無知で無垢な青(お題:22身勝手)

 喧嘩をした。義勇にとっては生まれて初めての経験だ。

「おい、なにをふてくされている」

 苛々とした声で無惨は言うが、怒っているのは義勇のほうなのだ。答えず義勇は、ツンとそっぽを向いた。
 チッと舌打ちが聞えて、少しだけ肩がピクンと跳ねる。けれどもいつものように振り返ったりはしない。だって絶対に悪いのは無惨だ。

 いつものように日曜の朝から夕暮れまで、義勇は無惨のための家で過ごす。
 日本有数の富豪である鬼舞辻家は、父が務める会社の重要な取引先でもある。だが大きな屋敷には用がない。父ももう、使用人たちの使う裏口にしか向かうことはなかった。
 大きな表門をくぐったのは、初めて訪れたときを含めほんの数度だけだ。父は鬼舞辻家当主へのご機嫌伺いなど、端からする気がなかったらしい。気に入られれば出世の足掛かりになるなどという思惑は父にはなく、ひとりぼっちの病弱な子どもがかわいそうだからというのが、日曜ごとの鬼舞辻家詣の理由である。
 だから、義勇が足を向けるのも、屋敷ではなく広い庭園のなかにある一軒家だ。
 父と手を繋ぎ、屋敷の使用人に連れられ向かう先には、木立に囲まれた小さな家がある。個人宅の庭にあるとはいっても、プレハブ小屋なぞとは違う。小さいというのも、屋敷にくらべればの話だ。父と姉と義勇の三人暮らしである冨岡家なら、この離れで十分快適に暮らせるぐらいの、れっきとした住宅である。
 普通の家と違うところをあげるとすれば、木立に囲まれたその家には、窓が少ない。庭に面した大きな窓などは、その家には存在しなかった。明り取りや換気の必要性から作らぬわけにはいかなかったのか、いくつか窓はあるのだが、どれもいたって小さい。しかも、そのどれもがブラインドやカーテンで閉ざされて、家のなかを見られないようにしている。と、義勇は最初のうち思っていた。

 逆だ。

 なかを覗けぬようにしているのではなく、住人が外を見ぬようにしているのだ。ただしくは、太陽を見ないように。

 その住宅で、義勇が一番多く時間を過ごすのは、二階にある一室だ。この家の主である、鬼舞辻家長男――無惨の自室である。
 初めて来たのは、今から一年ほど前。それからずっと、義勇は日曜のたびにこの家を訪れる。最初は渋々だったけれども、今では早く日曜にならないかなと願ってしまうことも多い。
 無惨は傲慢で、横暴で、ちっともやさしくなんてない。だけど、賢くてきれいだ。とくにきれいなのは燃え立つような深紅の瞳で、見つめられると義勇は、瞳の色に染め抜かれたように体が熱くなって、頬も赤くしてしまうことがある。
 業火のような瞳をしているのに、無惨の体はいつだって冷たい。義勇の頬を撫でる指や手のひらも、いつも冷えていて、ときどき義勇は悲しくなる。温めてあげたくて、ギュッと無惨の手を握り、ハァッと息を吐きかけてやったりもした。
 驚いた顔をした無惨は、一所懸命無惨の手を温めようとする義勇から、手を引こうとはしなかった。それどころか、少しうれしそうにすら見えたのに、義勇が「寒いときに、錆兎や真菰ともこうするんだよ。あったかくなった?」と笑いかけたら、たちまち不機嫌になった。
 義勇の手を振り払い、眉間に深い皺を刻み込んで、ほかの奴の話などするなと命令してきた無惨は、いつも自分勝手だ。
 がっかりした義勇の服の裾を持ち上げ、義勇の素肌に触れてきたりもした。冷たいと嫌がる義勇に、このほうが温まるなんて言い出すぐらい、義勇の都合なんてちっとも考えてくれない。腹やら胸やらを撫でまわされて、冷たい手に義勇が鳥肌を立てているというのにお構いなしだった。
 けれど、服のなかから手を抜いてまた義勇の頬に触れてきた無惨が
「どうだ、息など吹きかけるよりよっぽど温まっているだろう」
 と頬を撫でる手は、やさしい仕草とわずかな温もりを伴っていて、苛立ちなど義勇はすぐに忘れた。
「本当だ。無惨の手、あったかいね」
「これをしていいのは私だけだ。ほかの奴には絶対にさせるな」
「錆兎や真菰にもしちゃ駄目なの?」
「駄目だ。貴様、私以外の奴に、こんなふうに触られてもかまわないのか?」
 苛々とした声に、義勇はことりと首をかしげ、うーんと少し考えた。嫌か嫌でないかといったら、無惨にだって冷たいから本当は嫌だ。でも無惨の手が冷え切っているのは、もっと嫌。錆兎や真菰、お姉ちゃんたちだって、無惨の手ほどひやりと冷たいことは滅多にないし、服のなかに手を入れなくても手を握ってあげるだけで十分温まる。
「わかった。無惨だけはいいよ」
「当然だ」
 ふんと鼻を鳴らした無惨はまた義勇の頬をそっと撫で、義勇の瞳をじっとのぞき込んで言った。
「貴様の瞳は私の空、私の海、私だけの青だ……義勇」

