いと度し難き至高のブルー

 好きだのなんだのといった言葉もないまま、無惨と義勇が世間一般で言うところの恋人という関係に落ち着いたのは、もう五年以上も前の初秋のこと。
 そのころ義勇は大学一年で、無惨は二十代にしてすでに多くの傘下を抱える総合商社の社長だった。まったく接点のない二人の出会いの場は、無惨が経営する企業のそのまた子会社の倉庫という、なんともさえない場所である。
 傲慢で身勝手なワンマン社長と、バイトの学生。ただそれだけの関係が、二人の始まりだ。

 当時からたいへん生真面目な苦学生であった義勇は、大学と古びた倉庫でほとんどの時間を過ごし家に帰るのは寝るときばかりという、無惨からすれば正気を疑う日々を送っていた。授業もバイトもサボるなど言語道断、在籍する水泳部の練習だって欠かすことがない。無惨に見出されるまではバイト先でも残業を押し付けられてばかりいたようだ。もっと要領よく立ち回ればいいものを、変なところで不器用極まりない。
 そんな義勇から見れば、部下を顎でこき使えば済むとばかりに時間を作っては義勇詣でを欠かさなかった無惨は迷惑でしかなく、太平楽なお飾り社長だと思っていたらしい。
 どうせ父親の会社をまるっと受け継いだだけの、苦労知らずで迷惑なお坊ちゃん社長だろうと誤解し、軽蔑すらしていたと、義勇は少しばかりバツ悪げに言ったものだ。勝手な思い込みで軽蔑するなど申し訳なかったと謝ってきた正直さは、無惨にしてみればどこかズレている。
 そのわりには、相変わらず恐れ入ったり敬いの態度など一切見せないあたり、義勇の価値観と言うのは無惨にとってはてんで理解の埒外だ。無惨の価値観と義勇の価値観には、諸々において格段の差がある。
 重度の日光アレルギーというハンデを持ちながらも、無惨が自身の才覚で企業を起こし今の地位まで昇りつめたと知ったのが、迷惑でしかなかった無惨への印象が変わる切っ掛けだったと、義勇は言う。その一事を取って見ても、精進努力を尊ぶタイプであるのは確かだ。
 とはいえ、手にしたものに胡坐をかいて努力を放棄するのは怠惰であると、顔をしかめた義勇がつづけて言うことには

「過去のおまえの努力に対しては敬意を払うが、今のおまえはわがまま極まりない極楽とんぼだろうが。部下に迷惑をかけるな、戯け者め」

 そんなことをシレッと宣うのだから、本当にかわいさ余って憎さ百倍な男である。
 百倍になった憎さのさらに千倍……いや、万倍は、かわいく愛おしいのが、無惨にとってはなんとも当惑せざるをえない。
 おかげで無惨は仕事をさぼりづらくなった。謝罪を告げた義勇の瑠璃の瞳に、わずかだろうと尊敬の念が見えてしまえば、ふたたび幻滅されるのはごめんである。一度つかんだ縁の糸を手放すのも断ち切られるのも、こと義勇に関してはとうてい甘受できるものではない。
 もちろんのこと、義勇の努力をないがしろにするのもご法度だ。だから自然と時間に融通が利く無惨のほうが、義勇の都合に合わせることが多くなった。
 仕事により熱を入れれば入れたで、部下の成長を上の者が妨げるなと義勇は眉をひそめるから、無惨がなにもかもをしきるのもアウトだ。
 配下の隅々にまで気を配り、できる仕事は部下に任せ成長を促し、責任は自らが負い矢面に立ち部下を庇う。当然、自らの向上にも余念がない。そういう、無惨にしてみれば泥臭いばかりの輩が、義勇にとっては尊敬の対象であるらしい。無惨もそうあるべきと無言のうちに求めている節がある。まったくもって面倒なことこの上ない男だ。
 けれどもそんな義勇の価値観のおかげで、無惨も時間を作りやすくはある。部下をこき使うのではなく自主性に期待し任せているのだと言えば、企業勤めをしたことがない世間知らずの義勇は、そういうものかと納得してみせるのだから。有り体に言えば、チョロい。
 蛇足ながら、無惨にとってはほんの余禄に過ぎないが、企業の株価も義勇とつきあいだしてからは右肩上がりだ。傲慢なワンマン社長という世間の評価も、いくぶん鳴りをひそめた。感謝する気はもちろんない。

 二人の都合の合わせ方は、義勇が就職した今も大差はない。むしろ教職についた現在、義勇はより多忙になり、逢える時間はさらに減った。無惨にとっては憤懣やるかたない現状である。
 せめて一緒に暮らせば義勇を堪能できる時間は増えるのに、いまだ義勇は首を縦に振ろうとしない。だから無惨は、せっせと義勇に連絡を取り――あろうことか、義勇から連絡してくるのはほぼ皆無だ――都合をすりあわせては逢瀬の時間を捻出することに余念がなかった。

