学び舎アルバム ~おまじないは限定仕様~

 煮詰まっている。それはもう、竈門ベーカリー特製のいちごジャム以上の濃厚さで。

 義勇は、ジトッとした半目を己に向ける恋人に、思わず胸中で唸った。
「……少し、気分転換でもしたらどうだ」
 問うた声は、質問や命令というよりも、むしろ懇願に近い。だってこんな炭治郎、初めて見る。
 竈門ベーカリーのジャムは、よく煮詰められていて至極美味だが、炭治郎が煮詰まると、なんだか、ちょっと、怖い。
「そんな時間ありません。義勇さんのご飯の作り置きしなきゃ」
 返された声までそっけないというか、苛立っている。これは駄目だ。こんな炭治郎を見ていては、自分の精神状態のほうが危なくなってしまう。

 無言のまま、有無を言わさず炭治郎の腕を取り、立ち上がらせる。拉致して連れ込んだ先は愛車のなかだ。
 そのあいだ炭治郎は、なんなんですか離してください、義勇さんにかまってる時間だってないんですよ、と、念仏のようにブツブツと文句を言いつづけていた。ちょっと傷つく発言だが、義勇にも言い返す余裕はなかった。
 泣きわめかれたり暴れられたりしたら、かなり骨が折れそうだ。
 多少覚悟しての誘拐劇となったけれども、炭治郎に、暴れるような体力気力は残っていなかったらしい。存外おとなしくアパートの下の駐車場までついてきた。
 車に乗りこんでしまえば、もはや口を開くことすらできなくなったのだろう。シートベルトを締めるまもなく、炭治郎のまぶたは重く垂れ下がって、義勇がシートベルトを締め終えたときには、早くも寝息を立てていた。
 あきれとも安堵ともつかないため息が、義勇の口から思わずこぼれる。身を乗り出しベルトをしてやっても、炭治郎はピクリともしない。年季の入った愛車のシートは、さほど居住性は良くないというのに、今の炭治郎にとってはゆりかごにも等しかったようだ。
 ヤレヤレと、今度こそ明らかな安堵をにじませて軽く息を吐くと、義勇は静かに車を発進させた。

 高三の夏休みともなれば、進学する者にしてみれば正念場だ。ここでがんばらねば将来が危うい。炭治郎の志望大学は、夏休みまでの成績からすると、少々高望みのレベルである。推薦でさえ評価が足りない。
 だが、そこは生来がんばり屋の炭治郎のこと、諦めるなんて気は毛頭ないようだった。今年の担任である伊黒が、もっと身の丈にあった大学を選んではどうかとネチネチ言い聞かせても、頑として首を振ろうとしなかったと、職員室でこれまたネチネチと義勇に告げてきた。
 学校では、義勇が炭治郎の恋人――というか、婚約者であることは、理事長と校長である産屋敷夫妻しか知らないはずなのだが、まっさきに報告という名の嫌味を炸裂させたのは義勇にである。解せぬ。
 とはいえ、皮肉と当てこすり観が満載だろうと、炭治郎の行く末を心配しての発言に間違いはないだろう。将来の伴侶が確定している義勇にしてみれば、なぜ俺に言うなどと文句を言う筋合いもない。かえってありがたいぐらいだ。炭治郎は、苦労や負担を恋人である義勇にさえ、決して愚痴を聞かせようとはしないのだから。

 キメツ学園の生徒でいられる最後の年の夏。炭治郎は、多忙を極めていた。そりゃもう、ゾンビ化するのもうなずけるぐらいに。夏休みに入ったというのに、ブラック企業さながらの教師である義勇よりも、さらに過酷なデスマーチの真っ最中だ。
 最後だからと、文化祭の実行委員に名乗りを上げたのはべつにいい。委員長を引き受けたのだって、炭治郎らしいし、内申のことも頭にあったゆえだろう。部活もキメツ学園では三年生は秋の大会で引退だ。有終の美を飾るべく、炭治郎は、毎日熱心に稽古している。家の手伝いだっておろそかにはしていない。それは今年にかぎらず、いつものことだけれども。
 それらは一つひとつをとってみれば、問題というほどのことではない。受験生であることを考慮しても、体力自慢で働き者の炭治郎にしてみれば、がんばればどうにかなるさと楽観すらしていたんだろう。
 ところが積み重なった予定外の諸々によって、そうは問屋がおろさない羽目に陥ったというわけだ。

