清かの風と小さな笑顔

 空がだんだんと透明感を増して、吹く風も爽やかになってきた。季節は初夏。洗面所の窓から見える五月の空は晴れわたっている。清々しい朝だ。
 中学生になった杏寿郎は、毎日、幸せいっぱいに学校に通っている。
 そろそろ着慣れつつある制服は、まだまだサイズが大きい。けれどもネクタイを締めるのは、だいぶうまくなったと思う。
 小学生の時分には、杏寿郎は自分の見た目など、まったく気にしたことがなかった。だが、中学に上がってからというもの、毎朝、鏡の前での身だしなみチェックをかかさない。
 入学したばかりのころ、洗面所で何度も髪やネクタイを確かめている杏寿郎を見て、父が大声で「瑠火! 杏寿郎がとうとう洒落めかしだしたぞ! 赤飯を炊け!」などと、とんちきなことを言い出したのはまいったけれども――ちなみにその後、父は朝っぱらから正座させられ、母の説教を受けていた――だらしのない格好などするわけにはいかないのだ。寝癖や服の染みなど、手抜かりがあってはいけない。
 なにしろ、杏寿郎が毎日授業を受ける教室には、義勇がいるのだ。しかも、隣の席である。
 最初に出席番号順で決まった座席はずいぶんと離れていて、ガッカリしたけれど、視力が悪いクラスメイトと席を替わった結果、なんと隣という幸運を勝ち得た。ちょっと横を向くだけで、義勇の姿が目に入る。なんて素晴らしい席だろうか。おかげで杏寿郎は、毎日幸せを噛み締めている。

「兄上、母上がご飯を食べなさいと言ってます」
「おぉ、もうそんな時間か! すまない、千寿郎!」
 洗面所にひょっこり顔を出した千寿郎に声をかけられ、杏寿郎は明るく笑い返した。
 通園時間まではまだまだ余裕があるが、千寿郎もすでに制服姿だ。早く友達に逢いたくて、幼稚園に行くのが待ちきれないらしい。
 人見知りで引っ込み思案なところがあるので心配していたが、毎日楽しそうでなによりだ。
「千寿郎、おかしなところはないだろうか」
 たずねれば、千寿郎はキョロキョロと杏寿郎の体中を見まわして、にっこりと笑った。
「はい。兄上、格好いいです」
「そうか! 千寿郎のお墨付きをもらえたのだから安心だな!」
 笑って杏寿郎は、千寿郎と手を繋ぎ台所へ向かった。
 今日は幼稚園で歌を歌うのだとか、お遊戯を覚えたら兄上にも教えてあげますだとか。興奮気味に話す千寿郎は、うれしそうに笑っている。千寿郎の言葉に答えてやりながら、杏寿郎は、ふと、記憶のなかにある小さな手を思い出した。

 昔、一度だけつないだ義勇の手も、これぐらいだっただろうか。

 思い浮かべる顔は幼い。白い可憐な花のような笑顔だ。何度も何度も思い出してきた、義勇の愛らしい笑顔。杏寿郎の胸の奥、まぶたの裏から、一度だって消えやしなかったその笑みが、杏寿郎をも微笑ませる。
 だが、脳裏に浮かぶその笑顔は、すぐに毎日見る今の義勇の顔になった。

「兄上?」

 不意に真顔になった杏寿郎を、千寿郎が不思議そうに見上げてくる。なんでもないと笑いかけて、杏寿郎は、なんとはなし窓へと視線をやった。
 今日もよく晴れている。五月の空は先月までよりも青さを増して眩しい。
 この空のように晴れやかな義勇の笑顔を見られるのは、いつになるだろう。思えば少し切なくて、胸がキュッと痛む。けれども鬱々となどしていられない。毎日義勇に逢えるのが、幸せであることに変わりはないのだ。