 そんな逢瀬はと言えば、無惨のマンションがお定まりだ。理由は至極単純。義勇のアパートでは壁が薄すぎるせいである。

 最初の夜こそ義勇のほうから無惨を部屋に招き入れたものだが、それ以降は、一度として義勇は無惨を部屋にあげようとしない。予告なしに逢いに行っても、義勇はドアを開けるなり玄関先で顔をしかめ、ちょっと待ってろと言い置きすぐに身支度をして出てくる。
 無惨のリムジンでともに向かうのは、無惨のマンションかホテルか。いずれにしても無惨の気分次第だ。
 もしくは、今日は忙しい帰れと、すげなくドアを閉める。とはいえ、それは最初のうちだけだった。罪悪感と――無惨にではなく、近所に対してなあたりがまた小面憎い――羞恥心に、そうそうに諦めたらしい。
 ドアを挟んでの恥知らずな内容の怒鳴りあいや、芝居がかった甘ったるい無惨の懇願が隣近所に聞かれることに、義勇が音をあげたのはわりあい早かった。無惨の誘いを突っぱね続けた期間からすれば、少々あっけなく感じるぐらいだ。今ではため息をつきつつではあっても、車に乗り込むまでは素直に無惨に従うのが常態と化している。
 それに対して無惨に不満があるかと言えば、正直なところとくにない。拗ねる義勇をなだめすかすのも楽しいものだ。
 義勇の部屋にあがれるならば、それはそれで喜ばしいかもしれない。だが、義勇の部屋はとにかく古くて狭いのだ。ワンルームと言えば聞こえはいいが、実際は六畳一間のボロアパートでしかない。ベッドも腰かけただけでギシギシきしむ安物のパイプベッドだ。風呂だって無惨からすれば犬用かというほどに狭苦しい。一緒に入るなどという選択肢は、端から面積の関係で浮かびようがなかった。とうてい無惨の美意識とは相容れない部屋だ。なぜ就職しても引っ越そうとしないのかと、心底疑問でならない。

 なによりも、壁が薄すぎる。

 初めてのときこそ、壁を叩かれる音でさえ甘く濡れる夜のいいスパイスになったものだが、あれを毎回やられるのは業腹だ。
 義勇と過ごす濃密な夜に、邪魔だてなど一切いらない。声を押し殺そうとキスをせがむ義勇はじつに初々しく愛らしいが、甘くあられもない声だって堪能したいではないか。いちいち邪魔されてたまるものか。
 家賃が安いだの引っ越しは面倒だと言い張って、義勇は転居など考えもしない。ということは、ふたたび義勇の部屋に上がりこむ日が来たとしても、無惨の部屋でのように義勇が乱れることはないということだ。
 だから、もしもまたぞろ邪魔をしてくる愚か者がいたら、いっそアパート自体を買い取って義勇以外の住人をすべて追い出そうと、無惨は思い定めている。
 そんな決心は、一度で懲りたらしい義勇が二度とうちではしないと宣言したことで、今のところ実行の機会はないのだが。
 自分の発言が、一度きりの関係で済ませる気はないと暗に示していることに、きっと義勇は気づいていなかっただろう。では次からは私の部屋だなと平静を装って答えた無惨だが、こくりとうなずいた義勇に内心では、自分でも信じられぬほど喜びに打ち震えたものだ。

 ともあれ、そんな具合でずっと無惨は義勇の部屋に行くことはなかったから、知らなかったのだ。無惨の部屋で義勇が仕事をすることなど、一度もなかったから。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 週末とはいえ、今夜の約束はたしかにしていなかった。普段なら無惨は金曜の夜にけっして予定を入れないのだが、どうしてもこの商談だけは外せなかったのだ。たいへん腹立たしくはあったがしかたがない。だから義勇には、今週は逢えそうにないと告げてあった。
 だというのに無惨がアポなしで義勇の部屋を訪ねたのは、商談相手の急病で予定していた会食が流れたせいだ。向こうの都合で決めた日取りであったというのに、重ね重ね腹立たしいことこの上ない。
 とはいえ、予定がなくなったのなら、義勇と逢わぬという選択肢など無惨にはない。義勇を愛でる時間は一分一秒でも多いほうがいいに決まっている。
 リムジンのなかで苛々と口にしつづけた商談相手への呪詛めいた文句もいつしか消え、義勇の住むボロアパートが見えたころには、無惨の機嫌はすっかり上向いていた。
 無惨の来訪を義勇が素直に喜ぶとは思わないが、それでも引く気はさらさらない。先週は義勇の都合があわず逢えなかったから、じつに二週間ぶりの逢瀬だ。いまだ恥じらいをなくさぬ義勇の痴態を堪能できる機会を、一度たりと逃してなるものか。
 果たして、突然現れた無惨に義勇は一瞬ぽかんと呆気にとられたのち、盛大に眉をひそめた。とはいうものの、断る選択は義勇にもなかったようだ。いつものようにちょっと待ってろと言い置いた義勇は、いつもより少しだけ遅れて部屋から出てきた。普段は手ぶらなのに、なぜだか大きめのトートバッグを持って。