「出演料の値上げ……」
「だからアイドルや芸人を呼ぶなんて俗な催し、俺は反対だったんだ。生徒だけで企画実行するなんて事態からして、ろくなことにならないと言っただろう。見通しも立たないまま派手さだけで無謀な計画を立てるに決まっているからな。案の定このザマだ」
 完全に生徒の自主性に任せてほしいとの生徒会からの訴えで、今年の文化祭は例年より少しばかり様変わりすることになった。それは義勇だって承知している。曲がりなりにも教師なのだから。大学の文化祭さながらに、外部からゲストも呼ぼうってことになったんです。そう炭治郎から報告されてもいる。
 だが、いったん出演が決まったタレントたちに、出演料の値上げ交渉をされていたことなんて、初耳だ。

「E判定……」
「竈門は塾通いすらしていないだろうが。それであのレベルを狙うなど、無謀を通り越して馬鹿だと、何度口を酸っぱくして言ってやったと思っている。それなのに変更は絶対しないと豪語した挙げ句がこれだ。言わんこっちゃない。まさか貴様がそそのかしたんじゃあるまいな。担任の苦労を考えもせずに、自分の母校だからって無理に勧めたんだとしたら、ミサイルの的にするぞ」
 義勇の母校である大学の話をやたらと聞きたがるようになったのは事実だ。義勇さんが通った学校に俺も通いたいから、がんばりますね! そんなかわいいことを言って張り切っていた炭治郎は、そりゃあもう愛くるしかった。だが無理はするなとも言ってある。自分の成績では少しむずかしいのは、炭治郎だって承知していたから、二年生の終わり辺りから勉強にも熱を入れて、春先の模試では、C判定だったはずだ。それが夏に入ったらEときたか。これまた初耳である。

「因縁の対決……そんなこと聞いてないぞ」
「俺に言うな。貴様、顧問だろう。貴様が知らずに、なぜ無関係の俺が、剣道部の事情など聞かされねばならないんだ。俺のほうこそ貴様に聞きたいぐらいだ。それともなにか、その耳は飾りか? 生徒の話など素通りしているんじゃあるまいな。そもそも因縁の対決だなどと、くだらなすぎる。なんなんだ、貴様のところの部員は。一昔前の少年漫画か。河原で決闘でもやらかした日には、貴様を鏑丸の餌にするからな」
 いくらなんでも河原で決闘はさすがにない、はずだ。とはいえ、馬鹿馬鹿しさに関して言えば、どっこいどっこいである。今年に入って部員たちが、やたらと近隣の高校をライバル視しているなと思ってはいた。だが、まさか理由がゲームセンターでの順番争いが熾烈化したからなんて、わかるわけあるか。炭治郎は、あそこにはみんな絶対に負けたくないって張り切ってるんですと、苦笑していただけだから、もしかしたら部長である炭治郎も知らなかったかもしれない。炭治郎がゲームセンターになんて通うわけもないし、ましてや、それしきのことで張り合うような子ではない。先にやっていいよと順番をゆずるような子なのだ。自分から厄介事に巻き込まれにいったおそれは、十分すぎるほどあるけれど。

 ともあれ。ヘビの餌にされるのも、ペットボトルミサイルをぶつけられるのもごめんだ。なによりも、自分が知らないうちに、炭治郎がにっちもさっちもいかなくなっていることが、義勇には堪える。だから、伊黒に返すべき言葉は決まっていた。

「……対処する」
「当然だろう」

 そうして、義勇が完全休養をもぎ取った本日。部活も休みで、文化祭実行委員の集まりもなし。義勇には内緒でしていたらしい炭治郎のバイトも休みだ。それなら家でゆっくりすればいいようなものだが、炭治郎は、当然のように義勇のアパートにやってきた。顔色は悪く、歩く姿もフラフラとして、まるっきりゾンビのようになりながら。

 生徒たちが楽しみにしているアイドルのライブを成功させるべく、予算オーバー分をどうにか賄おうとバイトして。
 絶対に負けたくないと燃える部員たちに水を差すことなく、それじゃがんばろうと、部長として誰よりも熱心に稽古して。
 忙しさゆえに落ちてきた成績を持ちなおすべく、多分、睡眠時間を削って勉強して。
 そのうえ、店の手伝い、家事当番。小さい弟たちの世話。すべて全力投球で一切の手抜きなんかせず、挙げ句に、恋人である義勇と逢う時間も減らそうとはしない。

