迷子のヒーロー

1 ◇炭治郎◇

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 炭治郎の頭にはそんな言葉がぐるぐると回っていた。
 目の前には、今にも飛びかかってきそうな大きな茶色い犬。グルルルルと唸り声をあげて炭治郎と禰豆子を睨みつけてくる。

 禰豆子だけは守らなくちゃ。

 小さな手で、炭治郎はぎゅっと妹を抱きしめる。
 犬は嫌いじゃない。むしろ好きだけれど、目の前にいる犬は炭治郎と仲良しの犬たちとは違って見える。まだ小学一年生の炭治郎よりずっと大きいし、恐ろしい形相で威嚇してくるのだ。怒りまくっている匂いもして、怖くてたまらない。
 飼い主はどこだろう。辺りを見回しても、それらしい人は見当たらなかった。それどころか、いつもなら散歩中の人が行き交う夕方の遊歩道には、めずらしく人気ひとけがまったくない。

 せめて大人の人が通りがかってくれたらいいのに。そしたら禰豆子を連れて逃げてもらえるのに。

 炭治郎は足が速い。かけっこではいつもクラスで一番だ。けれど、犬に勝てるとは思えないし、なにより禰豆子を連れてでは、逃げきるのは無理だろう。
 犬は背中を見せた途端に襲いかかってきそうだ。禰豆子を抱きしめて震えることしかなくて、炭治郎はだんだん泣きたくなってきた。
 テレビだったらきっとこんなとき、颯爽と駆けつけてきたヒーローが、絶対に助けてくれるのに。でもテレビとは違って、誰も助けになんてきてくれそうにない。

「お兄ちゃん、怖いよぉ」

 怯える声にハッとして、炭治郎は、しがみついてくる禰豆子に一所懸命に笑ってみせた。
「大丈夫、兄ちゃんが守ってやるからな!」
 そうだ。俺はお兄ちゃんなんだから負けちゃ駄目だ。禰豆子は俺が守るんだ!
 勇気を奮って言ってはみたものの、どうすればいいのかはさっぱり浮かんでこない。
 と、痺れを切らしたように、犬がグッと姿勢を下げた。

 噛まれる!

 覚悟した炭治郎が、禰豆子を庇うように覆いかぶさったその瞬間。
 炭治郎たちと犬の間に石つぶてが飛んできた。犬がちょっと後ずさりする。間一髪だ。
 誰が助けてくれたんだろう。石の飛んできたほうへと慌てて顔を向けたら、学ラン姿の少年が地面に荷物を放り出し、こちらに駆けてくるのが見えた。
 駆けながら少年は、唯一手にしていた長い袋から竹刀を取り出している。
 あっという間に走り寄った少年は、ザッと音を立てて滑り込むように炭治郎の前に立ちはだかった。学ランの背で一つに結ばれた長い髪が揺れる。炭治郎と禰豆子を庇うように犬に向かい、竹刀をかまえて立つ少年の背は、炭治郎にはとても大きく見えた。

 ヒーローだ……凄い、本当にヒーローが助けにきてくれた!

 胸がドキドキと騒がしい。でも、さっきまでの怖さでとは全然違う。
 犬はますます猛り狂っている。炭治郎のヒーローである少年は、じっと竹刀をかまえたまま動かない。凛と背筋を伸ばして立つ黒い背中は、現れたときには大きく逞しく見えたけれど、よくよく見ればかなり細い。きっと中学生だ。

 どうしよう。俺たちの代わりにこのお兄ちゃんが噛まれちゃう!

 そう思った瞬間、とうとう犬が飛びかかってきた。思わずギュッと目をつぶった炭治郎は、禰豆子を強く抱きかかえた。

 キャイン!

 犬が鳴く声がして、炭治郎は恐る恐る目を開けた。するとそこには、犬の首輪に竹刀をねじ込み、その背に片膝を乗せて取り押さえている少年の姿があった。
「……人を」
「え?」
「人を呼んでこい」
 淡々とした声に慌ててうなずく。
「あ、はい!」
 呆然としている禰豆子の手を引いて、炭治郎は大急ぎで駆けだした。

 早く、早く、誰か呼ばなくちゃ。あのお兄ちゃんを助けなきゃ!