「仕事を持ち帰っている。終わるまでかまってやれない」
 車に乗り込むなりそう言った義勇のバッグには、どうやらノートパソコンが入っているらしい。仕事など後にしろと言いたいところだが、そんなことを言えば義勇は、それなら帰ると車を降りかねない。
 きっと今まで約束した日には、無惨と逢うのだからと仕事を持ち帰ることがなかったのだろう。今日は確実に逢えないとわかっていたからの事態に違いない。
 義勇の仕事が終わってから待ちあわせる日頃の時刻と比べれば、今夜はまだ時間も早かった。ただでさえ逢えないと思っていたところに降ってわいた逢瀬だ。無惨も常になく上機嫌だった。多少は譲歩してやってもいいと、無惨は鷹揚にうなずいた。
 リムジンのシートでさっそく肩を抱き髪に口づける無惨に、少し顔をしかめはしたものの、義勇も思いがけず無惨に逢えた喜びを感じているのだろう。常にはない従順さで無惨に身を任せ、スリッと無残の肩に頬をすり寄せてきたりもした。無惨の機嫌がますます上昇したのは言うまでもない。寛容にだってなれるというものだ。
 互いに「こいつの考えていることはさっぱりわからん」と、眉をひそめるばかりの価値観の違いはいかんともしがたいが、こんなふうに寄り添う枷には今のところなってはいない。素直に愛をささやきあうことも、今のところありはしないのだけれども。

 マンションに入るなり「邪魔するなよ」と無惨を睨みつけ、義勇は、普段は使用人のワークスペースとしている部屋にこもってしまった。
 それでもまだ、無惨の機嫌は悪くなかった。
 リビングでやればいいだろうと文句を言いたくはあったけれども、早く仕事を終わらせようとしている理由を思えば、かわいいものだと笑いたくもなるものだ。

 食事にしろなんにしろ、家事と名のつくものなど無惨はしたことがない。だが、紅茶を淹れるのだけは別だ。使用人が淹れるよりも、自らの手で淹れた紅茶のほうが味もよい。
 コーヒーも悪くはないが、紅茶のほうが無惨にとっては慣れ親しんでいる。
 幼いころより重度の日光アレルギーを患う無惨にとって、紅茶の持つ免疫機能強化という効能への、藁にも縋る気持ちがあったのは否めない。今となってはとくに役立っているとは思えないのだが、それでも習慣は変えられないし、今さら変えようと思ったこともなかった。変化を無惨は嫌う。
 それに、無惨が淹れた紅茶を初めて飲んだ義勇が、パッと眉を開きまじまじと無惨を見つめて

「おまえ、意外な特技があるんだな」

 と、遠回しに褒めてきたのが、なんとも心地よかったこともある。
 日頃はインスタントコーヒーばかり。紅茶を飲んでも安物のティーバッグかペットボトルだという義勇には、無惨の淹れた紅茶はカルチャーショックと言っても過言ではないほどの衝撃だったらしい。
 そのとき無惨が淹れたのは、マリアージュフレールのアールグレイフレンチブルーだ。なんだ茶葉の価格の差かと、無惨の滔々としたうんちくに冷めた目をしたものだから、淹れ方次第で味が雲泥の差になるのだと眉をつり上げ言って聞かせたのも、もはや懐かしい。
 今ではだいぶ義勇も紅茶の味には舌が肥えてきたようで、無惨が茶を淹れようと告げると、なんとはなしソワソワと期待しているように見える。無表情ながらパアッと花が周りに飛んでいるかのようになるのだから、愛らしいことこの上ない。

 義勇は今ごろ、キリキリと神経をとがらせてパソコンに向かっているだろう。早く終わらせようと懸命に資料を睨みつけ、キーボードを叩いているに違いない。
 リラックス効果もある紅茶は、一休みにはちょうどいい。キッチンで湯を沸かしながら、無惨は閉じられたドアをなんとはなし見やった。
 今日のところはおとなしく待ってやるつもりだが、紅茶を持っていけば、少しぐらいは自分をかまえというわずかな催促が伝わってしまいそうではある。けれども茶葉を用意する手を止める気はなかった。えらんだのはフレンチブルー。最初に義勇に淹れたものだが、義勇もこれが一番気に入っているようなので。
 しかたないなとため息をつき仕事の手を止める義勇を思い浮かべるだけで、無惨の唇は無意識に弧を描いてしまう。茶葉に交じる矢車菊の花びらの青に、義勇の瞳を重ねあわせれば、目元も自然と細まる。
 たとえ義勇に対してだろうと、お願いだから私を見てくれ、私をもっとかまってくれなど、思うことすら業腹だ。けれどもそんなわけがあるものかと吐き捨てるには、弾む期待は拭い難い。勝手に顔が微笑んでしまうのは止めようがない。

 まったく、変化をもっとも嫌う自分が、なぜこんなにも変わったのか。否、変えられてしまったのか。理由を探そうとしてもどれも後付けにしかならず、愛情だとか恋慕だとかいう、凡百の有象無象が口にする凡庸極まりない言葉にしかならないのが、どうにも腹立たしい。

 滅多に見られぬ美貌であるのは確かだ。だが、見た目とは裏腹に、義勇はどこにでもいる大学生でしかなかった。
 いや、生真面目が過ぎ質素倹約が過ぎ、世情に疎くどこかズレているいわゆる天然ボケだったり、努力と根性なんていう唾棄すべき泥臭さを尊ぶ脳筋なあたりは、無惨にとっては生まれて初めて接するタイプではあったが。
 それらはむしろ、無惨にしてみれば嫌厭対象でしかない属性で、見目形を愛でてもその場かぎり。すぐさま飽きると思ったというのに、気がつけばどこまでも囚われ溺れ、喜ぶ顔を期待して手ずから紅茶など淹れている。
 価値観の違いはいかんともしがたいのに、それすら妥協と譲歩を繰り返し、どうにかこうにか境界線を溶けあわせようと躍起になっている。

