夏に降る雪

「おい、海に行くぞ。次の休暇はあけておけ」
「は?」

 無惨が勝手なのは今に始まったことではないが、今回のはちょっとばかり度が過ぎる。義勇の眉間に刻まれたシワは、いまだに取れずにいた。
「いつまでむくれているつもりだ?」
「……寝不足」
「だから少し寝ておけと言っただろう。まったく、貴様は強情がすぎる」
「誰のせいだっ!」
 ガルルと唸り声が聞こえそうなほどに義勇が睨みつけても、無惨は怯みやしない。それどころかますます上機嫌になったようにすら見える。そもそも、義勇がどんなに睨もうと声を荒げようと、無惨が意に介したことなどないのだけれど。
 無惨にとっては、手のひらに乗るほどの子猫が、いっぱしに威嚇してみせているぐらいにしか思えないのかもしれない。それはそれで腹が立つが、物申しても無駄なことはとっくに義勇も学習している。
「飛行機ぐらい、いい加減に慣れたらどうだ」
 クツクツと喉の奥で笑いながら頬をなでてくる指も、猫をあやすようだった。
「うるさい。だいたい、俺がパスポートを持ってなかったらどうする気だったんだ」
「昨年の修学旅行はハワイだったと記憶しているが?」
 このときばかりは少しだけ不機嫌そうになった無惨に、義勇は小さなため息をもらした。
 いまだに義勇が修学旅行に引率したのを根に持っているとは、呆れる以外どんな反応をしろというのか。業務なんだからしかたないだろうと何度言っても、へそを曲げたままなんだから、こいつの独占欲は本当に度し難い。
 だいいち、義勇だって断れるものなら断りたかったのだ。無惨が喜びそうな理由ではなく、飛行機、怖い、なんていうちょっと口にしづらい理由だけれど。
 ベッドで義勇に白状させて、ようやく溜飲を下げたように見えたけれども、さんざん義勇を啼かせてもまだ無惨は足りなかったらしい。義勇にとって初の海外旅行が、自分とのプライベートな旅行ではなく学校行事になったのが、そんなにも気に食わないとは。呆れるしかないではないか。
「……もういい。で? こんなところまで連れてきたのはなんの目的が?」
 突然、海に行くといい出したのは、まぁいい。無惨の気まぐれには、義勇だってとっくに慣れている。日射しが天敵な無惨と海の取り合わせは、違和感しかなかったけれども。
 一緒に暮らすまで、いつだって逢うのは無惨のマンションか、ときたまホテルだった。どっちにしたってすることは一緒。デートなんてしたことがない。それは同居を了承してからも変わらず、だからまぁ、少しだけとはいえ、義勇もウキウキとしていたというのに。
 それなりに楽しみにしていたから、休みを確保すべく根を詰めて仕事もした。文化祭前という時期の悪さに――たとえ世間はシルバーウィークだなんだと言っても、教師に休みなどないも同然だ――文句を言いつつも、前倒しで事務作業を無理やり終えたのは十数時間前である。
 目に隈を作った義勇に、盛大に眉間にシワを刻みながらも、貴様の準備はしておいてやったと宣う無惨はそれでもご機嫌麗しかったと思う。義勇の世話を焼くのが、結局のところ好きでたまらないのだ、この暴君様は。

 それはいいとして。うとうとと居眠りしつついつもの運転手に送られてやってきたのは、海ではなく成田空港で。ぽかんとする義勇があれよという間に連れ込まれたのは、ジェット機だ。飛行機怖いって言ったのに。しかもプライベートジェットときたもんだ。
 そうして、むくれる義勇を無惨が上機嫌でなだめすかしたりからかったりしつつ、機上の人となること十数時間。眠りたくとも眠れなかったのは、無惨が不埒ないたずらを仕掛けてきたせいだ。一瞬たりと気が抜けぬ空の旅だった。
 そう、空の上だ。なんでまたそんなところで乳繰りあわねばならんのだ。添乗員だってちゃんといる。冗談じゃない。
 おまけに、やっと地面に足をつけたと思ったら、今度は小型のプロペラ機に乗せられる始末。ようやく着いたのが、このヴィラだ。
 結果、義勇の目の下の隈はいっそう濃くなり、無惨は上機嫌だけれどお冠という器用な状態になっている。ウェルカムドリンクのココナッツジュースはうまかったけれども、それぐらいでこの疲労と眠気が消えるものか。
「海へ行くと言ったはずだが? ボケる歳には早いぞ」
「それぐらい覚えているっ。わざわざセーシェルまでくる必要があったのかと言ってるんだ」
 そう。海は海でも日本ですらない。ここは西インド洋のセーシェル共和国だ。世界中のセレブが訪れるリゾート地。某国の王子が新婚旅行で訪れたことでも有名だそうな。義勇の人生においては、一生訪れる予定などなかったはずの場所である。
 新婚旅行? そんなもの法律が変わらないかぎり、義勇には縁のないイベントだ。たぶん。数年前ならまだ、もしかしたらいつかは自分も結婚するんだろうかと考えることもあったが、今となっては自分には無縁と言い切れる。
「貴様は馬鹿か。日本とは水質からして違う。私に日本の海に入れとでも言うつもりか?」
 知るか。だいたい、無惨は極度の日光アレルギーだ。どこの海だろうと入れるわけもなかろうに。
 プライベートジェットはともかく、ここにくる定期便のプロペラ機の窓に、遮光性があるとは思えなかった。昼日中のフライトだ。もちろん、無惨は熱帯性気候だというのに特注のUVカットのスーツに、手袋まではめてはいた。主治医から処方されている日焼け止めだってしっかり塗っている。とはいえ、正直、そこはかとなく心配で。
 プロペラ機は揺れもせず快適ではあったし、ほかの客も乗り合わせていたから多少なりと眠れるはずだったが、早く着けと気が急いて居眠りなんてまるでできやしなかった。当然のことながら、そんなこと無惨には一言たりと言ってなどやる気はないが。