 今日は昨日より多く、義勇の声が聞けるといい。少しでも笑ってくれるよう、今日も頑張らねば。

 気持ちを切り替えれば、早く学校に行きたくなる。幼稚園の時間を待ちきれない千寿郎と同じように、義勇に逢える学校に、一秒でも早く行きたくて。今日も杏寿郎の心は、ウキウキと弾むのだ。
 心の奥底に、ジリッと焦げつくような焦燥と嘆きを押し込めて。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 杏寿郎が教室に入ると、まだ誰もいなかった。いつものことながら、軽いため息がこぼれる。ドアを開けた瞬間の落胆は、もはや恒例と言っていい。
 窓際の一番後ろが義勇の席だ。机の上には、今日もすでにカバンが置いてあった。
 部活の朝練なら早い登校もわかるのだが、義勇は帰宅部だ。なのにいつでも一番早く登校している。だが、杏寿郎が義勇の顔を見られるのは、もっとずっと遅く、ホームルームが始まるころだ。
 義勇はあまり教室にいたくないのか、朝のホームルームが始まるまでの時間や昼休みには、教室を出ていることが多かった。
 少しでも長く義勇と一緒にいたい杏寿郎としては、義勇がくる前に教室で待っていたいのだけれども、無念なことに今まで一度も先に着けたためしがない。残念だけれどこればかりはしかたがない。これ以上早く登校するのは、杏寿郎にも少々支障がある。

「今日も部室棟か……」

 自分の席につき、また小さく嘆息した杏寿郎は、持ち主不在のカバンを見やった。
 義勇はいつでも誰より早く教室に来て、カバンだけを残して消えてしまう。
 思い返せば入学した翌日からそうだった。
 今日から義勇と肩を並べて学べると、杏寿郎がウキウキと教室に入ったときには、すでに義勇の席にはカバンが置いてあるきりで、義勇の姿は教室にはなかった。
 きっとトイレにでも行っているんだろう。杏寿郎はそう思ったし、疑いもしなかった。ところが、いつまで経っても義勇は戻ってこない。最初のうちはクラスメイトに挨拶する声も明るかった杏寿郎だが、時間が経つうちに次第に不安がふくらんできた。
 よっぽど険しい顔付きをしていたのだろう。教室の入口を見据えたまま微動だにしない杏寿郎に、入ってきたクラスメイトはみな一様にビクリと身をすくませて、杏寿郎を遠巻きにしていた。当の杏寿郎は、現れない義勇の安否ばかりが気になって、そんなことちっとも気づきやしなかったのだけれども。
 義勇がようやく姿を現したのは、これはもうなにかあったに違いないと、教室を飛び出すべく杏寿郎が立ち上がった瞬間だ。朝のホームルームを告げるチャイムと同時だった。間を置かず先生が入ってきて、杏寿郎は、無言のまま席についた義勇に話かけることすらできなかった。

