絶体絶命恋愛

※『800字分の愛を込めて』で書いた話を改題、加筆修正したロングバージョンです。元タイトルは『必要なのは諦めではなく覚悟』

「冨岡先生、見つけた!」
「職員トイレにまで入ってくるな!」
 ギョッとして叫んだ義勇の般若顔などものともせずに、炭治郎はニコニコと近づいてくる。
「先生が生徒指導室にいてくれたら、こんなとこまで追いかけてきませんよ」
「そもそも追いかけまわすなと言ってるだろうが」
 逃げられない状況でやってくるのは卑怯だろう。義勇が憮然と睨みつけても、炭治郎はどこ吹く風だ。真後ろに立たれて狼狽する義勇のことなど、まったく気にした様子はない。
「覗くなっ」
「小さいときは一緒にお風呂だって入ってたんだから、今更じゃないですか。あ、それとも俺のも見せてお相子にします?」
「いらんっ! 見せるな!」
 ちっとも悪びれない炭治郎に、義勇は深いため息をついた。

 一体なんでこんなことになったんだろう。

 呆然と虚空を見つめてしまうが、それでもこんな状況にさえ慣れつつある自分が嫌だ。炭治郎が次に言う台詞だって、義勇は簡単に脳内再生できる。それぐらいにはもう慣れてしまった。受け入れられるかは断固として別ではあるけれど。
「好きです、冨岡先生。俺とおつきあいしてください!」
 ほら、やっぱり。ここ一ヶ月ほど毎日聞かされている言葉だ。ますます義勇の眉間にしわが寄った。
 告白にムードなんて求めてないが、少なくともジャージのファスナーをあげながら聞くのは勘弁願いたい。最中よりはマシかもしれないが。いよいよなりふり構わなくなってきた炭治郎に、義勇はあきれを通り越して、少しだけ恐怖さえ覚えてしまう。
 義勇が無言で手を洗っているあいだも、炭治郎はニコニコと義勇の返事を待っている。差し出されたハンカチをちらりと一瞥して、義勇は行儀悪くジャージで手を拭った。むぅっと唇を尖らせる炭治郎には悪いが、期待の芽など育てられては困るのだ。

「生徒とつきあう気はない」

 眉間の皺もそのままに義勇は冷たく言った。答えはわかり切っているけれど、言わないわけにはいかない。そのたび義勇の胸を罪悪感が小さく切り裂いていったとしても、炭治郎の想いを受けとることはないのだ。
 なのに炭治郎は、同じ言葉をやはり繰り返すだけだ。義勇の心情になどこれっぽっちも配慮してはくれない。