「まぁいい。ダイビングの時間まで眠っていろ。夜になったら起こしてやる」

 薄く笑うさまは、いかにも上機嫌だ。ジェットのなかで、世界有数のダイビングスポットだとかうんちくを垂れられた覚えはあるが、まさか潜る気なんだろうか。しかも夜に?
 それはまだしも、この男がインストラクターの言葉に素直に従うなど、まったく思えないのだが。
「ライセンスなど持っていない」
 大学まで水泳部に所属していたとはいっても、スキューバダイビングは義勇にとっても未知の体験だ。確認したことはないが、どうせ無惨は義勇のことを調べ尽くしているに違いない。ライセンスを取得していないことぐらい承知しているだろうけれど、万が一、義勇が教えられると思い込まれていたら困る。
 だが、そんな義勇の危惧を、無惨は鼻先で笑い飛ばした。
「貴様は、私をなんだと思っているんだ。世界基準のアドバンスド・オープンウォーター・ダイバーライセンスぐらい持っているに決まっているだろうが」
 小馬鹿にした口調と声音に、義勇の顔からスンッと表情が抜け落ちた。なんだ、それ。呪文か。
 ともあれ、要は無惨がインストラクターになるってことだろう。まったく、小面憎いとは、こいつのためにある言葉だ。頭のなかに浮かぶのは、知るかの一言である。
 そんなことを口にすれば、またぞろ無惨はへそを曲げるだけだし、そうなれば被害を被るのは義勇自身だ。言わぬが花という言葉もまた、義勇はとうに学習している。
 だからまぁ、ダイビングでもなんでも好きにしてくれと諦めもするし、一度はしてみたかったのも確かだ。だが。
「……あそこで、眠れと?」
「あれがベッド以外のなにに見えるんだ貴様は」
 本当に口の減らない男だ。
 ベッドなのは見ればわかる。わかるけれども、寝転がりたいかと言われれば、否だ。
 枕が二つ並んだキングサイズなのは、別にいい。無惨が別々のベッドで眠るなど許すはずがない。だが、なんなんだ。あの垂れ下がる白いレースは。義勇が許容できる寝所をおおう薄物は、蚊帳だけだ。
 いかにも南国テイストな調度品――無惨のうんちくによると十九世紀のアフリカ探検家の住居をイメージしたヴィンテージ風、だそうだ。知るか――や、プライベートプールやテラス付きなのは、まぁいい。無惨のことだ。どうせここも、一泊するだけで義勇が住んでいたアパートの家賃など簡単にふっ飛ぶぐらいには、高いんだろう。知ればたぶん、腰かけている椅子からさえも飛び退きたくなるぐらいには。
 いい加減、無惨の金銭感覚のとんでもなさにも、目を潰れるようにはなってきた。だからまぁ、非日常性を強調しつつもリラックスをうながす部屋に、文句をつける気はない。ないが、あれはない。天蓋付きベッドなんて、なんだか背中がむず痒くなりそうだ。
「寝かしつけてほしいのか? 子守唄でも歌ってほしいか」
「ふざけるな」
 わずかに目を細め近づく顔と、頬をなでてくる白い手に、義勇はふいっとそっぽを向いてみせた。
 ジェットのなかでこそ御免こうむると拒んだその手は、きっと今度は我を通し、義勇を乱すために動かされると思っていた。予想は外れることはなく、無惨はふてくされた顔をした義勇の頬から手を離すどころか、さらに顔を近づけてくる。
 薄く笑む赤い瞳から逃れるように、義勇はゆっくり瞼を伏せた。
 無惨にしてはめずらしいことに、静かに触れた唇は、いつものことながらひやりと冷たい。
「いい子だから、眠っておけ。今は手を出さないでおいてやろう」
 ほんのわずか離れただけの唇でささやかれ、義勇は一度薄く開いた目を、ふたたび閉じる。どうせ、いくら嫌だと言っても無駄なのだ。それにほかにベッドルームはない。寝不足で目の下にはくっきりと隈が浮いてもいる。考えるのも億劫なほどに、疲れてもいた。
「……連れてけ」
「私を顎でこき使うのは貴様ぐらいだ」
 首に腕を回して言えば、どこか楽しげな声と浮遊感が返ってくる。抱き上げる腕に不安を覚えなくなったのはいつからか。もしかしたら、わりと始めからかもしれない。
 ベッドもきっと高級品なんだろう。いつも眠るベッドと変わらず、スプリングはやわらかく義勇の背を受け止めてくれた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 夕焼けが部屋に差し込むころに起こされたのはいいけれども、義勇はやっぱり不機嫌だった。外国人ばかりのレストランでの夕食は、前菜のフルーツのサラダやメインのシーフードのパスタも美味で、けっして文句などなかったけれども。
「いい加減、機嫌を直したらどうだ」
「……うるさい。ああいう起こし方はやめろと、何度言ったらおまえは覚えるんだ」
「眠り姫を起こすには口づけるにかぎると、相場が決まっているだろう」
「誰が姫だ。あんないやらしいキスで起こす童話などあってたまるか」
 日本語を理解する者がいるとも思えず、あけすけな言葉で吐き捨てた義勇に、無惨は至極楽しげだ。片言でならどうにか英語も話せないことはないが、義勇は母国語でさえ口下手だ。メニューを告げるのですら自信はない。
 無惨はといえば、臆する気配など微塵もなく、まるでネイティブスピーカーのように流暢なフランス語で、ウェイターと冗談まで交わしていた。たぶん。
 だが驚くにはあたらない。この暴君は、自分にできないことがあるなど我慢ならないのだ。欲しいものは手に入れずにはいられない。手に入らぬものがあるなど、決して認めやしない男だ。
 だから、スキューバダイビングのライセンスを持っていることだって、考えれば当然と言える。英語やフランス語のみならず、北京語やらロシア語など十カ国語ほどなら日常会話に支障はないというのだから、比較して卑屈になるのすらバカバカしい。
 誰からもうらやまれるだけの美貌と地位と金、高い知性までをも兼ね備えた、身勝手な暴君。望めばいくらだって美男美女を侍らせることもできように、しがない一介の体育教師である義勇にだけ執心著しい。
 無惨が激しく執着するのは、義勇と青い空。太陽は、どれだけ無惨が歯噛みし激怒しようと、無惨の体を痛めつけ、青空の下を自由に闊歩することを許さない。
 だから、躍起になっているのだと、思っていた。青い瞳を持つ義勇を、代替え品として手元に置こうとしているだけだと。そう、思っていたのだけれど。