「誰かっ! 誰か大人の人、助けてください!」
「助けてぇ!」
 禰豆子と一緒に叫びながら走っていると、リードを手にした女の人が、ビックリした顔でこちらを見ているのに気づいた。炭治郎は急いで駆け寄って大きな声で叫んだ。
「お兄ちゃんを助けて! 早く行かないとお兄ちゃんが犬に噛まれちゃう!」
「え!? あの、犬って……もしかして茶色い秋田犬?」
「わかんないけど、おっきくて茶色い犬!」
「やだ! うちのハチかもしれない!」
「こっち! 早く! お兄ちゃんを助けて!」
 俺と禰豆子を助けてくれたヒーロー。きっととっても強いお兄ちゃん。だけどヒーローだってピンチに陥ることがある。今がそのときなら、俺ががんばらないと!

 早く早くと飼い主のおばさんを急かしながら、息を切らして来た道を戻る。少年はまださっきの体勢のまま、犬を取り押さえ続けていた。
「お兄ちゃん! 飼い主さん呼んできました!」
「ハチ!!」
 駆け寄る飼い主の顔を見た途端に、犬はキュンキュンと鳴きだした。さっきまでの形相が嘘のように大人しくなった犬に、炭治郎もホッとする。
 ごめんなさいと謝りながらおばさんが犬をリードに繋ぐと、少年は竹刀を抜き取り立ち上がった。
「ちゃんと繋いであったんだけど、留守にしてる間に鎖を引き千切っちゃったみたいで……本当にごめんなさい」
 どこかぼんやりとした様子の少年におばさんが謝ると、少年は小さくつぶやいた。
「……怪我してる」
「えっ、怪我!? やだ、どうしようっ! 大丈夫っ!?」
 慌てて少年にたずねたおばさんに、少年はふるりと首を振ると、犬を指差し繰り返した。
「こいつ、怪我してる。だから気が立ってた」
 言われて炭治郎もよく見れば、犬の身体はところどころ血が滲んでいる。
「わんちゃん、痛かったから怒ってたの?」
 まだ少し怖いんだろう。炭治郎の後ろから犬を覗き見ながら禰豆子が言うと、おばさんもしゃがみ込み犬の体を調べだした。
「そうみたい……どこで怪我したのかしら」
 困惑した顔で言うおばさんに、犬はクウンと鳴きながら大きな体を寄せた。すごく痛いのかな。炭治郎も心配になってくる。
「ごめんなさい」
「え?」
 突然の謝罪に、おばさんが少年を仰ぎ見た。
 お兄ちゃんが謝ることなんてないと思うのに、どうしたんだろう。
 思わずおばさんと一緒に首をかしげてしまったら、少年はどこかぼんやりとした無表情のまま言った。
「手加減できなかった。きっとそいつ苦しかったと思う。ごめんなさい」
 言う声も、先ほどまでの覇気なんかちっとも感じられなくて、抑揚がない。
 ピンチに颯爽と駆けつけてくれたヒーローだけれど、なんだか不思議な人だ。
「いいのよ、そんな……あなたこそ怪我はない? 僕たちも怖かったでしょう? 本当にごめんなさいね」
「俺も禰豆子もお兄ちゃんが助けてくれたから大丈夫です!」
 炭治郎は笑って少年に顔を向けたけれど、少年は、おばさんに小さくうなずいただけだった。おまけに、炭治郎のことなんかちっとも見てくれないまま、さっさと歩き出してしまう。
「あ、ちょっと待って! 改めてお詫びしに行くから名前を……」
「いらない」
 呼び止めるおばさんにそっけなく言い捨てて、さくさくと歩いていく少年に、炭治郎も焦ってしまった
 だってまだお礼も言っていないのだ。慌てて禰豆子の手を引き、炭治郎も少年の後を追って走り出した。
「ちょっと僕! 僕たちのお家を教えて! お詫びに行くから!」
「この道の先の竈門ベーカリーです! お兄ちゃん待って!」
「待って!」
 急いでおばさんに返事しつつ、禰豆子と一緒に少年を呼び止めたけれど、少年は振り返ってもくれない。
 現れたときにはとても大きいと思ったけれど、少年の背中は近所の中学生と比べたら、やっぱりかなり細い気がする。そんな少年が、あんなに大きな犬を一瞬で取り押さえたのだから、本当に凄い。
 考えている間にも、少年はどんどん遠ざかっていく。ちゃんとお礼をしないまま見失うわけにはいかない。

 絶対に追いつかなくっちゃ!

