日本では背中を洗いあったりもする。裸のつきあいだ」
「正気の沙汰じゃありませんね」
「かわいくなーい!」
 もはや取り繕うことすらうんざりで、フンと鼻を鳴らした月彦に、炭治郎は言葉ばかりは文句じみたことを言いながらも、満面の笑みだ。
「でも、そのかわいげのなさがかっわいいなぁ、月彦!」
 あろうことか、そんなことを言い炭治郎は、月彦の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でてくる。
「鬱陶しい!」
「いい反応だ」
 クスクスと笑いだした義勇に、月彦はますます不快げに顔をしかめた。調子が狂う。これから自分は炭治郎を性犯罪者に仕立て上げようとしているというのに、なんなのだ。この茶番は。

 リビングに戻り、お茶にしようとテーブルについたふたりは、月彦にそろって微笑みかけた。
「これからよろしく。月彦が俺らを両親だと思ってくれるようになったらうれしいな!」
「俺たちの心情的には、おまえを迎えることはもう決定しているが、それは斟酌しなくていい。素直に判断してくれ」

 月彦は、よろしくとお愛想の笑みを浮かべることができなかった。月彦にできたのは、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向くことだけだ。
 騙されるものかと、固く心に誓いながら。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 金曜の夕方にアパルトマンを訪れ、今日はもう二回目の土曜日。お試し期間は早くも残り二日となった。
 これまでのところ、学校の送り迎えは基本的に義勇の仕事だ。スポーツジムでインストラクターをしているという義勇は、客の予約の合間をぬって月彦を迎えにくる。
 とはいえ、学校に通えたのは金曜の午後から過ごした五日間のうち、二日だけだ。環境の変化が勝手に体を痛めつけて、同居したその夜から、月彦は高熱を出し寝込んだから。
 風呂に無理やり一緒に入ったから? と、炭治郎が泣いていたのは、溜飲が下がらないでもなかったが、つらいことに変わりはない。ふたりは夜通し代わる代わる月彦のベッドの傍らに付き添い、何度も額のタオルを交換しては、汗をぬぐった。赤子にするように胸をやさしく叩いたり、ギュッと月彦の手を握っては、早く良くなれ、元気になれと、呪文のように呟きつづけたふたりを、熱に浮かされてはいたが月彦の明朗な頭脳は覚えている。
 熱が下がったときの、炭治郎の喜びっぷりは激しかった。体温計を見るなり平熱! と叫び、良かったなぁとボロボロ泣いて、月彦を強く抱きしめてきたのだ。炭治郎の声が聞こえたのだろう。部屋に駆け込んできた義勇もまた、心底の安堵を隠さなかった。言葉もなく青い瞳を潤ませると、炭治郎ごと月彦を抱きしめたものだ。
 体力を失った病み上がりの体では、抱きしめてくるふたりを押しやるのも億劫で、月彦はされるがままになるしかなかった。なんて無様な話だ。けれども、腹立たしいと吐き捨て、偽善者どもめとなじるには、ふたりが心から月彦の回復を喜んでいるのは疑いようがなかった。
 月彦を投資対象として求めているのならば、早速、これは割に合わないと悟っただろうに。ふたりは落胆など微塵も見せない。
 寝込んでいるあいだ、赤ん坊のように抱きしめられて手づから口に運ばれた粥は、とろりとおいしかった……気がする。これぐらいなら食べられるか? と、義勇が買ってきたヒヤリとしたクレームキャラメルプリンは、やさしい甘さだった。
 児童養護施設でも寮でも、汗を拭かれたり着替えをさせられたりはしたが、あれほどこまめにではない。うなされながら目を覚ましても、誰もいないことのほうが多かった。けれど、義勇と炭治郎は、けっして月彦から目を離すことがなかったのだろう。意識が浮かび上がり、熱で潤む目を開ければ、必ずどちらかの顔がのぞき込んできた。