「卒業するから生徒じゃなくなりますよ」

 ため息ぐらいはつかせてほしい。俺の気も知らないでと、内心の諦めと苛立ちを持て余しながら、義勇はもう一度深く息を吐きだした。
 三学期に入ってから何度も繰り返したやりとりだ。同じ言葉で義勇は断り、同じ言葉で炭治郎は諦めないと笑う。
 炭治郎が休憩時間に義勇を追いかけまわし、好きだと告白してくるようになったのは、三学期に入ってすぐのこと。
 高三の三学期ともなれば、毎日登校する者などそうそういない。出席が足りずに補習を受ける生徒ならばまだしも、炭治郎はすでに推薦に受かって進路が決定している。卒業までは週一回の登校日にさえくればなんの問題もないというのに、炭治郎が毎日学校へ来る理由はひとつだ。
 授業中にはおとなしく自習しているが、休憩時間になると炭治郎は義勇を追いかけまわす。以前とはまるで逆だ。「ピアスを外せ」「外せません」の鬼ごっこは鬼を換えて「好きです」「断る」に変化して毎日の恒例行事となっている。
 逆パターンになった鬼ごっこに生徒も教師も興味津々なようだが、なぜ炭治郎に追いかけられているのかなど、義勇には言えるはずもない。炭治郎も人に問われたところで理由は語らずにいるらしく、噂ばかりが広がっている現状だ。それでも察しのいい者はいるようで、宇髄などはニヤニヤと訳知り顔で笑って「とっとと諦めたほうがいいんじゃねぇの?」などと言ってくるが、冗談じゃないと義勇は思う。
 ともあれ、今日の鬼ごっこはこれで終了だ。放課後を待たずに捕まったのはいいんだか悪いんだか。受験シーズン真っただ中の鬼ごっこは、業務に支障をきたしつつある。逃げずにさっさと告白を断ればそれで済むのは確かなのだけれど、義勇にしてみればできれば逃げおおせたいところだ。
 しつこく追いかけまわす割には、断れば炭治郎は存外素直にその日は引く。次の日にはまた同じことを繰り返すのが常だが、断りの言葉を口にするたび義勇の胸は痛めつけられるのだから、一日一度ならまだ救いと言えなくもない。
「嫌なら、早く次の彼女作ればいいじゃないですか」
 だから今日に限って炭治郎がそんなことを言い出すとは思ってもみず、義勇はわずかに息を飲んだ。
 笑っているが炭治郎の目は真剣だ。動揺を押し隠す義勇に、追撃の手を緩める気はないらしい。炭治郎は目だけが笑っていない笑顔でなおも言う。
「三学期に入ってから彼女いないですよね、彼女が途切れない冨岡先生?」
 事実だ。今現在、義勇に彼女がいないのも、それまでずっと恋人と呼べる存在を切らしたことがないことも。
 なぜ炭治郎がそれを知っているのかと、問うのは馬鹿馬鹿しい。炭治郎は義勇の歴代の彼女たち全員の顔を知っている。彼女が変わるたび、必ず一度は竈門ベーカリーへ連れて行くのは、義勇だけの秘密のルーティンだ。
 高校のころからずっと、義勇は、告白されれば知らない相手とでもつきあってきた。だから義勇の彼女のタイプには一貫性がない。ガーリーだろうとクールだろうと、どうでもいいのだ。義勇にとっては、恋人としての唯一の条件を全員が満たしているのだから、それでよかった。
 節操がない女好きと陰口をたたかれようと、相手を途切れさせない理由は誰にも言えない。
「クリスマスに別れた人はめずらしく長かったから、冨岡先生も年貢を納めて結婚するんだと思ったのに」
「フラれたんだから仕方ないだろう」
 炭治郎がなぜそれを知っているかは謎だが、予想はつく。近所の喫茶店なんかで別れを切り出されたのは最悪だった。ホテルのディナーもイルミネーションも断られ「忙しいんでしょう? あなたの家の近くの喫茶店にしましょ」なんて言葉を、労わりだと感謝した自分が馬鹿だったのだ。
 からかうような台詞だが、炭治郎の声は瞳と同じく真剣だ。いっそからかわれるほうがまだマシだと思いながら、義勇は、吐き捨てるように言った。事実だからほかに言いようがない。
 告白も多いが、同じ数だけ義勇はフラれる。交際期間はそれぞれでも理由は大概同じだ。年末に別れた彼女はそれでも確かに長いほうだ。二年はつきあっていたのだから、年齢を鑑みれば結婚の話が出てもおかしくはなかった。義勇だって、そろそろそれを視野に入れだしてはいたのだ。
 けれど、指輪を用意する前に彼女からお決まりの言葉で別れを切り出された。いつものことながら、ショックは小さい。焦りはしたが、悲しいなんて感情は生まれてこなかった。
 早く次の相手を見つけないと。別れの言葉を聞いてすぐに浮かんだのがそんな焦りだったのも、きっと彼女には伝わっていただろう。ひどい男だとなじられても仕方がないなと自嘲はするが、義勇だって努力はしたつもりだった。
 忙しいのは教師であるかぎり変えようがない。それでも時間が空けば必ず逢うようにしてきたし、プレゼントだって望まれるままに渡してきた。旅行に行きたいと言われれば、どうにか時間をやり繰りしてどこにだって連れて行った。今までの彼女たち全員、平等に。誰ひとり例外はない。恋愛マニュアルにのっとったおつきあい。苦手な空々しい愛の言葉だって口にする。
 浮気だってしない。別れたのなら誰の告白でも了承するが、つきあっているうちは決してほかの誰にもなびかぬようにしてきた。二心なしとは言わない。けれど愛をささやくのもベッドをともにするのも、恋人にだけと決めている。義勇にとってはささやかながらの真心だ。
 ともあれ、日頃の義勇を知る者が見れば、いったい誰だと目を疑うような献身っぷりで彼女たちに義勇は接してきた。
 それもこれも、理由はたったひとつ。『彼女がいない』なんて状態になるわけにはいかなかったからだ。
 なのに年末からこっち彼女ができなかったのは、タイミングの問題だ。受験生を受け持つ教師には、年末年始に暇な時間などありはしない。出逢いを求めることもできずにあっという間に過ぎた冬休みが終わってみれば、炭治郎の猛攻が始まった。
「先生、モテるけどすぐフラれますよね。いい加減、諦めればいいのに」
 しんと冷え切ったトイレでする会話じゃない。出入り口をふさぐように立ちふさがる炭治郎を睨みつけても、炭治郎はまったく動じた様子がない。昼休みなのが悔やまれる。チャイムが鳴れば炭治郎だって引くだろうに、きっとまだ午後の授業まで余裕がある。余裕がないのは義勇の心情だけだ。
 うっそりと笑う炭治郎の顔は、ずいぶんと大人びていた。もう抱きあげて頬ずりしてやれる子どもではない、炭治郎は大人の入り口に立っている。もうすぐ、生徒ですらなくなってしまうのだ。言い訳が通用しなくなる前に、どの彼女でもいいから結婚しておきたかったというのが、義勇にしてみれば正直なところだ。
 女性の鋭さを侮りすぎていた感は否めない。けれど努力は認めてほしかったと、もはや顔もろくに思い出せない彼女たちに向かって、義勇は心中でぼやく。
「まだ見合いという手もある」
「誤魔化すのやめましょうよ。俺が言いたいことぐらいわかってるくせに」
「知るか。もう三十路も近い。いい加減次は結婚する」
 炭治郎の言わんとすることがどうあれ、そう答える以外義勇に手はない。生徒でなくなれば断りの言葉はひとつ失われる。それを後ろ盾に炭治郎が追いつめてくる恐れがある以上、もはや結婚しか義勇に逃げる手立てはないのだ。
「ひどい人ですね。女の人がかわいそうじゃないですか。言っときますけど、俺、義勇さんが結婚したって諦める気はないですよ?」
「は?」
「諦めるわけないでしょ? だから無駄なことやめましょうよ。俺は義勇さんがバツイチになっても気にしませんけど、つきあわされる女の人たちに申しわけないと思いません?」
 なにもかもお見通しと言わんばかりの炭治郎に、義勇の周章は増していく。

