稀有で普通な愛しき日常(お題60:熱)

 炭治郎が風邪を引いた。
 それだけ聞いたのなら、普通の人には、まぁよくあることだと思われるだろう。けれども、義勇と錆兎の受けた衝撃は、果てしなかった。
「……おい、本当に熱があるぞ?」
「炭治郎、大丈夫か?」
 オロオロと聞くふたりに、炭治郎はどうにか笑おうとしたようだけれども、熱のために潤んだ目と真っ赤になった顔では、安心させるにはほど遠い。
「すみませ……」
 ガラガラのしわがれた声は最後まで言葉をつむぐことはできず、途端に咳き込むから、義勇と錆兎はよけいにあわててしまう。ふたりの焦燥っぷりに、炭治郎の具合もますます悪化していくようだった。
 とはいえ、曲がりなりにも兄貴分。年上ふたりがあわてふためいていては、炭治郎がゆっくり休むこともできないことぐらい、ふたりもすぐに思い至ったらしい。
「あぁ、いいからもう喋んな」
「家のことは気にせずゆっくり休め」
 熱で朦朧としているのだろう。やさしい言葉に炭治郎は目顔でうなずいて目を閉じた。

 三人で暮らす中古の3LDKのマンションには、寝室と使用している部屋がふたつある。
 恋人たちの営みや三人で寄り添って眠るときに使用される、キングサイズのベッドが置かれた主寝室。そして、ひとり寝用のシングルベッドが置かれた部屋だ。炭治郎が今、眠っているのは、後者のほうである。
 炭治郎の額に濡れたタオルを置いてやり、加湿器とエアコンをチェックしてしまえば、もうしてやれることは特にない。しばらく静かに眠らせてやらねばと、そっと部屋を出た錆兎と義勇は、リビングで深刻な顔をつきあわせた。

「まさか炭治郎が風邪を引くとはなぁ。並大抵の風邪じゃないな」
 錆兎も心配げだが、うなずいた義勇はもはや蒼白の体だ。かわいい恋人が病床にあるのだから当然といいたいところだけれど、知らぬ者が見たら大げさなと失笑するかもしれない。

「炭治郎が風邪を引くなんて、初めてだ」

 そう、長いつきあいだが炭治郎が風邪を引いたことなど、今の今まで一度もなかったのである。
 どこまでも健康優良児な炭治郎が体調を崩すことなんて、せいぜい食べ過ぎだので腹を壊したときぐらいだ。出逢ったばかりのころならば、知恵熱を出すこともたまにあったけれども、風邪やらインフルエンザだのには、とんと縁がなかった。はしかやおたふくかぜさえ、まだ罹患していいない。
 もしかしたら炭治郎の健康すぎる体には、その手の病原菌は寄り付くことすらできないんじゃないかと、ふたりは割と本気で思っていたほどである。
 だから、起き抜けからやけに赤い顔をして動きも緩慢だった炭治郎が、まさか風邪を引いたんじゃないかなんて、最初ふたりはまったく思いつかなかった。
 金曜の夜である昨晩、主寝室で寝たのは錆兎と義勇のふたりだけだ。ちなみに、木曜の夜は義勇と炭治郎である。今夜は三人で眠る……か、二組三人の恋人同士でのちょっと変則的な営みになるかは流れ次第という予定だった。
 だが、この分では炭治郎は、二晩つづけてシングルベッドにお世話になりそうだ。

 朝になって、いつものようにリビングダイニングに顔を出したふたりを、炭治郎もいつものようにおいしそうな朝食を用意して待っていた。けれどもその顔はなんだかやけに赤い。
「どうした? 具合悪いのか?」
「なんか妙に怠くって……あ、でも大したことないですから」
 緩慢な動作でカフェオレを差し出す炭治郎に、義勇はずいぶんと心配したけれども、炭治郎は大丈夫と笑って取り合わなかった。
「季節の変わり目だしな。もしかして風邪ひいたんじゃないか?」
「まさかぁ。俺が風邪ひいたことないの、錆兎だって知ってるだろ」
 笑う炭治郎に、錆兎も義勇も、そりゃそうかと思わず見あわせた顔に苦笑を浮かべる余裕が、そのときはまだあったのだ。そんな余裕はそう長くはつづかなかったけれども。