 なんという常習性。なんという誘引力。冨岡義勇という男は、本当にタチが悪い。

 犬は苦手だとちょっとバツが悪そうに唇を尖らせるくせに、無惨を、ご主人様に喜んでほしいとボールを追いかけ尻尾を振る犬のようにしてしまったその責任を、義勇はどう思っているのやら。
 無論のこと、期待も懇願も義勇に悟らせるのは真っ平ごめんで、あくまでも自分の優位性を保つのは無惨にとっては常態だ。こればかりは変えようがない。やすやすと他者に屈するほど、無惨という男の矜持は低くはないのだ。
 いかに実態がどうあれ、愛を乞うて跪くのさえ義勇の羞恥や戸惑いを楽しむためだと、自分に言い訳してしまうほどには。
 けれども義勇は、こんなにも無惨を変えておいて、自分ばかりが振り回されていると拗ねるのだから、まったくもって度し難い。

 歯噛みするような痛憤には、認めたくない陶酔が入り混じる。自身の感情を持て余しながら、無惨は慎重に二人分の紅茶をカップにそそいだ。
 キラキラと光を弾いて流れ落ちる琥珀の液体は、かぐわしい香りをまとった湯気を立ち昇らせ、コーヒーにはない宝石のような輝きを放っている。今日も満足のいく出来だ。
 義勇のために用意した茶器は、ロイヤルコペンハーゲン。このブランドの特徴でもある至高のブルーと称賛される青い染料で、ティアラのような縁取りがされたそのシリーズの名を、義勇に教えたことはない。数あるシリーズのなかでは比較的安価なそれを選んだ理由が、その名にあるなどと教えたら、義勇はたちまちむくれることだろう。

 プリンセス。王様である無惨の傍らにあるべき義勇にこそ、ふさわしいネーミングではないか。

 義勇は茶器のブランドになど一切興味がないから、無惨が義勇のために取り揃えた食器の数々の意味に、気づくことはきっと一生ないだろう。

 ストレートな紅茶自体の味を好む無惨は、砂糖もミルクも入れない。だが、多忙な義勇には多少甘くしてやるほうがいい。カップに添えるのは、見た目も愛らしいデザインシュガーだ。
 延亨元年創業の老舗の品とはいえ、まったく趣味に合わないデザインシュガーなんぞを無惨が各種取り揃えている理由なんて、ひとつきりだ。

 無粋な義勇が珍しく、溶かすのがもったいないなと微笑みすらして言ったから。それに尽きる。

 本日、無惨が選んだのは、星の形を模したピンクとブルーの砂糖だ。ふたご星というネーミングも、色味の取り合わせも、無惨からすれば陳腐に過ぎる。だがなんとなくこの取り合わせは、自分と義勇のように思えなくもない。
 義勇も同様だったのだろうか。四季折々のイメージに合わせた花やうちわ、はたまた意表をつく食パンやら歯車など、様々な形があるなかでも、この星型の砂糖を殊の外気に入っているように見えた。だから無惨は、このふたご星だけは欠かしたことがない。

 冷めないうちにと、二人分のティーカップを乗せたトレイを手に、ワークスペースのドアをノックする。
「一息ついたらどうだ」
 応えを待つことなくドアを開けば、デスクに向かっていた義勇が、くるりと振り向いた。
 その顔に、無惨は思わず息を飲んだ。
「……フレンチブルーか?」
 スンッと小さく鼻をうごめかせた義勇の頬がわずかに緩み、ついでガラス越しの目がパチリとまばたいた。
 そう、ガラス越しだ。

「貴様……眼鏡などいつからかけている」

 呟いた声は我ながら呆然として聞こえた。少しかすれて抑揚がない。
「? パソコンで作業するときはいつもかけているが?」
 どうやら視力の問題ではなく、ブルーライトカットのパソコン用メガネであるようだ。デザインは無難なボストン型のセルフレーム。どうみても安物だ。だが、それは問題ではない。

「その顔をほかの奴にもさらしているということかっ!! 貴様、なにを考えているんだっ、この馬鹿者めが!!」

 思わず怒鳴った無惨に、義勇がビクンと肩を跳ね上げらせた。が、そんな愛らしい仕草は一瞬きりだ。すぐに眉間にしわを寄せ、いかにも不快げに睨みつけてくる。
「なんなんだ、いったい」
「そんな愛い顔を有象無象の輩にも見せているのかと聞いてるんだっ!」
「はぁ?」
 なにを馬鹿なことをと言いたげなあきれ返った顔をしても、眼鏡をした義勇は、なんだかいつもと違って妙に愛らしい。なんとなく頬が丸みを帯びて見えた。凡庸なデザインだというのに、やけにしっくりと義勇の美貌に馴染み、そこはかとなくストイックな色香まで漂っている。けしからん。まったくもってけしからん。

 これを――あどけなさと蠱惑さを併せ持つこの顔を、学校なぞで無防備に晒しているだと? 盛りのついた犬と変わらん年頃のケダモノどもが集う場所で? なにかあったらどうしてくれる! そんなことが許せるものか!