「馬鹿だな……」

 いつもなら、炭治郎に向けて発するこの一言は、あふれでそうな愛情で自分でさえやたらと甘く聞こえる。けれども今義勇の口をついたつぶやきは、言葉は同じでも、いささか苦さが多めだ。むしろ苦さしかない。
 自分ががんばればいいと、なにもかも背負い込む炭治郎も馬鹿だが、気づけなかった自分はさらに大馬鹿者だ。学校が休みに入ってしまえば、かえって逢える時間が減るなんてことを、理由にしていいわけがない。炭治郎はこうして無理をおしても、どうにか義勇に逢いたいと時間を作って逢いにきているのだ。
 義勇自身、今年は生徒指導主任になり業務量は増えて、部活の指導も煉獄に任せがちになっている。だから炭治郎の状態に気がつかなかったなんてことは、言い訳でしかないだろう。煉獄からも、竈門少年は最近疲れ気味に見えるなと言われているのだ。

『あのやかましいのに生気がないと、こっちの調子が狂う』

 ふんぞり返って義勇に文句をぶつけたあとで、伊黒が口にしたのだって、炭治郎を心配してのことだろう。
 だというのに、恋人である義勇だけがノホホンと、炭治郎がなにも言わないのをいいことに甘えていたというわけだ。これを馬鹿と言わずしてなんと言おう。
 こんなに煮詰まるぐらい弱音も吐かずにがんばって、倒れでもしたらどうするつもりだったんだ。なんだか泣き出したくさえなってくる。
 炭治郎の父は、過労で倒れた際に、病巣が発見された。アパートにやってきた炭治郎の顔色を見た瞬間に、義勇の脳裏にフラッシュバックしたのは、そんな炭治郎の父のやつれた顔だ。
 義勇の両親が亡くなったのは、物心つくかつかないかの幼いころだ。死に顔なんて覚えていない。だから、義勇にとって初めて亡くなった身近な人といえば、炭治郎の父の炭十郎だった。
 元気だったころの炭十郎の面差しは、炭治郎に少し似ている。怖い。やつれた炭治郎を見て思い浮かんだ言葉は、不安と怯えからだった。

 こんな不甲斐ないことでは、炭十郎さんにあわせる顔がないな。

 忸怩として唇を噛んだ義勇は、目的地へと向けてハンドルを切った。
 炭治郎はまだスヤスヤと寝息を立てている。熟睡しきっているんだろう。起きる気配は微塵もない。
 馬鹿で馬鹿でどうしようもないけれど、まだ遅くはないはずだ。強い決意をこめて横目で見やった炭治郎の寝顔は、疲れてはいるがあどけなかった。

「炭治郎、起きられるか?」
「んん……あえ? ぎゆうしゃん?」
 そっとゆすり起こした炭治郎は、ポヤポヤとしてろれつも回っていない。思わず苦笑した義勇は、そっと炭治郎の口元に指先をすべらせた。
「よだれ」
「へ? わっ! じ、自分で拭きますって!」
「もう拭けた」
 すっかり目が冷めたらしい炭治郎は、朝にくらべれば血色が良くなっている。多少なりと回復できたのならなによりだ。
「言ってくれればいいのに」
「おまえがそれを言うか」
 つい不満が口をついて、義勇は内心で少し舌打ちしたくなる。文句を言う立場にはないだろうと、自分を戒める義勇になど、炭治郎はちっとも気づいちゃいないようだ。なにが? と言いたげに小首をかしげている。
 答えず義勇は車を降りた。クーラーを利かせていた車内はそれなりに快適だったが、外に出れば一気に汗が吹き出してくる。ギラギラとした夏の日差しは痛いほどで、体力が落ちている炭治郎を連れてくるには不向きだっただろうかと、少し不安が頭をもたげた。
 だが、炭治郎はそんなことまるで気にした様子がない。突然理由も行き先も告げられずに連れてこられたというのに、ためらいもなく車を降りると、暑いなぁと言いながらも笑顔で伸びをしている。
「なんか、久しぶりに眠った気分です。えーと、それで、ここどこですか?」
「おまえと来たかった場所」
 ん? とまた首をかたむけるから、義勇は小さく笑ってみせた。
「ほら、こい」
 手を差し伸べれば、炭治郎は、パチリとひとつまばたきして、ためらうように視線をさまよわせた。
 誰も見ていないのを確かめる仕草は、校外でデートするときにはもはやお馴染みだ。秘密にしているとはいえ、学校ならじゃれていても言い訳がきく。なにせ生徒指導と校則違反常習者だ。手をつないでいても連行中でゴリ押しできる。多分。
 でも、誰も自分たちを知らない場所では、性別と年の差が邪魔をする。性別はまだしも、どこからどう見ても成人している義勇と、童顔の炭治郎では、傍目には犯罪にも見えかねない。だから炭治郎は、学校を一歩出ると臆病だ。こと義勇との恋愛に関してだけ。
 なまじ反対されることもなく理事長たちや家族にも認められたのが、よくなかったのかもしれない。いや、ありがたいことだけれども。
 ともあれ炭治郎は、自分の置かれた状況とメディアからの情報の差が激しすぎて、他人に知られたら義勇さんがとんでもない目に遭う羽目になっちゃうと、思い込んでいるふしがある。
「いいから、ほら、おいで」
 答えを待たずに炭治郎の手を取り、義勇はやさしく微笑んでみせた。
「心配しなくても、すぐにつく。そこなら誰も見ない」
「えっと、どこに?」
 歩きながらの問いかけは、義勇が答えるまでもなく目の前に広がった。

