とうとう三月になってしまった。鱗滝は押入れの前でひとり、少しばかり途方に暮れる。
押し入れのなかには、亡き妻の嫁入り道具のひとつだったひな人形がしまい込まれている。妻も娘も亡くなったが、鱗滝家には孫の真菰がいるのだから、当然、ひな人形も日の目を見るのが当然だろう。
だが一昨年の一幕を思い出すと、押入れを開けることすらためらわれ、鱗滝は腕組みしたまま小一時間ほど押入れを睨みつけていた。
目の前の押し入れのなかを占めるひな飾りを、はたして出していいものか。今日はもう三月一日だ。桃の節句は明後日である。
雨水(二十四節気のひとつ。二月十八、十九日辺り)に飾ることにしましょうね、良縁や子宝に恵まれるから。そのおかげで私もあなたのところにお嫁にこられましたもの。
まだ幼い娘を抱いて、妻が笑っていたのを思い出す。妻は幸せそうだったが、己がよき夫であったかは、鱗滝にはわからない。少なくとも、嫁にいくことなく錆兎を生んだ娘のことを思えば、ひな人形を飾る日にこだわったところで、必ずしも良縁に恵まれるというわけでもないのだろう。いや、鱗滝と妻は一男一女に恵まれたし、錆兎と真菰というかわいい孫にも恵まれたのだから、子宝に関してはご利益もあったか。
とはいえ、やはり真菰には幸せな結婚をしてもらいたい。いや、真菰はまだ四歳だ。嫁に行く日など考えるのは早い。まだやらん。ひ孫は見たいが、まだまだ先の話だ。
うっかり真菰が嫁に行く日を想像して、ちょっぴり涙ぐんでしまったが、そんな場合じゃなかった。誰もいない座敷で、鱗滝は誰に取り繕うでもなく空咳なんかしてみる。
ともあれ、いずれは真菰も嫁にいく。利発で器量よしの孫娘のためにも、縁起物でもあることだし、妻の言にならうのがよかろうと、一昨年はきちんと雨水にひな飾りを引っ張り出した。去年もためらいながらではあったが、そうした。
今年もそうすべきだったが、去年の錆兎の様子を思い出し、迷っているうちに過ぎてしまった。今日中には飾らないと、明日では一夜飾りになってしまう。それはさすがに縁起が良くない。
妻の形見となったひな人形は、古い御殿飾りの豪華なものだ。人形の顔にも品がある。ちんまりとした漆塗りの道具もわんさとそろっていて、一昨年は真菰と錆兎も大はしゃぎだった。おままごとしようとするのを止めるのに苦労したのも、いい思い出である。三月三日の当日まではの話だけれど。
うぅむと、鱗滝の口から小さな唸り声がこぼれた。眉間にしわだって寄る。
一昨年の桃の節句は大変だった。三月三日は錆兎の誕生日でもあり、二歳の誕生祝いと桃の節句をともに祝ったのだけれども、前日まではご機嫌だった錆兎が、当日になっておひな様イヤと泣きだしたのだ。そりゃもう、派手にワンワンと。
保育園で今日は女の子の日だと言われたらしい。ちゃあは男の子だもん、女の子違うもんと、滅多に泣かぬ聞き分けのよい子が泣くのである。女の子のお人形なんていらない、捨ててと癇癪を起したものだから、まぁのお祭りするの! まぁのお人形捨てちゃ駄目と、真菰も大泣きする始末で、節供だ誕生日だなどと祝うどころではなくなってしまった。
それでもお互いにキライ、バカと言いあったそばから、ごめんね、いいよと泣きながら仲直りしていたのだから、うちの孫、世界一かわいい。うんうんとひとり頷く鱗滝は、結構な爺馬鹿だ。
結局、女の子は守るものと当時から思い定めているようだった錆兎が折れる形で、その場は治まったのだが、海外赴任している真菰の両親に送った写真は、見事にふたりとも泣きべそだった。
わずか二歳児とはいえ、しっかりとその一幕を覚えていたらしい錆兎は、去年の誕生日には泣きこそしなかったものの、暗い顔をしていた。錆兎がそんな具合なら、真菰だって楽しめるものではない。おひな様はうれしいけれど、錆兎が我慢しているのは嫌だ。真菰のそんな葛藤が手に取るようにわかってか、錆兎もまた、落ち込みを増す。おかげで去年の写真は、まるでお通夜のごとき写真となってしまった。