 ホームルームが終わるなり、義勇を質問攻めにしてしまったのは、しかたのないことだと思いたい。詮索好きな質ではないが、どうにも抑えが効かなかった。だって、本当に心配したのだ。どうということのない理由だったと聞ければ、なんだそうだったのかと笑ってやれるし、そこから会話も弾むだろう。そう思いもした。
 けれども、義勇から納得のいく答えは、一言だって返ってこなかった。具合でも悪かったのかと案じる杏寿郎に、義勇は、違うとそっけなく言っただけだ。
 授業が始まってしまえば私語は交わせず、休み時間のたびに杏寿郎は義勇に話しかけたけれども、義勇の反応は悲しいぐらいに芳しくなかった。表情は乏しく、笑顔なんてかけらも浮かばない。返事だってその日は結局、最初の一言だけだ。
 次の日も、そのまた次の日も、同じことの繰り返しだ。義勇はホームルーム寸前まで現れず、杏寿郎が話しかけても、返ってくるのはせいぜい一日に一言。挨拶は必ず返してくれるけれど、それだけだ。義勇の声を聞くことはほとんどない。
 見るからに冷淡な態度を取られるわけでもないし、嫌厭されている感じはしないのだが、とにかく義勇は反応が薄い。ポツリと返される言葉は圧倒的に言葉が足りず、熱量の差は如何ともしがたい。
 何度かそんな日を繰り返して、返された短い言葉を繋ぎあわせてようやく知ったのは、義勇は水泳部に在籍している従弟と一緒に登校しているということだ。
 水泳部は全国的にも強豪として知られている。練習も厳しいようで、ほぼ毎日朝練があるらしい。だから義勇の登校時間も早い。従弟と一緒に部室棟に行き、部室で朝練が終わるのを待つのが常だ。
 仲の良さに杏寿郎はちょっぴりモヤモヤとしてしまうが、そんなこと、義勇には到底言えない。
 父が道場主をしている影響で小学校に上がる前から剣道をしている杏寿郎は、当たり前のように剣道部に入ったので、義勇とは下校時間だってなかなか合わない。剣道部は正直に言っていいのなら弱小の部類に入る。部員たちも顧問も、部活動に熱を入れている様子はない。
 そんな剣道部と強豪と呼ばれる水泳部では、部活の終了時間だって異なるのは道理だ。剣道部は大会前だろうと遅くとも七時には帰宅するが、水泳部はいつも九時近くまで練習していると聞いた。登校が一緒なら、下校も義勇は従弟と一緒だ。当然のごとく、下校時間は遅い。
 せめて一緒に帰りたくても、剣道部の先輩が帰っていくなか、杏寿郎ひとりで居残るわけにもいかない。いつだって、後ろ髪引かれつつも、屋内プールの明かりを見ながら帰るよりなかった。
 朝は朝で、小学校に入る前から杏寿郎は、早朝に父に稽古をつけてもらっているから、義勇の登校時間にあわせることはむずかしい。結果として、義勇と一緒にいられるのは授業中のみという毎日だ。
 そこまで従弟につきあうのなら、義勇も水泳部に入ればよさそうなものだが、杏寿郎が聞いても義勇は小さく首を振るだけだった。だから杏寿郎がその理由を知ったのは、杏寿郎が望む形ではなく、善意の第三者という仮面をかぶったお節介者たちによってである。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 それは、ゴールデンウィーク明けのことだった。
 創立記念日が五月九日ということもあり、私立であるこの学園では、飛び石連休にならぬよう休日が調整されている。四月二十九日の祝日は振替で登校しなければならないが、それでも今年は一日の土曜日から九日の日曜日までの、じつに九日間もの大型連休だ。家族旅行などで合間の登校日を休む生徒が多いがために、取られている措置なのだろう。
 煉獄家も、夏休みには時間が取れない事情もあって、家族旅行は大抵ゴールデンウィークなのが常だ。今年も張り切った父の先導で休暇を満喫した。
 とは言うものの、本音を言えば、杏寿郎にとっては少々寂しい日々でもあったのだけれど。
 なにせ、休暇中に一緒に遊ぶ約束などできるほど、まだ義勇と仲良くなれていない。杏寿郎にしてみれば、休みが多いのは義勇に逢えない日が増えるのと同義だ。ここぞとばかりに家族サービスに勤しんでくれた父には申しわけないけれども、杏寿郎が旅行中にこっそり落としたため息は多かった。
 ともあれ、久しぶりに義勇の顔が見られると、その日、杏寿郎はいつも以上にウキウキと登校した。それでなくとも今日は、杏寿郎にとってはちょっと特別な日だ。そんな日に九日ぶりの義勇に逢えるのだ。逢えなかった寂しさはともかくとして、いっそううれしかったのは確かだ。

 だが、喜びに満ちた杏寿郎を待っていたのは、クラスメイトからの思いも寄らない言葉だった。

 屈託がなく物怖じしない杏寿郎は、もともと人好きされるタチだ。最初のころは義勇に対する杏寿郎の並外れた熱意に、クラスメイトはだいぶ面食らっていたようだが、今ではすっかり打ち解けている。だからだろうか。登校してくるなり杏寿郎のもとに進み出て、ちょっと話があるんだけどと声をかけてきた彼らの顔に、緊張はなかった。