 無惨は横暴で我儘で、勝手なことばかり言う。義勇の意志などいつだってお構いなしだ。
 父や姉は、義勇が我儘を言えば叱ることもあるけれども、ちゃんと義勇の都合も考えてくれる。だから義勇だって素直に反省できた。錆兎や真菰とだって、意見の食い違いでお互い腹を立てることはあるけれど、三人だからいつでももうひとりが、喧嘩は駄目仲直りと言い出す。そのたび、ごめんね、いいよと、お互い言って終わるのだ。だから義勇はずっと喧嘩なんてしたことがない。
 義勇が悪かったときには叱られて反省するし、どちらもちょっとずつ悪かったときには、ちゃんと謝るし許しあう。
 無惨とは、そもそも喧嘩になるようなことがなかった。横暴な頭ごなしの物言いに腹を立てても、義勇が説明を求めれば無惨は必ず理由を述べてくれた。いかにも馬鹿にしきって、こんなこともわからずふてくされていたのかと言わんばかりにだけれども、ちゃんと説明をしてくれるのだ。それは義勇を納得させたし、理由を知れば喧嘩になどなるわけもなかった。

 けれども、今日ばかりは事情が違う。今日義勇が無惨に言ったのは、我儘などではなかった。頭ごなしに反対されて、義勇の意志などまるで無視した無惨のほうが、どう考えたって悪い。

「いい加減、こっちを向け」
「知らない。無惨が悪いんだもん。謝るまで絶対、お話もしない」

 無惨の家に来るようになってから、そろそろ一年になる。日曜のたびに無惨のためだけの家を訪れるのは、義勇にとってはすっかり日常になった。だが義勇が無惨にこんな態度をとるのは初めてだ。というよりも、生まれて初めての経験である。
「ふん、なら今のはなんだ?しっかり話しているではないか」
 小馬鹿にした声にハッとした義勇は、あわてて手で口を押さえた。無惨はクツクツと忍び笑っている。ますます義勇はふくれっ面になり、とうとう無惨を上目遣いに睨みつけた。
 無惨は今日もベッドのなかだ。昨夜も少し熱が出たからあまり無理をさせないようにと、出迎えた使用人に義勇は釘を刺されている。
 初めて見る顔だった。一年も通ってきているから、無惨の世話をする使用人たちともすっかり馴染んでいたのに、無惨が世話役を換えろと命令したらしい。義勇にやさしくしてくれた人達はいきなりいなくなった。
 驚いて、義勇が前のおじさんはと聞いても、無惨様のご不興を買ったようだと答えたきり、新しい使用人はもう口をきいてはくれなかった。義勇を客として扱う気はないようで、お愛想ていどの笑みさえない。口調も表情もいたってビジネスライクだ。温かみなどかけらもない。
 すっかり委縮した義勇が、無惨に逢うなりどうしてとたずねても、無惨はまったく取り合ってくれなかった。気に食わないから換えたのだと言うばかりで、ちっとも理由を話してくれない。
 前の使用人は、いつでもニコニコとしているおじさんと、ちょっとふてくされた感じのお姉さんだった。おじさんは最初から義勇にやさしかったし、お姉さんだって今では義勇がくれば少し笑ってくれるようになったのに。夏場には、汗臭いまま無惨様に逢うのは駄目と、シャワーを浴びるよう言われることがあったが、そういうときには義勇の服を洗濯してくれたりもしていた。
 そんな馴染んだ人たちがいきなりいなくなったのは、無惨の気紛れだと思えば、いかに穏やかな気性の義勇とはいえ腹だって立つ。
 しかも、先週義勇は大切な約束をおじさんとしたばかりなのだ。

