満天の星と恋の光 2

 眩しいというよりも、いっそ刺し貫いてくると言いたくなるよな強い日差しの下であっても、義勇の白く整った顔は、どこか涼やかな清流を思わせる。それが、ちょっと驚いたようなびっくりまなこであってもだ。
 もちろん義勇は人形やアンドロイドではないので、当然ながら額や鼻の頭には汗の粒が浮いているのだけれども、それでも爽やかな風情は損なわれてはいない。
 それはいつものことだが、今日はより一層、その姿は品の良い透明感を感じさせる。その理由なんて、ひとつきりだ。
 陽射しの下に立つ義勇をまじまじとみつめ、思わず杏寿郎はこくりと小さく喉を鳴らせた。なぜだか妙に緊張する。玄関先に立つ義勇は、見慣れた制服姿よりも、なんだかちょっと大人っぽい気がした。

 ゆったりめのサマーニットは、紺――ネイビーなんて呼び方は杏寿郎は知らない――と白のツートンカラー。ベージュのチノパンの裾はロールアップされて、キュッとしまった足首が見えている。スニーカーも紺だった。
 海に行ったときと同じように、大きめのトートバッグを下げた義勇の姿は、常の真面目さが際立つ制服よりも、なんというか。

「……義勇は、その、ずいぶん洒落者だったのだな」

 今のところ杏寿郎は、ファッションなんてまったく興味がない。服は母が買ってきてくれるものを素直に着るだけだ。疑問も不満もなく、それが当然だと思っている。
 華美な格好などしたこともないし、クラスメイトが興味津々に見ていたファッション雑誌など、見たこともない。どんな服が好印象だとか、オシャレだとか、言われてもピンとこないだろう。
 それでも、なんとなくではあるけれど、義勇の服装は、オシャレで大人っぽい部類に入るのではないだろうかと思った。自分の着古したジーンズとTシャツが、ちょっと恥ずかしくなるぐらいに。

「真菰がっ! 真菰がこれ着ていけって言うから! あと、あの、錆兎もっ、杏寿郎の家に行くならって! 制服もクリーニングから帰ってなかったし!」

 常にはない大きな声で言って、義勇は、どこか恥ずかしそうにサマーニットの裾をギュッと握りしめ、視線をそらせた。
「……自由研究やりに行くだけだって、言ったんだ。ちゃんと。普通のTシャツでいいって……。でも、ふたりが少しはオシャレしろって言うから……オシャレなんかしても、俺は似合わないからいいよって、ちゃんと言ったのに……」
 義勇の声はどんどんと小さくなっていき、顔も段々うつむいていく。体を縮こまらせる様はどことなし消え入りそうで、杏寿郎はあわてて言った。
「似合ってる! すごく!」
 身を乗り出して言った杏寿郎に、そろりと義勇の顔があげられた。
「でも……校則違反だし」
「なに、どこかへ遊びに行くわけではないのだ! 街中ではないのだし、先生方だってなにも常に制服で過ごせとは言わんだろう!」
 カラリと笑って言えば、義勇の顔が少しホッとしたように緩められた。
「杏寿郎も……似合ってる」
「ん? ただのTシャツだが……」
 ワンポイントさえないただの白いTシャツだ。ジーンズだってなんの変哲もないし、義勇のように洒落ているわけではないのにと、杏寿郎は思わず小首をかしげた。
「似合うよ。赤やオレンジも杏寿郎らしいと思う。でも、白も似合う。この前みんなで見た入道雲みたいだ……おっきくて真っ白で、杏寿郎っぽいと思ってた」
 わずかに目を細めて、眩しいものを見るように義勇は言う。やわらかなその声音と眼差しに、杏寿郎の頬に熱が集まっていく。
 あの入道雲のように雄大な心を持った男にと、杏寿郎が胸中で誓ったあの雲を見て、義勇は杏寿郎を思い浮かべてくれたのだ。鼓動は騒がしく打ち鳴り、飛び跳ねまわりたいような喜びが杏寿郎の体中を満たした。
「そ、そうだろうか。あっ! す、すまん! 暑いのに玄関先にいつまでも立たせてしまったな。入ってくれ!」
 あわてて言うと、義勇は、礼儀正しくお邪魔しますと告げ、前と同じように靴をそろえた。
「千寿郎とおばさんは?」
「買い物に出ているのだ。父は仕事だ」
 何気なく答えた後で、ハタと気づいた事実に、杏寿郎は知らず目を見開いた。