「うわぁ! すごい! 真っ黄色!」

 眩しい日差しの下には、数え切れないほどに咲く、いくつもの小さな太陽。一面のヒマワリが、ふたりの眼前に広がっていた。
「新聞に載ってた」
「こんなとこがあるなんて知りませんでした! うわぁ、本当にすごいなぁ。俺、ヒマワリ畑って見るの初めてです」
 新聞で紹介されただけあって、家族連れやカップルの姿はそれなりにある。だが、その人影もすぐに黄色の波に飲まれて消えていく。
「行くぞ」
 目を輝かせて大輪のヒマワリを見上げている炭治郎の手を引いて、義勇も背の高いヒマワリの群れのなかへと足を踏み出した。
 ヒマワリは高身長の義勇の背丈近くまで育っているものが多い。入り込んでしまえば視界は緑と黄色に埋め尽くされて、人の視線を遮ってくれる。まるでヒマワリの壁で作られた秘密基地だ。
「こんなに大きいヒマワリ、六太が泣きそうだなぁ。あのね、これよりもっと小さいヒマワリを、六太がもっと小さいときに見せてやったことがあるんです。一歳ぐらいだったかなぁ。そしたら六太、怖がってしがみついてきちゃって」
「おまえも同じことをしてたぞ? ヒマワリを見せたら、オバケだって俺にしがみついて見ようとしなかった。おまえの頭と同じぐらいには大きかったから、顔にでも見えたのかもな」
 楽しげに言う炭治郎に、ちょっとからかうように笑って告げれば、炭治郎はただでさえ大きくて丸い目をますますまぁるく見開いた。
「嘘でしょ!?」
「本当。怖くないからってなだめても、おまじないしてくれなきゃやだって、たどたどしく言うのがかわいかった」
「えぇ~、いつの話です?」
「俺がオムツを替えてやるたびに、おまえが小便をかけてきたころ辺りだな」
「うわぁぁぁっ!! それ言うのやめてって言ってるじゃないですか!」
「声が大きい」
 いくら人目を遠ざけてくれても、声はそうはいかない。ムードを作っているカップルがいたら、とんだおじゃま虫だ。当然のことながら、自分たちだって甘いムードに浸ろうとしているカップルである。こんなシチュエーションに叫び声は似合わない。
「だったら黒歴史を口にしないでくださいよ」
 少し拗ねた上目遣いで言って、小さく尖らせる口に、もう黙れと唇を重ねた。キスはあくまでも軽く、ちょんと触れあわせるだけ。話をするのには、まだ甘い官能に酔う接吻はまずい。
 ついばむようなキスにも、炭治郎は顔を真っ赤に染める。ウブな反応は、初めてこの唇を奪ったときからいまだ変わらない。
 ゆるく息を吐いて、義勇は、黄色の小部屋のようなヒマワリのなかで、炭治郎をそっと抱きしめる。ギラつく日差しは恋人同士の抱擁の障害にはならない。ともに汗に濡れるのなんて慣れっこだ。
 炭治郎の体温の高さと、伝わってくる鼓動に、泣きたくなるほどの安堵を感じる。短いドライブのあいだの睡眠でさえ、それなりに回復するのだから、怯える必要などないのかもしれない。けれども、炭治郎に万が一があればと考えることすら、叫びだしそうになるほど怖いのだ。
 だから、義勇はそっとささやいた。年上の威厳をこめて、説教する。――なんて、そんな偉そうなものではない。到底そんなたいそうな威容は、少し震えてしまった声からはちっとも感じられなかっただろう。だからこれは、完全に懇願だ。