 ようやく起き上がって学校に行ったのは、木曜になってからだ。月彦はランチに給食を選んでいるというのに、炭治郎が迎えにきた。
「義勇さんは仕事中だから、昼ご飯は俺と食べような!」
 明るく笑う炭治郎に家に連れ帰られ、出された昼食はパンケーキだ。ベーコンとサニーレタス、ウ・オゥ・プラ目玉焼きを乗せたパンケーキは、甘じょっぱくて、トロリと溶ける黄身はなんとなく心が弾んだ。もちろん、そんな自分をこそ月彦は恥じたのだけれど、炭治郎の作る料理はいかに気に食わない相手ではあっても文句のつけようがない。
 ランチを誰かと食べるなんていう経験も、学校に入ってからは一度もなかった。スキップした月彦は、同級生よりはるかに年下で、やっかみや下卑た好奇心の的になりがちだ。人形のような美貌も仇となっているのだろう。いっそバカロレア大学入学資格証明を取得してユニヴェルシテまで一気に進んでしまえば、それなりに周りも成熟した者が多くなるかもしれないが、コレージュ程度では生徒もまだまだ子どもじみている。あからさまないじめがないだけマシだとあきらめるよりない。
 もとより、月彦は子供が嫌いだ。理性より感情で動く生き物など、猿と変わらないではないか。

 炭治郎は、見た目通り子供に近い。明るく裏がなく、笑うのも泣くのも開けっぴろげだ。やたらと月彦を抱きしめたがり、キスしたがるが、性的なものは一切感じなかった。
 つきあいやすいのは、やはり義勇のほうだ。義勇は口数が少なく、常に冷静に見える。ところが、変に子供じみたところもあるのが、なんとも解せない。なぜ毎度毎度だらしなく口の端に食べかすをつけてしまうのか。まったくもって呆れてしまう。
 それをまた炭治郎が、ひょいとつまんでやるのがお約束の光景だ。仲睦まじさを見せつけられているようで、甘ったるい空気に胸やけしそうになる。
 フランス語も義勇のほうがマシで、堪能とまでは言わないが、意思疎通にはまったく問題がない。炭治郎は発音がいまだに難ありだ。持ち前の明るさと物怖じのなさで、会話に不都合はないようだが、月彦としては苛々してしまう。
 フランス語しか話せない月彦への配慮からか、ふたりは家でもフランス語で通している。だが月彦は知っている。最初に会ったそのときに、立ち去る際ふたりが交わしていた言葉は、明らかに耳慣れず、日本語であるのは容易に知れた。普段ならば家では日本語で会話していたのだろう。月彦だって承知しているのだから、遠慮などすることはない。なのにふたりは、月彦が自室にいてふたりきりだろうと、フランス語でしか話さないと決めているようだった。

 それを知ったのは、月彦が夜中にトイレに立ったときのことだ。リビングの明かりが見えて、とっさに壁際に身をひそめた月彦の耳に入ったのは、フランス語だった。月彦がうっかり日本語の会話を聞いて、なにを話しているのかと不安になってはいけないとの理由らしい。月彦が日本語を覚えたいって言ってこないかぎり、日本語は封印ですねと、炭治郎は笑っていた。一気にフランス語上達しちゃうかもなんて、変に前向きなのが癇に障った。
 だが、同時に胸の奥がザワザワと、不快感とは違う落ち着かなさを覚えたのも確かだ。

 炭治郎と義勇は、毎日、月彦が眠る前に同じことを言う。

 明日は今日より元気になる。明後日は明日よりもっと健康になる。

 呪文のように、神への祈りの言葉のように、ふたりは毎日、そんな言葉を月彦にささやき、ギュッと抱きしめてくる。
「日本には言霊という信仰がある。言葉には力が宿っていると信じられているんだ」
 神など信じない月彦は、義勇の言葉に鼻で笑ってしまいそうになったが、ふたりがささやくときの真摯な眼差しは、嫌いじゃなかった。
 こんなはずではなかったのだ。たったの十日足らずだ。たかがそれしきの時間で、まるで温かな普通の家族のような暮らしに馴染みだすなど、自分でも思っていなかった。
 いつかきっと化けの皮が剥がれると念じるように思ってみても、そう思いたがっているだけだということは、敏い月彦にはもうわかっていた。
 だが、まだ認められない。信じた瞬間裏切られるのはごめんだ。