「あのさ、煉獄くん。冨岡先輩を放っておいてあげなよ」

 そのとき、義勇はまだ教室に戻っていなかった。
 義勇が教室に戻ってくるのは、大概チャイムが鳴る二、三分前だ。それはまるで、話しかけられるのを厭う無言の意思表示のようにも見えて、クラスメイトのなかには、あからさまに義勇を敬遠しだす者も現れ始めていた。
 義勇の無愛想さは杏寿郎に対しても変わらない。露骨に眉をひそめることはないが、五年前、冬の商店街で見た愛らしい笑顔など、一度として向けてはくれなかった。
 だが、杏寿郎がそれしきでめげるわけもない。
 義勇とまた逢えただけでも幸せだが、年齢が違うのに同じクラスにまでなった。それ自体は喜ぶべきではないのかもしれないが、杏寿郎にとっては幸せなことに違いはない。仲良くなれたのなら、もっともっと幸せな心地がするだろう。
 今までは、義勇と過ごす時間など、想像するだけだった。だが今は違う。現実に義勇と毎日顔を合わせ、机を並べる日々だ。
 残念ながら、出逢ったあの日のように笑顔で会話したり、ましてや手を繋いで歩くなど、一度もない。今のところ、想像と現実はかなり乖離している。
 だからといって諦める気など毛頭ない杏寿郎は、想像してきた楽しい日々を現実にするためにも、せっせと義勇に声をかけている。たとえ一日に一言しか言葉を返してくれずとも、義勇が杏寿郎の言葉に応えてくれていることに変わりはないのだ。少しずつでも義勇のことを知れるのはうれしい。
 だが、ほかのクラスメイトの見解は、杏寿郎とは違うようだ。
 本来なら義勇は一学年上だということを、もうクラスの誰もが知っていた。初等部からの持ち上がりではない生徒であってもだ。
「なぜだ? 俺は義勇と仲良くしたい! 同じクラスの仲間としてもだし、できれば親友になりたいと思っている! それと、義勇は年上とはいえクラスメイトだ。先輩と呼ぶのは少しおかしくないだろうか」
 不快とまでは言わないが、いきなりそんなことを言われるのは腑に落ちない。だから素直に杏寿郎は反論したのだが、クラスメイトはそろって顔をしかめた。
「煉獄くんは外部入学だから知らないんだろうけど、冨岡先輩は色々あったんだよ。そっとしておいてあげなきゃかわいそうだろ」
「そうだよ。それに、前とは全然違っちゃったしさ。煉獄くんだってまったく相手にしてもらえてないじゃん。もうやめなって。関わんないでやれよ」
 そこで初めて杏寿郎は不快感を覚えた。
 義勇の身になにが起きて原級留置――落第や留年は、正式にはそう言うのだそうだ――することになったのか、杏寿郎は知らない。中等部では成績の良し悪しや不品行で留年になるはずもないし、そもそも義勇は真面目で小テストの点数だって良い。きっと長期入院などして学校に通えなくなっていたのだろうと、杏寿郎は推測していた。
 同じ学年、同じクラスになったのはうれしいけれども、義勇の体は心配だ。杏寿郎の知らぬところで、つらい入院生活を送っていたのかもしれないと思うと、呑気に過ごしていた自分が申しわけなくも思えた。もちろん、それはしかたのないことなのだけれど、気持ちの問題である。
 心配ではあるが、現状、義勇は体育の授業も問題なく受けている。もう体は大丈夫なのだろう。それでも万が一があってはいけない。無理をさせぬよう注意深くあらねば。そう決意している杏寿郎だが、原級留置の理由については詮索するつもりなど微塵もなかった。
 義勇自身が説明してきたのならともかく、好奇心でたずねるのは不躾すぎるというものだ。