『私のこと、ホントは好きじゃないくせに』

 いつだって、そう言われてフラれてきた。事実だから反論もできず、すんなり受け入れてはたびたび頬に手形を作るのが、義勇の恋愛遍歴だ。いや、恋愛などとは言えないのかもしれない。恋しいと思ったことなど、誰にも、一度も、なかったのだから。
 それでも、好きになろうと努力はしたのだ。タイプの異なる歴代の彼女たちの、唯一の共通事項。ただそれさえ満たしていれば、どんなに苦労しようともつきあう価値が彼女らにはあった。
 けれども、どれだけ義勇が大切にしても、女性は確実に見抜くのだ。そしてそれこそが一番大事で、なにより自分が求めるものだと、返せぬ義勇に突きつけてくる。
 それでも結婚までこぎつければ、いずれは子どもも生まれるだろう。そこまでいけば自身の心情だっていくらかは、変化がおとずれるかもしれない。卑小な期待は炭治郎の言う通り申しわけない限りで、自分でも最悪な男だと思うが、義勇にはそれしかすがるものなどなかったというのに。

「断ってるのになんで諦めないんだ。どうしたらおまえは俺を諦める」
 結婚という最終手段すら無駄だと言うなら、どうすればいいのか。打つ手が浮かばず、途方に暮れる。もう自分ではどうしたらいいのかわからずに、唸るようにとうとう口にした義勇に向かって、炭治郎はにっこりと笑った。小さいころから見慣れた明るい笑顔。いつだって誰よりも慈しみ、かわいいと心から思ってきた、温かな炭治郎の誠実さそのままの笑みだ。
 けれども、炭治郎の口から出た言葉は、残酷だった。

「諦めるわけないじゃないですか。だって、義勇さんが俺を好きだから」

ケロリと言われ義勇は絶句した。頭が真っ白になる。動揺はいかんともしがたく、鼓動は早鐘のようだ。冷たい汗が背を伝うのを感じる。
 けれども炭治郎は、猛追の手を微塵も緩めず、更に言うのだ。