 今までなんとも思わずにいたけれども、口に出してみて気がついた。父はともかく、母も、千寿郎さえもいないということは、今、この家には義勇と自分のふたりきりだ。

 義勇とふたりきりになったことは、何回もある。でもそれは、いつでも他人の目に触れられる場所でばかりだ。だがここは杏寿郎の家で、言うなれば杏寿郎のテリトリーである。プライベートな場所だ。
 いや、最初の日だって居間でふたりきりの時間はあった。けれど、母や千寿郎が立てる物音や声は聞こえてきていたし、誰もいないわけじゃなかった。
 でも、それがなんだというのだろう。なんで緊張などする必要があるのか、自分でもさっぱりわからない。
 杏寿郎は小さいころから友達は多いほうだ。だからほかの友達とだって、ふたりきりになったことはいくらでもある。家に招いたことだって多い。
 なのに、なぜ相手が義勇であるだけで、こんなにも緊張するのだろう。

「杏寿郎?」

 怪訝そうな声にハッとして、杏寿郎は、ごまかすように大きな声で笑った。
「義勇、その、今日はうちで昼を食べていくんだろう? 母はきっと玉子焼きを作ってくれると思う。たくさん食べて行ってくれ!」
「……しょっぱいやつ?」
「うむ、もちろんだ!」
 ほんの少しの笑みを含んだ義勇の声に、つらそうな響きはなかった。どこかうれしそうにも聞こえる声だ。表情もいつもと変わらないのだが、どことなしやわらかい。
 リラックスしている。今までの訪問で一番。それが信じられる声と表情だった。

 そうだ。緊張することなんてない。義勇だってこんなに落ち着いているではないか。友達とふたりでいることなんて、ごく自然なことだ。

 思った刹那、また、あの日の義勇の言葉が脳裏によみがえった。

 友達だから。
 友達だから、キスはできない。

 考えまいとしていたのに、思い出したらなんだかもう大きな声で叫んでしまいそうになって、杏寿郎は、とっさに義勇の手を取っていた。そうしないと、本当に叫んで、駆けだしてしまいそうだったので。
「義勇! 今日は俺の部屋で作業しよう!」
「え、あ、うん」
 突然手を握られ義勇は少し面食らったようだったが、素直についてくる。手を振り払うこともない。
 義勇の手を握っているとドキドキもするが、反面、至極落ち着きもする。義勇の体温は杏寿郎よりもちょっぴり低くて、けれどもちゃんと温かかった。

 いつも、こんなふうならいい。いつかこの手が凍えることがなくなればいい。杏寿郎は強く願う。

 凍えた義勇の手を温めてやれるのは光栄なことだし幸せだけれど、できることなら、凍えずにいてほしいと思う。つらく悲しい後悔や絶望が薄れて、やさしい記憶だけを思い出せるほうがいい。
 少しずつ、一歩ずつ、悲しみが削られて、前へ進んで。そうしていつも花のように笑っていてほしい。
 薄暗い廊下を義勇と手を繋いで歩きながら、いつかそんな日が訪れたときにもこうして手を繋げたらいいと、杏寿郎はじっと義勇を見つめた。
 なに? と問うようにことりと小首をかしげた義勇に、静かに笑い返す。もう緊張や叫びだしたいような衝動は過ぎ去っていた。
 義勇といると戸惑ったり悩んだり、まるで嵐に翻弄されるが如くに心が乱されたりもするけれど、それでも絶対に揺るがない想いがある。

 大好きだ。

 ただそれだけが、一番大事で、大切で、杏寿郎の心にしっかりと根を張った唯一だ。きっとこの大好きな気持ちは、あの入道雲よりも大きいと自信を持って言える。
 まだまだ余裕のある泰然自若とした男になることはかなわないが、いつかは、きっと。義勇の隣に立ち、一緒に歩むのにふさわしい、そんな男になる。大好きな義勇が、いつでも笑っていられるように。
 願いながら、杏寿郎は明るく笑いかけた。
「このあいだの石、今日中に標本にできるといいなっ」
「……そうだな。頑張る」
 杏寿郎の笑みをまっすぐ見返して、義勇は、薄くではあるが微笑んでくれた。今はこれだけでも十分だ。そんなことを考えつつ、杏寿郎は自室の襖を開けた。
 義勇を迎え入れるために念入りに掃除した部屋は、明るい夏の陽射しに満ちていた。

 初日に決めた段取り通り、今日は拾った石を標本にするための標本箱作りだ。あまり金をかけるわけにはいかないから、材料は厚紙。百均ショップなどで売っている木製のケースなら見栄えもいいだろうけれど、予算が足りないのだからしかたがない。
 今回の材料費は杏寿郎が用意した。次に採取する分の材料は義勇だ。最終的にかかった費用を計算して割り勘にすることになっている。
 海辺の石だけでなく、川の上流でも石を採取して、比較してみるのが研究テーマだ。夏休み中に最低でももう一度は遠出する必要がある。そのための交通費だってかかるのだから、箱にそんなに費用は使えない。
 それなりに数をそろえたいので、厚紙や蓋に使うPPシートや補強のための製本テープも多めに準備したし、正直、杏寿郎の懐は寂しくなった。初日こそ義勇のためにとジュースやら菓子やらをたくさん買ってしまったけれども、当の義勇が困り顔をしたので、今回は散財はなしだ。