 だが――。

 知らず腕組みし、杏寿郎は、わずかに眉を寄せ考える。
 たしかに義勇に対しては、先生たちもどこか腫れ物に触るように接している気がしなくもない。部外者である義勇が、水泳部の部室に入り浸ってもおとがめなしなのだって、よく考えればおかしな話だ。
 黙り込んだ杏寿郎に、クラスメイトたちは少し勢い込んだ様子で、なおも言いつのった。
「煉獄くんは知らないからしょうがないけど、冨岡先輩が留年した理由って、一年近くも精神病院に入院してたからなんだぜ?」
「両親とお姉さんが事故で死んじゃって、親戚の家に引き取られたんだ。そしたら、だんだんおかしくなっちゃってさぁ。学校でもいきなり泣き叫んだりしてたんだって」
「虐待じゃないかって、初等部でも噂になってたぐらいだよな。鱗滝先輩ん家も疑われて大変だったって先輩たちが言ってたよ」
「そうそう。あのころは中等部だけじゃなく、初等部の先生たちまでピリピリしちゃってさ。本当に大変だったんだ。結局入院しちゃったし。今年になってやっと学校に戻ってきたっていってもさ、やっぱり前とは全然違っちゃってるし、変にかまったらかわいそうだろ?」
 クラスメイトが口々にいう言葉に、杏寿郎の眉間のしわがだんだんと、くっきり深く刻まれだす。不快感はもはや隠しようがないほどふくらんでいた。
「それのどこが、話しかけられたら義勇がかわいそうだなどという話になるのか、俺にはさっぱりわからん。君たちが義勇のことを案じていることは認めよう。だが、義勇自身がかかわるな、話しかけるなと言ってきたわけではないからな! 義勇になにが必要でなにが必要ないかは、義勇自身が決めることだ。君たちが勝手に決めつけていいものではないだろう!」

 もし義勇本人から、自分にかかわるなと言われても、はいそうですかと引き下がる気など、まるでないけれど。

 思いながら杏寿郎がキッパリと言ったそのとき、音も立てずに義勇が姿を現した。
 ギョッとするクラスメイトたちに目を向けるでもなく、義勇は何事もなかったかのように席に着いた。本人に聞かせる会話ではない自覚はあったのだろう、お節介な者たちもあわてて自分の席へと戻っていく。
「おはよう、義勇!」
「……おはよう」
 常と同じように衒いなく言えば、義勇も、そっけなくではあるけれど挨拶を返してくれた。毎日のことだが、杏寿郎は笑み崩れそうになる。
 たかが挨拶だ。誰とだって交わす、ごく普通のやり取り。けれども、こんなささいな一事を取ってみても、義勇が杏寿郎を厭うているわけではない証拠だと思うのだ。諦められるわけがない。
「君のいないところで、勝手な話をしてしまってすまない。気分がよくないだろう? 本当に申しわけない」
 聞きようによっては、先ほどの会話は陰口のようにも聞こえただろう。義勇がどこから聞いていたかはわからないが、自分のことを話していたことぐらいはわかったはずだ。
 気遣わしく謝罪を述べた杏寿郎に、義勇の青い瞳が向けられた。
 少し逡巡するように一度目を伏せた義勇は、それでも杏寿郎をまっすぐ見つめ、小さく口を開いた。
 そのとき、チャイムが鳴った。先生が入ってくる。
 起立の号令に、義勇が静かに立ちあがった。杏寿郎もあわてて右に倣う。
 義勇は今、なにを言おうとしたのだろう。
 気になるけれども、義勇はもう杏寿郎のほうを向くことなく、じっと黒板を見つめている。生真面目な横顔を、チラチラと盗み見ながら、杏寿郎はソワソワとして落ち着かない胸のざわめきを持てあました。先生の言葉も、なんだか耳を素通りしてしまって、授業に集中できない。