「俺が義勇さんを諦めないのは、俺が義勇さんを好きなだけじゃなくて、義勇さんも俺を好きだからです」

 有無を言わさぬ言葉に愕然とする。勝手に震えだす手を懸命に握りしめた。激しい動揺のなかで、それでも頭の片隅で義勇は、炭治郎の呼びかけが昔と同じなのに気がついた。
 まだ小学校にも上がる前のころから、ずっと「義勇さん」だった呼びかけは、炭治郎が中学生になり義勇が教師になったのと同時に「冨岡先生」へと変わった。寂しさよりも、安堵のほうが強かったのを昨日のことのように義勇は覚えている。
 先生と生徒。自分を縛る戒めがまたひとつ。それにホッとした。
 無邪気に懐いてくれる炭治郎を、義勇がまっすぐに見つめられなくなったのは高校からだ。
 十歳も年下の近所の男の子。かわいがっている弟分。はっきりと引いたラインを、義勇は一歩たりとはみ出さずに生きてきた。まさか当の炭治郎に気づかれていたなんて思いもよらない。今は普通に接することもできているはずだと、今の今まで義勇は疑わなかった。己の心を押し殺すことは、義勇にとってはもはや日常で、心の中に住まう者までは誰ひとりとして見抜かれたことがない。炭治郎だって同じだと思っていたのに、なんてことだ。

『ほかに好きな人いるんでしょ? 馬鹿にしないでよっ』

 高一のとき、初めてできた彼女に別れ際なじられた台詞を、それからもずっと繰り返し聞いてきた。別れの台詞はいつだって同じだ。義勇の秘密を軽々と暴いて、女性たちは去っていく。申しわけなさはほんの少し。焦りと不安ばかりの別れ話に、悲しみはいつだってなかった。それすら女性たちは見抜くから、義勇は必ずフラれてしまう。
 けれど、誰も義勇の心に住まう者を言い当てた人はいない。どうしたって消えない感情を、自らの手で必死に突き刺し切り裂き、殺そうとしてきたのだ。炭治郎にだって知られるわけがなかった。
 炭治郎が店に立つ時間を狙って、必ず連れて行く彼女。仲睦まじさを見せつけて、俺が恋するのはこの人だと、炭治郎の目の前で自分に言い聞かせてきた。炭治郎じゃない。十歳も年下の幼い男の子なんかじゃない。誰の目にもまともに映る『普通の恋愛』を自分はしている。そう思いたかった。炭治郎にもそう思われたかった。
 犯罪者。変質者。降りそそがれるはずの世間一般的な責めなじる言葉よりも、炭治郎を傷つけるだろう自分が怖かった。炭治郎へと向かう感情は肉欲込みの恋情だと、義勇に自覚を促したのは、幼い炭治郎を組み敷く淫夢だ。だから今も続く義勇の初恋は、絶望と気が狂いそうな罪悪感しか得るものがない。
 まだ小学校にも上がっていなかった炭治郎には、彼女と紹介されても理解はできなかっただろう。それでも、悲しさを隠しはしなかった。悲痛な涙がにじむ赫灼の瞳は見ていられず、抱きしめたくなる腕をこらえるのはとてつもなく自制心を要した。
 けれど、すぐに炭治郎は慣れるだろうとも思っていた。一時いっときだけだ。大好きな近所のお兄さんに、自分よりも大切な人がいる。それは幼子にとってはつらいことだろうが、すぐに日々の楽しさや広がっていく世界への期待に、そんなものは消え失せ残らない。けれど抱きしめてしまえばそうはいかない。義勇のなかにあるのは温かな慈しみや、誠実な恋情だけではないのだ。それを義勇はもう知っていた。
 幼く頼りない手足を抑えつけ、己の欲をぶつける夢は、悪夢でしかないのに誘惑に満ちていた。自分で自分が信用ならず、童貞を捨てたとき、義勇は彼女の体に反応した己に心底安堵した。性欲さえ昇華されれば消え失せる。それだけ願って必死に腰を打ちつけた初体験に、快感があったのかすら義勇はよく覚えていない。
 今ではもう、そこにあるのは衝動でも欲求でもなく、義務感だ。望まれるから脳が命じて勃たせるだけの自身は、射精のタイミングすら快感ではなく、観察者の目が命じ脳が判断するだけだ。
 炭治郎に嫌われるよりも、炭治郎を傷つけることが怖い。自分の痛みなどもうどうでもよかった。それまで興味もなく断り続けてきた告白を受け入れたのは、藁にも縋る想いからだ。
 相手なんて誰でもよかった。たったひとつの必須条件さえ満たしていれば、誰とつきあおうと大差はない。