 炭治郎は禰豆子の手を引いて一所懸命に走った。
 と、突然少年が立ち止まった。歩みを止めたのは荷物を拾い上げるためだったようだが、そのまま立ち尽くしている。

 よかった、待っててくれてるんだ!

 ようやく追いついた炭治郎は、急いで少年の前に回り込んだ。
「助けてくれてありがとうございました! 俺は竈門炭治郎、キメツ小学校の一年生です! こっちは妹の禰豆子です!」
「ありがとうございましたっ」
 禰豆子と一緒にぺこりとお辞儀しても、少年は相変わらずちっとも炭治郎を見てくれやしない。待っててくれたと思ってうれしくなった気持ちがしぼんで、炭治郎は思わず眉を下げた。
 お礼の言葉すら聞こえてないような少年に、どうしたらいいのかわからない。よくよく見れば少年の学生服は膝の辺りにずいぶんと土ぼこりがついている。犬を取り押さえたときに汚れたんだろう。もしかしたら、それで怒ってるんだろうか。なにか言ってほしいと思っても、少年は黙り込んだまま、無表情で前を見据えているばかりだ。
 どうしようと禰豆子と顔を見合わせたら、唐突に少年が口を開いた。
「キメツ学園はどっちだ?」
 ようやく話しかけてくれたのはいいけれど、あんまり意外な言葉だったので、炭治郎は思わず目をしばたたかせた。
「えっと……」
 炭治郎が戸惑っていると、少年は答えを待たずまた歩きはじめた。
 キメツ学園とは、逆の方向に。

 あぁ、行っちゃう! 慌てて炭治郎は少年の袖を掴んだ。

「あの、俺知ってます、キメツ学園! 案内します!」
「……道だけ教えてくれればいい」
「そんなわけにはいきません! こっち来てください!」
 ぐいぐいと少年の手を引いて来た道を歩きだせば、禰豆子も「お兄ちゃん行こう」と少年に笑いかけた。
 少年から戸惑っている匂いがしてくる。炭治郎は、その匂いにちょっとだけうれしくなった。とっても鼻が利く炭治郎は、感情の匂いを嗅ぎ取ることができる。でも少年からは、さっきまで感情の匂いがほとんどしなかったのだ。
 ずっと水のような淡い匂いしかしなかったし、ひどく無表情なものだから、少年がなにを考えてるのかさっぱりわからなかった。そんな少年から伝わる感情は、戸惑いであってもなんだかドキドキする。やっと自分に向けられた関心に胸が弾んだ。
 繋いだ少年の手はひんやりとして、さらりと乾いていた。炭治郎の手よりも、ずっと大きくて固い手だ。
 戸惑いながらも、炭治郎たちの歩みに合わせてくれているのか、少年は先ほどよりもゆっくりと歩いてくれる。やっぱりこのお兄ちゃんはとってもやさしい人なんだ。うれしくなって改めて少年の顔を見た炭治郎は、少年がとてもきれいな顔をしているのに気がついた。

 格好良くて強いなんて、本当にヒーローみたいだ。

「お兄ちゃんのお名前はなんですか? 俺は竈門炭治郎です!」
「……義勇」
「義勇さん! 義勇さんはどうしてあそこにいたんですか?」
 キメツ学園に用があるのなら、義勇が向かおうとしていた方向とは逆だ。それに、義勇が着ているのはキメツ学園中等部の制服じゃないだろうか。

 変だなぁ。なんで義勇さんは、自分の学校の場所なんか聞いたんだろう。

 ちょっと不思議に思いながら炭治郎が言うと、義勇の眉が少し寄せられた。なんだかバツが悪そうにも見える。
 ふわりと漂う匂いも、義勇が困っていることを伝えてきて、炭治郎は思わず目をまばたかせた。
「えっと……もしかして道がわからなくなっちゃったんですか?」
「…………」
 たぶん、答えがないのが答えなんだろう。

 炭治郎と禰豆子を助けてくれたヒーローは、どうやら迷子だったらしい。