 テーブルに並んだチーズオムレツのきれいな黄色はいつも通り。でも、いつもに比べてちょっと火が通りすぎていて、いつものとろとろ加減ではなかったし、コンソメスープはやけに塩辛かった。
 珍しいこともあるものだ。最初の危惧はその程度。けれども炭治郎の顔の赤みは引かないし、味がしないなんて言い出したら、そりゃ義勇も錆兎も不安が増す。
 おまけに、休みの日にはいつだって――前夜に主寝室で眠ったときは、そのかぎりではないけれども――キビキビと家事に勤しむ炭治郎が、ちょっと動くのさえ億劫そうともなれば、不安は加速するばかりだ。
 とどめとばかりに、昼ご飯の支度をしている最中に咳き込んで止まらなくなれば、これはもう疑いようがない。
 泡を食って「寝てろっ」「熱は?」とわめきたて、渋る炭治郎をシングルベッドに押し込んだふたりは、炭治郎が差し出した体温計が示す数字に顔をこわばらせた。

「三八度……」
「マジか……」

 そうして冒頭の仕儀と相成ったわけであるけれども。
「風邪なんて去年は誰も引かなかったのに、まさか炭治郎が引くとはな」
 造血幹細胞移植を受けた錆兎には、感染症は大敵だ。だから三人で同棲してからずっと、義勇と炭治郎は風邪の菌ひとつ持ち込んでなるものかと、徹底した予防に心砕いてきたのだ。
 もちろん、当の本人である錆兎も十二分に注意していた。というよりも、ふたりの気迫に押されて粛々と従うよりなかったわけだが、それはともかく。
 お陰で去年は誰ひとりとして体調を崩すこともなく、錆兎もほぼ普通の生活が送れるようになり、季節の変わり目に体調を崩しやすい義勇でさえも、寝込むことは一度もなかった。
 なのに、誰ひとりとして健康を疑わなかった炭治郎が、風邪を引いた。義勇の心情としてはこの世の終わりぐらいの衝撃だ。
「とにかく、あんまり熱が引かないようなら緊急病院に行こう。風邪なら寝てれば大丈夫だと思うがな」
「うん……あ、薬も飲ませないと」
「あぁ、そうだな。風邪薬あったっけ」
 今日は午前中はまったりと過ごして、午後からは食材や生活用品の買い出しという名の三人でのデートの予定だったが、こうなってはしかたがない。炭治郎の健康が第一優先事項だ。
 あわてて薬を用意したのはいいけれども、そこでハタとふたりは顔を見あわせた。

「薬飲むなら、なにか食べてからのほうがいいよな……」
「……おかゆ?」

 まぁ、当然の流れである。深刻になる必要などどこにもない。普通ならば。

「……作れるか?」
「……たぶん、米を煮ればいいだけ……だよな?」

 たらりと冷や汗を垂らして、ふたりそろって顔を引きつらせるほどのことじゃない。はずだ。だが、ふたりにしてみれば、いきなり降ってわいた難問である。
 なにせ、日頃炊事は炭治郎の独壇場だ。義勇はせいぜい無洗米を炊けるぐらいだし、錆兎にいたってはレンジでチンするのすら及び腰なほどだったりする。幼少期に玉子を爆発させたのが、いまだにトラウマなぐらいなのだ。

「昼は、まぁ、炭治郎も食えそうにないし……俺らはどうにでもなるとして、だ」
「夜はおかゆ……」

 ごくりと喉を鳴らして、真剣な顔でふたりはうなずきあった。かくして、同棲生活を開始してから初めての難問に、年長者ふたりは挑むこととなったのである。

 子どもに帰宅をうながすメロディが、遠くで聞える。カーテンの隙間から差し込む陽射しは赤い。もう夕暮れなのだろう。
 ぐっすりと眠っていた炭治郎は、覚醒してきた意識のなかでよく寝たなぁとぼんやりと思った。二度ばかり目が覚めたときに、義勇や錆兎に汗を拭かれ着替えさせられたのは覚えている。額に置かれている濡れタオルは、だいぶぬるくなっていた。
 眠る前にはしんどくって起きているのも辛かったけれども、元々健康優良児。風邪すら裸足で逃げ出すと、家族も義勇たちも太鼓判を押していたぐらいの炭治郎は、ぐっすり眠って汗をかいた今、だいぶ回復したようだった。
 少しばかり怠いのは確かだが、動けないほどじゃない。しっかりと目が覚めれば、義勇や錆兎に迷惑をかけてしまったことがとにかく気がかりで、炭治郎はノロノロとベッドから降りた。
 まだ鼻が利かず、なんとなく落ち着かないけれども、昼も作れなかったし夕飯はとにかくあり物でいいからなにか作ってあげなければ。急いで部屋を出ようとしたまさにそのとき、ドアが開いた。
「炭治郎、起きて大丈夫なのか?」
「はい、熱はだいぶ下がったみたいです。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「無理するなよ? ホラ、もうちょっと寝とけよ」
 部屋の入口に立っていた義勇と錆兎の手には、タオルとスウェット。もう一度着替えさせようと思ってくれたようだ。
「平気平気。晩御飯用意するから」
 笑った炭治郎に、ふたりの顔がギクリと強張った。
「い、いやっ、気にするな! ガキじゃないんだから、俺らでどうにかするから!」
 どこか上ずった声で言った錆兎に、義勇もこくこくとあわててうなずいている。なんなのだろう。妙なあわてっぷりに、炭治郎はキョトンと首をかしげた。
「でもさ、昼に準備してた食材も、使わないと痛んじゃうし」
「すぐにダメになるってことはないだろ? 風邪が治ってからでいいってっ!」
「……寝てたほうがいい」
「はぁ……でも、ちょっと喉乾いたんで水を」
「持ってくるから!」
「とにかくベッドにいてくれ」
 なんでまたふたりが、こんなにも自分をベッドに戻そうとするのかわからず、炭治郎も困惑してしまう。眠っているあいだにいったいなにがあったっていうんだろう。
 心配されているのはわかるけれども、トイレにだって行っておきたい。まさかそれすらダメだとは言わないだろうと、炭治郎は、とにかく部屋を出ようと足を踏み出した。