「馬鹿なこと言ってないでカップをよこせ」
 言って腕を伸ばしてくる義勇の手を取り、無惨は怒りのままトレイを手放した。
 ガチャンと派手な音を立てて落ちたトレイとカップに、義勇の目が見開かれる。割れた破片が飛び散って、熱い紅茶が無惨のトラウザーの裾を濡らした。
 義勇にかかっていないかを瞬時に確認した視線を、即座に義勇の呆然とした顔に戻せば、義勇も我に返り咎める瞳を向けてくる。
「おいっ、なにを」
「こい」
 力まかせに手を引けば、腰を浮かしかけていた義勇はすんなりと無惨の胸へと収まった。当然のことながら、義勇はすぐさまもがいて抵抗しだしたが、喚こうとする口をふさいでやればやがて抵抗は薄れ、手が無惨のシャツに縋りついてくる。
 鼻にかかったくぐもる声と、淫猥な水音。無駄なぜい肉などまるでない鋼の刀身のような義勇の体は小刻みに震え、無惨から与えられる愉悦に翻弄されていることを示している。官能を必死に逃そうとしているのか、ときおり無惨の胸板を押しやろうとするものの、それすらもはや甘える仕草と変わらない。
 ひとしきり甘い舌を堪能してから唇を離してやれば、ガラス越しの瑠璃の瞳が、涙を浮かべて睨みつけてきた。

「なにを考えてるんだ、いきなり……仕事中だと言っただろうが」
「うるさい。そんなものを私に無断でかけている貴様が悪い」

 言うなり無惨は義勇を肩に担ぎあげた。割れたカップも床を濡らした紅茶も、どうでもいい。片付けておけと命令するだけで、いつのまにやら欠けらひとつ残さず始末され床は磨きあげられているだろう。
 溶け崩れていくピンクとブルーの星を一瞥することなく、無惨は浴室へと向かった。
「おいっ、降ろせ! 俺は米俵か!」
「そんなものを担いでたまるか。少しはおとなしくしていろ」
 ポカポカと背中を叩いてくる拳には、それでも常日頃の力がこもってはいない。ジタバタと揺らせる足も蹴りつけるには至っていなかった。
 義勇が履いているデニムは、以前無惨が普段着として買ってやったヤコブコーエンのスキニージーンズだ。義勇の脚の長さや形の良さを強調させるから、無惨にとっても満足のいく買い物だったと自画自賛する品である。ついでに言えば、肌にフィットしたデザインだけに、義勇の体に起きた変化についても隠しようがないのがいい。

「窮屈でつらいだろう? すぐに楽にしてやろう」

 言いながら小ぶりな尻を音を立てて叩いてやれば、ひゃっ! と、どこか甘い悲鳴を上げて腰を震わせるのがたまらない。

「……死ねっ」
「私が死んだら泣くくせに、よくもまぁそんなことが言えるものだな。貴様を泣かせるのはベッドのなかだけで十分だ……あぁ、風呂でもだったな。いきなりだったから、今日は準備もしていないのだろう? 全部私がしてやろう」

 息を飲む気配に、無惨はふてぶてしさと優美さを綯い交ぜた笑みを浮かべた。
 無惨の体質を自分でも調べたのか、義勇は、決して無惨を日に当てぬよう気を配っているらしい。初めての夜の翌朝にも、考えうるかぎりの日光対策を強いてきたものだ。けれどそんなものでは役立たぬことや、最悪の場合どうなるかを知ったのだろう。以来一度として、義勇は昼日中の約束にうなずくことはなかった。
 この部屋でぼんやりと窓からの光景を眺めるのも夜景ばかりで、ときたまカーテンの隙間から天気を確かめていても、無惨が部屋に入るなりあわててカーテンをぴっちりと閉ざす。そうして、世界中で至上の青と称されるラピスラズリと同じ色の瞳を、不安に揺らすのだ。
 だから無惨は、義勇がどんなにそっけなかろうと、愛想ひとつ振りまくことがなかろうと、義勇から向けられる心を疑わない。どれだけつれないそぶりであっても、義勇は、無惨の身に万が一が起きることに怯えている。今のところ、義勇からの愛情表現は、それだけだ。だがそれしきのことが、無惨にはこの上なく染みる。この素直じゃない意地っ張りな子猫にしてみれば、上々の愛情表現ではないか。

 丸く上向いた形のいい尻がすぐ横にあるのはいいが、顔が見られないのは失敗だったか。きっと火がついたように赤く染まった顔で、涙に潤んだ目を憎々しげに尖らせつつも、悦楽の予感と期待を隠しきれずにいるのだろうに。
 なだめすかし甘やかしまくりたくもなるが、それは後でいい。今はお仕置きのほうが重要だ。
 誰にでも無防備にさらしていた顔を自分にしか見せぬ顔に染め上げて、もうしないと誓わせてやろうと、無惨は胸中で思い定めた。
 馬鹿、おまえなんか嫌いだと、子どもっぽい悪態をつく義勇の声が、尻を叩いてやるたび甘さを増していく。ほくそ笑みながら、無惨は上機嫌に浴室のドアを開けた。
 さて、義勇はどれだけいい声を聞かせてくれるだろうか。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 義勇の安アパートでは到底望めぬ濃厚な行為の果てに、義勇は今、息も絶え絶えに無惨のベッドにくったりと体を投げ出している。
 指先一本動かすのさえ億劫なのだろう。いつもなら行為の後だろうと、だらしなく四肢を広げたままでなどいないものを、恥じらいに足を閉じることすら忘れ果てているようだ。
 義勇にとっても、情交だけならば慣れた行為となって久しい。だが、初めて強いた無惨の目の前での準備や、理性を飛ばし自ら腰をうごめかせて無惨の欲望を一心にこすりたて締めあげた、ふしだらな痴態は、義勇の心身にかなりの負荷をかけたとみえる。しかも常にはなく何度も繰り返し抱いたのだ。疲労は相当なものだろう。