 授業が終わったら、義勇に聞いてみようか。時機を逸した話題に、義勇は答えてくれるだろうか。

 ちらりと視界の端でうかがう義勇の白い横顔の向こうに、澄んだ青空が広がっている。くっきりとした陰影を落とす長いまつ毛が、少し伏せられた。ノートをとる指先は、昔よりも長くて少し骨ばっている。
 ぼんやりと見惚れてしまっていたら、不意に義勇の手が杏寿郎の机に乗せられた。白い手はすぐさま去って、後に残されたのはノートの切れ端だ。
 義勇がメモを回してくるなんて初めてだ。興奮と歓喜にわき立った胸は、けれどもそこに書かれた文字に、ドクンと大きく鳴るなりシンと冷えた。

『事実だ』

 たった一言の簡潔な手紙。これは、義勇も放っておいてほしいと思っているという、意思表示なのだろうか。杏寿郎が話しかけるのを、本当は義勇も迷惑だと思っているのだとしたら、こんなに悲しいことはない。
 そろりとつまみとった紙片を、握りつぶしてしまいたい。けれども、そんなことができるはずもなかった。
 だって、義勇がくれた、初めての手紙だ。
 ただの走り書きでしかなくとも、それでも義勇が杏寿郎だけに宛ててくれた、義勇の言葉だ。義勇の意思だ。捨てるなんて、絶対にしない。
 杏寿郎は、デニム地のペンケースに小さな紙片をそっとしまいこんだ。授業はやっぱり、なにも頭に入ってはこなかった。

 一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴っても、杏寿郎は、いつものように義勇に話しかけることができなかった。
 気になるのなら、問うてみればいいのだ。あれはどういう意味だと聞いてみればいい。わかっているのに、なんだか聞くのが怖かった。
 義勇に話しかけるのをやめる気など毛頭ないのに、迷惑がられていたらと思うと、なにを言ったらいいのかわからない。
 黙り込んだままの杏寿郎に、義勇はなにを思ったのか、複雑そうな目を向けてきた。

「……ごめん」
「ん?」

 ぽつりと聞こえた声は、一瞬、幻聴かと思った。杏寿郎にしてみれば、思いもよらない一言だったので。
「なんで義勇が謝るんだ?」
「杏寿郎も……嫌だろう?」
 ザワザワと騒がしくなった教室で、義勇の小さな声は聞き取りにくい。それでも杏寿郎が聞き逃すことはなかった。
「なんのことだ? 嫌だなんて思うことはひとつもないぞ。あ、すまん、ひとつあった。義勇に嫌われるのだけは、絶対に嫌だ。……いや、まだあるな。義勇が悲しいのも、つらいのも、嫌だ。あぁ、もちろん父上や母上、千寿郎も同様だ。うぅむ、意外と嫌なことというのは多いものだな」
 杏寿郎が腕組みして考え込むと、義勇はどこか放心した顔でパチパチと目をまばたかせた。
「……その、嫌だのなんのと言うのが多いのは、駄々をこねる子供みたいだろうか?」
 義勇の視線に気づいて、少し気恥ずかしく杏寿郎が言うと、義勇の顔がわずかに伏せられた。
「義勇?」
「それは、駄々をこねるとは言わないだろ」
 押し殺しそこねたような小さな忍び笑いと、かすかに震える肩。

 笑った。ほんの少しだけれど。本当に、ささやかにだけれども――義勇が、笑ってくれた!