そして今年である。一昨年、去年と散々な一日になった桃の節句にして錆兎の誕生日。今年も繰り返していいものか。
いや、今年は去年までとは違うこともある。
ふたりが剣道を始めたこともそうだし、なによりも、ふたりに弟弟子ができた。と言っても、年はふたりよりもずいぶんと上で、中学生なのだけれど。
錆兎と真菰より一足遅れて鱗滝の道場に入門した、冨岡義勇という名のそれこそおひな様のように愛らしく整った顔立ちの少年は、たちまち錆兎と真菰の大のお気に入りになった。
少しばかり人見知りなきらいはあるが、礼儀正しく穏やかで、心根の優しい少年だ。幼児に弟弟子あつかいされても怒るでもなく、生真面目に幼子が口にするつたない教えを真摯に聞く様は、たいそう微笑ましい。
まるで本当の兄弟のように、義勇は錆兎たちをかわいがってくれている。お互いの家を行き来もして、錆兎と真菰は義勇の家にお泊りだってさせてもらっていた。義勇の両親は早くに亡くなっており、幼子ふたりの面倒をみてもらうのは鱗滝としては、恐縮せざるを得ない。だが義勇も姉の蔦子も、そんなことちっとも気にした様子もなく、ふたり暮らしの家が錆兎たちがくるとにぎやかになっていいと、うれしそうに笑ってくれる。
そんな具合に、家族ぐるみの付き合いとなった鱗滝家と冨岡家であるから、当然、錆兎の誕生日を祝いにも来てくれることになっている。冨岡家のひな飾りは収納しやすいガラスケース入りのコンパクトなものらしく、緋毛氈の敷かれた段飾りも楽しみにしてくれているようだ。
「飾らんわけにはいかんよなぁ……」
思わず深いため息だって落ちる。
去年までは店で買っていたケーキも、今年は蔦子のお手製を持ってきてくれることになっている。ふたりもそれを聞いて喜んでいたが、それでも錆兎の心中は複雑なのだろう。うれしいけれどうれしくない。ふてくされるわけにもいかないが、喜ぶこともできない。そんな葛藤からか、去年同様、段々と暗く沈みがちな顔をする。
同年代の子らよりも男らしくある錆兎にしてみれば、自分の誕生日が女の子のための節句であるのは納得しがたいものなのだろう。大人から見れば他愛もない悩みだが、まだ四歳になる幼児だ。いくらほかの子に比べ聞きわけがよく大人びていようと、たった四年生きただけの心の内は、まだまだ成長途中である。幼い悩みをくだらないと切って捨てるのは酷というものだ。
迷いぬいた鱗滝は、結局、ひな壇を飾った。
男の子のお祝いである五月の節句は祝うのに、女の子の桃の節句は祝わないのは、真菰がかわいそうだ。ひな人形を見るのを義勇と蔦子姉ちゃんも楽しみにしてるんだから、飾ろう。
当の錆兎がそう言うのだから、決心を無下にもできなかった。
錆兎の葛藤を知る真菰はと言えば、錆兎が内心嫌だと思っているものを、大っぴらに喜ぶわけにもいかないのだろう。やはりこちらも心中は複雑であるようだ。
ともあれ、鱗滝家の座敷の半面を占めてしまうほどのひな人形は、今年も飾られた。三人官女に五人囃子。右大臣に左大臣。ちんまりとした家財道具や牛車も並べて、最上段の御殿にはすまし顔のお殿様とお姫様が鎮座している。
ご馳走だって準備万端だ。桃の節句であるからには、ちらしずしとハマグリのお吸い物は欠かせない。今年は去年までよりもいい出来ではないだろうか。鱗滝は、錦糸卵の黄色やきぬさやの緑も鮮やかなちらし寿司を前に、ちょっぴり自画自賛なんかしてみる。