「大丈夫か?」
 涙やよだれの跡で汚れた頬を、そっと撫でてやれば、ぼんやりとしたままの瞳がゆるゆると無惨に向けられた。

 まだ焦点のあっていない瑠璃の瞳をのぞき込み、無惨は、最中に聞いた舌っ足らずなあどけない声での文言を耳によみがえらせ、また酔いしれた。ぞくりと背筋を走った情欲の衝動を抑えこみ、無惨はどうにかやさしく見えるよう苦笑を浮かべてやる。
 シャワーノズルを突っ込んでやったときの、無惨の前での排泄を拒んで嫌だ嫌だと泣きじゃくるさま。尻を叩かれた刺激だけで達した際の混乱と法悦の顔。すべてが絶品だった。矢も楯もたまらず配慮なしに腰を振りたて、義勇を官能の極みに追い立てたくなるほどに。もちろん、そんなことは決してしないよう理性を総動員させたが、それほどまでに今宵の義勇は無惨に常ならぬ陶酔をもたらした。
 だが無惨の胸を快感以上に強く甘く締めつけ、泣きたくなるよな恍惚とした多幸感で満たしたのは、淫らな痴態ではなく、義勇が初めて口にしたささやかな文言だ。

 ――好き。無惨が、好き……。

 思い出すだけで、信じられぬほど目の奥が熱くなる。思い返せば、力のかぎり抱きしめてしまいそうになる。
 こんな日が来るなんてと、義勇と出逢ってから何度思ったことだろう。そのたび、いつでも無惨の胸は深い愛おしさに満たされた。
 驚くべきことに、今夜のような色情で塗りこめられた夜の果てでさえ、だ。いや、だからこそなのか。

 後背位で挿入し自分で動けと命じた無惨に、義勇はまだ反抗を残した瞳をしていた。気持ちよくなりたいだろうとささやいてやった無惨を睨みつけた視線は、眼鏡越し。それでもズレた眼鏡が肌に食い込んで痛いとのささやかな抵抗には、少しばかり甘えがにじんでいた気がする。
 こんなもの二度と私の前以外で身につけるなと、外してやった眼鏡をひしゃげるほど握りしめ、壁へと投げつけた。それを視線で追うことすらなく、かすかにうなずいた義勇がぎこちなく動きだしたのは、躾の成果というべきか。義勇はもう、快感に逆らわない。無惨が与えるものならば。義勇にとっては、無惨から教えられた行為こそが、恋人同士にとって当たり前の営みなのだと思い込んでいるのだろう。

 義勇は、年齢に見合わぬ稀有な初心さを持つ青年だ。幾度も抱いた今でさえ、その初心さは失われていない。

 体育会系の部活なら周りは男ばかりだろうし、下世話な会話に慣れているかと思いきや、今どき中学生でも知っているような隠語すら義勇は知らなかった。初めてのときだって、男同士のセックスがどのようなものなのかさえ知らずに誘ってみせたらしい。
 いや、知らなかったからこそ、あんな視線を無惨に向けることができたのか。思えばなんとも空恐ろしい。無知であるがゆえの淫蕩な視線に、まんまと無惨は釣られた格好だ。
 触りあって出したらおしまいじゃないのか。初めて無惨が閉じた蕾に触れたとき、困惑と驚愕に見開かれた瞳にはそんな言葉が浮かんでいた。

 そんな義勇であるから、慣れたとはいっても恥じらいやぎこちなさはいまだに消えない。無惨もまた、気まぐれや気晴らしのために抱いてきた輩へとは違って、義勇だけは極限までの配慮でもって抱いてきた。
 理性を飛ばし快感だけを追うよう仕向け、だらしなく喘がせてみせるような、理性を叩き壊す追いつめ方など、一度としてしたことがない。
 義勇の瑠璃の瞳は悦楽に潤んでもどこか理知的で、だからこそ美しかった。獣のごとき本能だけの姿にさせるのは惜しい。
 無惨は意志を重んじる。意志の強さこそが無惨を無惨たらしめているし、それを矜持ともしている。とうてい相容れない義勇の考えや価値観さえ尊重しているつもりだ。意志とは理性に象徴されるものだとも思っている。だからこそ、追い詰める抱き方は義勇にふさわしくない。
 ドライオーガズムによる脳内ホルモンの放出は、強力な媚薬に似ている。己の意思や感性とは無関係に、繰り返されれば脳が「これが愛おしい相手だ」と思いこんでしまうのだ。
 だから義勇には、なるべく女悦を教えこむのは控えてきた。