『炭治郎じゃない』

 大切なのは、ただそれだけ。
 息ができない。苦しい。義勇は知らずジャージの胸元を握りしめた。ここは学校だ。叫びだすわけにもいかない。炭治郎が奇異の目で見られるかもしれない。それだけが怖かった。

「ねぇ、義勇さん。俺はもう卒業して生徒じゃなくなるし、幼い子どもでもないです。自分の責任で義勇さんの手をつかむこともできるし、ずっとそばにいることだってできます。これ以上、諦める理由なんてありますか?」
 あるに決まっているだろう。怒鳴りつけたい言葉は、義勇の口からは出てこなかった。そっと近づいた炭治郎が、静かに義勇の手に自分の手を重ねたから。
 ジャージを握りしめる義勇の手を、包み込むように触れる、炭治郎の手。まだ義勇のほうが大きいけれど、もう子どもの手ではない。伝わる温もりは幼いころと変わりないのに、見上げてくる瞳には、稚かった幼子にはない熱が揺らいでいる。
「男同士だからですか? そんなの理由になりませんよ。少なくとも俺にとっては」
「それは、おまえが社会に出ていないからだっ」
 今はいい。愛してるの言葉ひとつでなんだって耐えられる気にもなるだろう。けれど五年後は? 十年後、二十年後は? 家を継ぐとき、禰豆子たちの結婚、様々に訪れる人生の分岐点で、自分との関係が汚点にならないなどなぜ言えると、義勇は唸る。
 家族や友人が結婚して子どもに恵まれていくなかで、恋だけをよすがに生きる炭治郎は、きっと傷つくのだ。義勇との恋と家族や友人の狭間で揺れて、きっと傷つき苦しむ。
 もしも炭治郎とつきあったのなら、別れの日が万が一来ても、義勇が今までの別れと同じ言葉を聞くことはないだろう。だって誰より好きなのだ。ほかに誰も想う者などいない。だから放してやれない。一度でもこの手を取ったら、自分はきっと二度と炭治郎を放せない。炭治郎が傷つき疲れ果てても、すがって、泣いて、わめいて、別れを必死に拒む自分を義勇は知っている。
 予測なんて生易しいものじゃない。確信がある。だから決して触れぬよう、自分の心を殺しつづけてきたのだから。
「傷つくのなんて、男でも女でも変わらないと思うけどなぁ。義勇さんだって、今までいっぱい女の人を傷つけて悲しませてきたじゃないですか。社会人になってからも」
 炭治郎の手が義勇の手から離れ、するりと腕が背に回された。
「傷ついたっていいんです。義勇さんがくれるなら、痛みだって俺はうれしい。傷つくなら、義勇さんとがいい。一緒に傷つきあえるなら、痛みだって幸せなんですよ。だからいい加減、俺のことを諦めるの、諦めてくれませんか?」
 傷つけたくなかった。苦しめたくないから、自分が苦しめばいいと思っていた。なのに炭治郎は笑うのだ。傷つけていいと、傷つくならあなたがいいと、熱を宿した瞳を細めて炭治郎はただ笑う。

「俺はとっくに諦めました。一生義勇さんが好きです。ね、傷つくなら一緒に傷つきあいましょうよ。ボロボロになるまで傷つきあいながら幸せになりましょう?」

 昼休みはそろそろ終わる。ここは学校で、しかも職員トイレだ。こんなやり取りにはきっと最も不似合いなシチュエーション。同時にこんな恋にはお似合いだとも義勇は思う。
 キラキラと輝くような至高の恋なんかじゃなく、矮小で、みっともなくて、きっと何度も傷つけあう、偏見の目と差別の言葉で蔑まれそうな恋だ。
 恐る恐る義勇の手が自分の胸元から離れた。怯えて震えながら炭治郎の制服の背に腕を回せば、もうこらえきれなくなった。大きくなってもまだ腕におさまる炭治郎の体は、温かい。
 鳴り響いたチャイムは、レクイエムか、それともハレルヤの鐘か。どちらにせよ、もう離れられないのだ、鎮魂も祝福もいらない。必要なのは覚悟とこの温もりだけだ。

「もう逃がしてやらないから覚悟決めてくださいね」

 最後通牒に、義勇は言葉にできずにただうなずいた。借りられなかったハンカチで、ぐしゃぐしゃに泣き崩れる義勇の顔を拭く炭治郎の笑みは、小悪魔のようで、たとえようもなく幸せそうに輝いていた。