「そ、そうかっ! たしかにそうだ! 義勇に嫌われるのが嫌だと思うのは、当然だものな!」
 だって、大好きなのだ。ずっと、ずっと、大好きだった。今も大好きだ。明日にはきっと、もっと、もっと、好きになる。嫌われるだなんてこと、考えただけで悲しくて、泣き叫びたくなるほどに。
「……当然、なのか?」
「もちろんだ! 俺は、義勇に嫌われるのが一番悲しい。迷惑になるのなら、話しかけるのはなるべく我慢するが……だが、少しぐらいは許可してもらえるとありがたい。君と話すのは楽しいからなっ!」
 すぐに義勇はいつもの無表情に戻ってしまったけれど、一秒だって目を離したくなくて、まっすぐに青い瞳を見つめて杏寿郎は言った。言葉にはひとかけらも嘘などない。紛うことなき本心だ。
「……迷惑じゃない。杏寿郎が話しかけてくれるのは、うれしい。でも」

 頭がおかしいのは、事実だから。

 静かなその声を、ざわめく教室のなかで聞いた者はいないだろう。杏寿郎のほかには、誰も。
 杏寿郎は、義勇の言葉を一言だって聞き逃さない。だから今、義勇が口にした言葉も、聞き間違えではないのだろう。

 チャイムが鳴る。誰かが開けた窓から、少し強い風が吹き込んだ。はためいたカーテンが、義勇の白い顔に影を落とす。まるで、杏寿郎を阻む壁のように。
 それきり、その日義勇はもう、杏寿郎が話しかけても答えてはくれなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 あの日の義勇の声が、耳から離れない。静かで、悲しい声だった。
 義勇はそれ以上問われたくないように見えたから、杏寿郎もあれきり、たずねたことはない。
 それまでどおり、話しかけはする。当然だ。義勇もうれしいと思ってくれていたのだ。話しかけない道理はない。
 だがあれ以来、話題はなんだか常に差し障りのない、他愛のないものばかりになった。もちろん、それまでだって踏み込んだ会話はなかったのだけれども、今のように、故意に本音を避けたりはしていなかったのに。
 今は、上辺だけの会話ばかりだ。こういうのは性分じゃない。はっきり聞いてしまいたいと、日を追うごとに杏寿郎の焦燥はつのっていく。
 置かれたままの義勇のカバンを見るともなしに見つめたまま、杏寿郎は、今はいない持ち主のことを考える。

 再会して初めて義勇が笑ってくれたのは、五月の十日。杏寿郎の、十三回目の誕生日だった。

 本来は一学年上で二月生まれの義勇も、十三歳。杏寿郎が義勇の年齢に追いついたその日に、義勇は、笑ってくれた。まるで、思いがけないプレゼントみたいに。
 ……今日は俺の誕生日なのだとは、言えなかった。義勇の一言が心に重くのしかかって、言うタイミングなんて見つけられなかった。
 それでも、笑顔がうれしくて、どうしようもなく幸せだったことには、なんの変わりもない。

 幸せで、うれしくて、でも、心の底がジリジリと少しずつ焦げついていくような日々を過ごしてきた、五月。鬱々としているのが嫌で、杏寿郎は小さく息を吐いて立ち上がり、窓を開けた。
 あの日のように風が吹き込んでくる。五月も末が近づいた朝の風は爽やかで、でもまだ少し身を震わせる冷たさを伴っている。
 じきにこの青空も、暗い雨雲に覆われる梅雨が来る。けれど。
「まだ、再会してから二ヶ月にもなってないのだからな。これから知っていけばいい」
 誰に言うともなく口にして、杏寿郎は、スゥッと大きく息を吸い込んだ。
 駄々をこねる子供でいたくないのなら、そろそろ覚悟を決めようか。

 話をするのなら、こんなふうにきれいに晴れた日がいい。どんなに悲しい話でも、清かな風が涙を乾かしてくれるだろう。
 でも。もしも義勇が泣くのなら、その涙を拭うのは風ではなく俺の指でがいいな。そのときは、義勇も笑ってくれるといい。
 どんなに重く垂れ込めた梅雨の雨雲も、いつかは晴れて、今よりも眩しい夏の青空が広がるように。義勇も、出逢ったころよりもずっと、もっと、明るく笑ってくれる。そんな日が、きっとくる。そのための努力は惜しまない。

 義勇の瞳を思い出させる青い空を見つめたまま、杏寿郎は、小さく笑った。