 義勇が義勇本人の意思で無惨をえらび、無惨との行為を望むのだと、義勇自身に知らしめるのは理性あってこそだ。
 本能に突き動かされただけの、脳内物質に惑わされた意識のすり替えなどではない、忘我の極みギリギリで留まるそこにあるもの。相反するその境界戦の上に立つ恋慕。それこそが、無惨が義勇に望む想いの在りかただ。
 理性と本能の境界で揺らぐ、その瞳。無惨を見上げて揺らめき濡れる瑠璃。極上のラピスラズリ以上の輝きを放つ、金のきらめきを散らせた青が、愉悦に蕩けながらも無惨をしっかりと認め見上げてくるたび、どうしようもない恍惚感が無惨を占める。

 だから、お仕置きだと無体を強いた末ではあるが、それでも無惨にしてみればギリギリの譲歩は為した。義勇もまた、前後に体を揺らす動きはぎこちなく、命じられたところで羞恥のほうが勝っていただろう。
 理性がゆっくりと剥がれ落ちていったのは、おそらくは快感ゆえではない。震える紅潮した背をなだめるよう、そっと背に、首筋に、耳にと無惨の手が触れ撫でるたび、義勇の動きは、なめらかに大胆になっていった。
 愛撫なんていう触れかたではなかった。どちらかといえば、ただ慈しむような触れかたを無惨はした。だから、義勇の背を押したのは、快感ではなくきっと安堵だ。
 無惨の手だから大丈夫、無惨とだからきっと平気だと、すべてを委ねて理性という薄皮を一枚ずつはぎ取っていくような、ゆるやかな変化だった。
 そうしていつしか大胆に体を振り、甘い悲鳴をあげつづけた義勇は、キスをせがんだ。いつものように。

 もう出したい。キスして。キスしながらがいい。無惨、頼む。お願いだから、無惨。無惨。無惨。

 甘えと媚を多分に含んだ懇願は、義勇だからこそ、陶酔を呼ぶ。理性と自制心を強く持つ義勇だからこそ、懇願や甘えにも価値がある。
 体勢を変え義勇を膝の上に抱きかかえ、深く口づけて最奥を突いてかき混ぜてやれば、たちまち義勇はブルブルと震えて硬直した。
 互いの胸を濡らして達した瞬間の緊縮は、食いちぎられそうなほどで、痛みさえ覚える。逆らわず無惨も熱を開放し、深い息を吐いた。
 強欲な小さいすぼまりは、ぴゅるぴゅるとまだ放出が止まらぬ絶頂に、無惨を締めあげている。達した後の虚脱状態では痛みが勝り、思わず顔をしかめそうになった。

「ずいぶんうまそうに食っているではないか。そんなにこれが好きか」

 痛みから気を紛らわせ、義勇の弛緩をうながすために口にしたからかいだ。羞恥に理性を取り戻したのなら、すぐに拗ねて怒ってみせるだろう。そう思った。だから。

「ん……好き。無惨が、好き……」

 蕩けきった瞳であどけなく、幸せそうに笑ってそんなことを言うだなんて、無惨は思ってもみなかったし、スリスリとうれしそうに頬ずりしてくるなど、予想外も甚だしかった。
 世間でいうところの賢者タイムというやつでの出来事だ。
 義勇との行為では、いつでもこういうときはお互い虚脱状態で、冷静さを取り戻した頭は快感の余韻を持て余し、なんとなくキスしたり、ただ抱きあっていたりするのが常である。なのに、甘える仕草でそんなことを言われ、たちまち回復し臨戦状態になった自身に、無惨こそが驚愕した。

 いや、そもそも最初のときには、逆だったのだ。気だるさが生まれたことのほうにこそ、無惨は驚いたし、初めて感じる甘い倦怠感に戸惑いもした。

 達した後の気だるさとは、情交の相手を守るべき本能がもたらすものだと知ったとき、なるほど私には縁のないものだと、いっそ満足感を無惨は覚えた。ホルモン作用によるものだと理解すれば、そんな本能よりも意志のほうが勝る己の肉体が誇らしくすらあった。
 だからこそ遊びで抱いてきた相手に対し、無惨はそんな自分を誇示するように間を置かず強要もしたし、ピロートークなどしたこともない。相手が気を失うまで追い詰め、満足したらさっさと捨て置き、場合によってはベッドから追い出す。それが無惨にとっては当たり前だった。

 義勇だけだ。深い愛おしさに占められて、無意識のうちに頭が冷静さをうながし相手を守ろうとする本能が、強靭過ぎるほどの無惨の意志すら上回るのは、義勇にだけなのだ。

 穏やかな気だるさと面映ゆさのなかで、子供じみたキスをしあったり。愛撫ともいえぬ触れあいをしたりするうち緩やかにお互いまた高まって、一度目よりも静かなセックスになだれ込む。それが義勇とのセックスだった。
 義勇の体の負担を思えば、世の馬鹿どもが自慢げに宣う抜かずのなんとやらなど、とんでもない話だ。女ならばいざ知らず、男の体で受け入れる場所など決まっている。
 受け入れることを前提とした膣とは違って、直腸は臓器のなかでも傷つきやすい。小さな傷口でも雑菌が侵入すれば義勇の体が損なわれる。だから無惨は、いつだって慎重に義勇を抱いたし、避妊具だって欠かさない。自身の快感を増すための薄さよりも、義勇を傷つけぬことを優先して避妊具だって選んでいる。