「俺にもちゃんと背負わせてくれ」

 え? と見上げてくる炭治郎に、ちゃんと笑い返してやれているだろうか。義勇にはわからない。炭治郎の大きな目に映る自分の顔は、表情こそ笑みだが、泣く寸前のようにも見えた。

「気づけなくて悪かった。おまえの愛情に甘えて、おまえがたいへんな思いをしていることに気がつかなかった。すまない」
「そんなっ、義勇さんはちっとも悪くないです! 俺がもっとしっかりしてればいいだけのことなんですから。あの、俺、もっとちゃんとできるようにがんばりますから。義勇さんにあたるみたいな真似しちゃって、俺こそごめんなさい」
 ひどいことを言ったと、炭治郎の瞳も潤みだすから、義勇の笑みは歪むばかりだ。どうあってもおまえは俺を泣かせたいのかと、胸が痛くなってくる。
「炭治郎、俺はおまえのなんだ?」
 責める言葉なんて、一言だって口にしたくはない。だから義勇は、すがるようにたずねた。
「えっと……恋人、です」
 そうでしょ? と、ちょっぴりの不安とあふれ出しそうな誇らしさをまじえて、炭治郎は言う。
「もうひと声」
「……婚約者?」
 正解。そんな言葉の代わりに、また口づけを落とす。炭治郎の瞳を濡らす涙の膜が、不安や恐怖ではなく、甘い恋の喜びから浮かび上がるものとなるようにと、願いをこめて。
「わかちあえるのが、パートナーだろう?」
「でも……迷惑かけるの、嫌だから」
「迷惑だと感じるようなら、俺こそがおまえのパートナー失格だ」

 だから。

「ちゃんと話して、ちゃんと俺にも背負わせてくれ。ひとりでなんでも背負いこむな。怖いから」
「怖いんですか? 義勇さんが?」
 パチパチとせわしなくまばたく目に、苦笑をひとつ。腕のなかで見上げてくる炭治郎の、なめらかなひたいに自分のひたいをこすりつける。
「俺は結構怖がりだ。おまえのこと限定で」
 嫌われるのも怖ければ、誰かに奪われるのも怖い。炭治郎が傷つくのも、苦しむのも、ましてや、万が一のことなんて……恐慌状態に陥るほどに、怖くて怖くてたまらない。
「おんなじだ」
 クスッと小さな忍び笑いは、熱い吐息になって義勇の顔をくすぐった。ホワリとはにかみ笑う顔は、あどけないのに義勇を蠱惑する。
「俺が怖いのも、義勇さんのこと限定。だから……怖がらないでいられるように、おまじないしてください」
 怖いものから守ってくれる、おまじない。まだ片言のおしゃべりのころから、炭治郎が泣きながらねだるのは、いつも義勇の大丈夫の言葉と。

 ギュッと強く炭治郎の肩を抱いて、義勇は微笑みながら唇を炭治郎の顔に寄せる。俺がいるよ、怖くないから大丈夫の、おまじない。顔中に降らせるキスの雨。じゃれるみたいに小さなリップ音を立てて、何度でも。
 唇が触れるたび、炭治郎は笑顔になっていく。くすぐったげに声を立てて笑うころには、義勇の胸も甘い陶酔に満たされて、なにも怖くないと義勇自身の心にも刻みこまれた。
 それは、義勇にとってもおまじないだ。炭治郎がキスを望んでくれるかぎり、いつまでだってそばにいられる。かわいくて愛おしいこの子を、いつまでだって腕のなかに閉じこめるためのおまじない。当然のことながら、炭治郎限定で。

「文化祭とか、秋の大会のこと、相談に乗ってくれますか? あと、大学のことも。話したいこと、本当はいっぱいあるんです」

 見上げて聞いてくる炭治郎の眼差しが、信頼をこめてきらめいている。人の視線を怖がる気配は、今はない。小さな太陽でできた壁が、守ってくれているから。幼いころには怖がって、炭治郎を泣かせた大輪のヒマワリは、今じゃ秘密の恋の味方をしてくれる。
 変わるものと、変わらぬもの。いろいろあるけど、この恋だけは、いついつまでも変わらぬようにと願って。

 当然、との答えは、言葉の代わりに追加のキスで。
 煮詰まり終えたらふたりの恋も、ジャムみたいに甘さを増した。