 ところが、だ。

 ひょいっとふたりの間をすり抜けようとした炭治郎の前に、サッと錆兎が動いて立ちふさがった。へ? と、目をしばたたかせて、炭治郎は錆兎を避けて前に進もうとしたのだけれども、今度は義勇が、目の前をふさぐようにササッと移動する。なんなのだ、本当に。

 炭治郎が前に出ようとするとサッと素早く進路をふさぐふたりの動きは、さすがのコンビネーションだ。だが感心している場合じゃない。もはやディフェンスよろしくサカサカ動いて、炭治郎を進ませまいとする義勇と錆兎に、炭治郎はポカンとするよりない。

 なんか……こんなの見たことある気がする。えーと、なんだっけ。

「あ、そっか。カバディだ」

 ポツンと言ったとたんに、義勇がグフッと吹き出した。錆兎も一瞬呆気にとられた様子で動きが止まれば、その隙を見逃す炭治郎ではない。
「あっ! 待て、炭治郎! おい、義勇っ、笑ってんな!」
 冷静沈着な見た目に反して意外と笑い上戸で、笑いの沸点が人より微妙にずれてる義勇は、プルプルと笑いをこらえている。炭治郎と義勇に意識が分散された錆兎と、笑いをこらえるのに必死らしい義勇をしり目に、部屋を出てダイニングキッチンに向かった炭治郎の目の前に広がった光景はといえば、惨状である。そうとしか言いようがない。

「うわぁ……」

 なんかもう、それしか言葉がなくて、ちょっとばかり棒読みな声をあげた炭治郎に、錆兎の盛大なため息が落ちた。義勇も笑いやみ、バツが悪そうにそっぽを向いている。
 いつでも炭治郎がピカピカに磨き上げている台所は、鍋やらなんやらが山積みで、床には零れた米が散らばっている。流しのなかに積まれた鍋は、もれなく焦げついていた。

「……すまん」
「……おかゆが、あんなに難しいものだとは思わなかった」

 いや、そんなに難しくは……とは、言わないでおく。なんだかもう、笑うよりほかなかったので。
 というよりも、無性におかしくて、炭治郎はクフッと笑いをもらし、すぐに声をあげて笑い転げた。
「おい、そんなに笑うな」
「……ちゃんと片付ける」
 いかにもバツが悪そうなふたりに、笑ったまま炭治郎はギュッと抱きついた。
「片付けは明日、みんなでやりましょう」
 うれしげに言えば、ふたりは顔を見あわせて、ふわりと苦笑を浮かべた。炭治郎をギュッと抱き返して、もう熱はないのかと、義勇が額をあわせてくる。
「大丈夫です。でも、ひとりで寝るの飽きちゃったんで、もうちょっと眠ってたいです。三人で」
 少しいたずらっぽく笑って言えば、目を見交わした炭治郎の最愛の恋人と大事な兄貴分は、やっぱり笑ってくれるから。

 キングサイズのベッドに三人で横になるときは、いつもは義勇が真ん中。でも今日は、炭治郎を挟んで川の字だ。
 もうひと眠りしたら、非常食のカップ麺で夕飯を済ませて、明日にはきっと完全復活した炭治郎の指揮の元、キッチンを掃除して休日を過ごす。
 そうしてきっと、明日の夜も三人で眠る。そんな珍しい、でも、二組三人の恋人たちにとっては、いつもの幸せな日常。
 今日も、明日も繰り返される、愛しき日々。