「話をしなければ貴様の不満もわからんな。わかったところで、叶えてやるかどうかは別の問題だが」

 きっと無惨は、義勇の不機嫌の理由などちゃんとわかっている。義勇に口を開かせるために言っているにすぎない。それは義勇にも薄々わかっているのだけれど、だんまりがつらかったのは義勇も同じだ。けれど、それぐらいしか反旗を翻す術などわからなかった。
 腹を立てているのは間違いないが、無惨を言い負かせることなどできそうにないし、取っ組み合いなど論外である。頭の片隅にすら浮かびやしない。だから義勇は、むぅっと頬をふくらませたまま、ベッドによじ登った。
「おい」
「無惨は椅子なのっ。しゃべんないでっ。無惨が勝手なことするなら、俺だって好き勝手にするんだから」
 無惨の膝に腰かけて、薄い胸に背を預ける。無惨が重いと言ったらすぐに退くから。自分に言い訳しながら寄り掛かった無惨の体は、家で義勇を膝に抱っこしてくれる父とは違って、広さも厚みもなくて頼りない。するりと腰に回ってきた腕も、小学二年生の義勇と太さはあまり変わらなく見える。
 中学生になっても、無惨はやっぱりほとんどベッドにいて、学校にはろくに通っていないようだった。
 重度の日光アレルギーであるのを別にすれば、どこがどう悪いのかは医師にもわからないらしい。ただただ無惨は虚弱だった。手術や投薬で治るようなものではなく、体質改善の漢方薬を試すぐらいしかできることはないらしい。だがそれも、あまり功を奏しているとは思えなかった。
 無惨はそんな脆弱な体とは裏腹に、苛烈で強靭な意思を持ちあわせている。それが無惨にとって幸いなのか、不幸の上乗せなのかは、義勇にはわからない。
 それでも、義勇は今の無惨が嫌いじゃない。義勇が出逢ったときから無惨は傲慢で身勝手だ。義勇の都合などまるで考えていないような言動には、悲しくなったり腹が立ったりすることは多い。だが、それでも無惨が気弱にメソメソしているよりもいいと、義勇は思っている。
 義勇にとって不思議でたまらない諸々は、すべて無惨が解き明かしてくれる。冷えた細い指が義勇の頬をツイッと撫でて、私だけの青と、義勇の目をのぞき込みながらささやく無惨の声と深紅の瞳には、なぜだかいつでもドキドキとした。
 それに、義勇はもう知っている。義勇の意志など無視しているかのような無惨が、その実、義勇には甘いことを。

 なのに、今日の無惨はまるで義勇の言うことを聞いてくれない。

「……海みたいなガラス玉、貰えるはずだったのに」
「話をしないんじゃないのか?」
「独り言だもん!」
 義勇にやさしくしてくれたおじさんと、約束したのだ。海のように青いきれいなガラス玉をくれると。だから義勇は、今日は送ってもらうからお迎えはいらないと、父にもちゃんと言ってきた。おじさんに家に送ってもらうついでに、おじさんの家に行く予定だったのだ。
 なのに、おじさんは急にいなくなって、代わりに義勇を出迎えたのは冷たい態度の女の人だ。
「そんなもの、私に言えばいいだろう。いくらでも買ってやる」
「それじゃ駄目なんだよっ。だって無惨にあげたかったんだから」
 無惨は義勇の目を空や海だと言う。私だけの青と言う。でも義勇は毎日無惨といられるわけじゃない。だから義勇がいないときに、代わりに無惨と一緒にいてくれるものをあげたかったのに。無惨の好きなのは青。だけど無惨は青い空も青い海も、写真でしか見られない。無惨の大嫌いなお日様が、無惨を痛めつけてしまうから。
 だから義勇は、無惨にあげたかったのだ。海みたいな、きれいなきれいなガラス玉を。自分の目をくり抜くわけにはいかないけれど、義勇の目みたいなガラス玉があれば、無惨だって寂しくないと思ったから。
「ふん、馬鹿め。貴様の代わりなどあるわけないだろう」
 馬鹿にした声は、それでもどこか甘くて、義勇は思わず振り向いた。深紅の燃え立つような瞳と目があう。
「私の青は、義勇、貴様だけだ。貴様以外の青にはもはや意味がない」
 見つめてくる瞳の光は強い。いっそ睨まれていると言っていいほどに義勇の目をじっと凝視する無惨の視線は、それでも義勇の頬を赤く染めた。
「俺、日曜しか来られないよ?」
「ならここに住め」
「無理だよ。でも絶対に毎週来る」
 腹立ちは消えて、義勇はよいしょと体の向きを変えた。無惨と向き合い、甘えて抱きつく。無惨はまだ重いとも邪魔だとも言わないから、もう少しだけ。
「もう代わりなど考えるな。いいな、義勇」
「うん」

 義勇は知らない。義勇にやさしかったおじさんの家に、少年の写真が山ほどあるなんてことも、ガラス玉なんてなかったのだということも。写真の多くは義勇を隠し撮ったものであることなど知る由もないし、お姉さんが洗濯して翌週渡してくれたはずの義勇の下着や靴下が、何枚もおじさんの家にしまい込まれていることなんて、わかるはずもない。
 おじさんやお姉さんがどうなったのかも、義勇は知らないし、知る術などこれから先もないのだろう。
 冷酷と言っていいほど冷めた目をして大人びた顔で笑う無惨は、健康以外、望むものはなんでも与えられている。義勇が知っているのは、そんな無惨が本心から求めるものは義勇ただひとりだということだけだ。ほかにはなにも知らない。

 無惨が胸のうち少しだけ思い浮かべた身の程知らずどもの末路など、欠けらも知らぬまま、義勇は青く澄んだ瞳を輝かせて笑った。