 フゥッと小さく息を吐き、義勇は行儀悪く頬杖をついた。
 ちらりと上目遣いに見つめれば、無惨はピクリと眉をそびやかし、ゆるりと唇に笑みを刻んだ。
「そろそろ行くか」
 マナーにうるさい男だが、義勇には寛容になる。天上天下唯我独尊を地で行く男だというのに、義勇にだけは甘い。どれだけ小馬鹿にした言葉を口にしようとも、義勇を本気で貶める文言などその声が紡ぐことはないと、義勇はもう知っている。
 甘いのは俺もか。ちょっとの自嘲を飲み込んで、義勇もうなずき立ち上がった。不機嫌はもはや大部分がポーズでしかない。本当に、甘い。というか、我ながらチョロい。
 規格外だろうと、マンション以外の場所に無惨ときているのだから、デートには違いないだろう。馬鹿高いディナーとスウィートルームでのセックスだけの外出を、デートだなんて言いたくない。スキューバダイビングだろうとサイクリングだろうと、なんだっていいのだ。本当は。無惨と一緒に、普通の恋人同士のように楽しめるのなら。
 そんなこと口が裂けたって言ってやるものかと、固く誓っていても。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 一通り装備の使い方やらなんやらを習ったら、いよいよ海へと潜る。またぞろ馬鹿にしきった教師っぷりかと思いきや、存外無惨の教え方は丁寧だ。無惨も意外と浮かれているのかもしれない。
 空に浮かぶ満月は、白く明るい。月明かりが差す海は、透明度の高さを知らしめるように思ったより視界が利いた。
 水のなかは、義勇にとっては安心できる場所でもある。なぜだか不思議と、水とは相性がいい。大学はスポーツ推薦だったから、タイムを競いはしたが、本当はこんなふうに水とたわむれるように泳ぐほうが心が弾む。
 無惨が泳ぐ姿を見るのは初めてだった。屋内プールがあるホテルなどにも連れ込まれたことはあるが、無惨は、泳ぐ義勇をどこか満足気にプールサイドから眺めるだけで、水に入ろうとはしなかった。
 カナヅチだったらちょっとおもしろかったのに。まぁ、そんなことあるわけもないが。
 つかず離れず泳ぐ二人の周りに、色とりどりの魚が群れてくる。いかにも南国の魚らしいカラフルさに、義勇の目が知らず細まった。
 と、クイッと腕を引かれ、下を見ろと指さされた。
 無惨が向けたライトの光のなか、白く浮かび上がったのはサンゴ礁だ。一面の珊瑚の森から、ゆらゆらと白く小さな粒が湧き上がってくる。
 静かな夜の海で、それはまるで舞い散る雪のように義勇と無惨を包み込む。
 白い粒はどんどんと増えていき、ゆっくりと波に揺られながら浮き上がっていった。海のなかに降る雪に魅入られ、息を呑み見つめていた義勇の頬が、不意に白い手に包み込まれた。
 そっとうながされ、水面へと顔を向けた義勇の目に写ったものは、浮き上がった白い粒がまるで銀河のように群れなす光景だ。