 石に合わせてサイズを測り、慎重に厚紙やPPシートを切っては組み立ててを繰り返すあいだ、会話はあまりなかった。
 真面目な義勇は真剣そのものな顔でカッターを動かしていたし、杏寿郎も作業していると雑念は浮かばぬ質だ。ふたりして黙々と作業しているうちに、玄関から千寿郎の元気なただいま帰りましたの声が聞えてきた。
 そろって顔をあげ、確認した時計の針は十一時半近い。一時間ほども集中していたようだ。ふたりで作業しても、慣れぬことだけに数はまだ三分の一ほどしかできていない。
 物が石だけに手抜きをすれば底が抜けそうで、しっかりと補強するぶん時間がかかるのだろう。床に積み上げた箱を睨み、杏寿郎は腕組みすると思わず唸った。
「なかなか進まないものだな。俺は細かい作業は確かに得手ではないのだが、思ったよりも大変だ」
「でも、頑張れば今日中に作り終えられそうだ」
 言いながら、義勇が腰を浮かせた。
「おばさんが帰ったなら、ご挨拶しないと」
 トートバッグを手に立ち上がるから、杏寿郎も少しキョトンとしつつも立ちあがった。
 挨拶するのはわかるが、なぜバッグを? との疑問を口にする前に、襖の向こうから千寿郎の声がした。
「兄上、義勇さん、入ってもいいですか?」
「おぉ、おかえり千寿郎。義勇が母上にご挨拶したいそうだ」
 襖の影からひょこりと顔を出した千寿郎に杏寿郎が笑いかけると、義勇もこくりとうなずいて、千寿郎に微笑みかけた。
「義勇さん、こんにちは。いらっしゃいませ」
「こんにちは。千寿郎はしっかりしてていい子だな」
 言って千寿郎の頭を撫でる義勇に、杏寿郎の胸はなんとなくそわりとしてしまう。もうお馴染みのちっちゃなヤキモチだ。
 うれしそうに笑う千寿郎にまでヤキモチを焼いてしまうなんて、なんとも不甲斐ない。自分の未熟さを痛感して、知らず杏寿郎の眉がわずかに下がる。
 とはいえ、ヤキモチだとすら気づかずにうろたえていたよりは、まだしもマシだと思わなくもない。

 自分の気持ちをきちんと理解しなければ、対処法だってわからないままだ。それならこれは一歩前進と言えるだろう。多分。

 内心でうんうんとうなずきながら自分に言い聞かせているうちに、母が姿を現した。
「義勇さん、いらっしゃい」
「お邪魔しています。あの、これ、先日お借りした服です。それとお世話になったお礼に、おばさんから……お口に合えばいいんですが」
 微笑みかけた母に頭を下げた義勇が、トートバッグから取り出したのは杏寿郎のTシャツとハーフパンツだ。それとなにやら愛らしくラッピングされた紙袋である。
「まぁ、お世話になったのは千寿郎と杏寿郎のほうだというのに……」
「あの、それ手作りのクッキーなんです。買ったものではかえって気を使わせてしまうかもしれないからって。あと……あの、これ」
 少し恥ずかしそうに、なにやらもうひとつ薄っぺらい包みを取り出した義勇は、なんだかモジモジとしている。
「これは?」
「……下着は、洗っても返すのは、ちょっと、その、失礼だろうからって……」
「気になさらないでもよろしかったのに。こちらこそ、新しい下着の用意がなかったとはいえ、杏寿郎のものをお貸しするなんて無作法な真似をしてしまって、すみませんでした。お家の方にくれぐれもよろしくお伝えください」
 少しうつむいた義勇の、露わになったうなじが赤い。杏寿郎の母とはいえ、女の人に下着を手渡すことに恥じる様はいかにも初心だ。
 しかしながら、それを微笑ましく思う余裕は杏寿郎にもなかった。

 確かに、あの日は三人とも全身ずぶ濡れで、服も靴も、勿論下着だって、洗わなければどうにもならなかった。見慣れぬ素肌にばかり気を取られていたけれど、あの日、義勇だって下着も替えたはずで。母の言葉によれば、それは、杏寿郎の下着な、はずで。

「兄上?」

 ボンッと火がついたように赤くなった杏寿郎を、あどけない目をキョトンとさせて、千寿郎が見上げていた。