 全部、全部、義勇にだけだ。義勇だけに、無惨の肉体は意志の力を凌駕して、本能がこれが己の最愛だ、守るべき番だと訴えかける。無惨自身の意志ですら、どんな快楽よりも、義勇に負担がかからぬことを優先させてしまう。

 だというのに、今、義勇のなかにおさめたままの無惨の欲望は、硬くこわばり自身にも感じられるほどドクドクと脈打っている。突き上げたい。己の番が孕むまで種を植えつけたい。そんな本能が見る間にわき上がっていく。
 なんたることだ。こんな自分は知らない。理性が焼き尽くされそうになるなど初めての経験で、いかに義勇が相手であろうと、否、義勇とだからこそ、こんな事実が自分に起こりうることが信じられなかった。

 弛緩して無惨に身をゆだねている義勇をたまらず押し倒せば、刺激に義勇は小さく悲鳴を上げた。
「貴様が煽ったのだから、責任は取れ」
 きっと今、自分の瞳も荒ぐ息も、獣じみているだろう。なんと無様なありさまだ。意識の隅で無惨は思った。舌打ちすらしたくなった。けれども意志の力で抑えつけるには、この誘惑は強力すぎて、決して傷つけるなと自分に念じるだけで精いっぱいだ。
 少し呆然として見上げてくる義勇の瞳には、もう理性の光が戻っている。頬の赤味ももはや悦楽による酸欠のためではなく、羞恥によるものだろう。
 けれども、義勇は拒まず無惨の首に腕を回してきた。
「……キス」
 ねだる言葉はほとんどが吐息で、かろうじて音を拾えるギリギリの小さな声だった。

 もちろん、逆らう気など無惨にもなかった。

 そうして理性と獣じみた本能の境界ギリギリを、二人で堪能し尽くした結果、義勇は今、呆然自失として焦点のあわぬ瞳で無惨を見上げている。
 伸びやかな体毛のない白い四肢をしわくちゃになったシーツに投げ出し、鍛えられた腹筋や胸を己の吐き出した欲でしとどに濡らした姿で、ぼんやりと横たわっている。
「喉が渇いただろう。少し待っていろ、紅茶を淹れてやろう」
 頬に口づけ言った無惨の声は、そっけなさを装うつもりが失敗した。コンデンスミルクよりも濃厚で、胸焼けしそうな甘ったるさだ。
 ゆっくりと義勇の目に光が灯り、億劫そうにまつ毛が動いてまばたいた。見つめてくる瞳は金のきらめきが散る瑠璃。理性と知性が宿る、官能の残り火に揺らぐ瞳。愛おしさと美しさの粋を集めたような、至高の青。

「……フレンチブルー」
「あぁ。砂糖はふたつだな?」

 視線だけでうなずくから、知らず微笑み無惨は薄く開かれたままの唇に、小さな口づけを送ってベッドを下りる。
 今日、義勇はきっとベッドから降りられないだろう。いつもの行為でさえ、ダラダラと寝転がって怠惰に過ごすのが常なのだ。たぶんにそれは無惨が喜ぶからしてやっているというところだろうが、今日ばかりは本気で動けないに違いない。
 割れたカップと汚れた床を片付けさせるのは後回しだ。義勇ご所望のアールグレイフレンチブルーを淹れて一息ついたら、ただ甘やかすためだけに風呂に入れて清めてやらなければ。それから抱きあって眠り、何事もなかったかのように整えられた部屋で、睦みあいながら過ごす。
 
 残念ながら割れてしまったプリンセスではないが、ロイヤルコペンハーゲンのカップならまだある。至高のブルーを誇るカップに満たす、かぐわしいベルガモットの香り漂う琥珀の液体。添えるはピンクとブルーの星。常にはない過剰な情交の末の、どこか空々しいまでに穏やかなこの日常の光景。

 あぁ、まったくもって度し難い。信じられないこの愛おしさ。

 至高のブルーを誇る高級ブランド。至上の青と称賛されるラピスラズリ。多くの目を惹きつけてやまぬフェルメールブルーも、今は亡き、青に象徴される日本画大家による絵画も、決して敵わぬ揺るぎなく美しい青は、この部屋にこそ存在する。地球上のどんなに美しい青よりも麗しく、強く、愛おしい青は、無惨の腕のなかでこそ光り輝くのだ。

 価値観の境界線を溶かしあい、譲歩と妥協を繰り返して、理性と本能の狭間で戯れるこの日常。変化を嫌う無惨にとって、たったひとつの望ましい変化は、こんな具合に訪れてはゆっくりと定着していく。
 今夜のことが、義勇にもなにがしかの変化をもたらしたものならば、同居にうなずく日も近いかもしれない。無惨は湯の沸く音を聞きながらわれ知らず微笑む。
 そうしてまた、互いに「こいつの考えていることはさっぱりわからん」と、眉をひそめあいながらも寄り添って、日々を繰り返すのだ。少しずつ、少しずつ、互いの境界線をぼかしていくようにして。
 眼鏡越しの瑠璃の瞳も、無惨だけが知っていればいい。
 もちろんそのときには、無惨が吟味に吟味を重ねてえらんだ逸品でだ。