 水のなかの満天の星、常夏の楽園に降る雪。ありえない、その光景。けれど、たしかに現実の。

 食い入るように見つめていた視線を、義勇はゆっくりと無惨へと移した。無惨の目は笑んでいた。常の小馬鹿にしたような笑みでも、他人に向ける胡散臭い笑みでもなく、愛おしいと雄弁に語りかけてくる笑みに細まる、義勇の前でだけやわらぐ赤い瞳。

 ありえないのだと、信じていた。無惨が義勇に向ける関心など、手に入れてしまえば薄れて果てる束の間のものだと、思っていた。
 けれど。

 クイッと顎で指し示され、義勇は小さくうなずいた。そろそろボンベの残量も心もとなくなっている。どこか夢見心地なまま、無惨とともに水面を目指す。
 永遠なんて信じないけれど、今この瞬間がもしも永遠に続くのならと、願いたくなる短い時。
 続く明日より終わるそのときのほうが、よっぽど簡単に思い描けたのは、いつまでだったろう。もう思い出せない。

「あれは……?」
 ボートに戻り、すぐに問いかけた義勇に、無惨はやはりやわらかく笑んだまま言った。
「サンゴの産卵光景だ。サマースノーとも呼ばれている」
 濡れた手が、頬を包み込んだ。
「義勇、おまえに見せたかった」
 産卵光景。ならば、あれは命の息吹なのか。命を生み出せぬ恋をしているのに、おまえはそれを見せたいと願ったのか。
 いや、だからこそだろうか。この男にそんな殊勝な感性があるとは思わないが、それでも、めったにないほどやわらかく笑む瞳とやさしい手を、拒む気にはなれなかった。
「おい……」
 キスは、ごめんだけれど。
 顔を押しやる義勇の手を払い除け、一気に不機嫌になった無惨を、義勇はくすりと笑って見やる。
「船長がいるだろう。人前でキスする趣味はない」
「ふん。そんなものを気にするようでは務まらんだろう」
 新婚カップルは多いだろうから、たしかにと言えなくもないが、よそはよそ、うちはうちだ。向こうがよくてもこっちが嫌だ。
「……ヴィラに戻るまでいい子で待て」
 甘いのはお互い様だ。だからこそ、ともに暮らすことを了承すらした。
 これまためずらしいことにポカンと目を見開いた無惨に、浮かぶ義勇の笑みは、こちらも我ながらめったにない満面の笑みだ。
 ありえぬ雪が降るのなら、暴君がただの執着ではなく、一途に人恋うる奇跡だって起きるだろう。
 続く明日を、永遠を、信じてみてもいいと思えるほどに、ともに重ねる月日も過ぎた。

 「……明日も寝不足になる覚悟で言っているんだろうな」
 してやられたなど認めたくないのだろう。せいぜい不敵に言いはしても、無惨の声は心なし弾んで聞こえた。チョロいのも、お互い様だ。
 軽く肩をすくめてごまかして、義勇は、白い薄布に覆われる天蓋付きベッドを思い浮かべた。
 ありえぬ夜の締めくくりには、あれぐらいがきっと、お似合いだ。