錆兎の誕生日でもあるし、食べ盛りの義勇もくるのだからと、滅多に食べないピザなんかも買ってみた。スーパーで買ってきたオードブル、ケーキは蔦子が持ってきてくれる。ひな餅を模したものと、苺と生クリームのと、小さめのをふたつ。ひとつだけで十分と遠慮したのだが、兼用じゃ錆兎くんも真菰ちゃんもかわいそうだからと、押し切られた。本当にあの姉弟はよい子たちだ。
「ごめんください」
玄関から聞こえた訪いに、錆兎と真菰がはしゃいだ声を立てるのが聞えた。義勇たちがくるのが待ち遠しくてたまらぬ様子で玄関で待っていたふたりは、すぐに蔦子と義勇の手を引いて座敷にやって来た。
「わぁ、すごいですねぇ。きれいねぇ、義勇」
「うん。真菰、立派なおひな様飾ってもらってよかったな」
楽しげな蔦子と義勇の声に、錆兎と真菰の顔から、先ほどまでのはしゃいだ笑みが消える。蔦子と義勇には、去年までのことは話してある。ふたりは錆兎たちにどうしたのと問い質しはしなかった。
「錆兎、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
義勇から渡された包みを、ぎこちなく笑って受けとった錆兎に、義勇が微笑みながら開けてみてと促した。
「本だ」
「ご馳走食べる前に読んでやるよ」
真菰もおいでと手招きして座った義勇の両脇に、ふたりは素直にちょこんと座った。
「義勇に任せてやってください」
そっと鱗滝に耳打ちしてきた蔦子が、少しいたずらっぽく微笑むのに、はて? と鱗滝は首をかしげた。
義勇に任せるのは構わないが、錆兎の憂いを晴らす手立てなどあるのだろうか。錆兎と真菰に義勇が本を読んでやるのはよくある光景だが、さて、あの本になにか秘密でもあるのかなと、鱗滝も心持ちワクワクとして腰を下ろす。
義勇が選んだ錆兎へのプレゼントは、『小型軍馬というウサギ』というタイトルの本だった。シートン動物記の一冊であるらしい。
増えすぎたジャックウサギを犬で狩り立てる興行で、生き延び続け『軍馬』と呼ばれるようになったウサギの物語だ。ほかのウサギたちより賢く、誰よりも高く跳んで、毎回犬から逃げ切る軍馬は、軍馬に魅入られた世話係の力も借りて、自由を勝ち取る。
読み進める義勇の声は穏やかで、耳によく馴染む。錆兎と真菰も夢中になって聞いている。
「軍馬すごい! 犬にも勝っちゃった!」
「なぁ、錆兎。今日はひな祭りだけじゃなくって、ウサギの日でもあるんだって知ってた?」
「ウサギの日?」
義勇の言葉にキョトンとする錆兎たち同様、鱗滝も、そんな日があるのかと小さくまばたきする。一年三百六十五日、なにかしらの記念日ではあるが、ウサギの日なんてものまであるとは知らなかった。
「三月三日は耳の日でもあるから。ウサギと言ったら耳だろ? だからじゃないかな」
「こじつけかぁ」
年に似合わぬ苦笑を見せる錆兎に、義勇はやさしく笑っている。
「錆兎の名前にはウサギがいるだろう? 錆兎にピッタリの誕生日だ。強くて、賢くて、自分の力で自由を勝ち取った勇敢なウサギの日」
ハッと目を見張った錆兎の顔と義勇の微笑みを見くらべて、真菰が顔を輝かせた。
「ほんとだ! ね、錆兎、今日は錆兎の日だね! 錆兎みたいに強いウサギの日!」
キャッキャとはしゃいだ声で言う真菰に、義勇から再び手渡された本にじっと視線を落とす錆兎の、わずかに紅潮した頬に、鱗滝の胸が詰まる。
「誕生日おめでとう、錆兎」
「……ありがとう、義勇」
少し照れくさそうに笑う錆兎の顔には、もう憂いはなかった。
涙がにじんだ鱗滝の目に気づいたか、蔦子がそっとハンカチを差し出してくる。蔦子も笑っていた。
いついつまでも健やかに、仲良くと、笑いあう子どもたちを見つめる鱗滝の胸は、温かかった。
今年から、錆兎はもう自分の誕生日を恥じることはないだろう。きっと胸を張って誇らしげに言うのだ。
今日は女の子のお祭りで、勇敢なウサギの日で、俺の誕生日! と。